13. 昔の男はアレな奴でした。
昔から上手い話には裏があった。最近じゃ無料の物には広告が付くが、無料より高いものはないとはもう言わない。私たち自身が安くなったせいなのだろう。
「そうか? でもおフェミちゃんは安い高いで言ったら、高そうな女だけどな。」
そう言う今の恋人の言葉を聞いて、私は急に前の男のことを思い出す。
「そうすか? でもおねーさんはマジ高そうな女じゃないっすか。いくつかランク上な感じしますよ、俺なんかと違って。タバコ吸わなきゃ、もっと良いとこのお嬢っぽく見えますよ。」
前の男に昔、そう言われたことがあった。既視感ならぬ既聴感を覚えたのは、内容が半分ほぼ丸かぶりだったせいだ。
前の男と付き合い始めた時はまだ紙のタバコを吸っていた。電子タバコを吸い始めたのはそいつの影響だ。前の男は控えめに言ってしょうもない男で、いつか俺はビッグになるから見とけと言いながら、開店前のパチンコ屋に並ぶ以外の努力らしい努力を一切できないような奴だった。北陸だったか東北だったか、そっち方面から出てきた男で、わざわざ専門学校に通うために上京してきたと自慢げに言っていた。夜の街で終電後も営業しているのが売りのバーで働いていて、放射線技師の資格が欲しいけれど今年はもう国家試験は無理かもしれないと、午前3時にカウンターの向こうで青白い顔をへらへらさせて笑っていた。
「よくわからない奴だな、おまえ。」
学生時代の付き合いで顔を出した飲み会で変えるタイミングを失い惰性で3次会の終わりまで酔っ払いについて歩いていた私は、初めて来た店の、初めて会った相手に、私が私自身に感じていた感情をそのまま、あてつけのようにぶつけた。
「そっすかねー、いや、でも俺はビッグになってやるっす。」
意味がわからなかったので、適当にあしらった。
「何だよそれ、わけわからないぜ。」
奴はそう言われて、そりゃそんだけお酒回ってたら何もかんもわかんないでしょーよ、と半笑いで答えた。
今から思っても不思議だが、どうしてこんな奴と、短い間でも付き合うことになったのだろう。いや、何が起こったのかを時系列で追っていくことはできるのだ。付き合いで3次会まで行って帰った飲み会の次の週に、研究室で朝まで作業した後、どうにか最寄りの駅までたどり着き、へろへろになりながら商店街を歩いていたら、大きな声で誰かが誰かに呼び掛けているのを聞いて、目線を上げたら奴がいた。
「おねーさん、お疲れっす。顔死んでません? 徹夜明けっすか?」
「おまえもな。朝まで営業している店のバーテンが、何で朝7時に外で活動しているんだ?」
「いや、ほら、ここのパチ屋ね、朝イチだといい台確保できるんすよ。まじで、ガバガバ出るっす。もー信じられないぐらい。ヤバいんすよ。寝てる場合じゃないんす。」
「よくわからないぜ。睡眠以上に重要なものなのか?」
「いやー、ほら、俺まだ若いんで! 体力にも自信ありますし。」
「体力に自信を持つんじゃなくて、徹夜明けで死にそうになってる年上の女をディスって楽しむ無神経さに疑問点を持てよ。」
「あははは、おねーさんめっちゃ言い返してくるじゃないっすか。そっちに自信も疑問もまだ持てないっす。俺、綺麗なおねーさんと話すと緊張しちゃうんで。」
「ミリもそんな気配なさそうだがな。おまえの職場もそもそも仕事明けたキャバ嬢が主なターゲットの店だろう。」
「またまたー、おねーさん怖いっす。あははは。そんなこと言って眉間に皺寄せないで、スマイルお願いしますよ、スマイル。そうだ、俺今日勝ったら1杯なんか奢りますよ。良かったらまた店来てください。」
「深夜に女一人で出歩けってか? 随分な話だな。」
「え? ご希望なら迎えにも行きますよー、あはは。」
お互いに徹夜明けの謎なノリで話していたからだろうか、突拍子もなく私たちは連絡先を交換し、奴は開店直後に目当ての台を確保すべく路上で順番待ちを続け、私はゴミ屋敷一歩手前のワンルームマンションに帰って泥のように眠った。その日の夕方には、パチンコで大勝ちしたというメッセージが私の携帯に入っていた。 <奢りますんで良かったらお店来てください。店自体は7時から空いてるっす。> メッセージの語り口まで体育会の後輩口調なのがちょっと面白かった。そのせいだろうか、夜、商店街で少しだけ買い物を済ませた後に、特に立ち寄るつもりもなかったのに、何となく足が向いて、気が付くと雑居ビルの1階の奥まったところにある店のドアをくぐっていた。ちょっと胡散臭い感じの店のドアを開けると、奴がグラスを磨いていて、私の顔を見て、笑顔を浮かべた。
「いらっしゃいませ。よかったらカウンターにどうぞ。来てくれたんすね。マジ嬉しいっす。」
