第2節
ゆっくりと、長大な周期で、上昇と下降を繰り返しているような気がした。その不快な揺れが雨宮邦和の食道から胃にかけてを突っつきまわすので、彼はたまらず目を覚ました。ボロボロの木の床に寝かせられていた邦和の、ここいくらかの記憶は非常に断片的であったので、自分に何が起きたかを想起するのには少し苦労したが、やがて自分は、かの紫装束の男が言っていたように、船に乗せられたのだと理解した。
(嘘だろ…ボク、このまま本当に、奴隷として売られちまうのか…?)
未だに信じられない。
だが、何度意識を失っても、目を覚ましても、痛みと肌寒さの実感を伴うこの自分の置かれた状況は間違いなく「現実」であった。異常な出来事の連続で邦和の脳はそれを受け入れる段階にすらなく、ただひたすら、追いついていない状況の処理を続けるのみであった。
まずは、自分の身の回りの把握から始める。船はどうやら木造らしい。船内は空気の流れが悪いようで、海水の腐った匂いが充満している。右を見ても左を見ても、樽やら木箱やらが並んでいるばかりで自分が船のどの辺りにいるかも分かったものでは無かったが、水の音が遠く感じることを考えると、さほど船の深層にいるわけではないだろう。ひょっとすると、貨物船か何かに乗せられているのかも知れない。
(モノっていうか、商品扱いか…イヤな現実味があるじゃんか……)
そんな自分自身に目をやると、服装は相変わらず、部屋から着の身着のままである。手は後ろに回されて手錠のようなものをはめられているらしい。右足首にも金属製の枷をつけられており、そこから鎖が繋がっている。その行き先を目で辿ると、すぐに他の荷物に阻まれて分からなくなってしまったが、わずかに視界の上の方に見える大きな柱に繋がっていそうだ。
(どれ、ちょっくら様子でも見てやるか)
枷がはまっているのは右足だけなので、限られた範囲を歩いてやることは出来そうだ。
この船倉(らしき部屋)を観察し、脱出の機会はないかと探りに立とうとしたとき、貨物の向こう側からドタドタと、複数人の足音が聞こえた。
(間が悪いな、畜生め)
邦和は元居た床に速やかに寝そべると、わざとらしく目を瞑って、寝たふりを始める。足音が方々に散らばると、そこかしこで金属のぶつかる音とうめき声が聞こえた。
(ボクだけじゃないんだ、捕まった人は…!?)
間もなく邦和の方にも足音が寄ってきた。尚も狸寝入りを続ける彼に、上から声が降りかかる。
「お前が目覚めていることは分かっている。常に監視しているからな」
邦和はぱっちりと目を開けた。傍に立っていたのは、さっきの怪しい紫装束とはうってかわって、如何にも「大航海時代」といった、シャツとズボンに飾り立てたジャケットを着て、カツラらしきカールのかかった白髪に大げさなハットを被った男だった。程々に皺の寄った険しい顔つきからして、この身なりを整えるまでにそこそこ苦労したと見える。
「ちぇ、どっから見てたんだよ、スケベ野郎」
寝そべりながら、邦和は男を挑発するように言った。だが、こんな幼稚な挑発に乗ってくる訳も無く、男の表情は変わらない。
「無駄な抵抗はよせ、「ウェイド・ビーツ」。体力の浪費にしかならんぞ」
男は知らない名前で邦和を呼ぶ。予想外のことに、つい上体が起き上がる。
「おいおい、人違いじゃないか?僕の名前は「雨宮 邦和」だ」
「いや、お前は本日をもってウェイド・ビーツだ。「クニカズ」なんて舌を噛みそうな名前は客受けが悪いんでな」
「ボクの商品名だってのか!?」
「ふむ、なかなかいい例えだな。次からはその表現を使わせてもらおう」
声を荒げる邦和を前に、男の顔は変わらない。
「客受け」なんて言葉を聞いて、先刻自分の想起した「商品扱いという嫌な現実味」が再び顔を覗かせて来たことで、邦和は苦虫を嚙み潰したような顔をする。ついでに、思わず悪態が出る。
「舌を噛みそう、だなんていう割には、随分と日本語が流暢じゃないか。このクソ商売のためにお勉強したのかい?」
そう言われると、男は要領を得ないというふうに小首を傾げた。そして後ろを振り返り、邦和からは見えない積み荷の向こう側を見やる。
「…おい、ジョージ」
