虎の威を借る
「殿下、だと?何故ここに…」
ベルタが呆然としていると、ビリエルがふらふらと立ち上がるのが見えた。はっと彼を見れば、いつの間にかレンナルトはベルタをビリエルから隠すように立っており、それでいてベネディクトの護衛としていつでも動ける位置にいた。
「何故?何故とおっしゃいますか。先触れはしっかりと出していたはずですよ」
ビリエルの疑問に答えたのは、ベネディクトのすぐ後ろに控えていたハンネスだった。いつものように胡散臭い笑顔で、動揺するビリエルを眺めている。
「『ビリエル・バックリーン伯爵の領民であるベルタは目覚ましい成績を学園内で収め、その成長は目を見張るものがある。勤勉で優秀な彼女への褒賞について伝えたいことがあるので、第二王子ベネディクト・ヨルム・グランフェルトがそちらに向かう』―――という内容の先触れがあったはずですが届いていない?先触れより先に到着してしまうとは。これはこちらの不手際ですね、大変申し訳ございません。しかし殿下にもご予定がありますので早急にバックリーン伯爵とお話しする必要がありまして、今回は不躾ながら急ぎの為中に入らせていただきました」
つらつらと饒舌に良く舌が回る。ベルタは菫色の瞳を瞬いた。ハンネスの更に後ろで、この屋敷の執事や従僕たちが蒼白になっているのが見える。きっとこうやってハンネスに言いくるめられてここまで侵入を許してしまったのだろう。
何より、相手は第二王子だ。先触れを出したと言い切られてはお帰り下さいとも言い難い。
…というか先触れ内容がおかしくないだろうか。
そこで、呆然としているベルタの菫色と、すらすら喋っていたハンネスの茶色が交差した。
くっと、彼の目が細くなる。
「急ぎの用の為、ノックもなしに入らせて頂いたわけですが―――バックリーン伯爵。これは一体どういうことでしょう?」
「こ、これは…っ」
問われて、ビリエルが口籠る。視線はベネディクトとハンネス、そしてレンナルトを行き来していた。レンナルトが肉盾となり、ビリエルの視線はベルタに一切届かない。ベルタはひたすらぽかんとしていた。そろそろ宇宙が見える気がする。
「ベルタは頭脳明晰で成績は優秀ですが素行に問題がありまして、貴族である私に不敬を重ねたのです。言っても聞きませんので今回のように体罰で教え込むことになりました。ご不快とは思いますがお許しください。必要な教育なのです」
知らぬ存ぜぬを通すには無理があると判断したビリエルが、問題はベルタにあると主張する。無礼な平民を教育していたのだと主張すれば、そう角は立たない。実際不敬罪で罰を受ける平民もいる。
しかし今回はそうならない。
ベネディクトが穏やかな表情で発言した。
「バックリーン伯爵。ベルタは私の友人で、私の在籍中は多少の不敬も許すよう言い含めている。口頭での忠告はともかく、彼女に対する体罰を禁じているんだ」
(それって学園内の話では…)
「は?し、しかし」
「そもそもバックリーン伯爵。何故ここにベルタが?」
追求しようとしたビリエルの言葉をさえぎって、再度ハンネスが問いかける。ビリエルは多少顔を顰めたが、答えぬわけにもいかず渋々口を開いた。
「彼女は私の領民の一人で…」
「ええ、そうでしょう。私たちもそのことで貴方にお話が有ってここまで来ました。ですが…領地とはいえ数ある小さな村出身のベルタを、ご存じだったのですね?個人的に呼び立てて教育を施すほどに?」
ベルタはバックリーン伯爵の領地にある村出身だが、数多くある村の一つの出身だ。領地の視察をしても滅多に訪れない本当に小さな村。普通に生活していれば顔を合わせる機会などない。ビリエルはどんどん汗をかく。それはレンナルトに吹っ飛ばされた際の負傷によるものでなかった。
ベルタを不敬罪で責めるにしても、領主と領民という接点があったとしても、ベルタはビリエルにとってたくさんある領地の一つに住む平民だ。たとえベルタが孤軍奮闘で王都に来ていたとしても、個人的に屋敷に招いて教育を施すような必要はない。平民の娘が自分の意志で村を出て王都に来た。たいした接点もなく、その娘を気遣うのはおかしい。
ここでビリエルが表向きに援助したベルタの姉の話を出そうものなら、当然調べられる。3年前に領地で起きた不幸な事故として片づけられた姉の死も、もしかしたら掘り起こされて調べ直されてしまうかもしれない。そうなると、探られたくない部分にも手を伸ばされる可能性がある。
ビリエルとベルタには、領主と領民という以外で接点らしい接点がない。
だがここでそれを認めてしまえば、教育と言い張った暴力の正当性は失われる。
「べ…ベルタはご存知の通り、学園で優秀な成績を収めています。特待生になった平民の話は私も聞いておりましたが、少し調べたところそれが我が領民と知りまして、私も激励のつもりでこの屋敷に招待したのです…その際不敬な言動が目立ったので、つい教育に力が入ってしまいました」
あくまでもベルタのことを知ったのはつい最近で、それまでは把握していなかったとビリエルは告げる。苦しい言い分だが、まったくないことでもない。何よりベルタは平民なので、多少行き過ぎた教育がされても仕方がないと判断される。
貴族と平民が争えば、多くの場合貴族が優遇されるのだ。
