偏在する悪夢
旧館の方が賑やかになって、僕のいる本館に丁々発止する声が届いてくる。
弩田舎の山の中だから、木霊のように響く。
静かな山の音や、旧館の露天風呂の下を流れる川の風流な音は消えてはいくけど、
それ自体はバイト先に金が落ちる事だから感謝しなきゃいけないし楽しそうだしな。
時々、よく知った声が挟まって来る…
幼馴染で中学の時にはモテまくった瞳の声と、
柔らかな高音で賑やかな感じの僕の好きな”みけ”の声だ…
いいなぁ…絶望ってのを知らない人達は
窓の外に見えるのは7月の蒼い空だ…
寝過ぎて首がうまく動かないので、
立てかけた枕に沈んだ眼の先にはそれしか映らない。
気だるいほど眠い…まだ、3時半か。
今日は遅番だから夕方の5時が出勤時間になるからそろそろ起きないと…
本当は、家で待機して北村さんのバスに乗ってが予定だったけど、
今は専務に頼んで昨日の夜から泊っている…
何故かって?
今、僕の家には母の何度めか分からない男が昨日の夜から泊っているからだ。
”紹介するから”って
必死そうな母親の顔を見るのが辛くて飛び出して、夜の街を彷徨いきり
行く所も思いつかないので、
長い長い坂を登りきって転がり込んだ。
「 困ってるの? 」
専務さんは一言聞いてきただけ…頭を縦に振ると何も言わずにこの部屋を用意してくれた。
予備の客室で、布団が山積みになっていたけど
仲居頭の九鬼さんも何も聞かずに部屋を片付けてくれて
誰もいない厨房で、おにぎり作ってくれた。
「 一緒に寝てあげよっか? 」
笑いながら話したのは冗談だろうけど、いくら美人でも二回り以上上の独身の言葉には
怖くて背中が冷たくなった。
でも自分一人できっちり生きていける九鬼さんは正直なところ頼もしい…
男がいないと駄目なうちのお母さんと変わって欲しいわ。
その時、僕が寝転んでいる部屋に大きな気配が入って来た。
「 何やってるんですか? 若い男の子が昼間からゴロゴロ…みっともないですわよ 」
固まっていた首がその声に反応してギギと振り返る。
「 なんだ…まだいたんですか? ジャニスさん… 」
真っ赤なハイビスカスが描かれている白いアロハシャツに、
赤いホットパンツを穿いて186センチの巨体が体を折って僕の顔を覗き込んでいる。
下から眺めると
凄く大きくて形のいいお尻から伸びるシミの一つも無い肉感的な長い脚が
高校生の僕には目の毒だ。
「 まだいたって…失礼な言い方ですわね 」
不機嫌そうにジャニスさんは口を尖らせるのは可愛いが、
それよりバレーボールみたいな大きな胸を揺らしたの方が凄く気になる。
チラチラ奥の方までシャツの隙間から艶めかしい肌が見えるし、
それにしゃべる度に甘い匂いがするのは困る。
こんなんじゃあ…九鬼さんにかけてもらったタオルケットを取ることが出来ないじゃないか
「 だって、あれから2週間も経つのにここで見かけるんだから… 」
この間のバイトの時に確かに見た。
烏のように真っ黒なワンピースだったなぁ…
「 ああ、2週間前には確かにここに来ましたけど1泊だけしただけですのよ。
直ぐに他の仕事で帰りました。
凄く大変な仕事で疲れ切っていたんで上司が可哀想に思ってお休みくれたんで、
今着いたとこなんですのよ 」
「 え、だってこの間の…お休みじゃあなかったんですか? 」
「 馬鹿ですか?そんなにお休みがある訳ないでしょ!
