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もうすぐ死ぬ巫女姫です。隣国の王子が迎えにきました。

作者: 佐久矢この


サフィアは背筋を伸ばしながら、館の窓から遠くを見つめていた。村々を渡る砂漠の風が熱を帯び、館の周囲に渦を巻いている。視線の先、砂煙の中から馬に乗った一行が姿を現した。


「あれが隣国の王子様ね」


銀の髪を風で靡かせながら、サフィアはぽつりと呟く。窓際に張り付いている侍女たちが、興奮を隠せない様子でざわついた。


「綺麗な顔をされている御方ですね」

「サフィア様!なんだかドキドキしますね!」

「姫様は美しいから、見初められてしまうかもしれませんね」


侍女たちの言葉を遮るように、サフィアは肩をすくめる。


「巫女姫として迎えられるだけよ。いくら姫といっても8番目だし、母親が平民の姫なんてお相手になさらないわ」

「そうでしょうか?姫様は御髪も銀のシルクのように美しいですし」

「血のような瞳は気持ち悪いし?」


彼女は軽く笑ったが、その笑みの奥に見え隠れする寂しさに、侍女たちは何も言えなくなった。






「カリム殿下、ようこそアリヤ国にいらっしゃいました!旅の疲れを存分に癒してくださいませ」


王宮の庭に大勢の人々が集まり、砂漠の国らしい豪華な布と飾りで彩られた宴が始まった。


この地方特有の褐色の肌に紺色の髪、そして虹色に見える不思議な色合いの瞳を持つカリムが姿を現すと、集まった貴族や巫女姫たちが息を呑む。


「まあ、なんて素敵なの!」

「あの瞳、本当に虹のようね!」


姉たちは慌てて髪やドレスを整えながら、カリムの視線を引こうと笑みを浮かべて彼の周りに集まる。


「ようこそアリヤ国へ。カリム殿下」


4番目の姉、ララが美しく微笑むと、姉たちは彼女のために道を開けた。上の姉たちは夫がいるので、未婚の中では一番上の姉だ。

華やかなたっぷりとした赤茶の髪が頬に掛かるのが妙に色っぽい。


サフィアは少し離れた場所に座り、黙々と料理を口に運んでいた。


「うーん、おいしい!やっぱり宮殿の食事は離宮とは違うわね」


隣国の王子様が注目を集める中、サフィアは赤い瞳に喜色を浮かべながら、皿に盛られた料理を次々と平らげ、飄々とした笑みを浮かべる。


その様子に、カリムと隣にいた腹心の部下、ザイードが眉をひそめて呟いた。


「あれも巫女姫ですかね。他の姫たちと違って全く品がありませんね」

「やめておけ。ザイード。お前こそ品がないぞ」

「でも、ろくな教育を受けていないのでは?食事の仕方もなっておりません」

「いくら乳兄弟のお前のとはいえ、他国の姫を貶める発言は、サーリナ大国の王族として認められない」


嗜められたザイードは、頭を下げて離れて行く。


カリムは宴の喧騒の中、ふとサフィアの元へ歩み寄った。


その大きな影に気づき、サフィアは顔を上げる。特徴的な虹色の瞳にじっと見つめられ、彼女は一瞬だけ戸惑ったが、すぐににっこりと笑った。


「どうかしました?私、口元に何かついてます?」


カリムは眉を少し上げただけで答えなかったが、目の前の皿に目をやり、静かに言った。


「よく食べるな」

「だって、おいしいんですもの。ああ、ほら、このパン、外はカリッとしてて中がふわふわ。最高よ!羊肉も臭みがなくて美味しいわ。いや、美味しいですわ?」

「楽に話してもらって構わない」

「そう?」


サフィアはにやりと笑うと、軽い調子で羊肉をのせたパンを差し出す。カリムは驚いたようにそれを見つめたが、無言で受け取ると一口かじった。


「確かに……悪くない」


それだけ言うと、彼は静かに立ち上がり、周囲を見回した。そしてぽつりと言った。


「お前、ここで浮いているな」

「いちいち気にしてたら体がもたないわよ。大丈夫。慣れてるもの」


サフィアが肩をすくめて答えると、カリムの瞳が僅かに険しくなる。その表情に気づいたサフィアが首をかしげた瞬間、カリムは静かに彼女の髪に手を伸ばし、絡まった小さな砂粒をそっと払った。


「ここには砂ばかりだが、もっとお前に似合うものもあるだろう」


その低い声に、サフィアの胸が僅かに高鳴る。しかし彼女は飄々と笑いながら言った。


「まあ、こんな私を着飾っても誰の得にもならないわよ」






宴が終わる頃、サフィアは危なげな足取りで庭を歩いていた。慣れない豪華な料理を食べすぎたのか、お腹が重い。


「大丈夫か」


突然背後から低い声が聞こえ、サフィアは振り返ると同時にふらついてしまった。次の瞬間、彼女の腰を支える強い腕が感じられる。


「えっ!」


カリムが無言で彼女を抱き上げ、そのまま庭の隅のベンチに運んだ。驚くサフィアに、カリムは冷静に言う。


「お前、食べ過ぎだ」

「……だって、おいしかったんだもの」


サフィアが拗ねたように答えると、カリムは小さく溜息をつき、ポケットから水筒を取り出して彼女に渡した。


「飲め」

「あなたって、面倒見がいいのね」


虹色の瞳が僅かに細められたが、彼は何も言わなかった。その沈黙に、サフィアは心のどこかが温かくなるのを感じていた。


「巫女姫が必要なのよね」

「そうだ。砂嵐をおさめるには、巫女姫の力が必要だ。本当はこんなことをしている場合ではないのだが……一晩泊めてもらうのに文句は言えないがな」

「王族として、この国の無作法をお詫びします。事前の書簡で知っているわ。一刻を争う状況のようね」


書簡には、隣国の周りを取り囲むように神祟りの砂嵐が頻発し、いつ国がのまれるか分からないこと、これから王子を迎えによこすので巫女姫に隣国まで来てほしい旨が記されていた。


