勝者の海
磯の匂いがガードパイプを吹き抜けて島の中へと吹き込んでくる。
そのガードパイプに手を乗せて
間抜けそうな海鳥の声が響く中、潮風に少しばかり傷んだ髪をゆるやかに流して、
昼下がりの日差しで青よりも白く光り輝く海を見ている女性がいた。
少し大きくなったお腹を愛しむ顔でゆっくりとさすって、
重くなった体を支える為に
ちょっと体を反らして足は大きめにㇵの字に開いて立っていた。
「 どうしてるかなぁ…愛ちゃん 」
と呟いて。
女性の名は渚 沙紀 29歳
小山内 愛の同級生であり、その配偶者を奪い取った女性である。
落ち着いた雰囲気があって、
目元が大きく黒目がち、少し陽に焼けてはいるが柔らかい肌
29歳という年齢からすると、十分すぎるぐらい若い感じだった。
彼女は
ちょっと時代遅れな水色のマタニティドレスにサンダルという出で立ちだったが
波の光の反射に浮かび上がる姿はどこか神々しく
少し遠くに見える港の風景に溶け込んで、一枚の絵の様だった。
「 お~い 」
遠くから聞こえるその声に沙紀は、笑顔でその方向を向いた。
抜けるような空をバックに続くアスファルトの歩道と
そのわきには
海沿いの岩礁をコンクリートで固めて土台にした
真っ白に輝く観光用の灯台が立っている。
声の主は大きく手を振りながら
頭にタオルを巻いて、半袖のシャツから細いがしっかりと筋肉のついた腕が生え
少し湿気った軍手を嵌めたまま
作業用のズボンに前掛けと白いゴム長という出で立ちで、
幸せそうな笑顔を浮かべて走って近づいてくる。
渚 和夫 旧名 北村 和夫 同じく29歳
愛から沙紀が奪い返した同じ島の幼馴染の男だった
和夫は、そのまま沙紀のそばまで来るとゼーゼーと息を切らせて
その場で手を膝についた。
「 もう、何よ…走ったくらいで息なんか切らせてさぁ 」
「 は~は~お前なぁ、市場から走ってきたんだぞぉ
息ぐらい切れるわ 」
「 ふーん 結構走れるようになったわね 」
ぶっきらぼうに沙紀はそういうが、
顔がこれ以上ない笑みを浮かべながら和夫の頭をポンポンと叩いた。
( 市場からこっち2キロはあるから結構頑張って走ってきたわね。
あの町で会った時にはひ弱になってたけど、
かなり島の男って感じに体力もどってきてるわ )
「 あんたさ~、こんこの親になるんやからもうちょい体鍛えてやぁ。
町中暮らしやったらそんで十分なんやろうけど、
うちの家に養子に入ったからにはさ
跡取りになって漁師のみんなまとめていかないかんから、
しっかり頑張ってよ! 」
夜中に走ったり、腕立て伏せに腹筋、休みは消防団で鍛えているのは
沙紀はよく知っている。
でも、顔を見るとついそんな言葉を口にしてしまう。
本来なら、狭い島の中で
旧家の小山内家と、北村家の顔を潰してまで連れて戻った和夫には居場所がない。
ただ、
沙紀が妊娠して戻ったことで一応、
両家とも島での二人の生活をしぶしぶと認めてはくれはしたが
小山内家とは当然絶縁を宣言され、
北村家は、旧家の娘を強奪するように出て行った時点で
勘当はしていたが
更に同じ島の女の子を妊娠させて更に子犬でも捨てるかのように旧家の娘を捨ててきた。
当然同じように絶縁を宣言された。
バツが悪くて足の重くなる和夫を引きづって
島の有力者に島に残った友人たちや、知り合いにも沙紀は会いに行った。
どんなに恥ずかしかろうがみっともなかろうが、
沙紀はお腹の子を守るため、
そして大好きな生まれ故郷で生きていくため必死になって挨拶回りをした。
当然、門前払いも多かったが必死に懇願し何とか主だった人々と会えた。
皆、大騒ぎの上に出て行った男を
執念でお腹を大きくしてまで取り返してきた沙紀に驚き、
そこまでさせた和夫を憤怒の眼で睨みつけた。
小さな島で赤ん坊のころからの知り合いの二人については
