第1節
楽士「ウェイド・ビーツ」、本名「雨宮 邦和」がその生まれ故郷で過ごした時間は、彼にとってあまりいいものではなかった。
ごく普通の家庭に生まれた彼はしかし、その感性、言動において僅かに一般的でない部分があった。それによって「普通の人々」に溶け込めない、馴染めないだけならまだマシだったが、思春期に差し掛かったとき、暴走を起こした彼の自意識はあろうことか自分から、マジョリティに対して迎合しないことを、ハッキリと周りのスクール・メイトたちに宣言してしまった。間もなく彼はそこらじゅうから爪はじきに遭い、それは次第に、暴力を伴う「排斥」へと変わっていった。
そうして、人々の中に身を置くことをあきらめた彼は、自分の存在を隠そうとするかのように、気配を消し、しまいには家からもあまり出ようとしなくなった。気が付けば、その状態から5年ほどの時が過ぎていた。
そして、その日は訪れた。
自室の、くすんだシーツのベッドで目を覚ました彼は、のそのそと起き上がると長いことアラーム機能を使っていない壁の時計を見た。デジタル表示は18時を示し、この地域の天気には大雨のマークがついている。彼が眠りに就いたのは10時であったから、字面の上ではきっかり8時間睡眠だ。
「へへ、模範的で、健康的じゃんね」
表情筋を一切使わないまま、邦和はそう言うとベッドから立ち上がった。
普段の彼であれば、目を覚ましてから数時間は寝そべったままであるが、ここまで素直に立ち上がるのは単純に尿意からであった。
自室からトイレまで、扉は自動で開くし、なんなら便座も自動で開く。便器から立ち上がれば勝手に流れていくとくれば、そのうち尻を拭くのだって、機械がやってくれるようになるだろうか。万人がその恩恵にあずかるようになったならば…。
(ボクだけが、「踊る赤ちゃん人間」なんて、言われずに済むんだがね)
邦和は、己の現状を「筋肉少女帯」の楽曲の一つに重ねて、自嘲気味に口ずさんだ。この頃の怠惰を極めた彼にとっては、もはや世に宇宙空間のごとく広がるコンテンツ群を消費していくことすら苦痛になり始めていたが、ただ垂れ流すだけで目を開けることもなく鑑賞できる「音楽」だけは、彼の心に慰めを与え続けていた。
やがて便座から腰を上げ、ズボンをあげてからの後始末をすべて機械に委ねるころには、「自分の始末も、機械につけてもらいたいなァ」とかいったことを、ぼんやりと考えていた。
部屋に戻ってくるなり、邦和はスリープモードのPCをたたき起こす。それは何か目的意識があってのことではなく、彼に染み付いた習慣の一つだった。開きっぱなしのブラウザのタブを、左端から順繰りに眺めていく。何の生産性も持たない行動の最中に、不意にデスクトップに通知がポップした。なんて事はない、通話アプリの通知だった。外に出ない邦和でも、インターネットを通したコミュニティに参加はしている。ただし、その目的は情報収集が主で、彼から発言することは全くと言っていいほど無かったが。
だが、この通知に彼は目を丸くした。それは新たなトークルームへの参加の誘いだったのだ。
まず真っ先に訝しんだ邦和は、そのトークのタイトルと概要を確認する。どうやら彼が以前遊んでいたビデオゲームのファンコミュニティの、サブ的なフォーラムらしい。メインでは攻略情報を取り扱い、このサブフォーラムは雑談用に切り分けて行くという。
そんなものに入れてもらったところで、もとより彼は自発的に何かを話すことはないのだから、余計なお世話だった。しかし、ご丁寧にこのトークルームには、メインルームに参加していたメンバー全員に招待が行っているらしい。「メンバーの輪に入らず、攻略情報だけ掠めていく乞食とは思われたくない」なんて、邦和に残された腐ったプライドの発する腐臭はたちまち彼の脳内を満たし、しぶしぶトークの参加許可をクリックした。
間もなく、ルームに入場する。どうやら、彼が一番乗りだったようで、他にはまだ誰も参加した形跡が無い。
(どうせ、ボクは暇人さ)
自意識過剰を発端とする不必要に素早い行動が、傷だらけの彼の自尊心に、また一つ細かな傷を刻んだ。それはきっと他人から見えるなら、他に紛れて判別がつかなくなってしまうが、本人だけは執拗に覚えているものである。そして、いつまでも痛むのだ。
やがて、また一人ユーザーが参加する。「せめてコイツの後に入れれば、ボクはこんな不快な思いをせずに済んだんだ」などと、邦和が自分勝手にもやもやしていると、束の間、そのユーザーはコメントを投稿してきた。