たまたま近くに仕事があってついでに寄っただけです! 」
そう言って胸を張るとボタンがちぎれそうな…
「 へええ… 」
この人、基本的には仕事してるのか…
いっつも脳天気に一人でふらっと現れて飲んで食って温泉入ってく変わった人だから
仕事なんかしていない遊び人かと…
「 で、礼ちゃん(専務さん)から話聞いたんだけど…そんな事でふて寝してたんですか? 」
心臓をバットで叩きつける様な事を言うなぁ…身も蓋もないわ。
「 あの…一応、僕まだ子供だし… 」
これが、普通の人が相手なら文句の一つ、嫌味の一つ、怒声の一つも上げるところだけど
超脳天気でデリカシーって何?って超大雑把な性格の上、
いつか、旅館にいちゃもんを付けて来たオジサンを猫の様に放り投げた怪力と巨体だし。
まあ、
それ以上に美人で凄いプロポーションのお姉さんに嫌われるのはもっと嫌だし…
「 へええ…美人さんですか 」
ジャニスさんはそう言って笑ったが…そんなこと言ったけ?
「 あのね、智ちゃん(この人、親しくなると全員ちゃん付だもんなぁ…)
女性が男性に縋りつきたいとか、一緒になりたいってのは普通の感情ですわよ。
何人目かとか気持ち悪いって思っているかもしれませんけど、
貴方がいるからいつまで経っても、決まった人が出来ないんじゃありません事? 」
そんな事は分かってはいるけどさ…
「 そりゃあ…、でも、お金とか保険の残りもあるし僕だって仕事してるし… 」
大きな顔が僕のすぐ傍まで降りてきて白い掌が僕の頬を包み込む。
「 そう言うのじゃないわよ…
それにね、貴方は今、自分が悪夢に囚われているって思うかもしれませんけど…
それ自体、大したことはありませんわよ 」
僕は魂を吸い取られそうな青い瞳に睨まれて声を発することが出来なかった。
「 みけちゃん達の事を地獄を知らないってさっき言ってたみたいですけど、
貴方よりはよほど地獄を経験していますわよ二人とも。
みけちゃんは、交通事故で車に同乗していたお母さんだけが死んで生き残っているし、
女手一人で家事もバイトも一生懸命やってるのよ。
中学の時はそれはそれは酷い虐めも経験しているのよ 」
僕は口を開けたまま声を発することが出来ない。
あの”みけ”にそんな過去があるなんて思いもよらなかった。
「 でね、これは瞳ちゃんには絶対内緒にして欲しいけど
彼女のお母さんとお父さんはね、家庭内別居で家の中は荒れ放題で
お母さんは浪費が止まらずに男遊びに現を抜かして家計は火の車。
お父さんも女性に凄くだらしなくて家には帰らないけど学費だけは頑張って捻出して
瞳ちゃんも生活費の足しにバイトしてるのよ。
貴方が受かった高校の受験に失敗したのも、それも原因があるわ 」
「 あいつ…一言も 」
「 言ってどうなります?同情貰って何か変わります? 」
乾いた言葉だけど、真実であるし…何より僕に何かが出来る訳でもない。
逆に僕が瞳に気を使ったら…失礼な気がする…
「 いい事、悪夢も地獄も偏在するのよ。
でも、それに負けずに生きていくしか方法は無いのよ、貴方が自分に負けてどうします?
女の子が必死に生きているっていうのに 」
僕は、いつの間にかジャニスさんと差し向かいで正座していた。
変な下半身のこわばりなど、全く消え失せていた。
暫く見つめあう…嫌だなぁ勘違いしそう。
するとジャニスさんは笑みを浮かべながら、
「 と、ここまでは説教ということでお終いね。
辛いのは簡単にはどうにもならないんだから
今は遊んで楽しめばいいんじゃないのかしら? 」
そう言うと、
急にジャニスさんが立ち上がり僕の首を捕まえて猫の様に引っ張る。
よろよろと立ち上がると、
「 礼ちゃんには、もう断っていますからバイトは中止して遊んでみませんか?
丁度、今日はギーちゃんも来ているからね 」
「 え、ちょ…あの酒飲み軍団にですか? 」
あの人たちはいい大人だし…子供の僕なんか迷惑じゃん
「 まあ、お酒は駄目ですけど、あの子たちは若い男の子を慰める事は好きだから
滅入った気分も吹っ飛びますわよ 」
ジャニスさんはそう言って背中を景気づけに叩いてくれたが、
地獄の様に遊びまくるギーディアムさんと絡むのは勇気がいるなぁ…と思った。




