01.兵隊のトー(ท)
本作はタイ文字を元ネタにしたハイファンタジーです。土・日・月・火・水曜日の午後7時ごろに更新します。
「おや、お兄さん。イカした模様を刻んでますね!」
ときは昼下がり。
こけ色のぬかるんだ水でおおわれ、シダ植物があちこちに生えているひとけのない湿地帯。
そんな湿地をバシャバシャ音を立てつつ歩いていた俺の耳に、ふにゃふにゃした声が入り込んできた。
「お兄さんの模様、もっとよく見たいのでひじを曲げて左手を立ててくれませんかっ!」
声のする左隣に視線をやると、白っぽい衣装に身をつつんだ少女が俺の左手をつかんでいた。
銀色に縁取られた七分袖の白い上着を羽織り、膝丈の白い布を腰に巻いている。靴をはいておらず、はだしの甲がぬかるみにつかっている。
少女の髪は、オレンジの混ざった茶色。バナナの房が重なったような見慣れないかたちだ。本人が動くと共に、その髪がふんわりと揺れる。
体は細いが顔は丸っこい。髪と同じ茶色い目が少し垂れており、どこか人懐っこい印象を与える。
その頭頂部は、ちょうど俺の腰くらいに位置している。
(ずいぶんと小さいやつだな)
当の俺は、乱れた赤い髪に赤い瞳を持つ。黒い胴衣に長袖の赤い上着を引っかけている。下半身は黒いズボンでおおっており、靴も黒だ。
(しかし、誰だ……? さっきまで俺は一人で湿地を歩いていたはず)
俺は少女の言うとおり、左手を立ててみた。手の平を前方に向けた格好だ。
(知り合いじゃないとはいえ、ことわる理由もとくにない)
が、ひじを曲げたせいで左手が俺の肩の高さまで上がってしまった。
少女の身長は俺の腰くらいまでしかないので、これでは模様を確認できない――。
――と思って手を下ろそうとした瞬間。
少女の丸っこい顔が俺の左手の前に現れた。ふんわりとした茶髪が俺の指に落ちる。
見ると、少女の足が地上を離れて浮いていた。ぬかるみでよごれた足を宙にぶらぶらさせている。
しかも歩き続ける俺に合わせ、その体をバックで飛行させていく……。
「ありがとうございます、お兄さん! こうして立てた状態が、この模様の本来のかたちなんですね。わあ~」
俺の手の平にぬるい吐息を吹きかけてくる。
ついで少女は右手の人差し指で俺の左手の模様をつつく。
その模様は手の平に、血のような赤い色でくっきりと太く浮かんでいる。
かたちは、俺たちの使う文字の一つ「ท」そのままである。
「ちょっと手の平、失礼しますね」
そう言って手の模様をなぞり始める少女。
「書き順は、こうですか?」
まず左上に、小さな丸を書く。
次に、真下に縦の線を引く。
そして右上に向かって斜めに突き上げたあと、すでに書いた丸と同じ高さまで来たら真下に折り返して右下でとめる。
「おおっ! 一筆書きでいけましたっ!」
少女は浮いたまま声をはずませた。
「お兄さん、なんなんですか、この模様っ!」
「こんなの子どもでも知ってるだろ……」
俺はわずかに左手を振る。
「ただのトータハーン(ท)の文字じゃないか」
「とーたはーん?」
少女は首をかしげる。
本気で文字を知らないようだ。俺はせきばらいをして説明を試みる。
「そう、トータハーン。俺たち人間の言葉を書きしるすための、四十二ある子音字の一つ。そしてそれぞれの文字には名前が割り当てられているんだ。たとえば『ニワトリのゴー』を意味する『ゴーガイ(ก)』や、『フクロウのホー』をあらわす『ホーノックフーク(ฮ)』なんかがあるな」
「おおっ、かっこいいです! なんか二つ名みたいでっ!」
左右の手にこぶしを作り、少女が瞳を輝かす。
子どもに説き聞かせるように、俺は言葉を継ぐ。
「ともかく……なかでも『兵隊のトー』をあらわすのが、俺の左手に刻まれた『トータハーン(ท)』の文字ってわけだ」
俺は手首を返し、あらためて左手の平を見つめた。
さっき少女になぞられたトータハーン(ท)の模様が、血のような色を浮かべている……。
少女は宙に浮かんだまま俺の左肩の後ろに回り込み、ふにゃふにゃ声を発する。
「自分の手に刻んじゃうほど、お兄さんは『トータハーン(ท)』の文字が好きなんですねっ!」
「……俺が自分で書いたんじゃないさ。これは、もらいものだよ」
ぬかるんだ湿地を踏みつけ、俺は派手に音を立てた。
「今は、このトータハーンの文字を本来の持ち主に返しに行くところだ」
「じゃあクマリーも、ついていきますよ~」
「クマリー?」
宙に浮く茶髪の少女をじっと見る。
「それが君の名前なのか」
「はいっ」
少女が元気よく返事をする。
「クマリーの名は、クマリー・トーンですっ!」
「……そうか」
俺は目を細め、宙にぶらぶら揺れている少女のはだしに視線をやった。