皆、言葉には出さないが、かなり重いものを心には思ってはいるが、
新しい命の前には何も言えず取りあえずの様子見を決めこんでいた。
勿論、涙を流して土下座でもしかねない沙紀に
しょうがないかと絆されたのだが…
「 うちの家をさ、しっかり守って盛り上げて
島のみんなに認めてもらうようにちゃんと頑張らんといかんやらぁ? 」
居場所のない和夫を引き受けてくれたのは
ほかならぬ沙紀の実家の渚家だった。
男子に恵まれず、最後の子も女の子で養子でも取らないといけない事情だったし
上の娘たちはさっさと嫁って行ったので
いろんな事情はあるにせよ
先祖代々の資産や墓を引き継いでくれるならと和夫を受け入れてくれたのだ。
勿論、島の中での評判は悪くなるかもしれないが
跡継ぎがいなく寂れていく島の家々と同じ道を歩まなくても済んだ両親は
相当な勢いで喜んだ。
古いしかも離島の様な狭い社会で家が絶えるのは
自分が死ぬのと同じぐらい重い事なので両親とも多少の周りの眼には
笑って耐えると言ってくれていた。
「 義父さんや義母さんには頑張ってこたえていかなきゃいけないし、
何より、沙紀にはさ、あれだけの裏切りと、
ここでもずいぶん迷惑もかけちまったから… 」
和夫は、一息ついて笑みを浮かべてそっと沙紀の横に立った。
愛よりは大きい162cmではあるが
和夫にしてみたら小さくて可愛らしい幼馴染には変わらない。
その上、今は二人の愛の結晶をお腹に宿らせてくれている。
「 そんだけ? 」
沙紀が悪戯っぽく和夫の顔を見上げて言った。
勿論、その言葉の答えはそう答えるしかないかなと察して
「 勿論、沙紀が好きだからさ… 」
と、言うと、
ゆっくり軍手を取って手持ちのタオルで念入りにしっかりと拭きながら、
「 それにさぁ、僕らを支えてくれている笠松やいっきーにも
ちゃんとした男として認めてもらいたいし、
勿論、 他のみんなにも何よりこの子にもな 」
和夫はそう言うと、沙紀のお腹を優しく撫でた。
「 頑張ってよ、あんた。
うち、なんもかも掛けてあんたを取り戻したんだらさぁ 」
「 ああ 」
二人はそう言うと静かに肩を寄せ合って、
海の向こうの本土へと目をやった。
「 うちな… 」
「 ああ 」
「 きっと、愛ちゃんの事で地獄に落ちて釜で茹でられるだろうけど… 」
「 何だよそれ…はははは 」
「 今は、生まれてきて一番幸せやと思ってるん。
死ぬまであんたといたい… 」
「 そか… 」
優しく肩を和夫が抱き寄せて光の海がしぶきを上げて打ち寄せているのを感じながら、
あの、死ぬような緊張感の中で幸せ過ぎる自分たちを、
悲しげな顔で認めてくれた小山内 愛を思い出していた。
更に、今どうしているのかと…
その日の夜、小山内愛は、
旅館”星の海”の別館の特別室で大きな布団の中で、
感情リミッターが外れ、筋繊維を大幅に痛めつけた筋肉痛に苦しみ
既に、
ラウンジの方へと南夫妻が帰っており。
「 姉御~痛いよ~ 」
と急遽飛んできた仲居頭の九鬼の手を握り締めていた。
「 痛いって! 手の指全部折れちゃうじゃないのよ!
まったくさ、そんだけの器量してるんだから
私みたいなか弱い女じゃなくて頑丈な男ぐらい作れっての! 」
必死に手を抜いて、血の通わなかった手を振る九鬼に
「 姉御だってそうじゃんか!選びすぎてもう50… 」
「 うっさいわ!好きな人の一人や二人… 」
「 その人嫁いるじゃないですか…空しくないの? 」
「 は? あ… 」
事情を聴いている九鬼はそれ以上の言葉を続けることが出来なかった。
一気に長い沈黙が走り、気まずい雰囲気となった。
「 まあ、空しいから…ちゃんと寝ろや 」
九鬼は大きくため息をついて愛の手を布団に戻し、
愛も大きくため息をついて天井を見上げた。
勝者と敗者は、極端に違う人生をお互いに歩み始めたのだった。




