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色々  作者: 横井 竜胆
14/14

14. 中島君

 顔も名前も忘れてしまった同級生はたくさんいるが、中島君のことは今もまだしっかりと覚えている。中島君は忘れたくない部類の、とても思い入れのある同級生というわけではなく、どちらかといえばさっさと忘れてしまいたいタイプに当たるのだが、あまりにもインパクトが強すぎて、記憶の束からうまくフェイドアウトしてくれないのだ。見た目は中肉中背の東アジア系で、どちらかと言うとおとなしいタイプ。もっと言うと陰キャと呼ばれるような印象の子で、運動ができそうな雰囲気もなかった。それもこれも日本の、東京の、18歳の俺が知る限りの狭い場所の基準の話で、もしかしたら中島君には何かしかの隠し玉があったのかもしれない。中島君のことをそこまでよく知る前に彼とは会わなくなってしまったので、今となっては知る由もない。ただ彼のことを忘れられない自分の記憶が、日々俺に無意識化で囁くだけだ。忘れるな。おまえもああなっていておかしくなかったんだ、と。


 中島君と初めて会ったのは九段下の雑居ビルの貸会議室で、大学の留学生向け奨学金の説明会の時だった。俺たちはその時高校2年生で、どちらも16とか、17とか、そのくらいの年齢で、保護者に付き添われていた。その時に来ていた男子は俺たち2人だけで、その他にグループで来たらしい女子生徒が10人近くいた。付き添いの保護者との話を聞いていると、有名なインターナショナルスクールに通っている子たちで、どの子たちもアメリカかイギリスの大学が第一志望のようだった。狭い貸し会議室の中での会話は受付にいた大学側の関係者にもしっかり聞こえているらしく、ダークスーツの下に着こんだカットソーの胸元にUniversity of Hikojimaと書かれたスカーフを巻いているその若い女性は苦笑いをしていた。俺と中島君は目配せをして、お互いに苦笑をした。


「君も、彦島大学への留学を考えているの?」


 最初に話しかけたのは中島君の方だったが、その声は緊張で上擦っていた。


「うん。何ていうか、そのまま上の大学に上がるのもどうかと思ってて、ね」


 言外に、付属の高校に通っていることを匂わせたら、中島君はにやりと笑った。


「そうなんだ。実は僕もなんだ。変わらない顔ぶれの連中に囲まれて、さらに4年も過ごすなんて、世界が狭くなるんじゃないかと思ってね」


 実際には、俺はその当時、エスカレーター式の高校を成績不良で留年しかかっていて、進級の見込みもかなり怪しい状況だった。中島君もまた、同級生と上手くいってなくて教室に通えず、保健室に行ったり行かなかったりしていた。それでも、俺たちはインターの陽キャの女子たちとは違う風に見えるように、精一杯胸と虚勢を張っていた。どちらの保護者もその会話を聞いて滑稽に思ったことだろう。


 説明会が始まり、大学側の関係者である女性がマイクを握り、奨学金の選考基準について説明した。成績、志望理由、推薦状、面接。どれも俺にとっては言葉だけが先行して、実感の伴わない項目だった。中島君はさっきまでの軽口が嘘のように、背筋を伸ばして話を聞いていた。俺はというと、手元の資料に印刷されたキャンパスの写真を眺めながら、ここに本当に自分が立っている姿を想像しようとして、うまくいかずにいた。


 説明が終わり、質疑応答の時間になると、インターの女子たちが次々と手を挙げた。ダブルメジャーは可能か、インターンの斡旋はあるか、卒業後の進路実績はどうか。インターの教育の賜物なのか、質問をする彼女たちは軽やかで、楽しそうにすら見えた。質問は当時の俺の耳にはどれもよく準備されたものに聞こえた。俺は自分が完全に場違いな存在だと思いながら、椅子の背に体を預け、早く終わらないかと天井の蛍光灯を見上げた。


 そのとき、中島君が手を挙げた。


 一瞬、心臓が跳ねた。彼が質問するとは思っていなかったからだ。中島君は指名されると、立ち上がり、少し言葉を探すように間を置いてから話し始めた。


「奨学金を受けて留学した場合、途中で成績が落ちたり、環境に適応できなかった場合はどうなりますか?」


 会議室の空気が、わずかに変わった。職員の女性は一瞬だけ言葉に詰まり、定型文のような回答を返した。支援体制は整っている、ただし一定の基準を満たせなければ支給は停止される可能性がある、と。


 中島君は礼を言い。頭を下げて座った。その横顔は、さっきまでよりもずっと青白く見えた。俺はなぜか、その質問が彼自身に向けられたもののように感じた。いや、実際そうだったのだろう。あの質問は、夢や希望のためのものではなく、失敗したときの話だった。


 説明会が終わり、親たちが説明してくれた女性と名刺交換を始める中、俺と中島君は会議室を抜け出して廊下に出た。窓の外では、九段下の交差点を行き交う車の列が、午後の光を反射していた。


