16.船のロー(ร)【後編】
赤茶色の木材でできた二十五平方メートほどの部屋に、もう巻き舌の「ロー」という音は響いていない。
ゆかに腰を下ろしたままのロールア・プリアに俺は問う。
「どうしてプリアさんは俺がいる部屋の隣に隠れていたんだ。見つかるリスクを考えれば、もう一室だけ隔てた部屋か……あるいは天井の上かゆかの下のスペースに潜んでいたほうがよかったんじゃないか」
「いや、この潜水艦『ルアダムナーム』はせまいんですよ……」
プリアさんは緑の潜望鏡を右手に持ち、ゆかを軽くたたく。
「さっきまでアーティットさんがいた部屋を思い出してください。水が生じなかった壁の亀裂は二箇所ありましたよね?」
「ああ」
「うち一つはワタシのいる部屋に続いていて、そしてもう一箇所の亀裂のほうは倉庫に通じていたんです。……部屋なんて、せいぜいその程度です。倉庫とワタシの隠れ場所と、さっきの客間だけ。ジョットマーイさんみたいに大きくないんです、ワタシ」
「そうか……ジャンク船も潜水艦も、どっちもロマンがあるけどな」
俺はプリアさんに近づき、ゆかに刺さった斧を抜いた。それをトータハーン(ท)の文字のなかに収納する。左手の平の赤い輝きが消える。
「艦内を傷つけて悪かったな。君自身にケガはないようだが、なんなら弁償を……」
「いえいえ、滅相もないです……っ!」
プリアさんがおどおどした声を出しつつ両手を振る。
「一方的に話も聞かずに先に攻撃したのはワタシなんですから……」
「分かった」
俺はしゃがみ、プリアさんと目線の高さを合わせた。
「で、本題だ。ウォーウェーン・スーンさんが何者かによって殺された。彼の所有していたウォーウェーン(ว)の文字も奪われて行方知れずだ。その犯人をつきとめるため、図書館塔に来るようホーノックフーク(ฮ)が俺たち文字保有者全員に招集をかけている。あすの正午までに図書館塔の大部屋に集合だとさ」
最後まで一気に言った。
これを聞いた瞬間、プリアさんが小刻みに震え、両腕でひざをかかえた。
(無理もない。俺たちに文字を与えたスーンさんが殺されたんだ。誰だってショックだろう)
しかしそう思った俺の目に、このあと一つの不可解な表情が飛び込んできた。
震えながらもロールア・プリアは――。
口や目もとをほころばせつつ、顔面いっぱいに笑みを貼りつけていたのだ……。
「そっか……ついに……」
「……プリアさん?」
意味が分からないまま、俺は彼女に笑顔の理由を聞いてみた。
* *
――そうしてロールア・プリアと話してから俺は泉のほとりに帰ることになった。
当のプリアさんが俺たちのいる潜水艦を浮上させ、水底から水面に戻してくれたのだ。
浮上完了後、部屋の天井の一部に丸いかたちの穴ができた。
(いや、ハッチがあいたようだな)
そこから下ろされたハシゴに足をかけ、俺とプリアさんは潜水艦内から出た。
俺が礼を言うと「いや引きずり込んだのワタシですよ。ホントに、すみませんでした」と返された。
とりあえず俺は陽光を浴びつつ潜水艦の上を蹴って、木々に囲まれた泉のほとりに着地する。
現在、泉の緑の水面には赤茶色の木造潜水艦が浮いている。
プリアさんのルアダムナームである。レモンのような紡錘形だ。
(全長は二十メートくらいか? もっと大きくてもいいはずだが……)
ここで、聞き覚えのあるふにゃふにゃ声が俺のそばで響く。
「あ、お兄さん。心配しましたよ~。戻ってきてくれて、うれしいです!」
バナナの房が重なったような茶髪を揺らし、クマリーが俺のまわりを飛ぶ。
クマリーに加えて、野性味あふれる声も続く……。
「アーティ、ありがとなっ! おまえ、すでに今回の件をプリアちゃんに伝えてくれたんだろ?」
四つの手足を地面につけたサラサルアイが、俺の顔を見上げていた。
俺はうなずく。
