【番外編】伯爵子息は義妹を幼女だと思っている
12/31 虎の威を借る狐になって復讐がしたい
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※伯爵家に養子となったベルタと、義兄マティアスの交流。
日が沈み、燭台に火が灯される。
ポツポツと照らされた廊下を迷い無く進んだマティアスは、目的の扉の前で立ち止まった。
伯爵家で今まで使用していなかった一室。この部屋を使用人達が大掃除した記憶は新しい。
貧乏ながら屋敷の景観は保つようにしていたが、一時期は使用人も減って掃除が行き届かない所もあった。それが改善されたのはこの部屋の大掃除からだったなと感慨深く思う。
ノックすれば部屋の中に居た侍女が扉を開けて、マティアスに気付き分かりやすく眉を下げた。ベテランでも新米でもない侍女だが、表情に出すくらい困っているらしい。マティアスは部屋を覗き込み、薄暗い部屋の光源を見つめた。
まだ暖炉に火を入れるには早い時期。部屋を照らすのは備え付けられた燭台と、テーブルの上に置かれたオイルランプ。
その傍で椅子に腰掛け、黙々と本を読んでいる少女が一人。
丸まるように、本を抱えるように読書を続ける彼女の手元は明るい。
侍女達が尽力して櫛通りの良くなった黒髪。ひび割れの減った指先。まだ着られている感覚の拭えないドレスはサイズが合っていない所為だろう。痩せすぎて余裕のある菫色のデイドレスは、彼女の婚約者が選んだものだ―――彼女のドレスは半分以上が婚約者の選んだものなので、マティアスは相手の執念に引いている。
きっとその内、サイズぴったりなドレスが送られてくるはずだ。
彼の執着に対して疑わしげな対応をする部屋の主は、恐らくノックの音にも気付いていない。扉が開いたことにも気付いていないだろう。
「ベルタ」
呼びかけてみるが反応はない。部屋付きの侍女が困っているのはこの所為だ。
マティアスは苦笑して室内に足を踏み入れる。この足音にもベルタは気付かず、大きな菫色の瞳は文章を追いかけ回している。絵本が読めるようになった童女のようなひたむきさで、声をかけるのを躊躇ってしまう熱意を本に向けている。
「ベルタ、ベルタ。夕食の時間だよ」
しかし読了を待ってはいられない。だって次に読む予定の本が積んである。マティアスは呼びかけながら、軽くベルタの肩に触れた。
少女の肩はマティアスの手の平が余るほど華奢で、力を込めれば壊れてしまいそうなほど薄い。細い、という感想よりも先があるとは思わなかった。
マティアスからの接触でやっと顔を上げたベルタは、大きな菫色の目を瞬かせた。
きょとんとした顔が、不意を突かれた幼子そっくりだ。
「マティアス様」
「キリが悪かったらごめんよ。夕食の時間だ。さあ、栞を挟んで本を置いて」
「はい」
つい先日ルンベック伯爵家の養子となったベルタは、呆然としていた期間を過ぎてまた猛然と本を読むようになった。
ベルタの集中力は声を掛けた程度では途絶えず、夕餉の準備が整い呼びに来た侍女が反応のないベルタに困るほどだ。今日もそうだろうと顔を出した伯爵子息に縋るような目をするくらい困っていた。まだ新米令嬢と距離感がつかめない状態なので仕方が無い。
呼びかけに反応しないという欠点はあるが、基本的にベルタは素直だ。
言われたことに素直にこくりと頷いて、レースで編まれた栞を怖々とつまみ上げ本に挟んでテーブルの上、ランプの隣に置いた。
この栞はルンベック伯爵夫人、マティアスの母の作品だ。読書量の多いベルタの為にと手ずから編んでいたのを知っている。
ランプはルンベック伯爵、マティアスの父が懇意にしている工房に頼んで作って貰ったオイルランプ。こちらも読書量の多いベルタの為に作らせた特注品。
どちらも養子のベルタを歓迎して作られた品だ。ベルタが屋敷に来てすぐ手渡された。
流されるままに養子となり屋敷に来たベルタは、しっかり用意された特注品に目を見開いて固まった。
一朝一夕で出来る品ではない。一体いつから養子先が決まっていたのかと戸惑っていた。
戸惑っていたが、受け取った物をしっかり日用品として使用するのがベルタの良い所だ。