夜な夜な白衣を着て、延々とスポイトを試験管に垂らす日々が続いていた私は、随分と久しぶりの人間らしい会話に何だかふわふわした気持ちになった。マジ嬉しいっす? ふざけるな。私がどれだけ誰かからの無邪気な優しさに飢えていたか、おまえなんかにわかるわけがないだろう。
その当時の私の状況はといえば、正直に言って人生で何度目かの体感最悪記録を更新するような日々で、誰かとまともに喋るだけで涙が出そうになるような有様だった。出口のない繰り返しの日々。最後に日光を浴びたのがいつか思い出せないほど曖昧な記憶。いつもほとんど空の預金残高。入金されたそばからクレジットカードの決済で消える給料。ゴミ屋敷一歩手前の汚部屋。ドライじゃないマティーニで満たされたカクテルグラスが私の目の前に置かれるまでの間、私は涙をこらえていた。でもマティーニに口をつけて飲んだら、口の中で何かがはらりと解けて、気がついたら涙が頬の上を流れていた。
「大丈夫ですか? これ、使ってください。」
自分が泣いてるのに私が気がついたのとほぼ同時に、熱いおしぼりが2つと箱入りのティシュが1つ出てきた。白いおしぼりはともかく、メーカーのロゴがしっかり入っているティッシュの箱はカクテルグラスの隣に置かれるにはあまりにも生活感がありすぎた。
「すまないな、パチンカス。自分でも、よくわからなくてな。なんだろうな、疲れていたんだろうか。」
「パチンカスって、呼び名よ。 あだ名にしても笑っちゃうほど酷いっすね 。俺のマティーニ、泣くほど美味かったんですよね? Googleマップでうちの店のレビュー書いて下さいよ。美味すぎて涙出たって。」
「ふざけるな、パチンカス。誇大広告で消費者庁の指導が入るぞ。」
「実際泣いてるおねーさんが言っても説得力ゼロっすよ。俺のマティーニが美味すぎるってことにしときましょ。それでみんなWin-winじゃないっすか。」
「勝手にWinの範疇に入れるな。」
「そんな照れなくても。ナカーマ、ナカーマ。」
「馬鹿野郎、一緒にするな。パチンカス、タバコが吸いたい。灰皿をよこせ。」
「はいはい。」
それは梅雨明けの初夏のことで、その日を境に、夜勤明けの仕事帰りの私は、朝日に照らされる枯れた紫陽花を横目に最寄り駅の路地の奥にある閉店間際のバーに通うようになった。
しょうもないパチンカスのバーテンダーの男が閉店作業をする横でアイスティーを飲みながらタバコを吸ってたわいもない話をし、それから男と一緒に店を出て早朝営業をしている喫茶店でコーヒーを飲みながらモーニングを食べた。男はモーニングを食べた後、開店前のパチンコ屋に並びに行き、私は自分の家に帰って寝た。昼頃に起きると、男からパチンコに勝ったから奢ってやると連絡が来た。奇妙なことに、いつも勝ったという報告しか来ることがなかった。一週間ほどそんなやりとりを続けた後に、そんな毎日勝てるわけがないだろうと問いただすと、しょうもない前の男は言った。
「えー、なんか俺、いっつも勝っちゃうんですよねー。よくわかんないっすけど。まあでもガバガバ出るあの店も、いつ店舗側に対策されるかわかんないし。いつまで続くかわかんないっすけど。」
「よく分からないぜ、パチンカスよ。もし私に合う口実が欲しくていつも勝ったと言っているのなら今すぐやめろ。おまえが勝ってようが負けてようが、一緒にモーニングを食べるくらいならいくらでもしてやるぞ。」
私の言葉に男は苦笑いをする。
「いやあのね、おねーさん、俺マジで勝ってるから。てゆーか俺、ギャンブルって負けたことないんで。」
「ギャンブルと言うが、結局は確率論だろう? 大数の法則は結局は正しいんだ。おまえが毎日勝つ確率なんて天文学的なそれだぞ?」
「いやまあ、そーなんすけどね。あ、じゃああれだ。今日も勝ったらおねーさんの家で飯食わせて下さいよ。」
「馬鹿野郎、そんなこと許すわけないだろうが。」
「えー、だって天文学的な確率でしか起こんないわけでしょ? じゃあいいじゃないっすか。はい決まりねー、終わったら連絡しますから。」
人間の人生という物語のご都合主義は大数の法則を軽く凌駕するらしい。その日、これまで以上の大当たりを引き当てたバーテンダーは大勝の興奮そのままに電話をかけてきて私を起こし、苛立ち紛れの面倒臭さのせいで私が教えた住所のマンションへ上がりこもうとしたらキャミソール姿で寝る私のいる汚部屋にご対面し、飯を食う前に2時間かけて掃除をすることになった。
「おねーさん、マジここでずっと住んでたんですかー? メンタル強すぎじゃないっすか? マジ半端ねー。」