「ああ、サラサが伝えようとしていた『重要な知らせ』はもう伝達済みだ」
少し間を置き、謝る。
「あと……急に消えてすまなかった」
「気にすんなって!」
彼は豪快に笑い飛ばした。
続いてサラサルアイが振り向く。潜水艦の上で正座しているプリアさんに話しかける。
「よっ! ひさしぶり、プリアちゃん」
「どうも……サラサルアイさん」
プリアさんは正座のまま、深々と頭を下げる。
「さっきはメッセージ無視してごめんね」
「いや、いいんだって」
手足を折り畳み、サラサルアイが小さく笑う。
「そんで招集についてはアーティから聞いたんだよな?」
「うん」
「図書館塔まではどうする? おれの背中に乗ってってもいいぜ!」
「……ありがと。そうする。ジャンク船のほうは混んでそうだし」
プリアさんは立ち上がり、泉のほとりにジャンプした。
「ルア・ルアット……」
彼女がそう唱えると同時に、泉に浮いていた潜水艦が縮んだ。
サイズがどんどん小さくなり、ついには見えなくなってしまった。
緑の水面に、波紋だけが残っている。
クマリーがプリアさんに近づいてたずねる。
「なにが起こったんですかっ」
「ワタシの血管のなかに潜水艦を入れたの……」
プリアさんが、軽く左腕を持ち上げる。
「今は血液と一緒に全身をめぐってる……」
「は、はわ~」
目をぱちくりさせるクマリー。
「クマリーもちっちゃくなれますが、せいぜいおへそのサイズが限界ですよ~」
「というか、アナタ……誰?」
よどんだ瞳でプリアさんがクマリーの垂れ目を見つめる。
「精霊なの……?」
「これは失礼っ! クマリー・トーンと申しますっ!」
クマリーはプリアさんの真正面に浮いた。
「ついてはプリアさん。あなたの文字をなぞらせてくださいっ。クマリーは字を学んでいるんです」
「……まあ、それくらいなら」
「ありがとうございます」
了承を得たのちにクマリーがプリアさんの左手の平をのぞき込む。
そこに、赤い「ร」の文字が刻まれている。
「この字がワタシの『船のロー(ร)』……。ほかに『ジャンク船のポー』の意味を持つ『ポーサムパオ(ภ)』もあるから混同しそうになるけど……船とジャンク船は文字においては区別されているから注意ね……」
右手でボサボサの髪をいじりつつ、左手を差し出すプリアさん。
すかさずクマリーがもう一度礼を言う。文字がちゃんと見えるよう、体の向きをプリアさんに合わせる。
一方でなにかに気づく。
「おや? 察するにロールア(ร)の文字の前半は……下に丸を書いて上に線を引っ張ったあと……それを左に持っていくんですね。スーンさんのウォーウェーン(ว)に似ている気がします」
「ま……まあね。てか、クマリーはすでにウォーウェーンも知ってんの……」
プリアさんの目が左右に泳ぐ。
(クマリーはウォーウェーン(ว)とロールア(ร)が似ていると言うが……よく見ると字形はまあまあ違う)
ロールア(ร)の字は、右下に反時計回りで丸を書いてその丸の右側から上へと線を引く。
そのあと左に向かって横線を引いてから、右に折り返す。
ついで少し上へと湾曲するカーブをえがく。
そのカーブの最後で小さな谷を作って完成となる。
「わあ……」
クマリーはプリアさんの手の平から指を離し、空中にロールア(ร)の文字を再度書く。
「これでまた一つ、文字を手に入れましたっ。ロールアは巻き舌なんですよねっ! こうですか、ロロロ……」
「……ちょっと違うかな、クマリー。ゥロゥロゥロ……って感じで。というか、クマリー(กุมารี)の『リー(รี)』もこの音だね……」
意外と二人は親しげに話している。
おそらくロールア・プリアは誰かに会うのが苦手なのであって、誰かと話すこと自体は嫌いではないのだろう。
次回「17.ネズミのノー(น)」に続く!
今回出てきた単語の元々の意味は以下の通り
ルアット(เลือด)→血




