17.ネズミのノー(น)
スーンさんの殺害事件やホーノックフーク(ฮ)の招集要請を伝えるべく――。
俺、トータハーン・アーティットはロールア・プリアのもとに向かった。
だが仲間のサラサルアイに連れていってもらった泉の底でプリアさんと一戦を交えることになった。
なんとか戦いに勝利した俺は、今回の件をプリアさんに伝えることに成功。
俺は今からプリアさん、サラサルアイ、クマリーと共にホーノックフークの図書館塔に戻るところだ。
* *
手足を地につけたサラサルアイが泉のほとりでプリアさんと俺を背中に乗せる。俺が前でプリアさんが後ろだ。
サラサルアイの装着する見えない手綱は一つだけではない。
プリアさんも俺とは別の手綱を握る。二人乗りであっても危険はない。なおクマリーは行きと同じく俺の前にちょこんと座り、俺のつかむ手綱を握った。
モーマー・サラサルアイは二つの手と二つの足で地面を蹴り、走った。
泉のほとりから離れ、森の木々のあいだを抜ける。
来たときよりも速いスピードで石畳の道路に帰ってきた。
ここからは、ほかの馬車や通行人の邪魔にならないよう速度をやや落とす。
* *
サラサルアイは石畳を進んでいく。
まばらに建つ人家のそばを次々と過ぎる。
太陽がだいぶ低くなってから前方に塔の影が見え始めた。
太くて高い、灰色の図書館塔だ。
サラサルアイは一気に走り、塔の扉の前でとまった。相変わらず象でも通過できそうな大きな扉が左右にあけっぱなしになっている。
「そんじゃおれは馬小屋で休んどくわ」
クマリーと俺とプリアさんを背中から下ろし、サラサルアイがあくびをする。
「きょうは背中に乗ってくれてありがとな」
「いや、こちらこそ背中に乗せてくれてありがとう」
俺がそう言うと……。
クマリーとプリアさんも口々にサラサルアイに礼を言った。
サラサルアイは顔を赤らめつつ、塔の横の馬小屋に帰っていった。
そのあと俺とプリアさんとクマリーは目の前の扉から図書館塔のなかに入った。
地上一階であっても館内の書棚には利用者の心理によって表紙や内容を変化させる本たちが並ぶ。
ここでクマリーが両手で自分の目をふさいだ。
きのう、彼女は言った。
(自分の目と手で、みなさん一人一人の文字をなぞっていきたいんです)
クマリーは文字保有者から直接文字を学ぶために、本の字をなるだけ見ないようにしているようだ。
これまでクマリーの目には背表紙の字すら映らなかったらしいが、文字をいくつも覚えてきた今なら新しい字が本に浮かび上がる可能性も出てくる。
「クマリー……」
図書館塔には俺たち文字保有者とは関係ないほかの利用者もいる。
彼らに迷惑をかけない声量で、俺は精霊の少女に話しかける。
「もし必要なら、眠るときじゃなくても俺のへそを使っていいよ」
「え……」
彼女は「ありがとうございます……」と小声でささやいてシュルシュルと小さくなった。
服ごと全身が、肉眼でギリギリ見えるくらいまで縮む。そのあと俺の黒い胴衣のすそから服のなかに入り込んだ。
一瞬だけへその内部をくすぐられたが……以降は、なにも感じない。
(変な感覚だな……)
一方、俺の左後ろを歩くプリアさんは瞳を震わせ、引いている。
(まあ当然の反応か。でもどこか安心するような……ん?)
