13.馬のモー(ม)【後編】
馬小屋の一番奥の部屋――その扉の向こうにいる男に俺は言う。
「サラサルアイ、今から行くのは戦場じゃない。俺をロールア・プリアのところまで案内してほしい」
「ああ、分かってら」
野性味あふれる声が扉を震わす。
「それについちゃあラートリーのばあちゃんからすでに聞いてっぞ。さっさと入れよ、連れと一緒にな」
「どうも」
入室許可を得たところで俺は扉を手前に引く。
クマリーと共に室内に入る。
俺は扉を後ろ手に閉めながら、室内のわらの上でくつろぐ「彼」を見た。
彼――サラサルアイはうつ伏せの状態。
両腕を折り曲げ、胸板にくっつけている。かつ、脚部を左横に投げ出している。
うなじと額を隠す栗毛の髪が目立つ。瞳も髪と同色である。
全身をつつむ上下まで、毛羽立った栗毛だ。おまけに、服の腰の後ろにしっぽのような毛のかたまりがついている。
体は細い。筋肉質で引き締まっている。
サラサルアイがうつ伏せのまま俺に視線をやる。
「きのうエーンのからあげが口んなかに届けられたろ?」
頭と髪を一回だけ激しく振る。
「そんでおれ、荷馬車の仕事をさっさと終わらせて駆け足で戻ってきたんだわ。スーンじいちゃんが死んだってのは残念だが……もう冥福は祈ったし、今は切り替えて走んなきゃな!」
四つの手足でサラサルアイが自分の体を持ち上げる。両腕と両脚を軽く曲げた四つん這いの姿勢である。
わらの上を離れ、俺の前で身を低くする。
「んじゃ、アーティ、またがりな。精霊のお嬢ちゃんも便乗していいぜ」
その背中に俺とクマリーがまたがると、サラサルアイが全身を左右に震わせた。
「【ม】モーマー・サラサルアイ、つかさどる字は馬のモー。四つ足最強を目指して修行中の身だけどよ、本来おれはマジメなんだぜッ!」
言い終わると共に部屋の扉に頭から激突して大きな穴をあけた。
さらに馬小屋のなかを疾走し、サラサルアイは外に出る。
石畳を四つ足で走り、図書館塔からも離れていく。
塔から延びる灰色の石畳の左右には、小さな人家がまばらに映る。
ふにゃふにゃ声が後ろから聞こえる。
「わああぁっ! 速いです~」
クマリーが俺の腰にしがみついている。
「なんでお兄さんのほうはサラサさんから振り落とされないでいるんです~」
「お嬢ちゃん、それについてはおれが説明してやっぜ」
手足のスピードをゆるめずに、サラサルアイが自慢げに言う。
「モーマー(ม)のおれには、見えない馬具が装着されてんのさ。だからアーティの野郎の体は安定しているんだ」
前方の石畳を見据えたまま背中のクマリーに話しかけている。
「ほら、アーティットの手を見てみな。手綱をしっかり握り締めてんだろ?」
確かにさきほどから俺はひじを曲げた状態でこぶしを前方に突き出している。
そこに見えない手綱があるのだ。
この手綱を握ってさえいれば風圧の影響をほとんど受けないし、体が揺れている感覚も打ち消される。
ここで……俺の腰に両腕を回しているクマリーがそのまま時計回りに半回転し、俺の腹側に移動してきた。
さらに体を前方に向け、俺の手の付近をさぐって手綱を握った。
愉快そうにサラサルアイが笑う。
「ははっ! なかなかの身のこなしだな、お嬢ちゃん!」
「ふふんっ! クマリーはすごいんですよ!」
サラサルアイの栗毛のなびくさまを見ながらクマリーが胸を張る。
「……だけどサラサさん。ずっと前を向いて走っているのに、どうして背中のクマリーたちの動きが分かるんですか」
「おれは首を回したりしなくてもほぼ三百六十度を見渡せるんだよ」
「ええっ! すごいんですねっ! 四つの足で走っている姿も雄々しくて素敵です!」
「よせよせ、照れるじゃねえかよ」
サラサルアイは高速で進みつつ、石畳の左側へと飛び出す。
その先の森のなかに入っていく。
「生まれたときからおれは二本足で立てなかったんだ。赤ん坊のころからずっとハイハイを続けている感じだな。だが自分のことを不幸と感じたことはねえ。親父とお袋はおれを愛してくれたし、スーンじいちゃんからもらったモーマー(ม)のおかげで自由に走り回れるからな!」
踏み込んだ森では、かなり木が密集していた。
しかしサラサルアイは身軽に動き、減速せずに森の奥を目指し続ける。
「みんなを運ぶことに関しちゃあ、ジョットマーイのジャンク船のほうが上だ。モーマーのおれの長所は小回りの利きやすさと突進力、そして嗅覚ってとこか。今はロールア(ร)のプリアちゃんのにおいを追っているとこさ」
……内容からして俺ではなくクマリーに説明しているようだ。
* *
そうして木々のあいだを抜けてサラサルアイが到着したのは――。
直径が四十メートくらいある丸い泉のほとりだった。
当の泉は森の奥にあった、
周囲のほとんどが、密集した木々に囲まれている。
