託された秘密
そしてここからはベルタの憶測だが―――姉は、自ら生み出した麻薬を、その調合法を闇に葬ってから逃げ出したのだろう。
いや、3年という月日が経過してからビリエルが動いたのなら、偽物のレシピを複数隠した恐れがある。探して見つけて試して、全てが偽物と気づいて姉の妹を探したのかもしれない。
唯一姉とやり取りのあった妹。姉が死んですぐ消息不明になった妹を。
ただそれは可能性でしかなく、妹が…ベルタが麻薬のことを知っているとは限らない。持っていても気付いていない可能性もある。
だからビリエルはベルタを拉致して引き取るなど宣い、ベルタの持ち物を把握しようとしている。平民だろうと麻薬の存在をおいそれと口にはできないから、直接な物言いを避けて、ベルタが知らない場合の対処をしながら会話をしていた。
縛り付ける乱暴な方法をとっている時点で、そんなもの無駄でしかないけれど。
そう、知らなければ、気付かぬまま証拠を持っていたのなら、奪ってしまえば終わりだ。けれど―――。
「知っているな」
ベルタは知っていた。
伯爵が姉に何をさせていたのかを知っていた。
「知っているな―――持っているな!」
姉が妹に―――何を託したのか、知っていた。
貴族らしい優雅さを殴り捨てたビリエルが、怒鳴り付けながらベルタの胸倉を掴んで引き上げた。椅子に縛られたベルタは、上体だけ上に引っ張られて身体が軋む。呼吸し辛いが、笑いが止まらなかった。
立ち位置は変わらない。目の前に立つビリエルと、椅子に縛られたベルタ。しかし心境は逆転していた。
先程まで取り繕っていた余裕は剥がれ落ち、焦燥と怒りも露わに平民の娘を掴み上げるビリエル。
先程まで憎悪と憤怒に震えていたのに、今では愉悦で笑いが止まらないベルタ。
今まで眉間に皺を寄せ、睨むような表情しかしなかったベルタだが…この時は頬を染め、誕生日に大きなケーキを出されて喜ぶ童女のように歓喜に満ちた表情を隠せなかった。
今のベルタを満たすのは、姉がビリエルに対して一矢報いることが出来た事実一つ。
無惨に殺された姉が、相手にぎゃふんと言わせた事実への喜びだった。
それを隠しもせず、直接的な恫喝に移った男の動向など気にもせず、ベルタは笑う。とても愉快な気分だった。
乱暴に扱っても動じない少女に、ビリエルが下品に舌を打つ。
「やはり手紙か?姉妹にしかわからない方法で、一体何のやり取りをした。いや、それはどうでもいい。一体どこにレシピを隠したか言え。そうすれば命は助けてやろう」
「私の持ち物はもう調査済みでしょう。それなのに気付きもしないなんて嘆かわしい」
「なんだと?」
「あれを目にしても気付かなかったなら、あんたは二度とレシピを手に入れることは出来ない」
ビリエルはベルタが何処に宿泊しているのかすでに把握しており、荷物が何かも把握していた。その上で必要なものがあるのならば、手の者を使ってベルタの部屋を家探しすることなど容易かった筈。
それなのにこうしてベルタを拉致したという事は、見つけられなかったのだ。それらしいレシピが。
当然だ。伯爵は部下に手紙を検めさせていたのだ。助けを外に求めないよう、監視されている中で馬鹿正直にレシピを流出出来るわけがない。
だから姉は…妹に、ベルタに、懸けた。
憎々し気にこちらを睨むビリエルに、満面の笑みを浮かべる。
とても、気分がいい!
「知っていたって教えるもんか。死んだって教えてやらない!ざまーみろ伯爵!」
「…っ!」
「ぎゃっ!」
ビリエルの手が乱暴にベルタの頬を打つ。成人男性から殴打を受けたベルタは椅子ごと横に倒れた。倒れたところを踏みつけにされるが、ビリエルが踏んだのは背もたれの縁だった。がつんと硬いものがぶつかり合う音が部屋に響く。
「平民の分際で、農民の分際で私に歯向かうか!そもそも農民如きが知ったか振って領地の秘密を暴くのも許しがたかったというのに!」
ビリエルはベルタの姉が調合した苦みのない痛み止めの話を聞いてすぐ、隠蔽のために動いた。調合に成功した姉をさらなる研究の為引き抜き、麻薬の精度を上げるため利用した。しかし今まで麻薬を研究していた伯爵家でなく、ただの農民が成果を上げた事実がずっと気にくわなかった。
しかもその調合レシピは姉の死亡と共に行方不明。お粗末に隠したかと思えば、見つけたレシピはすべてが偽物。この3年間残された情報から調合を繰り返したが、苦みは消えなかった。その所為で一度流通した麻薬が再び燻っている。このままでは客から見限られかねない。だから彼は焦っていた。苦みのない強力な麻薬を作るため、ベルタの姉が作ったレシピが必要なのだ。
それなのに全く見つからない。
すべて破棄したのかと勘繰ったが、製作者の性格からそれはないだろう。麻薬のレシピを破棄すれば、麻薬は作られないが中和剤も作れない。麻薬の存在を憂うからこそ、完全に破棄することは出来なかったはずなのだ。