「姉たちとの話し合いで、隣国に行くのはもう私に決まっているの」


定期的に発生する砂嵐は、神の怒りによるものだと言われている。それを鎮めることができるのは、神に仕える巫女姫のみ。

砂嵐を鎮めた巫女姫は、その砂嵐を止める儀式を終えると、皆一様に命を使い果たしてしまうらしい。

姉の一人は、「生贄」と表現していた。


「旅の間、よろしくね」


サフィアは溌剌とした笑みを浮かべた。





朝焼けの砂漠はまだ冷たく、乾いた風が館の周りを軽やかに吹き抜けていた。サフィアは館の門の前に立ち、整列した兵士たちと、ずらりと並んだラクダたちを眺めていた。


「巫女姫ひとりを連れて行くにしては、なかなか圧巻の隊列ね」


飄々とした口調で呟くサフィアに、姉たちが冷ややかな目を向ける。


「あなた、調子に乗ってカリム様に色目使わないでね」

「あの踊り子の母親に似て、サフィアって卑しいものね。平民にも媚を売って、皆んなを治癒して回ったりして」

「カリム様は昨日の宴でララ姉様と懇意になったのよ。カリム様にはきっとララ姉様が嫁ぐのよ」

「そうよ。変な気おこさないでね」

「でも、この世界からいなくなってくれることは清々するわ」

「そうね。この国のお荷物だったものね」

「国の礎になれることを感謝しなければならないわよ」


勝ち誇った顔を向けて、7人の姉たちは口々に言う。


「そうですね。せめて役に立つお荷物でいようと思います。今までお世話になりました」


サフィアは軽く笑って、美しい礼を執り、すっと顔を上げた。堂々としたその態度に、姉たちは言葉を詰まらせた。


そんな中、褐色の肌に虹色の瞳を持つ男が前に歩み出た。隣国の王子、カリムだ。


彼の視線がサフィアをじっと捉える。その虹色の瞳に込められた静かな威圧感に、サフィアは一瞬だけ息を呑む。


「よろしく頼む」


彼の低い声が耳に響き、サフィアは軽く手を挙げて答えた。


「ええ。よろしくお願いしますね」


姉たちが怒りに顔を赤らめるのを横目に、カリムは視線を外さず短く言った。


「準備はできているか」

「もちろんです。行きましょ」


隊列が動き出すと、サフィアは兵士たちが荷物を積み上げるラクダをじっと見つめていた。そのうちの一頭が、彼女の乗るべきラクダだ。


「巫女姫は特別だ。乗るのはお前だけでいい」


カリムが静かにそう告げると、彼女は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに笑った。


「まあ、じゃあ、お言葉に甘えて」


しかし、ラクダに乗るのは初めてのことで、よじ登るのに一苦労するサフィア。カリムは溜息をつきながら、彼女の背後に立ち、腰に手を添える。


「捕まれ」

「えっ、ちょっ――」


サフィアが言い終わる前に、カリムの力強い手が彼女を軽々とラクダの背に持ち上げた。その動きに驚き、サフィアは思わず彼の腕にしがみつく。

姉たちの悲鳴が後ろの方で聞こえる。


「ちょっと、乱暴じゃない?」

「落ちないようにしろ」


冷静にそう言い放つカリムの手が一瞬だけ彼女の肩に触れ、その温かさにサフィアの胸が高鳴った。けれど、飄々とした笑みを浮かべる彼女はすぐに言い返した。


「ありがとう。これでラクダと仲良くなれる気がする」


カリムは何も言わずに隊列の先頭へと戻っていった。





しばらく進むと、サフィアはラクダの息遣いが荒くなっているのに気づいた。彼女はラクダの首筋を優しく撫でながら呟いた。


「ごめんね、重たいのは嫌よね」


そして、ラクダの背からするりと飛び降りると、隣を歩き始めた。隊列が少しざわつく中、兵士の一人が声を上げた。


「巫女姫様、どうして降りられるんですか?」

「この子が疲れちゃったら、荷物を運べなくなるもの。それに、歩くのは慣れているから平気よ」


兵士たちが驚きと困惑の表情を浮かべる中、カリムが彼女の横に近づいてきた。


「このラクダは君を運ぶために連れてきた」

「それにしては荷物を持っているわね」

「君のお父上が補給物資以外にたくさん土産を持たせてきた。半分は断ったのだが……」


いくら大国とはいえ、巫女姫を貰い受ける立場だ。強くは拒否できなかったのだろう。

これを機に大国に恩を売っておこうとにやにやする父親の顔が浮かんで、サフィアはため息を吐いた。


「重ね重ね申し訳ないわ。とりあえずラクダに乗せるのは荷物にしましょう。私は歩けるけれど、荷物は歩けないもの」


彼女が軽く笑うと、カリムは小さく笑って頷いた。そしてその視線はどこか温かさを含んでいた。






砂漠の太陽が高く昇り始めると、サフィアの頬に汗がにじんできた。彼女がこっそり袖で汗を拭うのを見たカリムが、無言で近づいてくる。


「水だ。飲め」


カリムが差し出した水筒を見て、サフィアは首を振った。


「でも、みんなも飲まなきゃいけないでしょ?」

「お前が倒れたら問題だ。飲め」


低い声と虹色の瞳に見つめられ、サフィアは観念して水を一口飲む。その冷たさが喉を潤し、彼女はほっと息をついた。


「……優しいのね」

「違う。我が国にはお前が必要だからだ」

「ふーん。でも、その必要っていうの、ちょっと嬉しいかも」


サフィアの笑みに、カリムは何も言わずに水筒を取り返したが、その手が一瞬だけ彼女の手に触れる。その短い接触に、サフィアの心臓がまた跳ねる。





砂漠の夜は寒い。

簡易テントをはっているとはいえ、一日中歩き続けた体には堪える。


一人で使って良いと言ってもらったテントの中で、サフィアは肩を丸めて震えていた。


そのとき、「起きているか」と外から声がした。

