絡新婦(1)
靑侍ありて、道をゆくに、里遠き所にて、日、暮れたり。
【ある若い侍が道を歩いていたが、人里離れた場所で日が暮れてしまった】
「如何せん。」
【「どうしたものか」】
とあたりをかけるに、林下に古き宮あり。すなはち、拜殿にあがり、柱にそふて、
【とあたりを歩き回ると、林の中に古い神社があった。すぐに拝殿に上がり、柱に寄り添って】
「こゝにしも、夜をあかさん。」
【「ここで一夜を明かそう」】
と思ふに、朱の玉垣は年ふる苔に埋もれ、幣帛、風に飛んで、淺茅がもとに朽つ。巫女の袖の鈴たへて、巫が手向る祝もなし。露になく滋野の虫は、榊をさそふ嵐にこたへ、壁に亂るゝ蜘蛛の網は、庭の眞葛が蔓にあらそふ。荒れしをまゝの有樣は、いとゞ秋てふ悲しかりける。
【朱塗りの玉垣は年月を経て苔に埋もれ、神に捧げる幣帛は風に飛ばされて浅茅の根元で朽ち果てている。巫女が振る鈴の音は絶え、神職が捧げる祝詞の声もしない。露に鳴く滋野の虫の声は、榊を揺らす嵐に応えるように響き、壁に乱れかかる蜘蛛の巣は、庭に茂る葛のつるに絡み合っている。荒れ果てたままの有様は、ただでさえ寂しい秋の情趣をいっそう悲しく感じさせるものであった】
やゝ宵も闌にして、四更の空とおぼしきころ、十九二十ばかりの女房、孩子を抱きて、忽然と、きたる。
【夜もようやく更けて、午前二時(四更)ごろと思われる頃、十九か二十歳くらいの女房が、子供を抱いて忽然と現れた】
「かゝる人家も遠き所へ、女性として夜更て來べきにあらず。いかさまにも化生の者にこそ。」
【「こんな人家から遠い場所に、女の身で夜更けに来るはずがない。間違いなく化け物の類だろう」】
と、うしろめたく用心して侍りしに、女、うちゑみて、抱きたる子に、
【侍は不審に思い、用心して控えていた。すると女はほほえんで、抱いていた子に】
「あれなるは、父にてましますぞ。行て抱かれよ。」
【「あそこにいらっしゃるのは、お父様ですよ。行って抱かれなさい」】
とて、突き出す。
【と言って、突き出した】
この子、するすると來るに、刀に手かけて、はたと、睨めば、そのまま歸りて、母にとりつく。
【この子がするすると近づいてくるので、侍は刀に手をかけ、「はた」と睨みつけると、子はそのまま戻って母に取り付いた】
「大事ないぞ、行け。」
【「大丈夫ですよ、行きなさい」】
とて、突き出す。重ねて睨めば、また、歸る。かくする事、四、五度にして、退屈やしけん、
【と言って、女はまた突き出す。重ねて睨むと、また戻る。これを四、五回繰り返したが、しびれを切らしたのか】
「いで、さらば、自ら參らん。」
【「さあ、それならば、私自身が行きましょう」】
とて、件の女房、會釋》もなく來るを、臆せずも、拔き討ちに、ちやうど、斬れば、
【と言って、その女房が遠慮もなく近づいてくるのを、侍はひるまず抜き打ちに「ちょうど」と斬りつけた】
「あ。」
【「ああっ」】
といひて、壁をつたひ、天井へ、上がる。
【と女は声を上げ、壁を伝って天井へと逃げ上がった】
明けゆく東雲、しらみ渡れば、壁にあらはな貫を蹈み、桁なんど傳ひ、天井を見るに、爪さき長事、二尺ばかりの女郞蜘蛛、頭より背中まで斬りつけらて、死したり。人の死骸有て、天井も狹し。
【夜が明け始め、東の空が白んでくると、壁に剥き出しになった貫を踏み、桁などを伝って天井を見た。すると、爪先が二尺(約60cm)ほどもある大きな女郎蜘蛛が、頭から背中まで斬りつけられて死んでいた。その死骸は天井が狭く感じるほど巨大であった】
あゝ、誰がかたみぞや。また、連れし子とみえしは、五輪の古りしなり。
【ああ、これ(女の死骸)は誰のなれの果てだったのか。また、連れていた子供に見えたものは、古びた五輪塔であった】
凡そ思ふに、化物と思ひ、氣を逼きつゝも、五輪をきらば、莫耶が劍もあるは折れ、あるは刃もこぼれなん。その時にして、人をとりしにや、よき工みなりかし。此人も心せきて、身も逸らば、心の外に越度もあるべし。思案して五輪を斬らざるは、あゝ、果報人かな。
【およそ考えるに、化け物だと思って、あせって五輪塔を斬っていたならば、名刀であっても折れたり、刃が欠けたりしただろう。その隙を突いて人を捕らえて食おうとしたのか、実によく練られた罠である。この侍も、もし心を乱して身を乗り出したりしていれば、思いがけない失敗(命取り)をしていただろう。冷静に考えて五輪塔を斬らなかったのは、ああ、なんと幸運な人であろうか】
