私を野球に連れてかないで
優勝記念です。そうかな?
スポーツ雑誌から依頼が来た。WBCの観戦記だ。
「ということは何だい?僕をマイアミに行かせてくれると」
「そんなわけないだろう。お前を海外に派遣するくらいなら、俺が行く」
電話の向こうは山田という顔なじみの編集者だ。口調もくだけたものとなる。
「…だろうね。でもテレビ観戦記なんて、誰が書いても同じようなものになるんじゃないか」
「お前、野球のことまったく知らない彼女がいると言ってたな」
「僕に彼女がいるのが気に入らないんだな」
「そんなこと言ってないよ。その彼女に観戦記を書いてもらうってどうだ」
「ハア?無理だよ。彼女は多分『3アウトでチェンジって何?』というレベルじゃないぞ」
「どういうレベルなんだ」
「『アウトって何?』ってレベルだ」
編集者が吹き出した。
「そのくらいの方が面白い。そういう人が大谷選手を見たらどう見えるか、という試みだ」
「それが…面白いかなあ?スポーツ専門誌だろ、お前の雑誌」
「何だと思ってるんだ、うちの雑誌」
「やっぱり、僕にマイアミ行きの切符を…」
「別の人の彼女に頼むことにする」
「やるよ。いや、やらせる」
カフェで彼女に頼んでみる。
「…というわけなんだ。頼めるかな」
「別にいいわよ」
「ええっ、そんなにあっさりと」
「原稿料はもらえるんでしょうね」
「もちろん。50%は君に渡すよ」
彼女の目が鋭く光った。
「ちょっと待ちなさい」
僕は目を丸くする。
「な、何だい」
「私が書くのよね」
「そうだ。それが編集部の指示だ」
「それで何で半分あなたが持っていくのよ」
「…アドバイスや原稿のチェック、そもそもこれは僕の仕事だし」
「私が書くのよね」
彼女はまったく譲る気のない笑顔だ。
「…60%でどうだろうか」
「こうしましょう。70%でよしとするから、あなたが書きなさい」
僕はその意味不明さに愕然とする。
「ここまで言葉の通じない相手だとは思わなかったよ」
「恋人というのは言葉は通じなくても心が通じ合っていればよいものよ」
「まるでいい話のように言っているけれど」
「で、試合はいつなの?」
「…次の水曜日だね」
「一緒にテレビ観戦しましょう。私が感想を言ったり、質問したりするから、ボイスメモにしておいて、まとめればいいでしょ」
何とこの女はテレビを見て自分が適当にしゃべったことを僕にまとめさせ、それで金銭を得ようという厚かましいことを考えているらしい。
「厚かましいにもほどがある」
僕が非難しても、彼女は平然としている。
「いいから、それで編集の山田さんに話を通してご覧なさい。きっと面白がるわ」
「彼女がこう言ってるんだけど、どう思う」
山田は少しだけ間を空けてから吹きだした。
「面白いね。お前が困ったり呆れたりするところが想像できる」
「それが面白いのか」
ちょっと、いや、かなり僕は不満である。
「その困りや呆れが要するに野球に興味がない人とある人のギャップということにならないか」
「彼女の野球への興味のなさは」
「アウトって何?ってことだったな」
「よく覚えてるな」
「そのくらいチンプンカンプンなほうがいいだろうよ」
水曜日、僕のマンションで彼女は言う。
「で、どうなったの?」
僕は悔しかったが、正直に言った。
「その企画でいいそうだ」
彼女が吹き出す。
「たぶんあなたが『困ったり呆れたり』するのを期待していたでしょ?」
「まるでその場にいたようだね」
「大丈夫。期待に応えてみせるわ」
「嫌なところで頑張るなよ。あ、始まるよ。いよいよ決勝戦だ」
「相手はアメリカなのね」
「ああ、スーパースター軍団だ」
「私にとっては全員知らない外国人ですけどね」
だろうね。
彼女が立ち上がる。
「トイレに行ってくるわ」
ええええええ。
「なぜ試合の前に済ませておかないんだ」