「どうぞ」と答えると、カリムが入ってきた。


カリムが無言で自分のマントを広げ、彼女にそっとかける。


「これじゃあなたが寒くなるじゃない」

「さすがに冷えると思ってな。その格好は少し実用性に欠けているのではないか?」


全身を覆うような白い巫女服は、機能的とは言い難い。

サフィアは肩をすくめた。


「服はこれしか持ってなかったのよ。旅装束なんて普段必要ないし」

「お前が凍るのは問題だ」

「……ありがとう」


カリムは返事をせず、彼女の隣に座った。その背中がわずかに彼女の肩に触れる。その距離感にサフィアは息を飲んだが、彼が何も言わないので、彼女も静かに座り続けた。


「……こうしてると、あったかいわね」

「……黙って寝ろ」


彼の短い返答が耳に響き、サフィアは小さく笑った。





旅が半ばを過ぎた頃、砂漠の空が急に曇り、風が荒れ始めた。遠くに見える砂の壁が不気味な速さで近づいてくる。


「砂嵐だ!」


兵士たちが声を上げる中、サフィアはラクダを降りて荷物を押さえようとした。


「お前は動くな」


カリムの低い声が背後から響いたが、サフィアは振り返りもせずに笑った。


「みんなが大変そうなのに、じっとしてられるわけないでしょ」


彼女が風に煽られながらも必死に荷物を押さえる姿に、兵士たちの間でざわめきが起きる。だが次の瞬間、カリムがサフィアの腕を掴み、強引に引き寄せた。


「えっ、何――」


彼は無言のまま、自分の大きなマントを広げ、彼女を包み込むように抱き寄せた。耳元で風の轟音が鳴り響き、砂が勢いよく舞い上がる。


「ちょっと、他の荷物を抑えてよ」


サフィアが小声で抗議すると、カリムは眉ひとつ動かさずに言い放った。


「黙れ。荷物よりお前の方が飛ばされそうだ。もう少し太ったらどうだ?」


彼の声は低く、確信に満ちていて、虹色の瞳が真っ直ぐ彼女を見つめている。その瞳の中に、自分の怯えた顔が映り込んでいるのを見て、サフィアの胸が高鳴った。


「……じゃあついでに、この嵐も止めてくれる?」


サフィアは飄々と笑ってごまかそうとしたが、彼の腕の強さがそれを許さない。カリムはふっと口元を僅かに緩める。


「嵐を止めるのは無理だが、お前を守るのは簡単だ」


その言葉に、サフィアの心臓がさらに早くなる。風の音も彼の声もどこか遠くに感じる中、彼女は自分の鼓動だけがはっきりと聞こえる気がした。





一行が砂漠を歩き始めて間もない頃、一人の兵士が顔を真っ赤にして倒れ込んだ。彼の額に手を当てたザイードが顔をしかめる。


「熱中症か……鍛錬が足りない」


サフィアはその言葉に目を細め、兵士の隣に膝をついた。


「そんな言い方しないでよ。熱があるだけなら、簡単に治せるわ」


彼女はふふと笑いながら、倒れた兵士の額に手を当てた。その瞬間、彼女の表情が一瞬だけ苦しげに歪むが、すぐに何事もなかったように笑顔に戻る。


「ほら、大丈夫だから。ちょっと熱を分けてもらうだけよ」


「おい」とカリムの声がする。

周囲の兵士たちが驚きと疑問の目で彼女を見つめる中、兵士の顔色が徐々に良くなり、目を開いた。


「これで一晩休めば元気になるわ」

「……本当に治したのか?」


ザイードが目を丸くして尋ねると、サフィアは肩をすくめる。


「まあね。巫女姫だから」

「……巫女姫の治癒は、巫女自身の痛みを伴うと聞いた」


呆れるザイードに対し、サフィアは飄々と笑う。


「大丈夫よ。こういうの、慣れてるから」


そのやり取りを見ていたカリムは、無言でサフィアに水筒を差し出した。


「飲め」

「ありがとう」


彼女が水を飲みながら笑うと、ザイードは頭をかきながらぽつりと呟いた。


「兵士を癒してくれたこと、感謝する」


その一言に周囲の兵士たちも最上級の礼をとった。


この頃から、皆のサフィアを見る目が少しずつ変わり始めた。





隣国への旅の途中、食料や水の補給のために小さな村に立ち寄ることになった。

行きは最短距離で向かったらしいので、ここには立ち寄っていないそうだ。

急ぎながらもゆっくり進んでいるのは、サフィアの体調を慮っているからだろう。


砂漠の村に入った一行を待っていたのは、深刻そうな表情の村人たちだった。村の隅のテントに集められた数人が地面に横たわり、うめき声を上げている。サフィアが近づくと、村人の一人が消え入りそうな声で言った。


「病気が……広がっています……もしかしたら伝染病かもしれません」


サフィアは息を呑み、倒れている人々を見つめた。その中には痩せた子供たちの姿もあった。


「……そう。もう大丈夫よ」


そう呟くと、サフィアはその場に膝をつき、すぐに治療を始めた。





サフィアはひとりひとりの額に手を当て、力を使って熱を下げ、体の状態を安定させていった。しかし、治療をするたびに、彼女の体に痛みが移っていく。


「大丈夫。これで良くなるから……少しだけ、耐えてね」


彼女は自分の額に汗を浮かべながらも、飄々と微笑みを浮かべて村人たちを励ました。


兵士のザイードがその様子を見て、険しい顔で呟く。


「無理をするな。お前まで倒れたらどうする」


サフィアは肩をすくめて答えた。


「伝染するかもしれない以上、早く治療しないと村一つ消えてしまう可能性もあるわ」

「だが、お前も体力の限界だろう」

「物資を補給している間だけでもいいから、時間をちょうだい。お願い。絶対に隊列に遅れはとらないわ」


ザイードは何かを言いかけたが、結局何も言わずに口を閉じた。サフィアはそのまま全員の治療を続けたが、最後の一人に手を当てたとき、体が耐えきれなくなり、その場に倒れ込んだ。