「でも宙に浮いているところを見るに、人じゃないな。君は精霊の『ピー』だったりするのか」
「たぶん、その『ピー』ってやつだと思いますっ!」
クマリーと名乗った少女は浮いたまま、俺のまわりを一周してみせた。
「お兄さんの手の模様みたいなイカした『文字』というやつが、あと四十一もあるんですよねっ! だったらお兄さんのそばにいれば、全部見ることができそうです」
「話、聞いてたか……?」
左手を下ろし、俺は息をつく。
「俺はトータハーンの文字を返しに行くところだ。さっき言ったばかりじゃないか」
「いや~、それは無理かと」
クマリーが俺の背後に移動し、小さな手を両肩に載せてきた。
「だってそのイカした模様……お兄さんと一体化していますから。死なない限り取れないですよ」
ふにゃふにゃした声で、俺にそんな言葉を吹き込む。
「それはそうと、お兄さんのお名前は」
クマリーが後ろから吐息を当ててくる。
俺はとりあえず答えておいた。
「……アーティット」
「アーティットさんですか。うん、いい名前です。イカしてますね、お兄さんっ!」
クマリーが俺の肩をもむ。
(な、なんなんだ……このクマリーって精霊は)
正直、俺は困惑していた。
目の前のシダ植物を払いつつ、考える。
(あの人の隠れ家を目指してこの湿地帯に入ったが、さすがにこんな誰もいないところじゃ変なピーが出てくるのが普通なのか)
クマリーは好奇心が強いようなので、追い払おうとしても無駄だろう。
(まあしばらくすれば、飽きてどっかに行くさ)
そんなわけで俺は奇妙な精霊……ピーのクマリーを道連れとした。
俺の名前を聞いて以降、クマリーは意外と静かにしていた。
(これは助かる。ずっとうるさくされたら、たまらないし)
こけ色の水のたまったぬかるんだ湿地を、俺は足をとめずに進んでいく。
(しかもクマリーが現れてから、この湿地を歩くのがラクになったような……? 足もとのぬかるみをほとんど気にせず進むことができている。もしかしてクマリーは人に力を与えてくれるピーなのかも)
俺は方位磁石で方向を確認しつつ、北に向かう。
途中で水牛やサギの群れとすれ違う。しかし人と会うことはなかった。
そして雲間から赤い光が差してきたところで目的地に着いた。
「わあっ! お兄さんに文字をくれた人はここにいるんですねっ!」
俺の左横に浮くクマリーが声を上げ、手をたたく。
目の前にあるのは、スイレンで囲まれた焦げ茶の木造の建物だ。階段をのぼったところに玄関がある。
俺は靴についた泥を落としてから玄関に近づき、扉をノックした。
「突然訪問してすみません」
やや大きな声を上げる。
「スーンさん。俺です、アーティットです。きょうは、トータハーンの文字を返しに来ました。やっぱり俺には手に余る力なので……」
しかし、なかから反応はない。
「あれ……? 留守なのか」
「いやいや、お兄さん」
クマリーが扉に右耳をつけ、小さな声を出す。
「なかに一人いますよ、動いてませんけど」
「……そこまで分かるのか。って、動いてないって――」
すぐに俺は扉をあけた。鍵はかかっていなかった。
「だいじょうぶですか、スーンさん。すみません、失礼します!」
玄関の外で靴を脱ぎ、なかに入る。
見回す。
――大きな白いタライが中心に置かれている。
タライをのぞき込むと、胎児のようなポーズで人が押し込められているのが分かった。
「スーンさん……そんな」
薄茶の上下を着た高齢の男性がタライのなかで体を折り畳んでいる。髪と同じ灰色の瞳がカッと見ひらかれ、まったく動く気配がない。
俺にトータハーンの文字を刻んでくれたスーンさんで間違いない。
彼をタライから出し、脈をとる。が、スーンさんの生命活動はすでに終わっていた。
「どうか、安らかに」
思わず言葉があふれる。
「あなたは、いのちの恩人です。スーンさんが俺にトータハーンの文字を与えてくれたから、俺は今も生きています。本当にありがとうございました」
俺は両手を合わせ、礼をした。
そしてあらためて遺体を確かめたところ、彼の左手の平の皮がはぎ取られているのが分かった。ほかに外傷はない。
それから俺は、生前の彼の意思を確認できるものがないか部屋を調べた。
机の引き出しのなかに、こんなメモがあった。
(私もいつ死んでもおかしくない年齢になった。そこで、このメモを読んでいるあなたに頼みたい。私が死んだときは、即座に体を燃やしてくれ。もとから私に戸籍はないからあなたが罪に問われることはない。墓も葬儀も通夜も要らない)
きれいな字だ。スーンさんの直筆で間違いない。
遺体を横抱きにして、俺は彼の家から出た。
すっかり暗くなった湿地のぬかるみに、また靴を沈ませる。
「……タハーン・プルーン」