半端ないのはこの男の面倒見と体力と几帳面さだと思いながら、私は残り一本になっていた紙タバコを吸いながらパチンカス・バーテンダーが掃除するのを寝起きのぼんやり加減を持て余しながら眺めてきた。紙タバコがなくなった後は、仕方がないので男の持っていた電子タバコを吸った。掃除が終わると男は冷蔵庫の中にたまたま入っていたスパゲティと牛乳とたらこでたらこスパゲティを作った。私達はスパゲティを食べ、それから眠かったので一緒のベッドで眠った。夕暮れ時に目を覚ますと男はいなかった。私は仕事に出かけて、夜中の間仕事をし、始発で帰ってきてバーに行くと、男が閉店作業をしていた。
「いらっしゃいー。おねーさん、朝ごはんどうしますー?」
男が聞くので、私は家で食べようと誘った。男は黙ってついてきて、私とご飯を食べた。食事の後、男はパチンコに行かず、またベッドで私と一緒に眠った。起きたら男が私を見ていた。私は男とキスをした。
「パチンコは行かないのか、パチンカスよ。」
「呼び方よ。パチンコは昨日で終わりなんすよー。今日からはおねーさんに全ベットします。」
「よくわからないぜ。全ベットされても確変演出もなんも出ないぞ?」
「そんなことないっすよー、ほらちょっと目を閉じてみて。」
目を閉じたら唇に柔らかいものがまた触れた。
「おねーさん、抱いていいっすか?」
「ふざけるな。私はそんなに軽くも安くもない。」
「知ってます。マジ高いハイランクな女だってこの前言ったじゃないっすかー。あ、電子タバコ吸います? 紙のがいいのはわかりますけど、電子も悪くないっすよ。」
前の男についての特筆すべきエピソードはそんなものである。夏が終わるまで私達は半同棲みたいな日々を過ごしたが、短い秋が秋らしさを見せる前に、男は店を放り出して姿を消した。姿を消す前日、男はベッドに横たわって電子タバコを吸いながら、最高においしい儲け話が回ってきたと興奮気味に語った。
「おねーさん、俺明日からしばらく留守にします。帰りはちょっといつになるのかまだわかんないっす。店は休みとるんで大丈夫っす。代わりの人も他の店舗から派遣してもらえるそうです。今回の仕事がうまくいったら、まとまった金が手元に残るはずなんで、ティファニーのペアリング買いましょ。それと、もう少し広い部屋借りて、二人で一緒に住みましょ。俺、掃除も料理もしますよ。きっと楽しくやれるから。」
案の定というべきか、それっきり奴から連絡はなくなった。
それから数年が経ったある日、ベッドの中で携帯をいじっていると、唐突にそいつの名前に出くわした。東南アジアのとある国で、組織的な詐欺行為に無理やり加担させられていたと主張して大使館に駆け込んだ複数の邦人の名前の中に奴のものが混じっていた。国際問題にしたくない地元の当局は即刻第三国への出国措置を取ったらしい。そのうち何人かには日本で行われた詐欺行為の計画と実行で逮捕状が出ていて、第三国へ出国した後ほとんど間をおかずに任意で事情聴取が行われ、日本へ送還され、飛行機が日本の領空に入った瞬間に手錠をかけられた。その何人かの中に、奴の名前はなかった。今も逃亡中なのかどうか、私は知らない。知りたくもない。
「おフェミちゃん、最近ベイプ吸う量減ったよね。」
特に何かをしているわけでもないふとした瞬間に、今つきあっている恋人が言った言葉に私ははっとさせられた。付き合い始めて半年と少し。正直死ぬほど胡散臭くて何をやっているのかわからない。
「どうかな。」
生返事をした私に向き直った男は距離をつめてきて、私達はキスをした。
「愛しているよ。」
「急に妙なことを。おまえ、どうした?」
「いや別に。今言っておかないと、おフェミちゃんが消えていなくなりそうな気がしたわけでもなく。」
「わけでもなく?」
「わけでもないね。でも言いたくて。」
「そうか。良い心がけだ。いつ何時、二度と会えなくなるかもわからないからな。いつまでも愛があたりまえにそこにあると思うなよ。上手い話には裏があると思えよ。裏がないのは私との関係性くらいのものだぞ。」
「おフェミちゃん、今日なんかあった?」
「何もないけどな、何となくだ。今日もいい日だよな。でも明日が私との今生の別れになるかもしれないと思いながらしっかり愛せよ。私も愛してるからな。それだけ覚えておけよ。ティファニーのペアリングとか急に買ってきたりしなくていいからな? それより今日も明日も明後日も私の隣でちゃんと私のことを愛せよ? 明日いなくなったりするなよ。ずっとずっと一緒だぞ?」
「やっぱなんかあったでしょ?」
「別にいいだろ。色々あるんだよ。毎日ニュースが目白押しだ。時間は一瞬足りとも止まらないんだよ。そのくらい分かっといてくれよ。頼むぜマイメン。」