ここで俺は右後ろから肩をたたかれた。
プリアさんの仕業ではない。
首だけを動かして右後ろを見ると、ネズミ色のマントを羽織った女性が俺をにらんでいた。
体はプリアさんよりも少し大きい程度だ。
その女性はマントに縫いつけられたフードをかぶっている。
フードの下からは金色の髪が見えるものの、実際の長さはマントとフードに隠されて判然としない。
金色の瞳の目つきは鋭い。黒のマフラーを巻いて顔の下半分まで隠した状態なので、その眼光がより目立つ。
マントの前側はひらいており、白いシャツにカーキ色のズボンと靴が見えている。
手にはめたネズミ色の手袋越しに、俺の右肩を今一度たたく。
「……トータハーン(ท)」
ネズミのようにか細い声が俺とプリアさんの耳に届く。
「話がある。来い。ロールア(ร)は来るな、ホーノックフーク(ฮ)に会え」
「は……はい。ではアーティットさん、ワタシ行きますね」
ロールア・プリアは俺に目配せしたあと館内中央の上昇気流に乗って館長室に向かった。
そしてマントを羽織った女性が俺のほうをちらりと見て歩きだした。
俺はその後ろについていく。
一階のスロープを少しのぼる。
その壁際に「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた赤い扉があった。
女性がその扉を右に引いてあける。
彼女に続いて俺もそのなかに入った。
そこは十平方メートほどの灰色の個室だった。一つの白い机と二つの茶色のイスが向かって右と左に用意されている。
ネズミ色のマントをまとう女性は扉の鍵をかけ、右のイスに座った。
俺はもう一方のイスに着席し、彼女と向かい合った。
「秘密の話か。でも言っておくと、俺のへそには精霊がいる」
「心配ない」
やはりか細い声で女性が応じる。
「われの声は、われが指定する者の耳にしか届かない。われと話す貴様の声も、われの耳にしか入らなくなっている」
「なるほど」
イスには背もたれがあったが、俺は背筋を伸ばして金色の目を見返した。
「ノーヌー(น)の力は便利だな」
「……ただし前提として、これから話すことをホーノックフーク以外の誰かに他言すれば貴様を始末する」
眉一つ動かさず彼女が言う。
「聞きたくないなら今すぐ退室しろ、トータハーン(ท)」
「……鍵をかけておいて、それはないだろう」
俺はイスを机に少し引き寄せた。
「なんの用なんだ、キア」
「ノーヌー(น)として、トータハーンに協力を頼む」
マントの人物……ノーヌー・キアは「ネズミのノー(น)」を持つ文字保有者だ。
手袋をつけた両手をひざに置き、キアが俺をにらみ続ける。
「ホーノックフーク(ฮ)から話は聞いた。館長による真実の閲覧を受けて身の潔白が証明された貴様なら信用できる」
か細いものの、聞き取りやすい声をキアは出す。
「ちなみに、われもホーノックフークに閲覧してもらった身。あとで本人に確認するといい」
「……協力するかは内容次第だ」
「ウォーウェーン(ว)殺害の犯人が判明次第、われがそいつを即座に殺す。貴様は、これを援護しろ」
キアは続ける。
「あすの正午、招集に応じて文字保有者の大半が図書館塔につどう。ホーノックフークは大部屋でわれわれを見渡して一挙に全員分の真実を読み取る気だ。下手人がそこにいれば殺害の真実も暴かれる。ついで犯人が分かった瞬間にホーノックフークはそいつを指差すことになる。貴様は……われが犯人を殺す際に邪魔が入らないように動け」
「分かった」
俺は目を細め、あごを引いた。
「とはいえ、どうせ目当ての相手は来ないさ。真実を見抜くホーノックフーク(ฮ)の力を知らないやつは俺たちのなかに一人もいないんだから。犯人にとって彼女の前に現れることは自白することと同義。招集に応じないのは印象が悪いが、向こうは現状欠席するしかない」
「われも、そう思う」
鋭い眼光のまま、キアが両肩を上下させる。
「しかしトータハーン。貴様はわれをとめないのか。自分でかたきを討ちたいとか情報を聞き出したいとかいった理由をつければ、即時の暗殺より拘束のほうが有効にも見えるだろう」
「確かにそういう気持ちはある」
少しだけ足を伸ばし、俺はため息を落とした。