少女が読み終わって顔を上げると、隣に座っていたもう一人の少女が話しかけた。
「どうだった?」
「どう、って……。妖怪が人間に化けて侍さんを襲おうとして返り討ちにあったって話でしょ?」
その感想に不満があったのか、隣の少女は露骨に不機嫌そうな顔になる。
「なによその顔は?他に何か言えっていうの?別に何もないわよ?」
「うーん……。まあ、そのまま読んだらそうなんだろうけど……」
「そのまま読んだらって、歯切れが悪いわね。はっきり言いなさいよ」
「たとえば、たとえばよ。もしその時に妖怪なんていなかった、としたらどう?」
「……どういうこと?いたからって前提の話でしょ?もしそうだったらどう変わってくるって言うのよ?」
相手が何を言いたいのか理解出来ず苛々してくる少女。
「私にはね――」
質問を返された少女はそこで言葉を区切ると、一つ大きく息を吸い――
「良家の娘との縁談が決まった侍が、それまで隠れて子供まで作っていた女が邪魔になって、妖怪のせいにして子供ごと殺したんじゃないかって思うのよ」
◆◆◆◆◆
五月初旬。雲一つない爽やかな朝にも関わらず、GW明け初日の登校日ということで彼女の気持ちは少し重かった。
まとまった休みの後はいつも憂鬱な気分になり、世間でいうところの五月病になる人の気持ちが痛い程理解出来る。
まあこれはGWに限らず夏休みだろうと冬休みだろうと同じなので、その全てが五月病と何故呼ばれないのかと彼女は不思議に思いながら歩いていた。
そう、彼女は社会人には学生のような長期の休みが無いことを完全に失念してたのだ。
家を出てからずっとそんなことを考えながら歩くこと二十分ほど。通い慣れた高校の正門に辿り着いた彼女に話しかけてくる女生徒の姿があった。
「晴香おっはよー」
腰の辺りまで長く伸ばした明るい茶髪。少し濃いめのメイクに長い睫毛の少女が、晴香の後ろから小走りで近寄ってきた。
「あ、おはよう愛莉。あんたは休み明けなのに元気ねぇ……」
「ん?だってたっぷり休んだんだから元気に決まってるじゃん?逆に晴香はあんまり元気ないみたいだけど……何かあった?」
「あのねえ、何も無くても普通の人は休み明けって嫌なもんなのよ。あんたは勉強嫌いなくせに、どうしてそんなに嬉しそうに学校に来るのか理解に苦しむわ」
「えー、だって学校来たら晴香やみんながいるから楽しいじゃん!」
「……どうして私はそんなあんたと同じ偏差値の学校に通ってるんだろうね」
小学校からの幼馴染である愛莉は幼い頃から勉強は嫌いだ。家に帰って勉強をすることもなければ、出された宿題すらほとんど提出することはない。しかし、学校で友人たちと会うのが大好きであるため、小中高と皆勤賞を取るくらいにきちんと出席している。その結果、真面目に授業を受けている晴香との学力差はほとんどついていない。そもそも愛莉は地頭が自分よりも良いのだと晴香は考えている。
晴香はこのことを考える度に神様に生まれついての不公平を心の中で訴えるのであった。
「んー?好きこそものの上手なれ?」
「ちょっと何言ってるか分からないわ」
「えー、こんな時に使うことわざじゃなか――ヤバッ!」
話している途中で何かに気付いた愛莉が素早く晴香の背中に隠れるように回り込む。
「ちょ、急にどうしたのよ」
「シー!このまま私を隠して校舎に入って!」
「いや、そんな大声でシーって言われても……」
「おい」
正面から真っすぐに二人に向かって歩いてきていた男子生徒が声をかけてくる。
その顔を見た時に、晴香はどうして愛莉が隠れたのかを理解した。
「後ろのお前、隠れてないで前に出てこい」
低く威圧感のある声。
切れ長の少し吊り上がった目尻にすっと伸びた鼻筋。
180センチ近くある身長にバランスの取れた四肢。
清潔感を感じる短く切りそろえられた黒髪の少年。
一見すれば他の生徒から羨望の眼差しを向けられそうなイケメンな彼だったが、この高校において彼の集める視線はまた別のものであった。
半袖の制服の左腕に巻かれた腕章に書かれた「風紀」の文字。
近年なし崩しに緩くなっている校則に残る最後の良心とも呼ばれたり、生徒の自由意思を弾圧する独裁者と陰口を叩かれたりする存在。
風紀委員長――三年生の物部カタル。
その常に不機嫌そうな表情と風紀において一切の妥協を許さない高圧的なまでの姿勢。校則の抜け道を手繰る者たちにとっては恐怖の象徴として恐れられていた。
※参考資料※
荻田安静編纂 『宿直草』卷二 第一 急なるときも思案あるべき事




