02.指輪のウォー(ว)
俺、アーティットは「トータハーン(ท)」の文字を左手の平に刻んでいる。
しかし最近その文字を手放したいと思うようにもなった。
そこで、トータハーンを俺にくれた人物のいる湿地帯を訪れた。その人なら俺の文字を消すことができるからだ。
途中で道連れになった精霊のクマリー・トーンと共に俺はその人の隠れ家に到着した。
だがその人……スーンさんは家のタライのなかで死んでいた。
俺は彼の遺言に従い、その遺体を焼いた。
* *
「スーンさんは殺されたんですか?」
垂れ目をパチクリさせ、クマリーが俺のそばで首をひねる。
小鳥の姿の炎の兵隊に夜の湿地を照らしてもらいながら、俺は慎重に口をひらく。
「スーンさんの左手の平の皮がはぎ取られていた」
俺は再び左手をひらき、手の平のトータハーン(ท)の字をちらりと見た。
「そこは『スーンさんの文字』が刻まれていた部位だ」
「……スーンさんはお兄さんの手だけじゃなくて」
クマリーが俺の左手の近くを浮遊する。
「自分自身にも文字を刻んでいたってことですね」
「ああ」
左手をつついてくるクマリーを俺は見下ろす。
「俺のトータハーンとは違って、他者に力を与える文字だ。『ว』と言う」
「どんな字ですかっ。クマリーの手の平に書いてくださいっ!」
クマリーが俺の右隣に移動し、小さな左手の平を差し出す。
右の人差し指で、俺はウォーウェーン(ว)の文字をクマリーの手に書く。
右下に丸を作ったあと、上に向かって線を引く。
その線の途中で反時計回り方向のカーブをえがき、左上のすみよりも少し下の位置でとめる。
「これがウォーウェーン(ว)の文字。あらわす意味は『指輪のウォー』だ」
「なるほど、こっちもイカしてますっ! この文字の力を持っていたからスーンさんは、お兄さんにトータハーンの文字を与えることができたんですねっ」
「まあ、そういうことだな。ただし同じ文字を保有できるのは同時に一人までが限界らしい。たとえばトータハーン(ท)の力もこの世で俺だけしか持っていない。そしてある人間の文字の力を奪おうとする場合、その人物を始末することが一つの強奪手段になる」
何回もウォーウェーンの文字を自分の手に書くクマリーを見つつ、俺は続ける。
「おそらく犯人はウォーウェーン(ว)を奪うべく、スーンさんの手の皮をはいだんだ」
「確かに痛いでしょうけど、それだけじゃ人間は死なないのでは?」
「普通ならな」
俺は右手で左手の平をかいた。
「でも君も言ったじゃないか。人と一体化しているから、スーンさんの刻んだ文字は文字保有者本人が『死なない限り取れない』んだよ。逆に言えば『文字が取れたら死ぬ』ってことだ。リスクなく文字を外せるのは、ウォーウェーンの力を行使したときだけだ」
「そういうことですか……」
手に文字を書くのをやめ、クマリーは少し考え込む。
「ウォーウェーン(ว)の文字をひっぺがすことで、犯人はスーンさんを殺害したんですね」
「ほぼ確定だろうな」
足もとのぬかるみを軽く蹴り、俺は頭上の月を見る。
「ところが犯人は証拠を残していない。用意周到なやつだ。机の引き出しに入っていたスーンさんのメモにも当然気づいたんだろうけど……自分の遺体を燃やすよう要求する文面は、ウォーウェーンの文字を失ったスーンさんの左手をごまかすためにも犯人にとっては都合がよかった。だから放置したと思われる」
「だけど、いったい誰がスーンさんを殺したんでしょう。ウォーウェーンの文字がほしかった誰かであるのは確実ですが」
「老いていたとはいえ、文字の保有者のスーンさんは一般人には殺せない。つまり――」
俺は左手をグッと握った。
「スーンさんを殺した犯人は、ウォーウェーン(ว)以外の文字を持つ四十一名……そのうちの誰かだ。俺視点だと俺も犯人じゃないから容疑者は四十名。ちなみにスーンさんは俺の手にトータハーン(ท)を刻んだ二年前の時点で、ほかの文字をすべてふさわしい人物に与え終わったと言っていた」
