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ローレンティア  作者: enigma


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2/2

一話後日談

後日談



どこまでも突き抜けるような青空が、東京とは思えないほど広々と続いていた。

ジムニーのエンジン音が止まると、車内を満たしていた音楽の代わりに、木々の葉が擦れる音と、遠くで響く鳥の声が耳に届く。奥多摩のキャンプ場は、都会の喧騒を忘れさせるのに十分な静けさと、澄んだ空気に満ちていた。


「よし、着いたな。ちょっと受付行ってくるわ」


運転席から降りた藤沢アキはそう言うと、助手席のドアを軽く叩いた。十六歳の少年、藤沢蓮紅がこくりと頷くのを確認し、アキは管理棟へと向かう。しばらくして戻ってきた彼女は再び運転席に乗り込むと、指定された区画へとゆっくり車を進めた。


「う~~~ん……!」


目的地に到着し、車から降りるなり、アキは空に向かって大きく背を伸ばした。長旅で凝り固まった体が、気持ちよさそうに軋む。刑事という職業柄、まとまった休みなど滅多に取れない彼女だが、この過ごしやすい季節になると、どうにもキャンプがしたくなるらしい。

久しぶりだな、と蓮紅もまた、森の匂いを深く吸い込んだ。


「よし、やるか!」


アキが手際よくテントの設営を始める。その姿は慣れたもので、迷いがない。

「薪、取ってくる」

「おう、頼んだ」

蓮紅が返事を聞いて森の奥へ入っていく。適度な太さの枝を探して拾い集め、三十分ほどして戻ってくると、そこには既に快適な「拠点」が出来上がっていた。


ジムニーのルーフキャリアから伸ばされたタープが、心地よい日陰を作っている。通称、サイドオーニング。その下にはアウトドアチェアが二脚とテーブル、キッチンツールまでが整然と並べられていた。早い。さすがは手慣れたものだ。


当のアキは、すっかり設営を終え、チェアに深く腰掛けて紫煙をくゆらせていた。その姿は様になっているが、蓮紅は少しだけ眉をひそめる。テーブルの上には、温め始めたばかりのポットが置かれていた。


「じゃあアキさん、俺が軽くおやつでも作る」

「お、気が利くじゃん。それなら私がつく……」

「俺が作るから、座ってて」


蓮紅は、アキの言葉を食い気味に遮った。アキが「なんでよー」と不満げな顔になる。


「私が作ってやってもいいじゃないのー」

「アキさんに作らせたら、とんでもないことになるのが目に見えてる。前に焼き魚は炭になり、おにぎりは餅になった。一体どういう錬成術式を組んでるんだよ」


呆れたように言いながら、蓮紅は作業を始める。そういえば前回のキャンプは、アキが用意した食事の全てがカップ麺だった。思い出したら、なんだか少し悲しくなってくる。


今日のメニューはホットサンドだ。クーラーボックスから食パンを取り出し、片面にマヨネーズを塗り、チーズとハムを乗せる。そして隠し味に、ほんの少しだけメープルシロップを垂らした。もう一枚のパンで挟み、ホットサンドメーカーにセットして火にかける。香ばしい匂いが漂い始めると、いつの間にかビールを開けていたアキが、嬉しそうな顔でこちらを見ていた。


「はい、アキさん」

「ありがとさん」

こんがりと焼き目のついたホットサンドを渡すと、アキは上機嫌で受け取る。蓮紅はまだ酒が飲めないから、ポットのお湯でインスタントコーヒーを淹れた。豊かな自然に囲まれながら、無言で頬張る。サクッ、という軽快な音。


「……ん、うま」


アキの満足そうな心の声が聞こえて、蓮紅は少しだけ口元を緩めた。


「アキさん、最近仕事どう?」

「ああ、まあ……少しずつ、忙しくなってきたとこかな。なんつーか、犯罪の発生率が、じわじわ上がってきてる気がするんだよな」


そう言う彼女の横顔が、一瞬だけ刑事のそれになる。またしばらくは、一人で食事をする日が増えるのかもしれないな、と蓮紅はぼんやり考えた。すると、そんな感傷を吹き飛ばすように、アキがニヤニヤしながらこちらを見た。


「――ところで、アンタこそ最近どうなんだよ。学校は楽しいか? 同じクラスの美鈴ちゃんとか……龍太郎くんとかさ」


からかうような視線に、蓮紅はすっと目を逸らした。

「別に。ただのクラスメイトだ」

「へえー、そうかい? 年齢的にそろそろいい加減にカノジョとかほしくなる年頃なんじゃん」


アキは楽しそうにビールを呷る。蓮紅は、手の中のコーヒーカップに視線を落とした。他愛のない、高校生らしい日常。だが、その輪の中にいても、自分だけが薄い膜に隔てられているような感覚が、時々、蓮紅を襲う。