「さっきの質問、鋭かったじゃん」


 俺がそう言うと、中島君は苦笑いをした。


「そう? ただ気になっただけだよ。行くなら、ちゃんと知っておかないと」

「行く気、強いんだ」


 その言葉に、中島君は少し考え込むような顔をした。


「強いっていうか……ここしかない気がしてる」


 俺はそれ以上何も聞かなかった。聞いてしまえば、きっと自分の立場がはっきりしてしまう気がしたからだ。俺には「ここしかない」なんて言える場所はなかった。どこでもよくて、どこにも行きたくなかった。


 蓋を開けてみると、奨学金をもらえることになったのは中島君と俺の2人だった。あれだけ熱心に質問していた女子たちは誰一人として彦島大学に進学しなかった。初日のオリエンテーションで他の国の学生の中に中島君を見つけて話しかけた俺がそのことについて触れると、彼はまたしても苦笑いを浮かべた。


「あの子たち、みんなそれぞれアメリカかカナダの大学に進学したらしいよ。ご両親が寄付者だったんだってさ。彦島大学は滑り止めだったんだよ」


 いろいろな国からやってきた留学生が全部で50人程度いる中で、中島君と俺は2人とも断トツに英語ができなかった。他のアジアの国々から来た学生と一緒にESLと呼ばれる英語の補修の講座を取るように言われて、2人とも最下位のクラスに入れられた。3か月間英語を読んで聞いて話して書かせるスパルタ式のコースで、中島君と俺は2人で最下位クラスのびりっけつを争っていた。中島君は文法がよくできたが、書いたり話したりするのは苦手で、聞く方は壊滅的だった。俺はどれもまんべんなくダメだったが、まだ聞く方と話す方はマシだった。スペイン出身だと豪語するフィリピン人の英語講師たちは俺たちを容赦なく指名し、間違いをその場で訂正し、時にはもの笑いの種にした。笑われると分かっていても声を出さなければならない教室は、俺にとっては高校のそれよりもずっと息苦しかった。中島君はそんな中、笑われても馬鹿にされても、必死に食らいついていた。ノートはいつもびっしりで、余白には日本語で小さなメモが書き込まれていた。


 授業が終わると、俺たちは学食で安いセットを頼み、黙って食べることが多かった。授業の外でも英語で喋るように言われていたせいだったかもしれない。長い黙食の後で、たまに中島君が、日本語でぽつりと愚痴をこぼすことがあった。


「英語ってさ、努力した量がそのまま返ってくるって思ってたんだ」

「だよな。でも違った?」

「うん。返ってはくるんだけど……利息がつかない」


 その言い回しが妙に印象に残っている。俺は笑ってごまかしたが、内心では同じことを思っていた。やってもやっても追いつかない感覚。スタートラインが違うという事実を、ここでは誰も配慮してくれない。


 2か月が過ぎると、彦島大学の社会人向け講座を受講するようになった。俺はその時までに大分聞いて話せるようになっていたので、追いつかない課題図書の理解を授業中に補うことができるようになり、授業でも発言する機会が増えていった。反対に、予習をして授業の内容をしっかり把握している中島君はどんどんふさぎ込み、簡単な挨拶すら誰とも目を合わせて話さなくなった。それから少しずつ、俺たちの生活リズムはずれていった。俺は拙いながらも授業についていくことでクラスメートの連中と会話を交わすようになり、それからますます英語に慣れていったが、中島君は講座に参加している社会人の誰とも話さず過ごし、挙句の果てには俺とも話さなくなった。食事の時間も合わなくなり、顔を合わせても軽く手を挙げるだけになった。ある日、図書館の端の席で中島君を見かけた。参考書とノートを広げてはいたが、視線は文字を追っていなかった。声をかけようか迷っているうちに、彼は荷物をまとめて立ち上がり、そのまま外に出ていった。


 その後、中島君は授業に来なくなった。最初は一日、次に二日、やがてそれが当たり前になった。噂はすぐに回った。体調不良だとか、手続きの問題だとか。俺は直接確かめる勇気がなく、メールも打てずにいた。 数週間後、奨学金事務局から全体メールが届いた。支援体制の見直しについて、抽象的な言葉で書かれたお知らせだった。その文面を読んだ瞬間、俺は中島君の質問を思い出した。途中で成績が落ちたり、環境に適応できなかった場合はどうなりますか、と。中島君がどうなったのか、俺は最後まで正確には知らない。帰国したという話も聞いたし、別のプログラムに移ったという噂もあった。ただ一つ確かなのは、ESLが終わって、前学期のオリエンテーションに、彼の姿がなかったということだけだ。


 中島君のことを思い出すたびに、最下位クラスの教室の空気が蘇る。間違えることが前提で、脱落することが想定されている場所。あの場所で彼は、最初から自分の失敗を想像していた。だからこそ、あんな質問をしたのだろう。そのことに思い至る度に、漠然とした恐怖を伴う記憶が俺の無意識に囁く。忘れるな。おまえもああなっていておかしくなかったんだ。ただ運が良かっただけ。それを忘れるな。


 その囁きは、今も俺の中で聞こえる。成功したとは思わないこと。運よく、踏み外さなかっただけ。その事実を、中島君は俺に突きつけたまま、俺の記憶の束の中に居座り続けている。

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