戻ってきた彼女に僕は文句を言う。
「お母さんか担任の先生のようだわ」
彼女が笑った。
「ほらもう、一回の裏だ」
「ふーん。何の裏なの」
「え?」
「何の裏なの?」
「…1回…かな」
「さっきが表で、じゃあ1回の本体はどこなの」
「うん、だから…、ええっ?何の話?」
「10円玉の表面と裏面っていうと、間に10円玉本体があるけど」
僕はこの不毛なやりとりを打ち切る。
「日本の攻撃をご覧ください」
彼女がまた軽やかに笑う。
「ごめんなさい。ご覧になるわ」
彼女が一番バッターを見て言う。
「この人がペッパー警部?」
「古すぎる。ペッパーという名前ではないけれど、さすがに噂には聞いているようだね」
「大学で授業中にいきなり胡椒を引かれて、私が引いたわ」
「…お母さんが日本人なんだ」
「私もよ。何ならあなたもね。珍しくはないでしょう」
「…ほら、闘志あふれる表情だろう」
「ずっと口が開いているわね。夏目漱石は『猫はいい。寝ているときにも口を開けない分だけ、人間より高等だ』と言ったそうよ」
あまりにも見当違いな一番バッターへの批判に僕は目眩がする。
「この際、文豪の意見は置いといてくれ。ああ、日本の攻撃が終わったね」
「2回が終わってどうだい?」
黙って見ているので、この日米ホームランの競演にさすがに見とれているのかと勘違いした。
「ものすごく実況と解説がうるさいわ」
僕は思わず笑った。
「そういう批判もあるらしいけど」
「何なの『安心と信頼の…』とか『静かなる…』とかアイドルの自己紹介的なものなの?」
「それは実況のオリジナルらしいけど」
「勝手に言われた方はたまったもんじゃないわね」
僕はその話を強引に終わらせる。
「それより、ほらアメリカと日本のホームランの競演だよ。ワクワクしないか」
「どの人が大谷君なの?」
「いや、打ったのは二人とも大谷選手ではない」
「どうりでネットニュースと顔が違うと思ったわ」
「ネットニュースは見るんだね」
「で、どっちが勝ったの?」
「馬鹿な。まだ2回の裏表が終わったところだ」
「それは何の」
「何の裏でも表でもなく、2回だよ」
彼女はだんだん面倒になってきたようだ。
「よくわかったわ。とにかく日本が第2セットは取ったのね」
「だ、第2セット?」
「画面がそうなっているわ。4セット先取くらいで勝つのかしら」
「テニスじゃないんだ。これをイニングといって9回までやるんだよ」
「ねえ、もう1時間経ったわよ」
「そうだね」
「まだ9回のうちの2回ってこと?」
「どう考えてもその通りだ」
「1時間ホームランを打ったり取ったりして、まだ2/9?」
「ホームランは取れないのが普通だけど、間違いなくあと7回ある」
彼女が大きくため息をついた。
「長いわ。ひたすら長いわ」
「ねえ、でもホームランはカッコよかっただろ」
「…」
「スカッとしただろ?」
彼女はピンとこない顔をしている。
「この1対2というスコアは何を指しているの?」
突然彼女が点数について疑問を呈し、僕は愕然とする。
「今まで何を見ていたんだい。ホームインした走者の数に決まっているだろう」
「ホームインとホームランは違うのね」
「当たり前だ。ホームインはランナーが、ホームランはバッターが打つものだよ」
「日本は誰がランナーをやったの?」
「え?」
「え?」
こんな人間がいるだろうか。彼女はわざと言ってるんじゃないのか。
「いやいや、バッターが打ってランナーになるんだ」
「歩が成金になるような感じ?」
「何で将棋は知ってるんだ。全然違うよ。バッターは打ってヒットならランナーとして出塁出来るんだよ」
「じゃあピッチャーが打ったら、何になるの?」
「馬鹿いってんじゃないよ。ピッチャーが打ったら反則というか、どうやって打つんだ」
僕は頭がクラクラしてきた。これで観戦記が成り立つのか。