「じじ ぴせ ふぃゆーぶ ざ
ぶぶ ぴせ そゆーる ざ
し は らばふぃに ぷ ぶりし しゃ いびお ざ」
とても、その文章に意味があるとは思えない言葉の羅列だった。
キーボードの上をハンディクリーナーで撫でつけたような文字列を見て、こんな荒らしもどきと同じ時間にフォーラムに参加してしまったことに、邦和はさらに気を落とした。
通話アプリのウィンドウを最小化して、ネットザッピングとでもいうべき作業に戻った。その間も、例のユーザーによる通知は止まらない。いい加減鬱陶しくなって、アプリをシャットダウンしようとウィンドウを再び開いた。
その時。
モニターは急に真っ白になって、液晶のちょうど真ん中が、波打つように盛り上がった。
なみなみと注がれた牛乳が吹きこぼれるような飛沫を伴って、ゆがみ切ったモニターから飛び出してきたのは、人間の腕だった。
「ッ!!?」
息をのみ、悲鳴を上げるまでもなく、石膏像のように白い屈強な腕に胸座を掴まれた邦和は、そのままモニターへと引き寄せられる。
そして、そのまま、モニターの中へと入りこんでしまった。
真っ白な液晶の向こう側へと顔が没入するなり、そこは水で満たされていた。叫び声は泡へと変わり、そのことが邦和をさらに慌てさせる。口を閉じるが、幾分水を取り込んでしまっている。それを排出しようと愚かにも口を開けてしまうが、それに対する報いは更に大量の水の流入という形で邦和を痛めつける。懸命に藻掻くも、とうとう足の先まですっかり水に浸かってしまうと、急に白い腕は、彼を引き付ける速さを増す。引かれるがままになりながらも、じたばたし続ける邦和は、徐々に周囲が暗くなっていくのを感じた。それは決して酸素不足からくるものでは無く、光源が弱まっているような感じだった。
そして、急激な重力を感じたと思えば、「ざばぁ」という威勢のいい音と共に、邦和は水から引き上げられた。乱暴に引き摺り出されたせいで脚をあちこち打ち付けて、そのまま無様に床に転がった。
「おええ!げほっ!げほっ!」
ようやく息をして、顔をめちゃくちゃに擦った。
ぼんやりと視界に広がるのは、彼の期待に反して、ただ暗闇だった。遠くに2つ、オレンジ色の、ゆらゆらと揺れる光源が確認できる。
(一体なんだってんだ!!?)
流石の邦和も動転し、頭に血が上って、自分をこんな目に合わせた腕の持ち主を確認しようと上体を捩る。その瞬間、急に、胸から上腕にかけて燃えるような痛みが走った。
「かひゅっ」
文字通り、息が詰まる。
微かに取り込んだ空気の通った気管までもが、燃えるように痛い。またしても硬い地面に伏して、じたばたともがき始める。何がなんだか分からない中で、不思議と、今自分が寝ているところが石造りの床であろうことが分かった。
「ピープ シャ カチッヴァ ツヴォユーセ!
ジズィレ ラルゼ シャ リレジャ ツサ!」
突然、邦和の側から怒声が響く。外国語らしく、何を言っているのかは全くわからない。
「エセチユー ピ、ユニ ズィセザ」
もう一つ、今度は気怠げな低い声が聞こえたと思うと、邦和は背中に何かがのしかかるのを感じた。藻掻くことも出来なくなった彼は髪を掴まれ、頭を上へ持ち上げられると、首根っこを掴まれた。
「ジジ ピセ フィユーブ ザ、ゾゾ ピセ ソユール ザ。
シ ハ ラバフィニ プ ブリシ シャ イビオ ザ」
覚えのあるフレーズを男が呟き、それからまた二言、三言ブツブツと言葉を続けた。首と髪から急に手を離され、邦和は顎を床に打ち付けて呻き声を上げたが、先程のような胸の焼けつく痛みは、不思議と引いていて、呼吸が楽になっていた。身体の緊張が解け、こわばりが無くなると同時に、この一連の出来事でなけなしのスタミナを使い果たしたせいで邦和の意識は瞬く間に遠のいていく。
(クソ…なんて酷い夢だ……)
そう、あまりにも脈絡のなさすぎるこれは、夢なのだろう。邦和はそう考え、とっとと深い眠りに落ちるべく、容易に意識を手放した。
しかし、次に彼の眼を覚まさせたのは、頬への鋭い痛みだった。
「う、うう……」
光を認識して、邦和の頭脳は徐々に覚醒する。まず肌寒さを感じ、次に、自分の素足が未だにあの石床を踏んでいることを感じる。どうも、椅子に座らされているらしい。そして瞼が開き目の焦点が合うと、そこには異様な格好をした男が一人立っていた。