「サフィア」


すぐ側でカリムの声が響く中、意識が遠のく。






サフィアが目を覚ましたとき、すでに砂漠には夜の静けさが広がっていた。温かい布に包まれた体が心地よかったが、彼女はすぐに状況を思い出して体を起こそうとした。


「……っ痛い」


動こうとするたびに、体に響く痛みが彼女を襲う。額に手をやりながら、サフィアはカリムを見上げた。彼は彼女のそばに座り、無言でこちらを見下ろしていた。


「ごめんなさい……結局は、旅が遅れてしまったかしら」


サフィアは苦しそうな笑みを浮かべる。カリムの瞳に一瞬険しさが走ったが、彼は静かに答えた。


「大丈夫だ。どのみち一泊する予定だった」


その短い言葉にサフィアは驚き、顔を上げる。


「本当に?良かった……遅れたら、あなたたちに迷惑をかけちゃうものね」


カリムは答えず、彼女をじっと見つめた。その沈黙がいつもより長く、少し怖いと感じたサフィアが慌てて言葉を続ける。


「でも、私ならすぐ元気になるから――」

「黙れ」


カリムの低い声が遮るように響いた。その声には普段の冷静さの中に、わずかな怒りが混ざっていた。


「ごめんなさい……早く隣国に着かなければならないのに。でも、明日には動けるようになるからーー」

「黙れと言っただろ」


強い言葉にサフィアが何も言えずにいると、カリムが無言で布を直し、彼女をそっと抱き寄せた。その動きにサフィアは驚き、慌てて声を上げた。


「ちょっと、どうして――」

「寒いだろう」


その一言に、サフィアは口を閉じた。確かに体が寒さに震えていたが、それを口にしてはいなかった。彼が何も聞かずに気づいたことが、胸の奥をじんわりと温めた。


「……ありがとう。でも、私、そんなに弱くないのよ」

「知っている」


短い返事に、サフィアは小さく笑った。そのまま彼の胸に頭を預けると、静かな鼓動が耳に響く。どこか懐かしい感覚が彼女を包み込み、幼い頃の記憶が蘇った。


「……お母さま……」


思わず漏れた言葉に、カリムが眉を動かす。


「何か言ったか」

「……ううん、なんでもない」


サフィアは小さく笑い、目を閉じた。カリムの抱擁の温もりが、幼い頃、母親に抱きしめられたときの感覚と重なっていた。疲れて帰った日、母が優しく頭を撫でながら「頑張ったね」と言ってくれた遠い遠い記憶。


「……俺の母は、父の5人目の妃で、穏やかな方だった。若い時は神官をしていたそうで、小さいころ、眠る時はいつも神話を聞かせてくれた」

「あなた、私の呟き聞こえていたでしょ」


サフィアは頑丈な腕をぽんと叩いて拗ねたように言う。カリムは答えなかった。


「私のお母様はね。異国から来た旅の踊り子だったわ。珍しい白い肌に金色の髪と青い瞳だった」

「白い肌か。お前に似ているな」

「そうでもないわ。私はこんな老婆みたいな髪に血の色みたいな瞳だから」


サフィアが笑い飛ばすように明るく言うと、心底不思議というようにカリムは首を傾げた。


「そうか?上等な蜘蛛の糸のような髪に、西の国から輸入するトマトのような瞳で、なかなか美味しそうじゃないか」

「……あなた、口説き文句が下手だと言われない?」

「女性を口説いたことはない。あちらから寄ってくる」


真剣な顔で返されて、サフィアは吹き出した。


「少し眠くなってきたわ」


その温もりに包まれて、サフィアは徐々に眠りに落ちていく。そんな彼女をじっと見守るカリムの瞳は、どこか静かに揺らいでいた。


夜空には、砂漠の星々が輝いている。






次の日、無事に出発した一行を砂嵐が襲ったのは、ちょうど昼頃だった。砂漠の岩陰で休んでいる最中、遠くから迫る茶色い壁のような砂塵を見つけた兵士が叫んだ。


「砂嵐だ!早く避難しろ!」


その言葉とともに、風が激しく吹きつけ、砂粒が一気に顔に当たる。視界はみるみるうちに奪われ、一行はバラバラになりかけた。


「まずい……!」


サフィアは目を細めながら、必死に砂嵐の中を見渡した。周囲には兵士たちの姿が見え隠れしているが、誰もこの混乱の中で指示を出せていない。彼女はマントで顔を覆い、力いっぱい声を張り上げた。


「皆、ここに集まって!私の声を頼りに!」


その声は嵐の轟音にかき消されそうになりながらも、周囲に響いていく。近くにいた兵士が彼女の声を聞きつけ、彼女の元に駆け寄った。


「巫女姫様、危ないです!早く避難を――」

「あなたもほかの兵士を連れてきて!全員で集まらないと!」


兵士はその真剣な瞳に圧されるように頷き、ほかの仲間を探しに走り出した。サフィアも砂嵐の中で動けなくなっている兵士を見つけ、手を引きながら安全な場所へ誘導していく。


「ほら、大丈夫!手を掴んで!」


彼女の小さな手が兵士の大きな手をしっかりと握り締める。その力強さに、兵士は驚きながらも彼女に従った。


ようやく何人かの兵士が集まり始めたころには、サフィアの体は砂嵐にさらされ、顔には砂粒が貼り付いていた。視界がほとんど効かない中でも、彼女は声を張り上げ続けた。


「こっちよ!全員、ここに集まって!」


その瞬間、強い腕が彼女の肩を掴み、振り向かされる。そこには、虹色の瞳を険しく光らせたカリムが立っていた。


「余計なことをするな!」


彼の声が低く響き、サフィアは一瞬だけたじろいだ。だが、すぐに笑顔を浮かべる。


「余計なことじゃないわよ。みんなに死なれたら、私はどうやって進めばいいの」


その言葉にカリムは一瞬眉をひそめたが、次の瞬間には彼女を力強く引き寄せ、自分のマントで覆った。


「少しは自分を優先しろ」

「優先するわよ。まずみんなを助けてからね」


カリムは短く息を吐き、彼女をその場に立たせたまま振り返る。


「これ以上無茶をするな」


嵐が収まり、兵士たちが全員集まると、ほっとした空気が漂い始めた。サフィアは砂まみれの顔を手で拭い、笑顔を浮かべた。


「みんな無事で良かった!」


その言葉に、兵士たちが一斉に声を上げた。


「巫女姫様、ありがとうございます!」


サフィアはその言葉に肩をすくめ、笑顔を浮かべる。


「みんな無事で良かったわ」


その後、カリムは静かに彼女に近づき、顔についた砂をそっと手で払い落とした。


「お前、いつか飛ばされるぞ」


その低い声に、サフィアは目を見開き、次いで微笑む。


「でも今日は助かったでしょ?」


カリムは何も言わず、目を逸らした。その耳元がほんの少し赤く染まっているのを、サフィアは気づいてしまったが、何も言わずに砂を振り払うふりをしただけだった。





砂漠の陽が少しずつ傾き始め、一行は次の休憩地を目指して歩いていた。サフィアは軽い足取りを装いながらも、足元からじわじわと伝わる痛みに眉をひそめていた。靴の中で擦り傷がひりつき、歩くたびに刺すような感覚が広がる。