「もし万一、犯人がノコノコ現れたとしたら……ホーノックフークに犯行がバレる未来を予想しないわけがない。この場合、そいつに絶対的な勝算があるから顔を見せたとも考えられる。だから危険な行動を起こされる前に犯人を殺すのが望ましい。それはキアに任せるよ」
事実として、誰かを暗殺するならノーヌー(น)の右に出る者はいない。
ホーノックフーク・ラートリーは立場上、よくいのちをねらわれている。その暗殺者をことごとく始末しているのがノーヌー・キアなのだ。
俺は机に両手を載せた。
「……犯人の正体が誰であろうと最初から拘束や気絶をねらっていたら混戦になって結果として何人死ぬか分からないしな。なにより仲間を殺した人間に容赦する理由もない。ホーノックフークの見抜く真実がえん罪を生むことがない以上、その場で犯人を殺す以外の選択肢はありえない」
「やはり貴様に話を振って正解だった」
当のノーヌー・キアは、俺の言葉にうなずいた。
「しかもトープータオ(ฒ)が国に働きかけてくれたおかげで、文字保有者による文字保有者への私刑も法律上みとめられるようになっている」
「それは初耳だな」
「われらを裁けるのはわれらのみということだ。それとトータハーン」
キアが斜め下から俺を見上げる。
「貴様はウォーウェーン(ว)の死体を遺言に従って即座に燃やしたらしいな」
「そうだ」
あごを引いたまま俺は答えた。
「スーンさんの意思を尊重したかった」
「ホーノックフークにウォーウェーンの遺体を見せ、真実を閲覧させればそれだけで犯人も分かったかもしれない。だが貴様はそれをしなかった。まともなように見えて貴様も危ういな」
「言い訳はしない」
「……だろうな。だからほかでもない貴様にわれの援護を頼んだのだ。話はこれだけだ」
ついでキアが、か細い声をやめる。
口調自体は変わらないものの、声そのものがあまったるくなる。
「われわれの声も他者に聞こえるように戻した。退室しろ、トータハーン(ท)」
「……その前に。俺も要求されっぱなしだし、君も一つ頼まれてくれ」
俺はイスに座ったまま、腹部をなでる。
「クマリーというピーがここにいる。文字を知りたがっている。キアのนもなぞらせてやってくれないか」
「いいだろう」
キアが左の手袋を外す。
俺は自分のへそに向かって「いったん出てこい」と言った。
すると俺の黒い胴衣がふくらんで、すその下からクマリーが這い出した。
「感謝です……お二人とも」
クマリーは机の上に浮かんだ。
一方のキアはクマリーをにらみつけ、手招きする。
「……怖がらせていたらすまないな。われは生まれつき、目つきが悪いのだ」
「そうですか……? クマリーは、素敵な『おめめ』だと思いますよっ!」
垂れた目を細め、クマリーが言う。
続いてキアのそばに寄る。
「やっぱり左手が文字をしるす定番の位置なんですね」
キアの立てた左手の平をクマリーが見つめる。そこには赤いノーヌー(น)の文字が浮かんでいる。
「ジャムークさんは両手、ホーさんはお背中、そしてサラサさんはおでこでしたけど……」
「基本的には文字を刻むウォーウェーン(ว)のさじ加減」
フードの下のキアの顔は、あくまで無表情である。
「ただし『ここに文字を刻んでほしい』という希望がある場合はその位置を相手との話し合いで決定していたようだ」
……キア自身は黙っているが、実はキアの体に刻まれた字は彼女の全身の肌を自由に移動できる。
手の平のみならず、体のどこにでも文字を浮かび上がらせることが可能なのだ。
ここではクマリーに対して分かりやすいように、左手の平に文字を映す……。
「【น】ノーヌー・キア、つかさどる字はネズミのノー。ホーノックフーク専属の暗殺者」
自己紹介と共にノーヌー(น)の字が示される。
かたちはサラサルアイのモーマー(ม)の字に似ている。
左上に丸をえがいて線を下ろす。
左下からやや斜め上の線を右に引っ張ったのち、右回りでもう一つの丸を作る。
さらに、すでに引いた横線をつらぬき、真上に向かって縦線を続ける。
最後に右上でとめて完成。
「キアさん、あらためて感謝します」
毎度のごとくクマリーが、さきほど学んだ文字を宙に書きしるす。