4回の日本の攻撃でここまで調子の上がらなかった若き三冠王がホームランを打って、アメリカと2点差とした。僕はそのチームのファンでもあったので、一際興奮して彼女に話しかける。
「ほら、打ったよ。いやあ、良かった。素晴らしい当たりだったね」
彼女はふうんと微笑んで頷いた。
「あなたが喜んでいるからいいと思うわ」
「そんな。ずっと調子の悪かった中心選手が苦しんだ末に、この大舞台で大きな仕事をやってのけたんだ。もっと共感して欲しい」
「そもそもなぜ、あのボールを投げたあの人は」
たぶんピッチャーのことだろうね。
「ホームランを打つ人にあんなに協力的なの?」
僕はたまげた。
「何を言ってるんだ。どうやってヒットやホームランを打たれないか、苦労して投げてるんじゃないか」
「じゃあ、あんな打たれそうなところへ投げないで、ぶつけちゃうとか」
「それは駄目だよ」
「痛いものね」
「そうそう、ってそうじゃなくて。いや、それもあるけど、ぶつけたらランナーとして出塁されてしまうんだ」
「ホームラン打たれるのとどっちが痛いの?」
「そりゃホームランだけど」
「ぶつけられるより痛い?」
「いやそうだけど、いや違うんだ。そうじゃなくて痛いってつまり」
「しっかりしなさいよ」
「えええええ。ちょっと待って」
彼女が笑って僕の肩をつかむ。
「落ち着けぇ」
僕は深呼吸してから彼女に言う。
「スーハースーハー…そうじゃないんだ。ボールをぶつけられたら痛いけど、この場合の痛いというのは試合の流れとしてチームとしても痛い、つまり不利益だという意味だよ」
「…よくわかったわ」
「ずぅえっっったい!絶対!わかってないだろう!」
彼女が気の毒そうに僕を見る。
「投げる人は打つ人にホームランを打たれないように工夫していて、ぶつけるのはいけないことなのね?」
「ハアハア…そうだよ」
「じゃあ、ぶつけないまでも、あの棒が届かないところへ投げたらいいのに」
「棒というのはバットのことだね。あのね、ストライクゾーンというのがあって」
「そういえば私はあなたの『ストライクゾーンど真ん中』だったらしいじゃない」
「な、何を急に」
「編集の山田さんから聞いたけど」
「…」
「それから『でも本当のホットゾーンはインロー』ってどういう意味なの?」
「えええ」
「あと『一番好きなところは私の脚の線で…』」
「ごめんなさい。許してください」
や~ま~だ~っ!
「そんなことはともかく」
「そんなこと?」
彼女がキッと僕を睨む。
「いや、大切なことです。ただ今はそれをちょっと置いといて」
「どこへ置いとくの?何かの裏とか?表とか?」
僕はさすがにげんなりしてきた。
「頼む。ちょっと野球に話を戻してくれ」
彼女も笑う。
「ごめんなさい。あなたが困ったり呆れたりするのが面白くて」
「…ふう、ピッチャーはバッターに打たれないよう、でもボールにならないよう、ストライクを投げたい。またはボール球を振らせたいんだ」
「ボールにならない…ボールが別のものになるの?ボール球ってボールが渋滞しているわ」
「…悪かった。判りにくいね。打たれたくはないけれど、絶対に打てないようなひどい球を投げると打者の勝ちになるんだ」
「まあ。じゃあ、あの丘の上の」
「あれをピッチャーという」
「ああ、あの人がよく聞くピッチャーという役なの」
「さすがにピッチャーは聞いたことはあるんだね」
「ビー…」
「絶対にビールを入れるあれじゃない」
「そのくらいわかるわよ。野球の試合でグランドの中心にビールが置いてあったら、私だって不思議に思うわ」
今、そう言おうとしていたくせに。
「じゃあピッチャーって超大切じゃない」
何を今さら。
「そうだよ。大谷選手がその大切なピッチャーとバッターの両方で素晴らしい成績を残しているから、二刀流として称えられているんだ」