「もう少しで着く……はずよね」


自分にそう言い聞かせながら歩き続けるが、足取りが不自然になっていることに、カリムが気づかないはずがなかった。彼はふと振り返り、鋭い虹色の瞳でサフィアを見つめた。


「サフィア、止まれ」

「え、何?まだ歩けるわよ。予定してた場所ってもう少し先じゃないの?」


カリムは無言で、歩き出そうとしているサフィアに近づき、すっと彼女の肩を掴んで止めた。その手に驚いてサフィアが振り返ると、カリムは冷静な声で言った。


その言葉に、カリムは周囲を見回し、簡潔に命令した。


「ここにテントを張る」


その突然の指示に兵士たちは驚きながらも、「了解しました」と答えてすぐにテントの設営を始めた。サフィアはその様子を見て目を丸くする。


「えっ、なになに。本当にここで泊まるの?」

「足を見せてもらう」

「え?足?どうして?」


不思議そうに聞いてスカートをめくろうとしたサフィアの腕をカリムの力強い手が止めた。


「馬鹿か。テントの中で、だ。お前がここで足を見せたら、どんな目で見られるかわかっているのか」


サフィアはきょとんとした表情を浮かべた。


「どんな目……?」

「……失言だ。気にするな」


短くそう言い、カリムは設営されたテントの中にサフィアを促した。


テントの中に入ると、カリムは無言でサフィアに座るよう促した。彼女が戸惑いながら腰を下ろすと、彼はその前に膝をつき、手を差し出した。


「足を出せ」

「いやいや、なんなの。本当に平気だってば!」


サフィアが軽い調子で言うと、カリムはその手を彼女の足に伸ばし、強引に座らせると、靴を脱がせた。擦り傷だらけの足が露わになり、さすがのサフィアも恥ずかしさに顔を赤くした。


「ちょっと、乱暴しないで!」

「静かにしていろ」


カリムは自分も座り込むお、彼女の足をそっと引き寄せ、自分の太ももの上に乗せた。その動作に、サフィアは驚いて声を上げた。


「えっ、ちょっと待って、何してるの!?」

「大人しくしていろ。手当てできない」


そう言いながら、彼は手際よく水筒の水で傷を洗い流し、消毒液を取り出して塗り始めた。触れるたびに温かい手の感触が伝わり、サフィアは思わず顔を赤くする。


「……そんなふうに、平気な顔で触らないでよ」

「これは治癒できないのか?」

「巫女姫は自分を治せないわ」


だから巫女姫は、基本的に2人1組で行動する。巫女に不調があった時、もう1人の巫女が治癒するためだ。


サフィアは視線を逸らしながら小さく呟いた。


「……ありがとう。でも、本当に大丈夫よ。これくらい」


「俺はお前を無事に国まで送らなければならない。放っておくわけにはいかない」


その言葉に、サフィアは何も言い返せず、ただじっとカリムの顔を見つめた。その虹色の瞳に映る自分の姿が、どこか不思議な感覚を与える。


手当てを終え、包帯を丁寧に巻き終えたカリムは、サフィアの足をそっと布で覆った。


「今日はここで休む」


その宣言にサフィアは目を丸くした。


「えっ、でも、まだ日が落ちるまで時間が――」

「お前がここで無理をすれば、全員の足手まといになる」


その冷静な言葉に、サフィアは口を閉じた。けれど、彼の膝の上に置かれた足が微妙に気になり、そっと動かそうとする。


「もう大丈夫だから……足、どけてもいい?」

「もう少しこのままでいろ。地面につけると痛むだろう」


彼は短くそう言い、彼女を真っ直ぐに見つめた。その虹色の瞳に見つめられると、サフィアは顔を赤くしながらも何も言えなくなり、小さく頷いた。


サフィアは人の痛みを心配したことはあっても、自分の痛みを心配されたことはなかった。

サフィアは人を癒す巫女姫だから。


「ねえ。砂嵐は神様の怒りだというわよね。神様は何に怒っているのかしら」

「さあな。下々の俺たちに神の御心を理解するのは難しい」

「私、毎日神殿で祈ってたのにな」


皆が怪我をしませんように。病になりませんように。幸せでありますように。


「一か月ほど前、お父様が7つある神殿の1つを壊したの。経費が掛かるからって」

「……そうか」

「私、必ず砂嵐を止めるわ」


カリムはそっと、サフィアの頭を撫でただけだった。





砂漠の朝は清々しいが、冷たい空気が肌を刺すようだった。一行は早々に準備を整え、次の目的地に向かって出発するところだった。サフィアは包帯を巻いた足を気にしながらも、いつも通り軽い足取りで歩こうとしていた。