それが分かっているからベルタは一言も発さない―――のではなく、身分の高い人の会話に割って入るのは不敬なのだ。いくらベネディクトが許すと言っても、それに甘えるわけにはいかない。ベルタは彼らが話を振ってこない限り、口を開くつもりはなかった。
何より何故ここに彼らがいるのか未だわからず、思考が宇宙と現実を彷徨っていた。
ビリエルの発言に、ハンネスはにっこりと笑う。
「成程それならば話が早い。ベルタの優秀さはご存知ですね。素行の方はベネディクト殿下の許可もあるので問題ありません。ここから褒賞の話になるのですが」
え、このまま話進めるの。
第二王子ほどのお偉いさんがいるのに座る場所もないので立ったまま。
第二王子が立ったままなのに伯爵が座れるわけもないので、負傷しただろうビリエルも立ったまま。
レンナルトは警戒を解かないし、ベルタは椅子に縛られたまま。
場所の移動を勧めることも出来ず歓待も出来ない執事たちの顔色は悪い。
そんな状況を一切無視して、ハンネスは朗々としゃべり続けた。
というかお前がしゃべるのか。第二王子のベネディクトはニコニコするだけである。逆に怖い。確かに身分の高い人ほど、説明は側近に任せたりするけど。ずっとニコニコしているのが怖い。普段はマシュマロ王子なのに。
「特待生として遜色ない結果を出したベルタですが、彼女は学業の合間に不仲だった婚約関係者たちの仲を改善し、実力を燻らせていた人材を発掘するなど、特待生以上の功績が認められています。第二王子であるベネディクト殿下や婚約者のマルガレータ公爵令嬢の覚えも目出度く、驕ることなく学問に向かう姿勢に学園だけでなく話を聞いた陛下も感銘を受け、褒賞の流れとなりました」
どうしよう、自分の話のはずなのに全く心当たりがない。
ベルタはとうとう宇宙に打ち上げられた猫のような顔になる。
ハンネスが何を言っているのか理解できない。彼は褒賞の内容ですが、とこちらを見ることなく話を進めていった。
「ベルタはその優秀さを認められ、ルンベック伯爵家の養子となりました」
「えっ」
流石に驚愕の声が出た。
何のことだ。
というかそれマティアスの実家じゃないか。
養子となりました…?なりましたって言った?なりますじゃなくて?過去形?
確かに、貧乏仲間と親近感を抱き、食べられる草の話をした。そのお礼にと伯爵家の蔵書を貸してもらい一緒に勉強などもした。その際ちらっとご両親の伯爵夫妻とあいさつはしたが、そんな話はしていないし聞いたこともない。
どういうこと。
ビリエルが突然の爆弾に打ち震えているが、ベルタもまた心当たりのない発言に宇宙から帰って来られない。
「平民だろうと、その能力が優秀だと認められた場合貴族の養子として召し上げることは稀に良くある話です。ええ、稀に良くある話です。他家との繋がりの為でなく、学問や研究の援助が名目で貴族が養子に迎えることは…今回もその流れに則り、平民のままでは難しい学問の高みを目指す為の助けとなるため、伯爵家への養子縁組が褒賞として与えられました」
おほしさまきれい。
ベルタの住む星は青かった。
「つまり、ここにいる彼女は平民のベルタではなく…ベルタ・ルンベック伯爵令嬢です」
しばらく現実に帰って来れそうにない。
「今回の訪問はその旨をお知らせするためのものでしたが…ああ!何ということでしょう。貴方は平民ではなく、ご令嬢に暴力を振るったという事になります」
「な…っ!?」
「何せベルタ嬢は、ルンベック伯爵令嬢となっておりますので」
「ビリエル・バックリーン伯爵。伯爵令嬢への傷害罪から貴方に謹慎を命じる。詳しい事情聴取は騎士団より行われるだろう。ここで沙汰を待つように」
「殿下…!?」
黙って流れを見ていたベネディクトがマシュマロに似合わない重苦しい声音で告げる。ビリエルは何か言い募ろうとしたけれど、レンナルトが踵を鳴らしたことで口を閉ざした。わかりやすい威嚇行動に、ベルタはやっと宇宙から帰還する。
あれ、これって、この光景って、肉食獣の威嚇に似ている。え、もしかしてこれって。
レンナルトの向こう側で、がくりとビリエルが膝を突いたのがわかった。身体が限界を迎えたのか、そのまま倒れ込む。部屋の外から執事たちの声なき悲鳴が聞こえた。
近づいて来たハンネスがナイフでベルタの拘束を解いた。話を聞いても事情が呑み込めない。しきりに瞬きを繰り返す。そんなベルタに、ベネディクトがゆっくりと近づいて来た。
「ベルタ、大丈夫かい?…ああ可哀想に、顔を殴られたんだね」
腫れている、と切なそうに眉を顰める。見上げればレンナルトも悔しげな顔をしていた。ハンネスだけが相変わらず胡散臭い表情のままだ。その表情のまま、ひょいっとベルタを抱き上げる。
「…え?」
「事情聴取もありますが、まずは手当てですね。すぐ騎士団も来ますから私たちはお暇しましょう。ベルタはもう伯爵令嬢ですから、手当てが優先されても許されますよ」
「そうだね」
「お待ちくだされ」
「不思議な口調だね」
やっぱり話について行けない。しかし彼らはそんなベルタに構わず、慌ただしい廊下を悠々と歩きだした。ベルタはここにマティアスがいないことを心の底から嘆いた。養子先は彼の家だし、どういうことだか説明して欲しい。何より彼らを止めて欲しい。脳裏に描いた優し気な彼は困った顔で首を振った。無理だ義妹よ。義妹ってそれこそなんで?
驚きの事実に翻弄されたまま、ベルタは騒がしい伯爵邸を後にした。
憎んだ相手が倒れ伏す姿を、しっかり目に焼き付けながら。