頭からつま先まで、暗い紫色で統一された装束に身を包んでいる。頭には大きく、分厚い帽子をかぶっていて、額の辺りからはみ出ている裏地から、羊毛を使っていそうだということが分かる。薄手のコートを着ていて、その上から羽織のようなものをかけている。羽織は腰のあたりに前垂れがついていて、そこには何やら古めかしい紋章があしらわれている。
「やぁ、俺の言ってることが分かるかね、青年?」
男は邦和に話しかけてきた。その声色は、意識を失う前に彼の首根っこを掴み、何事か唱えていた男のものだった。
「お前は誰なんだ…ここ、どこなんだ…?」
未だ状況の呑み込めない邦和は、十分に機能を取り戻していない脳みそから、辛うじて質問を絞り出す。だがその返答として帰ってきたのは平手打ちだった。
「ッああ!!」
右の頬が痛む。そして、そもそも自分の目を覚ましたのはこの痛みだと、邦和はこの段になって気が付いた。手を振るった目の前の男は表情をピクリとも変えていないし、次の平手打ちを構えている。
「質問に答えろよ坊や。俺の言葉が分かるかってんだ。ん?」
「あ、ああ。分かる。分かるってば!」
邦和はこれ以上打たれまいと必死になり、我が身を庇おうとするが、手首が後ろ手に縛られている。男は彼の反応に満足し、両手の平を見せつつ、万歳の形に上げる。
「いい子だ。素直にしてりゃ悪いようにはしねぇ。お前さんは大事な商品だからな」
「ボクが商品って、そりゃどういうこったよ!?」
言われた意味が、全く分からない。そもそもここはどこなのか、目の前の男は何者なのか、それすらも教えてもらっていない。だが、邦和は心の中で、自分がそれを教えてもらえる立場にはなさそうだということを、薄っすらと感じてきていた。
「だぁって、お前らの肉体、まぁーじで貧弱なんだもんよォ」
「は?」
要領を得ない回答に、邦和は思わず聞き返す。
「せっかく「ライデンの勇者」が来たのと同じ時空を見っけて来たと思ったのに…。どいつもこいつもモヤシ野郎ばっかで呆れるぜ。金に換えられるだけラッキーだったよ」
「いや…お前、さっきから何を言ってるのか分かんねぇよ!」
意味不明な単語の羅列に邦和は痺れを切らし、ついに声を荒げる。言ってから、自分が反抗的な態度を見せてしまったことに気が付いて息を呑み、身構えるが、男は気だるげな表情を変えないどころか、身動きすらとらない。例えばそれは、金魚鉢を眺めるかのようだった。
「当然だ。分かるようなことは喋ってねぇ。お前はこれから船で運ばれて、そこで奴隷として暮らすんだ。俺の名前も、ここがどこかも、一切お前には開示されない」
「ふざけるな! 家に帰してくれ!」
あまりに理不尽な事実に、食って掛かる。だが一向に、男の態度は変わらない。
「無理だよ、俺たちだって返す方法は知らねえもの。だからこうして行き先を用意してやったんだ」
「お前…本気で言ってんのか!!?」
返す方法が無い、とはどういうことか。少なくとも日本ではないこの地から、どうやって住処に戻るのか。深い絶望が邦和の心に刃を突き立てるように感じ、背中から冷汗が噴き出す。
「放せよ…ここから出せよォ!!」
遂に恐慌に陥った邦和はやたらめったら藻掻き始める。椅子をガタガタと揺らし拘束を外そうと試みるが、上手くいくわけも無く、安定を失った椅子の足はそのまま地面に邦和を叩きつけた。「ぐぅっ」と痛みにうめき声を上げるが、自分の生命において決して譲れない場面であるので、彼はまだまだ抵抗の意志をみせ、ミールワームのようにうごめく。男はここで初めて、少し眉をひそめた。
「うるせぇな…「母なる大地よ、父なる霊気よ、我が言霊に力を与えよ」」
男がそう唱えると、彼の右手を、どこからともなく青白い靄が取り巻いた。
「「言霊に形を与えしもの、駆け巡り、母の恵を届けるものよ」」
何やら呪文らしき言葉に反応して、靄が右手を中心にして渦を巻く。次第に、そこからは風を切るようにひゅうひゅうと音がし始めた。男は人差し指を立てて、それを石床を這うスウェット姿の芋虫に向けた。
「「形を顕し魔弾となれ」」
旋風は人差し指から飛び出して、真っ直ぐに邦和を目指す。彼の肩先に着弾した空気の塊は、彼をいとも容易く吹き飛ばした。
「うがぁっ」
「モヤシ野郎」の身体は椅子ごと、この独房の壁にぶち当たると派手な音を立てた。木製だった椅子は足が一本折れたようだが、肝心の商品はちゃんと五体満足で息があることを確認すると、男は右手の靄をぱっぱと払って、邦和を担ぎ上げて独房の戸を開けた。
「最後の一人も元気だ。とっとと積み荷にコイツを載せろ」
石造りの「収容所」に、男の声はよく響き渡った。