「よし、今日も張り切っていきましょ」


飄々と笑みを浮かべて歩き出すサフィアを、カリムはじっと見つめていた。彼の虹色の瞳は微かに鋭さを帯びている。


「サフィア、乗れ」


突然の言葉に、サフィアは驚いた顔で振り返った。


「えっ、何に?」


カリムは無言で指差し、近くで準備を整えていたラクダを示した。


「お前の足では、この距離を歩けない」


その短い説明に、サフィアは慌てて手を振る。


「平気よ!これくらいなら全然――」

「黙れ。お前の大丈夫は聞き飽きた」


低く静かな声が響き、彼女は反論の言葉を飲み込んだ。カリムの指示に兵士たちもすぐに動き始め、ラクダをサフィアの前まで引いてくる。


「巫女姫様、ラクダに乗るのが一番ですよ!足を無理しちゃいけません」

「そうそう、昨日も足を痛めたばかりですからね!」


兵士たちの賛成の声に、サフィアは苦笑しながら肩をすくめた。


「……ラクダさん、よろしくね」


サフィアがラクダに近づくと、カリムがすっと横に立った。そのまま彼女の腰に手を添え、軽々と持ち上げる。


「ちょっと、また突然!」

「捕まれ」

「いつも言うのが遅いのよ!」


慣れない高さに少し怖さを感じたサフィアは、思わずカリムの腕を掴む。虹色の瞳が近くで光り、彼の顔がまっすぐにこちらを見つめていた。


「……ありがとう。でも、次はもう少し優しくお願いね」

「気を抜けば落ちる。それでもいいなら言え」


彼の冷静な言葉に、サフィアはむっとしながらも笑った。


「あなた、不器用って言われない?」


カリムは答えず、背に手を添えて彼女をラクダの背中に安定させた。





一行が動き出すと、隣を歩く兵士たちが時折話しかけてきて、サフィアを笑わせた。


「巫女姫様、ラクダに乗るのも似合いますね!」

「うちのラクダも、巫女姫様を背負えて光栄だってさ!」

「本当?この子、雄なのかしら」


兵士たちが声を上げて笑う。そんな和やかな空気の中、カリムは黙って先頭を歩いていた。





昼下がり、砂漠の丘を越えると、一行の前に広がる隣国の壮大な街並みが見えた。高くそびえる白い城壁、その奥には光を反射して輝く石造りの宮殿。サフィアは思わず目を見開き、ラクダの背中から身を乗り出した。


「……すごい。まるで宝石みたい」


彼女の赤い瞳が輝きを帯び、街並みに釘付けになる。その様子を見た兵士たちが得意げに笑った。


「どうだ、巫女姫様!これが俺たちの誇る王都だ!」

「初めて見ると、やっぱり驚くよな」


サフィアは彼らの声に振り返り、にこっと笑った。


「うん、本当にすごい。これが隣国の力ってやつね」


ザイードも誇らしげに笑いながら、カリムを横目で見た。


「王子様、巫女姫様も気に入ったみたいですね」


その言葉に、カリムはちらりとサフィアを見た後、静かに口を開いた。


「これが、お前の新しい居場所になる」


虹色の瞳でじっと見つめられたサフィアは、一瞬戸惑ったように眉を寄せた。


「……新しい居場所?」


彼女が戸惑ったように尋ねると、カリムは視線を街並みに戻しながら短く答えた。


「まだ分からない。ただ、お前次第だ」


その意味深な言葉に、サフィアは小さく息を飲み、再び広がる美しい街並みに目を向けた。


「……そう。そうなったらいいけれどね」





サフィアたちが隣国の壮大な門に到着したとき、砂漠の荒涼とした景色が一変した。白亜の門は太陽の光を浴びて輝き、その中央には砂漠の神を象徴する太陽と水の彫刻が刻まれていた。


門の前には銀色の甲冑をまとった衛兵たちが整列しており、一行を迎え入れる準備を整えていた。


衛兵たちの視線は一斉にサフィアに向けられる。その瞳には、巫女姫と呼ばれる彼女への好奇心と不安、そして一抹の疑念が混じっていた。サフィアはその視線を受け流すように軽く笑う。


「なんだか、まるで物珍しいものを見る目ね」


その飄々とした口調に、衛兵たちはざわつき、カリムは隣で短く言った。


「気にするな。この国の人間は、巫女姫なんて見たことないからな」


虹色の瞳で前を見据える彼の冷静な言葉に、サフィアは肩をすくめた。


「気にしてないわよ。注目されるのは得意なの」


彼女の言葉にカリムは答えず、そのまま門を通り抜けた。


門を抜けると、隣国の王都の美しさが目の前に広がった。砂漠の中に突如として現れた緑と水の都。


石畳の道の両脇にはオアシスから引かれた水路が流れ、その水面が太陽の光を反射してキラキラと輝いている。小さな橋がかかる水路の周りには果物や花を売る商人たちが行き交い、活気に満ちた市場が広がっていた。


「これが……王都……」


赤い瞳を輝かせながら、サフィアは息を呑んだ。その壮麗さに圧倒されながらも、どこか非現実的な雰囲気を感じていた。


「綺麗ね。でも、なんだか不思議な感じもするわ」


その言葉にザイードが振り返り、得意げに笑った。


「巫女姫様、これが俺たちの誇りです!砂漠の奇跡の都、見事でしょ?」

「ええ、見事だわ。でも、これだけ豊かだと、少し怖い気もするのよね」


飄々と笑うサフィアの言葉に、兵士たちは首を傾げたが、カリムはちらりと彼女を見つめ、短く呟いた。


「お前が感じたものが正しいのかもしれない」


一行は宮殿の中へと案内され、広間に通された。


黄金の柱が立ち並び、青いモザイクタイルが床一面を覆う美しい空間。

その中心には威厳ある王が玉座に座り、冷ややかな笑みを浮かべながら彼らを見下ろしていた。


「巫女姫、よく来た」


低く響く声に広間が静まり返る中、サフィアは飄々と頭を下げた。


「ご招待いただき、ありがとうございます」


その軽やかな態度に側近たちがざわつくが、王はそのまま微動だにせず、彼女を見つめた。


「命を捧げる覚悟はできているか?」


その問いに、広間の空気が一層重くなる。だが、サフィアは顔色一つ変えずに笑みを浮かべたまま答えた。


「命を使う覚悟なら、いつでもできています」


その言葉に、広間全体がざわめきに包まれた。王の冷ややかな笑みがさらに深くなる。


「ほう。頼もしいな。だが、命を使うと簡単に言う者ほど、その重みを知らないものだ。儀式の間に入ってくれるか?」


王の試すような言葉にサフィアが何かを言いかけたその瞬間、カリムが一歩前に進んだ。


「彼女の命は彼女のものです。その命、私が必ず救います」


虹色の瞳で王を見据えるその姿は、広間全体を圧倒する威厳に満ちていた。

カリムは王族とサフィアににやりと笑った。


広間が再び静まり返り、王は興味深げにカリムを見つめた後、しっかりとサフィアを見据えた。その瞳はカリムと同じ不思議な色合いの虹色だった。


「巫女姫。頼む。砂嵐を止めてくれ」


サフィアは恭しく礼を執った。






砂漠の夜は静寂に包まれていた。宮殿の寝室で、サフィアは窓辺に腰掛け、満天の星空を見上げていた。


月明かりが柔らかく彼女の銀髪を照らし、その瞳には深い決意が宿っていた。


「……私が命を使えば、みんなが助かる」


小さく呟き、自分の手のひらを見つめる。この手が、これまで多くの人を癒してきた。それがサフィアの誇りであり、生きる意味だった。


ふいに扉をノックする音が響いた。振り返ると、扉が静かに開き、カリムが現れた。無言で部屋に入ってくる彼の姿は月明かりを背にして影となり、その虹色の瞳が微かに輝いている。