(……馬鹿馬鹿しい)

もし、誰かと深く関わればどうなる? この能力は、相手の心の中の、綺麗事だけではない本音も、嘘も、嫉妬も、全てを暴き立てる。そんな関係が、長く続くはずがない。


「くだらないこと言ってないで、自分の心配でもしたらどうだ。また一人でビール飲んで。寂しくないのかよ」

「なっ……! こ、これはうまいから飲んでるだけだっつーの! 全然寂しくねーよ!」


図星を突かれたアキが、顔を赤くして反論する。その狼狽した心の声が聞こえてきて、蓮紅は思わず小さく吹き出した。

まあ、こういう時間も、悪くはない。蓮紅は熱いコーヒーを一口すすり、どこまでも高い秋の空を見上げた。


穏やかだった午後の日差しは、いつしか山々の稜線に溶け始め、世界を優しいオレンジ色に染め上げていた。空気がすっと冷たくなり、半袖では少し肌寒く感じる。一番星が瞬くのが見えると、蓮紅がおもむろに立ち上がった。


「さて、夕食の前に……」


まずは、夜の主役である焚き火の準備だ。蓮紅は慣れた手つきで焚き火台を組み立てると、薪を井桁に組み、中心に着火剤を置いた。ライターで火を灯すと、炎は瞬く間に燃え広がり、パチパチ、と心地よい音を立て始める。力強いオレンジ色の光が、二人の周りを暖かく照らし出した。


「はあ〜……あったけぇ〜……」

炎の向こう側で、アキがうっとりと頬を緩ませる。


「じゃあ、そろそろ始めますか。今夜のメインディッシュを」


蓮紅はクーラーボックスから見事なTボーンステーキを取り出す。アキが奮発して買ってきたものだ。肉の表面の水分を拭き取り、ニンニクを擦り付け、岩塩と黒胡椒を振る。熱したスキレットに置くと、ジュウウウウッという盛大な音と香ばしい匂いが辺り一帯に広がった。


「……たまんない匂いしてんじゃないの。さすが、アタシ自慢の相棒だよ」

「アキさんが作ったら、美味しい焼き目じゃなくて、『BARKバーク』っていう名の、真っ黒い何かが錬成されそうだからな」

「バーク? なによそれ、犬の鳴き声?」

「アメリカンバーベキューで、肉の表面にできる美味しいお焦げのこと。だけど、あんたがやったら本物の樹皮バークみたいのができそうだって言ってんだよ」

「失礼な!」


軽口を叩きながらも、蓮紅は完璧なミディアムレアにステーキを焼き上げ、バターとハーブで風味付けをし、アルミホイルの上で休ませる。肉汁が残ったスキレットでソースを仕上げ、切り分けたステーキの上からとろりとかけた。断面の美しいロゼ色と溢れ出す肉汁に、二人は心を躍らせながら、熱々のステーキを夢中で頬張った。







夕食を終える頃には、辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。二人はそれぞれのカップで温かいコーヒーを啜りながら、満天の星を仰ぐ。焚き火の爆ぜる音だけが、静寂に響いていた。


「……なあ蓮紅」

不意に、アキが静かに語りかけた。

「私はアンタと出会ってよかったって、本気で思ってるんだ」


アキは、燃え盛る炎を見つめていた。その瞳が、遠い過去を映しているのを、蓮紅は感じ取った。


「……ふ、別にいいさ。もう、読んでも」


アキは、諦めたように、それでいて優しい笑みを蓮紅に向けた。

「ウチはさ、家庭環境が悪くてな。親父は早くに死んで、オフクロは保険金で男と遊び歩いてた。子供心に、マジで胸糞悪かったよ」

その言葉と同時に、蓮紅の脳裏に鮮明な光景が流れ込む。幼いアキが一人で膝を抱える部屋の、すぐ隣の襖の向こうから聞こえてくる、母親と知らない男の卑猥な声。


「……花が好きだったんだ」アキは続ける。「ちゃんと手をかければ、裏切らずに綺麗な花を咲かせる。……私は無意識に、まともじゃなかった自分の人生を、花を育てることでまともにしようとしてたのかもしれないな」

