李焔編第零話・少女と道化師の邂逅
ここからは、李焔の独り語りです
ああ、また幾度目かもわからない死が、訪れる―――――――。
※
ここは、終わっている場。
たとえるのならば、その一言につきました。
かつて日本軍が敵国の捕虜たちを捕らえ、閉じ込めていた場所。
毎日厳しい労働を強いられ、満足な食事も与えられずに、時には酷い拷問が行われていた場所。
ですからここは――――、終わっている、場なのです。
ただ独り、ここに在り続けた僕は、そう思いました。
生きていた頃は、ただただ無念だったように思います。
戦争の時代です。人が争い、憎みあい、殺しあった―――時代です。
僕の人生は人からみて―――幸せだったとは、言えないのでございましょう。
しかし幸せだったときも、確かに存在していました。
同じ釜の飯を食った友人たちと笑いあい―――恋人と、将来を語り合ったりもしました。
結局、望んだ未来は―――訪れなかったけれど。
辛くはなかった。
悲しくはなかった。
しかし―――、寂しさは、感じました。
それでも悔いは、ありませんでした。
そう、思っていたのに。
しばらくして、ここにも人が訪れるようになりました。
しかし、ここに連れられてくる人々は皆、命の輝きを失った目をした者ばかりでした。
罪人、なのでしょうか。
ここはさながら、牢獄のようでした。
しかし彼らは、罪人ではありません。
病に身体を侵された―――患者、だったのです。
なんとも、人とは惨いことをする生き物なのでしょうか。
皮肉にも、それは戦時中と使い道がまったく変わっていない―――ただの、牢獄でした。
ずっとここから動けない僕にはよくわかりませんでしたが、彼らの悲痛な心の嘆きが伝わってくるようでした。
僕自身にとっても、それはさながら拷問のようで。
神はなんと、無慈悲な存在なのでしょうか。
感染者として、彼らは幽閉され、満足な食料も与えられずに―――たった独りで死んでいくのです。
一体どんなに辛く、悲しいことなのでしょうか。
僕はただそんなことを、ぼんやり考えていました。
そして何年か過ぎたある日、独りの少女がここに連れられてきました。
かわいそうに、僕が今まで見つめてきた彼らの中で、おそらく一番若かったことのように思います。
愛も恋も知らず―――、我が子を抱く喜びも知らずに、病にかかってしまったのでしょうか。
ですが彼女には、他の者たちにはない、命の輝きがあったのでございました。
諦めている瞳には、とても見えませんでした。
しかしこの世界を、酷く憎んでいることが伝わってきました。
悲しみに打ちひしがれ、心も身体もずたずたになっているのに、彼女は生きようとしていました。
僕は―――彼女に、惹かれた。
僕がどんなに手を伸ばしたって届かないものが、そこにはある気がしてしまったのです。
もう既に僕の物語は―――とっくの昔に、幕を閉じてしまっているにも関わらず、です。
滑稽でした。
道化のように、滑稽だったのでございます。
しかし彼女を見ていると、なんだか僕の物語に続きがあるような、そんな気にさせられました。
変われる―――気がしました。
そして彼女はそのうち、僕のいる裏庭に姿を現すようになりました。
しかし、生きている彼女に僕の姿が視えるはずもなく―――彼女は固く閉ざされた扉を、どこか恨めしそうに眺めているだけでした。
「一体どこの誰ですか?貴女は」
自分でも驚きました。
関われるはずのない彼女に僕は―――、声をかけて、いたのです。
ですが彼女は、ゆっくりと、振り向きました。
驚きと同時に、僕の心は、高揚しました。
「僕は名乗るほどのモノではありませんが―――、貴女の名は、なんとおっしゃるのですか?」
「……」
「えーっと、…大丈夫、ですか…?」
「……」
彼女は、何も答えません。
やはり、僕の姿は見えないのでしょうか…。
しかし、やはり彼女は僕を視ているようでした。
ですからなんとなく、からかってみたくなったのです。
「ここは既に、終わっている場。しかし貴女がここを通りたいと願うのならば、僕がお手伝い致しましょうか?」
そう、くすくすと笑いながら、僕は言いました。
今思えば、傷心の少女である彼女に対して、酷く無神経なことを言ってしまったものだと思います。
やはり気に障ってしまったようで、彼女は狼の如く、僕を静かに睨みました。
「そんなに睨まないで下さいよ…せっかくの美人さんが台無しですよ?僕のこと、ちゃんと視えているのでしょう?」
しかし僕は本当に子どもで、憎まれ口を叩くだけです。
彼女も我慢の限界だったのか、ようやく口を開きました。
「はっ、さっきからあんた何様のつもりなの?挑発してるつもり?人の気を逆撫でしてそんなに楽しい?そんなに今の私は―――、からかいがいのある女なのかしら」
なんだか嬉しかったです。
彼女が僕の言葉に応えてくれたのが―――、だって人と交わす言葉など、実に久しぶりだったからです。
「まあまあ、落ち着いて下さいよ…ただ、貴女がここから出たそうにしているから、声をかけてみただけですよ。」
彼女は鋭く僕を睨みつけると、思い切り僕の座っている鉄格子を蹴り付けました。
とても淑女のすることではなかったので、僕は少し驚いて無様にも落下してしまいました。
「く、っはは…あはは、余裕ぶっといて、簡単に落ちるし、馬鹿みたい……」
彼女は、笑っていました。
なんだかその笑顔が、あの時の僕には眩しく思えました。
とても美しいと、そう思いました。
「…」
「…って、ごめんなさい、大丈夫!?」
本当に、こんな残酷な運命に捕らわれているなんて、つい忘れてしまいそうな――――。
しばらく話して、彼女は突然、まるで糸が切れたかのように泣きはじめました。
なぜ涙を流し始めたのか、僕にはわかりませんでしたけれど。
「恭子よ」
「は、い?」
「私の名前!」
「ああ…素敵な、お名前ですね」
「で、あんたの名前は?」
そしてこの時の僕は、きっと満面の笑みでこう言ったのでしょう。
「李焔と、申します」
酷く、嬉しそうに。