【番外編】野良猫は優しい夢を見る
本日 エンジェライト文庫より
虎の威を借る狐になって復讐がしたい
配信開始! 発売開始!? とにかく開始ー!!
※まだ誰にも見つけられていない、野良猫状態のベルタのお話。
あの頃の空はどこまでも広く高かった。
風に揺れる麦畑。同じ方向に流れる白い雲。
麦が雲を押し流しているように見えて、一緒になって身体を揺らして雲を遠くへ流した。
上ばかり見ているのも勿体ない。
雨が続いてできた水たまりを飛び越える。
不規則に地面を占領する水たまり。水たまりに映る空。それを飛び越えれば空の上で跳ねているような気分になって、足元を泥で汚しながら楽しげに飛び跳ねた。
柔らかな黒髪が風を含んで靡く。跳ねるのに合わせて、ふわふわと。
「あ、カエル!」
視界の端に緑色を見つけた。鮮やかな若葉に似た緑色。小さなカエルが水たまりに波紋を作る。
幼子は考える前に手を伸ばし、水たまりに手を突っ込んだ。
あっという間に逃げるカエル。しかしそれよりも水の感触が楽しくて、水面を叩くのに夢中になった。
「ベルタ」
柔らかな声に呼ばれて顔をあげる。
こちらに向かってくる人影。お日様を背負って、長い黒髪が暖かな光をまとって揺れる。
姿を見るだけで嬉しくて、胸がポカポカする人。
「お姉ちゃん!」
しゃがんだ姉が両手を広げて待っている。
どろどろに汚れた姿で駆け寄った。
幼子は受け止められることを疑わず、一直線に駆けた。
柔らかな腕。温かい身体。甘い香りと靡く黒髪。
幼子は、ベルタはそこが何より安心できる場所だと知っていて、全身で飛び込んだ。
「ベルタ」
優しい声。
ずっと覚えている。まだ覚えている。忘れるわけがない。この温もりと感触だって。
忘れるわけが。
(あれ)
おかしいな。
(なんでこんなに寒い)
ベルタ――姉が自分を呼ぶ声は。
迫りくる喧騒にかき混ぜられて消えた。
目を覚ます。
目が覚めた。
(夢だ)
優しくて残酷な、甘くて苦い幼い日の。
ベルタがまだ姉と一緒だった頃の。
ベルタは丸まって、小さな荷物を抱えて、街の隅に身を潜めて眠っていた。小さく首を巡らせて、お日様の角度を確認する。
まだお日様は下の方だが、ざわざわと人が動き出す気配を感じる。
それもそうだ。ここは商人街。朝早くから商売をする街の一角。
耳を澄ませたベルタは、パンを売っている人の声を拾う。クンクン鼻を鳴らして、焼き立てのいい匂いに腹を鳴らした。
朝ごはんにしようか。少し考えて、金銭的な問題から首を振った。頬に当たる髪の感触。いつもと違う感覚に、昨日のことを思い出す。
昨日、王都グランフルスに辿り着いて。
尽きた資金のために、髪を売ったのだ。
姉の背中で揺れていた黒髪。ずっと追いかけた背中の象徴。姉のようになりたくて、ずっと伸ばしていた黒髪を。
短くなった髪を摘んで、思った以上に首筋が冷えて肩をすくめる。
寒い。とても寒い。
暖を取るように、小さな荷物を抱き直す。
それはベルタの全財産。ボロボロの肩掛け鞄。命より大事な荷物。
姉との繋がりを残す、最後の。
なくさないように抱きしめた。
(もう、安心できる場所なんか、ない)
無償の愛で包んでくれた姉はいない。
大人は信じられない。
敵も味方もわからない。
ベルタには、我が身しかない。
(たくさん、たくさん調べないと。たくさん、勉強して。たくさん…)
寒さに手足がかじかんで、鼻水が出る。
鼻を啜って、熱い目元をこすった。鼻の頭が、目元が赤い。
小さな鞄を大事に抱え、ベルタは立ち上がった。
(じっとしているから寒いんだ。歩け。歩け。立ち止まっちゃだめ。進んで。何でも良いから仕事を見つけて。勉強して。仕事をして。勉強して…)
小さな足を必死に動かす。できることを探すため通りへと抜けた。
幸い王都グランフルスでは常に人手不足。特に新しい挑戦を繰り返す商人街では、日雇いの仕事だって溢れている。職人街も同様だがベルタは弟子入りしたいわけじゃない。
目的があってここまできた。
そのためにも。
できることを。積み重ねていくしかない。
時間がない。立ち止まっている暇などない。
優しい夢に浸る時間など。
(優しい時間は全部、夢だ。もう、夢でしかふれあえない)
それを怒りに。原動力に。
憎悪を忘れないために。優しい過去も忘れてはならない。
優しい過去があるから、現在の憎しみがある。
忘れてたまるか。優しさも、怒りも、温もりも、恨みも。
全部全部忘れてたまるか。
全部全部覚えたまま、必ず。
(この恨みはらさでおくべきか)
ベルタは進む。怨讐の道を。
そのまま進み、進み続けて、彼女は目的通り、復讐のためプラトルボ学園の門を潜る。
明るい未来なんて、少しも想像せず。
意地でも歩みを止めなかった。
そんなベルタが尊い方たちに見つけられた。
これは小さなベルタが尊い方々に囲まれる前のこと。
明るい未来を描けなかったベルタが、無理矢理光の下に引っ張り出される前のこと。