モリーエール氏の悩み
聖都を離れること何百里。鄙びた村の片隅に、元白の司教モリーエール氏の別荘はあった。
質素ではあるが粗末ではない内装。元々終の棲家として準備していたものだ。
氏の予定より随分早い隠居生活。それでも概ね満足であった。
聖都で権力闘争に明け暮れていた日々と比べれば、田舎暮らしは平穏そのもの。
人が暮らす世界であるから争いごとと無縁ではないが、牛泥棒が村始まって以来の大事件だと言うのだから次元が違う。
蓄えた莫大な資産は、聖都を去る部下達に分け与えた。千人で分ければ大した額ではなかったが、それでも
贅沢をしなければ生活に困窮する者はいない筈だ。
モリーエール氏の気前のいい行動を、らしくないと驚いた者達も多かった。なんのことはない、大金を持ち出そうとすれば、勇者に見つかって奪われるだろうと考えてのことだった。
理由はどうであれ、氏のばら撒いた金のおかげで部下達とその家族は救われたことも確かだった。金さえあれば、誰もが聖都を逃げ出したいと思っていたのだ。
心残りがあるとするならば、秘蔵の茶葉をほとんど持ち出せなかったこと。勇者に見つかり全て巻き上げられてしまった。
別荘にも多少の用意はあるが、毎日楽しむにはいささか心もとない。
そんな状況であったから、マンドレイク商会の者が訪れたと報告を受けた時は、内心躍り上がって喜んだのだった。
「お久しぶりです、神父様」
見覚えのある若い男だった。肩書きを間違えたことに悪意はないのだろう。意外なことに、大商会にもかかわらず、地位や身分を左程重要視していない。全てにおいて不思議な連中だ。
「時が経つのは早いもの。いえ、時間よりも世の中の移り変わりについていけませんでな。今は隠居のただの爺です」
既に自分には何の利用価値もないことを、モリーエール氏は自覚していた。同時に、茶葉や砂糖がマンドレイク商会にとって取るに足らない価値しかないことも。
何故やって来たのかは不明だが、それなりの手土産は期待できる相手だ。
「以前はお忙しそうでお誘いできなかったんですが、今ならお時間とれるかと思いまして。我が商会が誇る茶畑を見学なさいませんか?」
「茶畑ですと! それは是非ともお願いしたいところではありますが、私などよろしいので?」
「大事なのは、お茶への愛です」
「それは確かに。わかります!」
旅立ちの準備はすぐに整った。使用人に別荘の管理を任せ、たった一人の供を連れて空飛ぶ絨毯に乗り込む。
地位や身分が無いと言うことが、これほど身軽だったとは。悪くないものだとモリーエール氏は改めて実感する。
空飛ぶ絨毯には、商会の若い娘が一人。先程の若者と視線で会話している。恋仲なのであろうか?
色恋沙汰などとうの昔に忘れたつもりであったが、時ならぬ冒険の始まりに、心が若返っているのかもしれぬ。
モリーエール氏とその従者を前に乗せ、絨毯はふわりと舞い上がる。
意外にも、宙に浮いても絨毯は微動だにしない。まるで硬い石の床の上にいるようだ。
従者は元聖鎧の騎士であるし、モリーエール氏も空を飛んだことはある。だが、空飛ぶ絨毯の飛行はあまりにも異質。そう……まるで飛んでいないかのようだ。
「速すぎます! 聖鎧の十倍以上です!」
従者が情けない声を上げるのも無理はない。この絨毯なら勇者の聖鎧であっても悠々振り切ることができるだろう。あの雷電から逃れられるかは不明であるが。
海上に出ると、絨毯はさらに速く、高く、雲さえ突き抜けて蒼穹を飛ぶ。
「凄い凄い! 雲の上はいつも快晴なのですね」
従者は一周回って吹っ切れたのか、子供の様にはしゃいでいる。
モリーエール氏は言葉もない。
だが、本当に驚くのはこれからだった。
「し、島が空に浮いてる!!」
「う、狼狽えるな。空飛ぶ島の伝承は多い。存在しても不思議ではない」
言いながらも、高ぶる胸の鼓動を押さえきれない元司教であった。