「こんな時間にどうしたの?」


サフィアは少し驚きながら尋ねたが、カリムは答えず扉を閉め、ゆっくりと彼女に近づいてきた。彼の足音が静かに響き、サフィアの心臓が少しだけ速くなる。


「お前がお前の命を諦めるのを、俺は許さない」


低く静かな声が部屋に満ち、サフィアは思わず息を呑んだ。その瞳に宿る鋭い光に、彼が本気で怒っていることが伝わる。


「だって、これしかないじゃない」


サフィアは立ち上がり、いま自分にできる精一杯の笑顔を浮かべた。これが最期の夜なら、彼の瞳には一番綺麗な自分を残しておきたかった。


「私の力はこのためにあるのよ。巫女姫として、皆を守るために命を捧げるのが私の役目だって、ずっとそう教えられてきたの」


彼女の言葉には覚悟が滲み出ていたが、カリムは微動だにせず、彼女をじっと見つめ続けた。そして、静かに首を振りながら言った。


「違う」


その一言に、サフィアは一瞬言葉を失った。その場に立ち尽くし、彼を見上げる彼女の肩に、カリムがそっと手を置く。


「お前の力は、一人で使うものじゃない」

「……どういうこと?」


困惑した顔で問い返すサフィアに、カリムはさらに一歩近づき、彼女を真正面から見据えた。


「お前が命を捨てることで守れるものなんて、本当は何一つない。一人で全てを抱えようとするな。それはお前だけの役目じゃない」


彼の言葉には静かな力強さがあり、サフィアの胸に重く響いた。


「でも……どうすればいいの?私は皆を守りたい。それ以外に、私ができることなんて……」


サフィアは俯きながら呟き、その赤い瞳に涙が滲む。すると、カリムはそっと彼女の肩を引き寄せ、彼女を軽く抱きしめた。


「お前を守る。それがきっと、俺の役目だ。きっと、俺はそのために母から産まれ落ちた」


その低く落ち着いた声が、彼女の耳元で妙に静かに響いた。


「カリム……?」


少し体を離し、彼の虹色の瞳が優しく彼女を見つめ、再び力強い言葉を紡いだ。


「お前の力はみんなのためにある。それなら、俺もお前を守るために、同じだけのものを背負おう」


しばらくの沈黙の後、少しだけ笑った。その飄々とした笑顔に、いつもの彼女らしさが戻る。


「……私だって、死にたくないわ」

「それでいい」


カリムは微かに口元を緩めると、彼女の頭にそっと手を置いた。


「母からよく巫女姫の話を聞いていた。母が亡くなってから、神話に関しての書物を読み漁った。まだ幼かったからな。それだけが、母との繋がりだった」

「神官だったっていうお母様?」

「そうだ。俺はこの砂漠中の文献を誰よりも読んだ自信がある。だからこそ、俺がお前を迎えに行くと父上に進言した」


わざと力強さを意識したような声音に、サフィアは顔を上げた。

虹色の瞳は、真っ直ぐにサフィアだけを見ていた。


「大丈夫だ」


窓の外では、静かな砂漠の夜が星明かりに照らされていた。






朝日が砂漠を照らし始める中、儀式の場となった古代の祭壇に静寂が訪れていた。サフィアは祭壇の中央に立ち、その足元には古い砂岩に刻まれた模様が淡く光を放っている。兵士たちは彼女を囲むように配置され、それぞれが緊張と期待に包まれていた。


カリムが一歩前に進み、彼女を見つめる。


「サフィア、お前の力を使うんだ。だが、一人で抱える必要はない。俺たち全員で分け合えばいい」


その言葉に、サフィアは不安そうに目を伏せた。


「……分け合う、って言われても、そんなこと一度もしたことないわ。私の力は痛みを引き受けるためのもの。それを渡すなんて……できるの?」


カリムは彼女の赤い瞳を見据え、静かに頷いた。


「お前の力は引き受ける、それだけじゃないはずだ。引き受けることができるなら、分け与えることもできる。それが本当の神のご意志なんだ。それこそが、本来の巫女姫の力だ」