そう俺が口にすると同時に「炎の兵隊」が一体だけ出現する。
タハーン・プルーンは小鳥のかたちをしており、体は炎でできている。
クマリーとは似ても似つかないが、タハーン・プルーンも精霊の一種である。
そのプルーンに、俺は短く命じる。
「焼け」
命令にうなずくことさえせずプルーンがスーンさんの遺体に火をつける。
遺体を俺が手放すと、足もとのぬかるみに達する前に遺体のすべては骨も残さず焼きつくされた。
炎はすぐに消えた。周囲に広がるスイレンに燃え移るなどの被害はない。
その後もプルーンは俺の前に浮遊し、天上の雲と地上の湿原を照らす。
「俺の左手に刻まれたトータハーンの文字は、ただの模様じゃない」
ついで俺は左隣に目を向ける。ずっと黙っているクマリーに話しかける。
本当はクマリーも俺にいろいろ聞きたいのだろうが、彼女は空気を読んで沈黙しているようだった。
俺は左手を開閉し、トータハーン(ท)の文字をクマリーに再び見せる。
プルーンの炎に照らされた状態だと、血のような色がより目立つ。
「このトータハーン(ท)の字を持ったおかげで、俺は俺の兵隊『タハーン』をあやつれるようになった。タハーンとは、俺の命令に従うピーたちさ。まだそこに浮いている炎の兵隊、タハーン・プルーンもその一体」
「……でも」
クマリーが遠慮がちに口をひらく。
「その力をくれたスーンさんは……お兄さんがさっき焼いたスーンさんは、お兄さんのいのちの恩人なんですよね」
「ああ」
少しだけ目を閉じ、俺は思い出す。
「二年前かな。隣国と戦争があってね。俺も兵隊として駆り出されたんだけど、すぐに瀕死の重傷を負った。このまま死ぬかと思った。でも傷ついて野っ原に転がっていた俺を助けてくれた人がいた。それがスーンさんだった。そのときはまだ、この湿地にも籠もっていなかったな」
俺は顔を上げ、雲間からのぞく満月を見た。
「スーンさんは俺の左手の平にトータハーン(ท)の文字を刻みつけた。これで俺は、人の体を回復させるピーをあやつれるようになった。それも俺のタハーンだ。さしずめ『軍医』の精霊と言ったところか。おかげで俺は瀕死の重傷から復活できた。そのあと、なかば盗賊と化した敵兵たちに囲まれたが……やつらは俺のタハーンを使ってしりぞけた」
「お兄さん」
静かにクマリーが問う。
「そこまでの力を持つトータハーンの文字を、どうしてスーンさんに返そうと思ったんですか」
「怖くなったから」
俺は左手を閉じた。
「兵隊たちが反乱を起こして俺の首を取る夢を、よく見るんだ。最近はとくにひどくなってきた」
月から目を離す。
火の粉を散らす小鳥のようなプルーンに視線を移す。
「俺の兵は対価を求めず俺の命令を遂行する。そこが、かえって恐ろしいよ」
「そうですか。ところで」
宙に浮いたまま腕を組み、クマリーが首をひねる。
「スーンさんは死んでしまったわけですが、これからお兄さんはどうするんです」
「かたきをとる」
自然に、俺の口から言葉が出てきた。
「……スーンさんを、殺したやつがいる」
次回「02.指輪のウォー(ว)」に続く!
※本作「ท(トータハーン)」はタイ文字を使うハイファンタジーです。毎週土・日・月・火・水曜日の午後7時ごろに更新します。評価やブクマをして頂けると大変励みになります!
(本作とは全然違う作品ですが木曜日は「今週のしまったちゃん異世界ば~じょん」を、金曜日は「今週のしまったちゃん」を小説家になろうに投稿しています。完結済のエジプト風ファンタジー「ミイラVSミイラ取り!」や重力の不安定な世界でのSF風ファンタジー「ハンガームーン」等の作品もありますので、機会がありましたらそちらも読んで頂けると嬉しいです!)
※元ネタはタイで使われている文字。各文字を表すとき「ニワトリのゴー」とか「兵隊のトー」とか「仙人のソー」とか言ったりするらしいです。なんか心がくすぐられます。これはファンタジーの題材に使える! と思って本作を書くことにしました。
ท←これが「トータハーン」の文字。意味は「兵隊(兵士)のトー」……アルファベットのNにも似ていますね~。日本語からだと変換できないので入力言語にタイ語を追加する必要がありました。
※ちなみに本文に出てくる「ピー」はタイの精霊みたいなやつ。「クマリー・トーン」にもちゃんと元ネタがあります。
本文中のいくつかの単語はタイ語を参考にしています。各単語の元々の意味は以下の通り(ニワカ知識なので間違っていたらスミマセン……)
アーティット(อาทิตย์)→太陽
クマリー(กุมารี)→女の子?
トーン(ทอง)→金
スーン(๐)→ゼロ
ピー(ผี)→精霊
タハーン(ทหาร)→兵隊
プルーン(เพลิง)→炎