男が声をかけると、黒の詰襟を着た小太りの男が寄ってきた。彼がジョージらしい。男は邦和を指さしながら、彼に訊く。
「コイツも「フィフストラベラー」なのか?」
「はい、支社長。今日の積み荷の奴隷は全部そうです」
ジョージの報告を聞き、馴染の無い単語を言い放った「支社長」は初めて顔をしかめた。
「最近多いな…不吉なものだ。しばらくあそことの取引は様子を見たほうがいいかもな」
ありがとう、と一言礼を述べて支社長はジョージの背を軽く叩いた。ジョージは軽く頭を下げ、持ち場へと戻っていく。支社長は邦和に向き直ると。元の無表情に戻っていた。
「まぁ、なんだ、同情するよ。悪いようにはしない」
しかし、その口調は変に穏やかで、先ほどの職業的な態度からは幾分マイルドだった。そのことが、邦和からしてみれば、先ほどよりよっぽど不気味だった。
「お前の「品質」のために教えといてやろう。今、お前に聞こえている俺の言葉は、「魔法」で翻訳されている」
「魔法だってぇ?」
突然、無愛想な支社長の口から出てきたファンタジックな言葉に、邦和は素っ頓狂な声をあげる。対するよく出来たマネキンみたいな男は「そうだ」と、さも当たり前のように肯く。
「お前たちフィフストラベラーの世界に魔法が無いというのは、俺もユニバーシティで学んだ。お前、ここに連れてこられたばかりの時、息が苦しかったり、胸が焼けるような思いをしなかったか?」
言われて、邦和の中で鮮烈に、あのモニターから引きずられて来たときの記憶がフラッシュバックする。焼けた石を飲まされたかのような、胸を燃やし尽くす痛みを思い出し、思わず邦和は咽せてしまう。軽く咳払いして、「ああ」と支社長に返事をする。
「ならば、それも魔法で解決している筈だ。フィフストラベラーはこの星の空気を吸うとそうなって、放っておけば死んでしまう。だから、喉に魔法をかけて、お前たちの肺にとって余分な物質を取り除いているんだ」
喉、というキーワードに心当たりはある。恐らく石造りの部屋で見た紫装束に首を掴まれたとき、ブツブツ喋っていたのは、呪文を唱えていたのかも知れない。
だが、それよりも見過ごせない事実が一つある。
「待てよ、ここ、地球じゃないのかよ!!」
そう、支社長は今確かに、「この星」と言ったのである。邦和はいつの間にやら宇宙旅行を果たし、地球外人類と交流していたとでも言うのだろうか。
「そうだとも。ここは惑星「エム・フォウティ」と呼ばれている。お前が住んでいたところとは、明確に違う星だ」
肯定する支社長の言葉に、邦和は目眩のする思いだった。尻をずり下げて壁にもたれかかって、宙を仰いだ。
「…分かった。ここは地球じゃないし、魔法ってのが実在するのは、とりあえず信じよう…ありがとうよ」
掠れた声で、支社長に礼を述べる。それにしても、この支社長や紫装束にしても、やたら自分たちに詳しい気がする。先ほどのジョージとの会話が正しければ、かなりの人数、邦和と同じ境遇の人間がいるらしいではないか。
「ボクみたいな人間は多いのか?」
目だけ動かして、支社長に訊く。彼は肩を竦めてみせた。
「多いなんてもんじゃない。エム・フォウティの歴史はフィフストラベラーとの歴史だ。星の名前も、お前たちを指す言葉の語源も、お前たちの同類が付けたモノだ」
「なんてこった……」
「講義はここまでだ。お前は三日後に、ゲダンという集落で下す。それまで飯は一日二食出してやるし、寝っ転がっていようが起きていようが、好きにしていて構わない。伝えることは以上だ」
支社長が踵を返して船倉を出ようとしたのを邦和は、「もう一つ聞きたい」と呼び止めた。
「…食事って、ウジの湧いたクッキーとか?」
「侮るなよ。豆のスープの缶詰さ」
素っ気なく返して、彼はそのまま立ち去って行った。邦和は心ここにあらずといった様子で天井を眺めたまま、「そりゃあ良かったよ」と、絞り出すように呟いた。
最早事態は、自分の理解の範疇を全く超えていた。
「隙をついて脱出」とか、「どうにかして帰国する」とか、そういう次元の話では無かった。
故郷から途方もなく遠い場所で、これから、彼は生きていかねばならなくなったのだ。