彼の言葉に、サフィアは目を見開く。その虹色の瞳が彼女に確信を与えるようだった。


「でも、もし失敗したら……」

「失敗なんて考えるな。俺たち全員で支える」


その力強い言葉に、兵士たちも次々に頷く。


「巫女姫様、俺たちがいますよ!」

「全部一人で抱える必要なんてありません!」


ザイードが前に出て、にやりと笑う。


「巫女姫様が今まで俺たちを助けてくれたんだ。俺たちが少しぐらい痛みを分け合うくらい安いもんです」


その言葉に、サフィアは小さく笑った。


「……ありがとう」


彼女は深呼吸をし、ゆっくりと目を閉じた。





サフィアが心を集中させると、彼女の体から柔らかな光が溢れ出し始めた。その光は祭壇全体を包み込み、兵士たち一人一人へと広がっていく。


「……始まった」


ザイードが低く呟く中、光が彼らの体に届くと、温かさと共にわずかな痛みが伝わってきた。それはサフィアが受け止めていた神の怒りの一部だった。


砂嵐は、神の怒りによるものと言われている。だからこそ、神に支える巫女にしか、沈めることはできないはずだ。


サフィアの顔には次第に苦痛が浮かぶ。


神の怒りの気配が強まるにつれ、その痛みが全身を貫いていくのを感じた。


「っ……やっぱり無理かもしれない!」


彼女が叫びかけたその瞬間、カリムが彼女の手を強く握り、低く囁いた。


「お前だけで耐えるな。分けろ。その痛みを俺たちに。ゆっくり。大丈夫だ」


彼の声が、迷いに満ちた彼女の心にまっすぐ届く。そして、彼女はゆっくりと力を込め、光をさらに広げた。


痛みが兵士たち一人一人へと分散されていく。その瞬間、サフィアの表情が少しずつ緩んでいった。


「軽く…なった……」


涙を流しながら笑みを浮かべる彼女に、ザイードが冗談めかして声をかけた。


「巫女姫様、俺たちは日々国を守るために鍛錬している。今こそその成果を見せよう」


周囲の兵士たちも苦笑しながら同意し、全員が光の中で痛みを分け合っていく。


やがて、光が空へと昇り始めた。その光は砂嵐の中心へと吸い込まれていき、荒れ狂っていた風が次第に静まっていく。


「見て……嵐が……」


一人の兵士が空を指差すと、全員が息を呑んだ。空には淡い青い光が広がり、砂嵐の残滓が消えていく。その光景はまるで、怒れる神が沈黙し、浄化されたかのようだった。


サフィアは息を切らしながらそれを見ていた。

その体は疲れ果てていたが、確かな達成感が胸に広がっていた。


「ほらな。一人で背負う必要はない」


カリムが彼女の肩に手を置き、静かに囁いた。


「俺たちみんなで、国を守ろう」


その言葉に、サフィアは安堵の笑みを浮かべ、彼を見上げた。


 



空が完全に静けさを取り戻し、青い光が消えていった後、サフィアはその場に力なく座り込んだ。すぐにカリムが彼女を抱きかかえ、支える。


「無事終わったな、巫女姫様」


ザイードがニヤリと笑いながら声をかけ、他の兵士たちも笑みを浮かべた。


「巫女姫様の力もすごいが、俺たちの忍耐力もすごいな!」


その言葉に全員が笑い合い、サフィアは疲れた声で返した。


「みんなのおかげよ……本当にありがとう」


彼女の言葉に、兵士たちは力強く頷き、カリムはそっと彼女の髪を撫でた。


「これからも、俺たちが巫女姫を守ろう」


サフィアは彼の胸に顔を埋め、静かに目を閉じた。砂漠には、穏やかな静けさと新たな絆の兆しが広がっていた。






儀式が終わり、砂嵐が静まり返った砂漠に、静けさと穏やかな空気が漂っていた。サフィアとカリムは兵士たちと共に隣国の宮殿に戻り、王が待つ宮の広間へと足を踏み入れる。


広間の奥、玉座に座る王はどこか満足そうに微笑みながら、戻ってきた一行を迎えた。死ぬはずだったサフィアを見た彼の落ち着き払った姿に、少し戸惑いを覚えた。


「無事に嵐を鎮めたようだな、カリム。そして、巫女姫……」


王の鋭い瞳がサフィアを捉えた。彼の視線には、試すような、そしてすべてを知っているかのような余裕があった。


「生きて帰ってくると信じていた」

「それは……」

「カリムが救うと言ったなら、救うのだろう。これはそういう男だ」


王は満足げに、誇らしげに腕を組んだ。


「私は息子を誇りに思っている」


サフィアの父親とは違う。その慈しむ目に、目を瞬かせる。ずっと見ていたくなる目だ。


「貴女の力と献身に感謝しよう」


王の言葉に、サフィアは深く頭を下げた。


「私は巫女姫としてできる限りのことをしただけです。命が必要にならなかったのは、皆さまのおかげです」

「いいや。命を掛ける役目、よくぞ引き受けてくれた。貴女の勇気に最大の敬意を払う」

「勿体無いことでございます」


彼女がそう静かに言うと、王は興味深そうにカリムの方に視線を移した。


「カリム、よくやった。して、これからどうするつもりだ?」


イタズラをする悪ガキのような笑みを浮かべた王の問いに、カリムは一歩前に進み、堂々とした声で告げた。


「サフィア・アリヤを、俺の伴侶として迎えたい」


その言葉に、広間が一瞬だけ静まり返った。だが、王は驚くこともなく、むしろ穏やかに笑みを浮かべる。


「さすが、俺の息子だ」


サフィアはその言葉に目を見開き、取り繕うことも忘れてカリムを見上げた。


「ちょっと待って! 伴侶ってどういうこと?」


慌てて彼の袖を掴み、引っ張った。だが、カリムは動じることなく、微笑みを浮かべたまま彼女を見下ろす。


「そのままの意味だ。お前を俺の伴侶として迎える。それ以上でも、それ以下でもない」

「いやいや、それって私に聞かずに決めるの?」


彼女が半ば怒ったように問い詰めると、カリムは静かに彼女の手を取り、自分の胸元に引き寄せた。


「うむ。前に言ったように、俺は女を口説いたことがない。ただお前の利にもなる。お前を守るためには、これが一番確実だ」


その低い声に、サフィアの頬が赤く染まる。


「守るためって……そ、それだけで……?」


彼女の声が震える中、カリムはさらに一歩近づき、彼女の耳元で囁いた。


「より大きな理由はある。だが、それを今ここで言うのは無粋だろう?」


その囁きに、サフィアはさらに顔を赤くしながら視線を逸らした。


「殿下、巫女姫様が困っているようですが?」


ザイードがにやりと笑いながら口を挟むと、後ろに控えていた兵士たちもくすくすと笑い声を漏らした。その様子に、サフィアはますます恥ずかくなって視線を落とす。


「ザイード、余計な口を挟むな」


カリムが軽く叱ると、ザイードは肩をすくめながら言い返した。


「巫女姫様には散々助けられましたからね。これくらいのお節介は許されると愚考してしまいました」


そのやり取りに、王はさらに楽しそうにサフィアを見つめた。


「サフィア姫、彼の申し出をどう思う?」


王の問いに、サフィアは少し考え込むように俯き、そして飄々とした笑みを浮かべて顔を上げた。


「……仕方ないわね。よろしく頼むわ、カリム」


その言葉に、兵士たちが一斉に歓声を上げ、ザイードが大きな拍手をした。


「ここで了承すれば、もう決定事項になる。いいのか?」


カリムが小さな声で尋ねると、それをあなたが言うのかとサフィアは肩をすくめて笑った。


「もう断るタイミングも逃したしね。でも……あなたの虹色の目があんな風に慈しみを持つのだと思うと、悪くないかも」


その言葉に、カリムは小さく笑い、彼女の手を再び取り、優しく握った。


サフィアは飄々と笑みを浮かべて言った。


「よろしく頼むわね……伴侶殿」

「よろしく頼む」


広間の外には、砂漠の青い空が広がり、新たな平穏が訪れていた。


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