そしてその存在は、麻薬と原材料である雑草を結びつける。バックリーンの領地に生い茂る雑草はどこにでも群生するものではない。知らぬ存ぜぬを通せたとしても、いずれ麻薬の出所を探られて、原材料も把握されて居れば麻薬を売りさばいたことがばれてしまうかもしれない。
中和剤だけでなく、バックリーン伯爵の失脚を狙ってレシピを残している可能性の方が高かった。
伯爵にとって貴族は客だが、一度露呈してしまえば客は離れる。上客は多数存在するが、切り捨てられるのは伯爵の方だ。彼らより上の権力が動けば、伯爵家の闇の歴史が潰えてしまう。
その後、もしやと探した妹は村を出ており、追跡すれば王都の学園に所属していた。あまりに不相応な入学に、すぐ妹が何か知っていると気付いた。何かを企んでいるに違いなかった。そして時間のないビリエルは、妹のベルタを拉致して情報を聞きだすことにした。平民に気遣いなど必要はない。
優しく接している間に吐けばそれでよし。何も言わないなら拷問すればいい。第二王子のいる学園に所属するからと言って、相手は所詮下賤な平民でしかないのだから。
そんな貴族の傲慢さを隠さない伯爵を、踏みつけられたベルタは冷めた目で見上げた。
「…あんたは確かに尊い生まれかもしれない。だけど、貴族じゃない」
「なんだと」
「あんたがあの高貴な方々と同じ貴族なわけがない。あんたは私が学園で見て来た貴族たちと違う」
まだ若い、将来を担う貴族の子供たち。
平民のベルタを不相応という者は多くいたが、気にはならなかった。その通りだからだ。ベルタは無理を通して通学していたし、彼らが長年の教育で身に着けたものを、数年で熟すことなどできるわけがない。所詮ベルタの知識は付け焼刃。ペーパーテストならまだしも、その知識を使いこなせるかは別問題だ。
そんなベルタが出した結果を、彼らは受け入れてくれた。身分が違うのに手を差し伸べてくれた。声をかけてくれた。茶会に呼んでくれた。勉強の手伝いだってしてくれた。ベルタは上手く表情に出来ないが、そのどれもが恐れ多くも嬉しい出来事だった。復讐に取り憑かれて前進しか出来ないベルタにとって、彼らの恩情は確かに冷えた心を温めた。
ベルタは、敵だらけだと思っていたあの学園で彼らに生かされていた。
高貴なる者の義務。
第二王子やその側近たちといると、ベルタはいつもその言葉を思い出す。
―――ベルタは彼らの権力が欲しかった。
誰が伯爵の客かわからず、むやみに縋ることは出来ない。だから清廉な精神の権力者に縋りたかった。
虎の威を借る狐になりたかった。
だけど―――虎に仔猫のように守られては、その威を借りて誰かを陥れることなど出来なかった。
ベルタは仔猫でなく、狐になりたかった。
守られる存在じゃなくて、狡賢く相手を利用するような存在でありたかった。
復讐のため、悪い子になりたかったのだ。
結局ベルタが彼らにお願い出来なかったのは、姉のことで頼れなかったのは、結局ベルタが狐になれなかったから。彼らに対して狡賢く接する事が出来なかったから。
何より勉強すればするほど、彼らの持つ権力が身勝手に扱えるモノではないとわかってしまった。
彼らの権力目当てで入学した無知なベルタもまた、下賤な人間の一人。
そして他人を陥れて私腹を肥やすこの男もまた、貴族など名乗れぬほど下賤な存在だった。
「あんたなんか貴族じゃない。お姉ちゃんを殺した、ただの下衆野郎だ」
ベルタの罵倒に、ビリエルの顔にカッと朱が走る。額に血管を浮き上がらせながら、足を大きく振り上げ―――。
ばたんと大きな音を立てて部屋の扉が開かれ、ほぼ同時にビリエルが壁際に吹っ飛んだ。
ベルタが風を感じたと思ったときにはもう目の前にビリエルはおらず、代わりに立派な臑当に包まれた足があった。こんな距離で見たことが無かったので、ベルタは一瞬それが何なのかわからなかった。
騎士が身に着けるプレートアーマーだと合点がいくころには、臑当の持ち主が膝を突いていた。帯剣している青い鞘が目に入り、武骨な篭手が倒された椅子ごとベルタを起こしてやっと、現れたのが何者か理解する。
「レンナルト様…?」
呆然と名を呼べば、学園内で見たことのない立派な甲冑を着込んだ彼が静かに頷く。
学園内は護衛を優先すると言っても、周囲にいるのは学生たち。そんな中を甲冑姿で闊歩するわけにいかず、騎士である彼は軽装だった。重装備の騎士は学園の出入り口付近を警護していたので、適材適所だったのだろう。そんな彼の重装備に、ベルタは状況も忘れてぽかんとする。
何故、こんなところに、レンナルトが?
「突然失礼するよ、バックリーン伯爵」
ベルタが呆然としている間に、開かれた扉の方から柔らかな声が聞こえて来て思わずベルタはぎょっとした。レンナルトもだが、それ以上にこの場にいるのがおかしい人物の声だった。ちなみにビリエルは壁際に吹っ飛ばされて床に転がっている。気絶していないようだが、返答する余裕もないようだった。
そんなカオスな室内に、颯爽と現れたのは。
「ベネディクト殿下…と、ハンネス様…?」
マシュマロのような第二王子は、にこりと綺麗に。
胡散臭い次期宰相候補は、やっぱり胡散臭く笑った。