「それにしても今まで知らなかったイカした模様が頭のなかにピッタリはまる感覚……何度味わっても、やめられませんっ!」
小声のままクマリーは興奮している。
「むむっ! クマリーは、すごいことに気づきましたよ……。モーマー(ม)の左下の丸を右下に移せば、ノーヌー(น)の字になりますっ! 大発見です。クマリー、天才かもしれません!」
「そうだな。俺も子どものころ同じことを思った。たぶん俺の両親もな」
なんとなく、からかうつもりで俺は言った。
しかし嫌味なく、こう返された。
「なるほど……クマリーだけでなく、文字を使う人は、みんな天才なんですねっ」
* *
そして俺は部屋から出てキアと別れた。
書棚の本の文字を見ないよう、またクマリーは俺のへそに籠もった。
(俺の兵隊の精霊たちは普段俺の頭のなかに宿っているけど、クマリーはもともと独立して存在するピー。だから同じピーでも好む場所が違うんだろうか……)
図書館塔中心の上昇気流に乗り、俺は館長室に向かう。
天井付近に達したところでスロープに着地し、木製の扉をノックした。
なかにいるホーノックフーク(ฮ)に、入るよう促される。
館長室に足を踏み入れた俺は扉を閉め、手を合わせてあいさつした。
ついで、たずねる。
「……プリアさんは?」
現在、館長室にいるのは俺とホーノックフークの二人だけだ。クマリーはまだ俺のへそに潜んでいる。きのう左側のカラの書棚を借りて眠ったエーンの姿も当然ながらすでにない。
俺はそんな室内を見回した。
「プリアさんが俺の先に来たはずだが」
「ロールア(ร)なら」
灰色の机に両腕を載せ、ホーノックフークが吐息を多く含んだ声を発する。
「ソーサーラー(ศ)のところじゃよ」
「……クルムもすでに図書館塔に来たのか」
ソーサーラー(ศ)とは「あずまやのソー」を意味する文字。
その保有者がクルムという女性である。彼女の文字は肉体的・精神的な傷の回復を得意とする。
とはいえ、ロールア・プリアがクルムの世話になっているということは……。
「トータハーン(ท)。別にそのほうと戦ったのが響いたわけじゃないさ」
腕を持ち上げて両ひじをつき、ホーノックフーク・ラートリーが俺に鋭い視線を送る。
「さっき会ったとき、わしはロールア(ร)の真実も閲覧した。無論、彼女もウォーウェーン(ว)を殺しておらん。ただし気になる真実も読んだ。この真実をわしにさらしてしまった精神的ストレスでロールア(ร)はソーサーラー(ศ)の世話になったというわけじゃ」
「つまり、潜水艦のなかでプリアさんが語ったことは本当だったんだな」
「まあ、人が死んだことを喜んでしまった罪悪感もあったようじゃのう。そのほうもロールアから聞かされたみたいじゃし、念のため情報共有しようかの」
ホーノックフークが机の引き出しから灰色の板を引っ張り出す。
板は長方形。四辺が盛り上がっており、内部に黄土色の砂が満遍なく敷かれている。
(砂で筆談しようってことか。まあ、これはロールア・プリアのプライバシーにも関わること。クマリーにさえ聞かせるべきじゃない。万一、見られても……現状クマリーは四十二ある子音字のうち九個しか知らないし、母音記号や声調記号の知識もないから読むことは不可能)
俺は机に近寄り、板をはさんでホーノックフークと向かい合った。
銀色の髪を揺らしつつ、彼女が指で砂に字を書く。
【ข้าดู ว แหวนบังคับ ร เรือให้จารึกตัว】
(……【ウォーウェーンはロールアに、無理やり字を刻んだようじゃな】か……)
次回「18.あずまやのソー(ศ)【前編】」に続く!
น←これが「ノーヌー」の文字。意味は「ネズミのノー」……モーマー(ม)と混同しないように注意ですね~。
今回出てきた単語の元々の意味は以下の通り
ヌー(หนู)→ネズミ
クルム(คลุม)→くるむ
カー(ข้า)→私
ドゥー(ดู)→見る
バンカップ(บังคับ)→強制する
ハイ(ให้)→させる
ジャールック(จารึก)→彫る
トゥア(ตัว)→文字
※今回のタイ語の文はちょっと間違っているかもしれません。まだ分からない部分が多いので……