泉の表面は緑。魚や虫どころか、水草一つも見当たらない。
にごっており、ほとりからでは内部の様子が分からない。
俺はクマリーと共にサラサルアイの背中からおりる。
「運んでくれてありがとう、サラサ」
「サラサさんっ、クマリーからも感謝します!」
「おうよ!」
サラサルアイが返事をし、鼻をひくつかせる。
「ともあれこの泉にいるのは間違いねえな。プリアちゃんのにおいは、ここで途切れてやがる。彼女、また水底に籠もってるわけか。泉の底に沈んでいるならロージュラー(ฬ)のタコも届かねえだろな……」
サラサルアイが水面に顔を近づけ、右手を水のなかに入れる。
「とりあえず呼んでみるか」
泉に突っ込んだ人差し指を動かし、サラサルアイは文字を書く。
いくつもの字を組み合わせ、水面上に文を作る。
いわく「ฉันมีข่าวสำคัญ ลอยในตอนนี้ จาก ม ม้า」……。
(……「重要な知らせあり。至急浮上されたし。モーマーより」か……)
サラサルアイが書いた実際の文字は左右反転しており、文は右から左に書かれている。
水底に沈んでいるというプリアさんの視点から正しく文字を認識してもらうためだろう。
「これで……伝わったろ。もっと詳細に書くこともできっけど、そうした時点で逃げられそうだからあえてこの程度にとどめる」
水から手を抜いて、サラサルアイが左に倒れる。
「つっても、すぐには出てこんだろな。そのあいだは、ひまだわ~」
「はいはいっ! じゃあサラサさんの文字……モーマー(ม)をなぞらせてくださいっ!」
クマリーがサラサルアイのそばで正座になり、顔を近づけた。
対するサラサルアイは自分の額にかかった髪をかき上げる。
すると赤い文字が現れた。
「おれのมはおでこに刻まれてんだ。存分に堪能しな」
「重ね重ね感謝です。失礼しますっ!」
彼の額にふれるクマリー……。
左上に丸を作ったあと、線を下ろす。ここまでは俺のトータハーン(ท)と同じ。
モーマー(ม)の字の場合は左下にも丸を作る必要がある。
時計回りで二個目の丸をえがき、さきほど下ろした線から突き抜けるようにして円を結ぶ。
それから右に引っ張ったあと、右下に達したら線を真上に持っていく。
最後に右上でとめてモーマー(ม)の字の完成だ。
「例によってイカしてますっ!」
サラサルアイの額から手を離し、やはりクマリーが空中に同じ字をもう一度書く。
「クマリーの『マ』を書くときもこれを使うんですよねっ! うれしいな~。これでクマリー・トーンができあがるまで、あと三文字!」
「へえ、ピーのお嬢ちゃんは文字を学んでんだな。がんばれよ!」
仲がよくなったようで、サラサルアイとクマリーが笑顔で雑談を交わし始める……。
「サラサさんの一番好きな食べ物はなんですかっ? クマリーは、きのう初めて食べたバナナが大好物になりました~」
「アーティと同じものを好きになったのか……ほほえましいじゃねえか。そんで、おれの好物はニンジン……と言いたいところだが、実はココナッツミルクが好きなんだ。バナナと一緒に食ってもうまいぞ」
聞くだけで口内がうるおう会話だ。
ともあれ俺は泉のほとりで待機し、にごった水面をじっと見ていた。
(プリアさんはさっきのサラサのメッセージをもう受け取ったはずだけど、泉から反応はまだないな)
念のため上体を前に出す。もっと顔を近づけて、のぞき込む。
――そのときだった。
突然、水中から緑色のパイプのようなものが出てきた。
太さは俺の腕くらいか。パイプの先端が折れ曲がり、丸い切り口をこちらに向けている。その断面には透明なフィルムが張られている。
(なんだ? 潜水艦の潜望鏡みたいなかたちだな。これはプリアさんと関係があるのか)
が、俺が声を上げてサラサルアイに伝えようとした瞬間――。
潜望鏡の丸い切り口が放射状にひらき、食虫植物に似た形状になった。外側の緑に対して内部は赤く、まるでハエトリグサが複数のあごを持っているかのような造形である。
「え……」
この食虫植物っぽいなにかが、三メート以上の大きさにふくらむ。
そうして放射状にひらいた口をすぐに閉じ、俺の体を飲み込んだ。
次回「14.船のロー(ร)【前編】」に続く!(次回は1月10日(土)午後7時ごろ更新)
ม←これが「モーマー」の文字。意味は「馬のモー」……小さな丸を左上に書いて線を下ろすところまではトータハーン(ท)と一緒ですね~。
今回出てきた単語の元々の意味は以下の通り
マー(ม้า)→馬
チャン(ฉัน)→私
ミー(มี)→ある
カーオ(ข่าว)→知らせ
サムカン(สำคัญ)→重要な
ローイ(ลอย)→浮く
ナイトーンニー(ในตอนนี้)→今すぐ
ジャーク(จาก)→○○から(英語の「from」に近いかも?)