記憶の中の少女が、小さなジョウロで花に水をやっている。その横顔は、とても楽しそうだった。

「でも、高校に上がってグレた。幸せそうな奴らを見てると、何もかも壊したくなったんだ。気づけば、暴走族のレディースにまでなってた。笑えるだろ?」

夜の闇を切り裂いてバイクを走らせる、鋭い目つきをした少女時代のアキの姿。


「でもある夜……道の真ん中に、ボロボロのガキが一人、突っ立ってたんだ」


ああ、俺だ、と蓮紅は思った。

あの日の記憶が蘇る。新しい遊園地に行くはずだった、幸せな時間。それが一転し、両親の無残な死体を見せつけられた暗い部屋。来る日も来る日も繰り返された、おぞましい人体実験。いつ死ぬのかという恐怖。

そして、自分が「失敗作」として廃棄される寸前、施設のセキュリティの甘さをついて逃げ出したこと。いや、違う。逃げる途中、頭の中に直接響いてきた『あのガキを探せ!』という声。皮肉にも、この忌まわしい能力に助けられて、声のする方向を避けるようにして逃げ延びたのだ。

森を抜け、闇雲に走り、絶望の中で見上げた夜空。田舎道の真ん中で立ち尽くす自分を照らした、一筋の光。それが、アキのバイクのヘッドライトだった。


「なんでかな。私も、まともな家庭じゃなかったから、ピンときたんだよ。『こいつ、何かあるな』って。……ほうっておけなかった」

あの時、蓮紅の頭に流れ込んできたアキの心の声は、ただ純粋な心配だけだった。

「アンタを家に連れて帰って、警察に連絡しようとしたら……頑なに嫌がってたよな」

施設で聞いた『警察のお偉いさん』という言葉が、蓮紅を縛っていた。公的機関を信用できなかったのだ。

「最初は気味悪いガキだと思ったよ。私が考えたこと、全部言い当てやがるんだから。でもな……」

アキは、そこで一度言葉を切り、蓮紅の顔をまっすぐに見た。

「……ずっと一緒に暮らして、分かったんだ。アンタが、ただの優しいガキだってことが。アンタといる時間は、私の空っぽだった人生を、少しずつ満たしてくれた。……私は、アンタを守りたいと思った。だから、この仕事に就いたんだ」


その言葉が、蓮紅の心の奥深くに、じんわりと染み込んでいく。両親を失った絶望の淵から、自分を救い上げてくれたこの人のために、熱い何かが込み上げてくるのを止められなかった。


「お、なんだあ? 泣いちまったかあ、かわいいねえ~」

「……泣いてねえよ」

からかってくるアキに、チクショウ、と内心で悪態をつく。

「ただ……」アキの顔が、ふと真剣なものに戻った。

「お前が逃げ出したあの廃工場。刑事になってから、改めて調べてみたんだ。でも、土地の登記記録はダミー会社が幾重にも重なっていて追えず、工場自体も、お前が生まれる五年も前に『解体済み』ってことになっていた。……完全に、記録から消されてたんだよ」


背筋が、ぞくりと冷たくなる。


「唯一分かったのは……『トリカブト』っていう組織が、そこに定期的に出入りしていたらしい、ってことだけだ」


トリカブト。その名を聞いた瞬間、蓮紅の体は憎しみと、それ以上に根源的な恐怖で震え始めた。


夜空には、満天の星が輝いていた。しばらくの沈黙の後、アキが呟いた。

「……思い出した。蓮紅」

「ん?」

「私が花好きなのは知ってるだろ? その中でさ、『ローレンティア』って花は、私たちにぴったりだと思うんだ」

唐突な言葉に、蓮紅は首を傾げる。

「ローレンティアの花言葉は『猛毒』。……忌々しいトリカブトと同じだな」

アキはそう言って自嘲気味に笑った。しかし、すぐに優しい眼差しで蓮紅を見つめる。

「でもな……その他に、『優しい知らせ』、『心を開く』……そして、『神聖な思い出』って意味も、ちゃんとあるんだ」


優しい知らせは、俺たちの出会い。共に暮らして、心を開いた。そして、今までの全てが、かけがえのない思い出。

アキの言葉の意味を理解し、蓮紅は照れ臭さをごまかすように「……うるせえ」とだけ呟いた。アキが、クスクスと笑う。


『猛毒』を抱えながら、それでも。

この『ローレンティア』という関係は、悪くないかもしれない。

蓮紅は見上げた。焚き火の火の粉が舞い上がる先で、星空はどこまでも美しく輝いていた。





後日談 了

ここまで読んでくれてありがとうございます。


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