よろよろと立ち上がるベルタをエスコートしながら来た道を引き返す。着慣れないドレス、履き慣れない上質な靴でベルタは移動もままならない。
慣れる為にと必死で着用しているが、このおぼつかなさが婚約者に接触を許す機会になっているとそろそろ気付いた方が良い。慣れていないので逃げられないのも靴とドレスの所為だし、婚約者はそのあたりを理解した上で贈っている。
しかしベルタが慣れるまでの貴重な接触なので、マティアスは口を閉じることにした。何でも一人で熟そうとするベルタなので、誰かに頼る感覚はしっかり覚えて欲しい。
よろよろ進みながらベルタが口を開く。
「本日、夕食に、伯爵様達はいらっしゃい、ますか」
「二人とも出先で済ませるようだよ」
「そう、ですか。お忙しい、ですね」
「いいことだね。これもベルタのおかげだ」
「なんで…?」
本気で意味が分からないとぐらぐら揺れながら首を傾げる。
丁寧に話そうとしている所為で言葉も辿々しく、大人びて話そうと頑張っている子供にしか見えない。二歳差だが、マティアスにはベルタが五歳以上年の離れた子供に見えていた。
ベルタがルンベック家に齎したのは食べられる草花の情報だけではなかった。
自覚はないが、ベルタが本から得た知識を細々と流してもらったこともあり、ルンベック家はベルタをとても歓迎していた。マティアスの両親がそれぞれ歓迎の品を用意する程度には。
しかし本人がよく分かっていない為、貴族は懐が広いと謎の納得をされている。
(懐の広い人はいちいち睨んでこないんだよなぁ)
学園ですれ違う度、ギリギリ睨んでくる公爵令嬢。マティアスの背中にベルタが逃げる度、にっこり睨んでくる侯爵令息などはベルタが思うほど心は広くない。
接触を図っては失敗するハンネスはともかく、マルガレータに睨まれるのはベルタがルンベック伯爵令嬢…マティアスの義妹となったからだ。
養子先の候補としてリードホルム公爵家も立候補していたので、ベルタをマティアスに取られたとギリギリしている。マティアスは何もしていないが、結果として義妹になったので恨めしくて仕方が無いらしい。
仕方の無い公爵令嬢である。実妹がいるのだから、そちらを可愛がればいいのに。
(でもマルガレータ様が恨めしく思うほど、私はベルタと打ち解けてはいない気がするな)
気の所為ではないだろう。ベルタは流されるまま養子になったが混乱していたし、伯爵令嬢として過ごすようになり教育で目を回している。なるべくフォローするようにしてはいるが、義兄妹としてまだまだ距離がある。
ベルタは比較的マティアスに懐いてくれている様子だが、やはり距離を感じる。
貴族なのだし、養子との距離感は仕方が無いかもしれない。
しかしマティアスはすっかりベルタを幼い妹のように思っていたし、一人っ子故に兄弟に憧れもあった。
思いがけず義妹を手に入れたのだから、家族として仲良くしたいと考えるのは自然なことだった。
ルンベック家は貴族としては珍しく、アットホームな伯爵家だ。
王家の覚えがめでたいのは、乳母として温かく献身的に王族に接し続けてきた実績があるからこそだ。
ベルタを養子にした事情は色々あるが、養子として迎え入れたのだから家族として仲良くしたいのはマティアスだけでなく、ルンベック家の総意なのだ。その気持ちはベルタ歓迎の品々にしっかり表れていると思う。
しかし、急に養子先が決まったベルタの戸惑いも分かる。
ルンベック家はどんと構えてベルタが歩み寄ってくるのを待つことにした。
したのだが。
「ベルタ、そろそろ呼び方を変えてみよう」
「え」
「伯爵様、ではなくお義父様、お義母様と呼ぶ方が二人は喜ぶよ」
「え」
待っているだけでは、ベルタは歩み寄ってこない。
何でも一人で熟そうとするベルタなので、こちらから少しずつ近付く必要もあった。
この提案はその内の一つだ。
「でも、私、養子で」
「養子だからこそ、養子先で良好な関係が築けていると証明する為にも、呼び方は大事じゃないかな」
「一理ある」
ベルタは割と素直だ。
釈然としない部分があっても納得したら行動する。とっても素直。
「義父上、義母上でもいいよ」
「おとうさま、おかあさまにする」
