狐に捕まる
「たぁ――――――!?」
あまりの衝撃に混乱したベルタが奇声を上げて飛び上がる。
ぴょんと跳ねたベルタはそのままソファに飛び乗って、背もたれに背中をくっつけ膝を丸めて縮まった。流れるように口付けを落とされかけた手を胸に抱き、心の中で叫ぶ。触れてない!セーフ!
「どういうことだでありますか!?」
ベルタは混乱した。伯爵に養子縁組されていた時よりも混乱した。
平民とはいえ貴族に召し上げられたのだから、貴族の教えに准じなくてはならないのはわかる。優秀さを買われたのなら、投資されたのならば、それに応えなくてはならないこともわかる。
なので、婚姻相手を義父である伯爵様が選ぶのもわかる。貴族の婚姻は家同士の契約だと、学園滞在中良く理解していた。
ルンベック伯爵家がお金はないけど格式高い家なのもわかっている。領地で起きた水害への対処でお金が無いだけで、大きな失敗をしない限り恐らく数年後には元通りの資金を手にしているだろう。ただ、今、お金がないだけなのだ。長い目で見て、ここで援助なりして貸しを作るのもありだろう。それを狙っている家が複数あることもわかる。わかるとも。
わからないのはまたもやベルタの与り知れぬところで既に婚約者が決定しており―――その相手がハンネスである事実だ。
なんで、なんで元平民の婚約者が、次期宰相の侯爵嫡男?
貴族にとっての婚姻は契約だ。家同士の利害の一致。両者にとって益のある関係が好ましい。相手方に見初められるとか借金の形にされるとか様々な理由もあるが、大体は家同士の契約である。
この場合、ルンベック伯爵家はイェフォーシュ侯爵家から援助を受けられる。だが、イェフォーシュ侯爵家にとっての益とは?ベルタとハンネスが婚約することで得られる益とは?
そんなものない。ベルタにそんな価値はない。
「今の説明でわかりませんでしたか?懇切丁寧に逃げ場はないとお伝えしたつもりでしたが」
「んん…っ!?」
逃げ場ってなんだ。
目を白黒させるベルタに、ハンネスがぐいっと近づいた。ソファに膝を乗り上げ、背もたれに腕を突く。上から覆われるように近づかれ、ベルタは物理的な逃げ場を失った。逃げ場ってこれのこと?確かになくなった。さよなら。いやまだ助けが!
慌てて視線をハンネスの背後に向ける。そこには義兄となったマティアスがいる。視線で救難信号を送るが、我関せずと明後日の方向を眺めながら紅茶を嗜んでいた。なんで。さっきこっち見てたのに。なんで。
「私と婚約しなかった場合何が起きるか説明すればいいですか?」
「なんで?」
「私以外の相手では、恐らく生まれを後悔することになりますよ」
違うそうじゃない。疑問点はそこじゃない。
優秀さで召し上げられたからと言って生まれが変わるわけでなく、家同士の婚姻だからこそその血筋を重視する者が多いのは当然だ。伯爵家目当てで婚姻するなら、ベルタじゃだめだ。普通成立しない。
…成立、しない…のに、既に婚約が成立しているならばその理由は?なんで?
「…は、ハンネス様が何故、私と婚約なんて?もっといい条件の令嬢が、居るはず…」
言いながら学園の令嬢たちを反芻する。反芻する…あ、大体いいところのご令嬢は最近御婚約ラッシュだった。売約済みだ。条件のいい娘いるか?どうだったかな?というかなんで御婚約ラッシュが起きた?思わず首を傾げた。
自分が無自覚に仲介していた結果だとは夢にも思わない。まず自覚していない。
「家柄だけで言うならその通りですね。マルガレータ様の妹から辺境伯の末娘まで、選ぼうと思えば釣り合う令嬢はどこにでもいるでしょう。私は侯爵家の跡取りでもありますが、光栄なことに次期宰相とも言われています。私の妻は、社交的で女主人として家を守れる令嬢が好ましい」
「完全に私選考外じゃないか、です」
「いえ、今から教育すれば貴方は誰より立派な女主人になる」
ギラリとハンネスの目が光る。ベルタは一向に逸らされない視線に竦み上がった。
「貴方程教育し甲斐がありそうな女性も珍しい。社交はさほど気にしなくて構いません。貴方はその勤勉さで、女主人として我が家を仕切っていればそれでいい」
「いいわけがあるかですよ」
「そもそも、身分が釣り合っていても中身が伴っていなければ意味がありません。社交的でも隙だらけでは意味がない。貴方は原石です。教育を受けていないだけで、これから叩き込めば淑女として申し分ない。幸い私が跡を継ぐのは数年先の話。時間はたっぷりあります」
たっぷり扱き甲斐があると聞こえる。寒気がした。
ハンネスがここまでベルタを買う意味が分からない。
養子縁組は、何とか呑み込める。いやまだ呑み込めない。何故自分がそこまで買われているのか不明だが、そこから更に嫁として望まれるなど、意味が分からない。
…いやでも、原石だとか教育とか時間があるとかこれから育て上げることを前提としているという事は、むしろまっさらな現状がお気に召しているという事で。
これは、もしかして『わたしがかんがえたさいきょうのよめ』を育成しようとしている…?
何も知らない平民の女を自分好みの淑女に仕立てたい可能性があるのでは?
もしやそういう性癖の人では?
ベルタはハンネスと目を合わせたまま蒼白になる。
「――――というのはすべて建前で」
その蒼白な頬に、白い手袋が添えられた。
「私が貴方でないと駄目なのです」
合わさった視線が、柔らかくなる。追い詰めるようなぎらつきが薄まって、茶色い瞳が愛おしむ様な眼差しに変化する。そんな目は見たことが無くてベルタは菫色の瞳を見張った。誰だこいつは。本当にハンネス・イェフォーシュか。
「貴方が欲しい」
両手で頬を包まれて、身を屈めるように額同士をくっつけて。
至近距離で甘く柔らかな瞳が笑う。
あまりの近さに互いの瞳の色しか見えない。ハンネスは徹底して、ベルタに視線を逸らさせない。ふと気づいた。
ハンネスの瞳の色は、茶色かと思ったら違う。もっと赤みがある…。
「ベネディクト殿下もマルガレータ様も、ベルタを幸せにするならと許可を下さいました―――後は貴方が、逃げ場はないと観念するだけです」
弓なりになる瞳。その色に思い至る。
狐だ。
狐色だ。
「大丈夫。仔猫の相手をするように優しくします」
狐色の目をしたハンネスは、本当に優しく微笑んで―――逃がさぬと言わんばかりにベルタを抱擁した。甘さよりも捕獲された緊迫感がベルタを包む。がっちり身動きを制する腕だった。
そんなハンネスの肩越しに、菩薩の様な表情のマティアスと目が合う。再び送った救難信号は、相変わらず受信されない。
彼はゆっくりと、諦めろと言わんばかりに首を振った。
伯爵家である彼らが、侯爵家のハンネスに逆らえるわけがなかった。
ベルタは虎の威を借る狐になりたかった。
だけど結局、無力な仔猫でしかなかった。
虎の威を借りたかった仔猫は、虎の威を借る狐にがっしり捕まえられた。
本編完結
後一話だけ番外編が入ります。もうちょっとお付き合いください。