「ねえ」
「何だよ」
「だから優勝するとビールかけやるの?」
「ビールから離れろよ!」
「大詰めだよ。この回を大谷選手が抑えれば、日本の優勝だ」
「…もう食べられないわ」
彼女は5回途中からウトウトし始め、8回の攻防が終わる頃顔をあげた。
「おい、わかりやすく寝惚けるなよ」
「重ね重ねごめんなさい。でも、それにしても長いわ。4時間なんて誰が見続けられるの?」
「まあ、そういう意見もあるようだね。最近は試合時間短縮の試みがなされているよ」
「あら、大谷選手じゃないの」
彼女は画面を見て、うれしそうに言った。
「やはり君でも大谷選手は知っているんだね」
「そりゃこれだけ騒がれればね。それにしてもでかいわ」
「『でかい』は下品だがその通りだよ。193㎝で95㎏とプロフィールにあるよ」
「頭が小さいのかしら。100㎏近くあるような体型には見えないわね」
「あの敏捷さもそんな重さを感じさせない理由だと思うよ」
「あなたが見た目以上に太って見えるのは、頭が大きくて敏捷性に欠けるせいかもしれないわ」
彼女がニヤニヤして僕を見た。
「大谷選手と較べられるのは僕が気の毒だよ。あ、フォアボールを出しちゃったね」
「打てないような場所にたくさん投げてしまった報いね」
「よく覚えててくれてありがたいけど、『報い』は言い方が悪い」
「その因果応報で頭が小さくなってしまった的な転生ものを書いてみたらどうかしら」
「…意味不明すぎる。おっ!素晴らしい。ダブルプレーだ。これで残り1アウト!」
ついに日本の優勝までワンアウトだ。さすがに僕も緊張してきた。
彼女はというと、依然としてアクビをしながら画面を眺めている。
「あとどのくらい続くの?」
「何言ってるんだ。もう一人!もう一人大谷選手がバッターを抑えれば日本の勝ちだよ」
「ええ?じゃあ最後ってこと?」
「ほら、バッターはアメリカのキャプテン、トラウト選手だ」
「ププッ、キャプテン・アメ…」
「それは君がうるさいっていう実況が散々言ってたよ」
「まさか同レベルとは」
「やった!三振だ。勝ったぞ!」
僕は興奮して、思わず彼女の手を握り…。
「あら、大谷選手も帽子やら何やら投げ飛ばしてるし、あなたはいきなり積極的だし、大変ね」
「何やらって、たぶんグローブのことだねって…いや僕は優勝して思わず…君にせっ、積極的って」
「あらあら、普段のヘタレなあなたとは思えないくらいだわ」
いつのまにか彼女をハグしていた僕は慌てて手を離す。
「ご、ごめんよ。つい興奮して」
「いいのよ。結構面白かったし」
「まあ、これで原稿をまとめるだけまとめてみるよ」
「編集の山田さんによろしくね」
「ねえ、君はいったい山田からどこまで何を」
「どうだろう。この原稿で」
僕は彼女と僕のやりとりを記録したルポを編集者に渡した。もちろんストライクゾーンど真ん中とかハグのくだりは省いてあるが。
しばらく吹き出したり、ニヤニヤしたりしながら読んでいた編集者が顔をあげる。
「WBCのルポとはいえないけれど、面白いんじゃないかな」
僕はホッとする。何とか原稿料の30%はもらえそうだ。
「『日本中が熱狂』とか『全国民の期待を背負って』とかマスコミが使う言葉の危うさがよくわかる原稿だったよ」
「なるほどね」
編集者山田の言葉に頷いた僕だが、後は僕の彼女に『ストライクゾーンど真ん中』以外何をチクっているのか聞く必要がある。
全彼女の動向に全僕が心配していて、全山田を問い質す必要がある。場合によっては日本中が涙するかもだ。
読んでいただきありがとうございます。私の周囲にいるある女性をモデルにしました。ホント、興味ないヒトもいるんです。私からしたらビックリですが、彼女に言わせると世間の熱狂は容認するけど押しつけがましいのは何だか腹が立つ…のだそうです。