覚束無い呼び方が新鮮だ。
ベルタは口をもごもごさせて、立ち止まる。マティアスの足も自然と止まった。
ぽつぽつと廊下を照らす燭台と、窓の外で煌々と輝く月の光がぼんやり相手を照らしていた。すっかり暗くなるのが早くなった薄暗い廊下で、ベルタの大きな菫色の瞳は光源のように鮮やかだ。
「…マティアス様は、なんて呼べばいい」
「私? 私は…義兄なのだから、好きに呼んで構わないよ。堅苦しくなければそれでいいさ」
マティアスとしては、流れでお義兄様と呼ばれるものだと思っていた。
しかしベルタは窺うようにマティアスを見上げてこう言った。
「おにいちゃん…?」
小さい子が、大きな目を不安で揺らしながら、上目遣いで、窺うようにそう呼んだ。
え、かわいい。
私の妹とても可愛い。
流石のマティアスもきゅんときた。
マルガレータが日々ベルタに感じているときめきを覚える。
守らねば小さな命。
とても可愛いけれど、とても問題だ。
確実に各方向から苦情が来る。特にベルタを義妹にしたがっていたマルガレータからの苦情が容易に想像出来る。
マルガレータは年下に対して世話焼きだが、年上に対して途端に甘えたになる事が最近分かってきた。我が儘は気を許された証拠と受け入れているが、温厚な筈のベネディクトに羨ましげな視線を投げられるのでちょっと困っている。ちなみに同世代にはおすまし対応。
そう考えると、兄呼びならどれも引っかかるかもしれない。
マティアスはちょっと思案して、ベルタに問いかけた。
「ちなみにお兄ちゃん、お兄様以外だと?」
「?、マティ…?」
「愛称かぁ。堅苦しくなくて良いね。うん、嬉しいけれど」
「…マティたん…」
「その呼称は忘れよう」
最後の一つは忘れるとして、愛称呼びは嬉しいことだがまずいだろう。
にっこり笑顔で凄んでくるハンネスが容易に浮かぶ。最近わかったことだが、彼は思った以上に心が狭い。誰よりも早くベルタに愛称で呼ばれたら根に持たれかねない。
思うに、彼らはちょっと落ち着いた方が良い。余裕がなさ過ぎる。
マティアスは苦笑しながら提案した。
「呼び捨てにしない?」
「呼び捨て」
「そう。家族だから問題ないでしょ」
「…まてぃあす」
ちょっと舌足らずになるのは呼び慣れていない所為だろうか。
こういう所が、マティアスがベルタを正しい年齢よりも年下に見てしまう原因だと思う。
じっと窺ってくる視線に、マティアスはゆったりと微笑み返した。
「うん、ベルタ」
「まてぃあす、まてぃあす」
「なんだい、ベルタ」
「まてぃあす…マティアス」
覚えた単語を必死に繰り返す幼子みたいで可愛いなぁ。
ベルタの表情は変わらないが、なんとなく強ばっていた身体から力が抜けたのを感じる。きゅっとエスコートの為に触れている手が、マティアスの腕をしっかり掴んだ。
これはこれで、ハンネスからの視線が痛そうだ。
どう呼ばれても誰かしらから苦情が入るのは仕方がない。それらは困った顔をしながら受け流すことにして、マティアスの名前を繰り返すベルタの短い黒髪を柔らかく撫でた。
「さあ、行こう。今夜はベルタが全部食べられるように工夫を凝らしたそうだよ」
「頑張る、ます」
「はは、ゆっくり慣れていこう。食事も量も、口調も歩き方も」
平民と貴族では、気付かない部分も違いが多い。慣れるまでは苦労するし、慣れてからも違いに惑うことはあるだろう。その為の教育も、ルンベック家は惜しまない。
止まっていた足を動かして広間の扉を開ければ、その先には他の部屋とは比べものにならない光源。明るく照らされたテーブル。並べられた食事。二人を迎える使用人達。
入室前に、マティアスは頑張って歩くベルタにこっそり囁いた。
「改めて、ルンベック家へようこそ」
受け入れたからには最後まで責任を持って面倒を見るよ。
この家を離れても、この子はルンベック伯爵家の縁者だ。
ベルタはきょとんとマティアスを見上げて…真面目な顔で頷いた。
「よろしくお願い致します、マティアス」
「はは、堅いなぁ」
まあ、ゆっくりでいいよ。
一歩ずつ、お互い慣れていこう。
後日、ベルタからの呼び捨てに、やっぱり双方から苦情が入ったが、マティアスは困った顔で全部受け流した。