「自殺の可能性はないんですか」
「それだったら、はぎ取った皮が遺体の近くに落ちていたはずだ」
ついで俺は、火の粉を散らすタハーン・プルーンを近くに呼び寄せる。
「スーンさんの死体は腐敗していなかった。つまり、殺されて間もないということ。まだ犯人は近くにいる可能性が高い」
「おや、お兄さん、そんなこと言いながら余裕ですね」
あたりのシダ植物やスイレンのシルエットを見回しながら、クマリーが指摘する。
「さっきまでお兄さんが悠長に話していた隙に、犯人さんはとっくに逃げちゃったのでは?」
「そんなヘマはしないさ」
薄く笑い、俺はかぶりを振った。
「すでに『タハーン・ラート』を全方位に放っている」
斥候の兵隊はホタルの光に似た兵隊。その体は光によって構成される。
これも、トータハーンの文字の力であやつれる精霊の一体。
おもに斥候を担当するが戦闘能力は皆無。
分裂が可能で、分身それぞれが別行動をおこなえる。自身の光を弱め、姿を隠すこともできる。
その光の一つが黄緑色に点滅し、俺のもとに飛んでくる。
「――不審人物を見つけたか。プルーン、消えろ」
タハーン・プルーンが俺の命令と共に姿を消す。
プルーンの炎が消えたため、雲のあいだからそそぐ月光のみが淡く周囲を照らし始める。
俺は、黄緑色のラートの光を右手でつかむ。
「クマリー」
そばに浮く少女姿のピーに注意しておく。
「ついてきても構わないが、しゃべったり前に出たりするなよ」
「心得てますっ」
ささやき声でクマリーは返答した。
俺は湿地のぬかるみを静かに蹴りつつ進む。右手のなかのタハーン・ラートの動くほうに向かう。ラートに実体はないが、その熱は確かに手の平に伝わってくる。
今は雲の多い夜……。
月明かりに頼るのにも限界がある。五感を駆使してまわりの状況を把握する。
スーンさんの隠れ家を囲んでいたスイレンのにおいが遠ざかっていく。
俺の背丈ほどもあるシダ植物たちが肌をひっかいてくる。
植物のあいだを通り抜ける際、ときどき葉っぱが口に入って苦い味を広げてくる。
水牛やサギの物悲しい夜鳴きが鼓膜をたたく。
そしてシダの群生するエリアを過ぎ、ひらけた場所に俺は出た。
天の雲が薄くなり、月明かりが地上の湿原に反射する……。
やせた長身の男がそこに立っていた。
落ち着いた色合いの正装を身にまとった青年だ。薄い青の上着と白のズボンを着ている。
短く整えられた黒い髪には清潔感がある。
切れ長の黒い瞳が月光に濡れている。
そばに浮くクマリーに「ちょっとその辺のしげみに隠れてろ」と伝えたあと俺は彼に近づいた。右手の斥候の兵隊に消えるようささやいたのち、長身の青年と目を合わせる。
「すみません。あなたはここでなにをしているんですか」
ていねいな調子で声をかけた。
対する長身の男は左右のひじを胴体にくっつけ、両手を前に差し出した。
「――待っていたのですよ、あなたさまを」
冷たく上品な声が、夜の湿地にこだまする。
男は、隣り合う指同士をくっつけた左右の手の平を真上に向ける。
二つの薬指の先端と小指のわき腹と小指側の手首の付け根までをふれ合わせ、両手全体をやや丸める。
彼が両手でかたちづくったその形状はまるで――。
(器……!)
「わたくしは見ました。あなたさまがウォーウェーンを焼き殺すところを。……覆水盆に返らず。死者は二度と戻ってきません」
男の鋭く細い眼光が月明かりを吸い、俺を刺す。
「せめて彼をとむらうために、あなたさまが死になさいな」
次回「03.洗面器のオー(อ)」に続く!
ว←これが「ウォーウェーン」の文字。意味は「指輪のウォー」……トータハーン(ท)の文字よりも速く書くことができますね~。
今回新しく出てきた単語の元々の意味は以下の通り
ウェーン(แหวน)→指輪
ラート(ลาด)→見て回る




