秋 4節
かつて、クリス・O・テイシアの名はカルナバルの音楽界に広く知れ渡っていた。初めは鍵盤を触るだけではしゃいでいた末娘にナシオン氏が教師を付けた途端、彼女は10歳にしてピアニストとしての頭角を現し、間も無く大陸中を演奏旅行するようになった。どんな日でも、どんな場所でもクリスは演奏を楽しみ、観客は彼女の演奏を目と耳で大いに楽しんだ。そのシルバーブロンドのお人形さんとピアノの周りには、草木が芽生えそうなほどの暖かさと朗らかさが満ちていたのだ。
12、3の頃になると、クリスは自ら作曲も行うようになる。ときに寝食を忘れるほどに熱中し、出来上がった曲をステージに引っ提げて行けば、多くの聴衆が集った。しかしながら、この頃に生まれた楽曲群からはかつての温もりはフェードアウトしていき、次第に感情をいたずらに掻き立てるようなものであったり、あるいは曲そのものがあまりにも感情的で、攻撃的であったという。クリス本人も口調がぶっきらぼうになったり、モノやヒトに当たることが増えてきた。
ナシオン氏と妻、兄弟たちがそんなクリスの様子を心配していたが、誰もが、本人でさえも、彼女を取り巻く不穏な霊気については気がつけないままでいた。
そして、運命の日。カルナバルで彼女のリサイタルが開催された。それが最後の日になることも知らないでステージに上がったクリスは何か、今まで感じて来た以上の熱量と衝動が自分の中から吹き上がってくるのが分かった。経験の中でも最大級のホールと動員数に高揚しているのだと本人は解釈したが、後に周囲の人物は「いつもの神経質な様子とは打って変わって年相応の天真爛漫さを見せたかと思えば、急に近寄りがたいほど恐ろしい雰囲気を放ってもいた」と証言している。
鍵盤を前にして鬼の如き形相になったティーンエイジャーは、命を刃こぼれ寸前まで研ぎ澄ませたかのような演奏で観客を沸かせた。そう思っていた。だって、歓声や嬌声がずっと耳に届いていたのだから。
だが、違った。
演奏と曲に対して贈られたと思っていた声たちの実態は、異形と化し、客席に刃を向けた自分に対しての悲鳴だったのだ。
視界そのものが血走ったような風景の中でクリスが最後に覚えているのは、スポットライトを照り返す丸メガネのレンズと、肩の半分が紅いショートマントを身につけた楽士からの一閃だった。
全てが終わり、目覚めた病院のベッドでクリスの聞いた事件のあらましは、最初にクリス自身がバーンナップへと変異し、次に客席の最前列に居た熱心なファン達が何人か変異して、他の客を襲い始めたということだった。とっさに対応した警備の楽士達を含め、多数の怪我人が出ていたという。
規模が規模だけに、この事件は市内警備によって徹底的に調べ上げられた。現場検証は勿論、クリス本人と、同じくバーンナップ化した観客たちへの取り調べと医学的な検査が行われた。自分のした事をひとつひとつ知る度に、彼女は首が締まっていくように、鎖が肉に食い込むように感じていたが、全てをしっかりと受け止めた。それが今の自分に果たせる責任であり、これから受けるべき罰への覚悟となると思ったからだ。しかしその覚悟は、ほとんど暖簾に腕押しといった結果を迎えた。裁判で彼女は、無罪判決を受けたのだ。
どうして、と頭の中で疑問符が溢れ出す被告人の前で、裁判長は粛々とその根拠を述べた。
まずは当日の気候について、風向きとその強さによって山から濃い霊気が吹き込んでくることが十分に有りうる状況であったこと。次に会場について、建造から間もなかったそのホールは換気・通気の面において、霊気溜まりが起こることに十全に配慮されたとは言い難い構造上の弱点を抱えていたこと。そして最後に、クリス自身の体質。彼女の精神と肉体は霊気に対して強く相互作用をしてしまうものであり、この事実はバーンナップの知見が深い国際組織「セレモニア条約医師団」が検査によって科学的に裏付けたものである。
よって司法の下した判断は「被告人に責なし」というもので、被害者への賠償はコンサートを開催したプロモーターの保険金によってなされることとした。クリスは、いよいよ自分がこれからどうしたら良いのか、わからなくなってしまった。
今まで通り演奏家でいることは、バーンナップ化のリスクがあるため出来ない。そもそも彼女自身がそれを恐れて、しばらく鍵盤には一切触れられなかった。償いのために何かしたくても、演奏を取り上げられた自分には何も残っておらず無力なんだと思い込み、屋敷で塞ぎ込む日が続いた。
それでも一つだけ幸いだったのは、クリスが「償いの方法」を渇望し続けたことだった。ある日、意を決した彼女は外套を羽織ってフードを目深に被ると、ナイア大聖堂へと向かった。ヴォイスと話すために。彼女の内的世界に顕現した霊獣は「若く幼い貴女にこんなことを言うのは酷ですが」と前置きした。
「あなたは、あなた自身でとうてい制御のしきれない、強大な力を持っておられます。それは今後、からだの成長の完了をもってしても変わらないかと」
クリスは俯き、唇の端を歪ませた。目頭から鼻筋を経て、虚無の念が2、3粒地面に投げ付けられる。
「やはり…私はもう、何もしない方が良いのでしょうか。何もしないことが、この世のためなのでしょうか。生まれたこと自体が、間違いなのでしょうか…っ」
霊獣は、このような問いに否定も肯定もしない。見ようによっては冷酷な態度は、子供相手でも変わらない。その代わり、糸口の「探り方」を示そうとする。
「"生れ落ちること"そのものに、正しいも間違いもございませんよ、クリス。これは人間の大人でも、ともすればわたくしの同類にすらよくある誤謬でございます。…大変なことですが、それが如何なる意味を、意義を持つのかは自ら見出さねばならないのです」
「よく…分かりません、ヴォイス」
「それでは、うかがいましょう。あなたが償いを続けた先にもし、あなたの納得のいく"許し"を与えられたとして、そのあとの人生でやりたいことはございますか?」
「…音楽を、もう一度、ピアノを弾きたい」
その返事には迷いもよどみも無かった。物心つくかつかないかという歳から一緒に居た体の一部を失って、心の底で納得できているわけが無かった。自分の抱えた爆弾さえなければ、すぐにでもまた、鍵盤の前に座りたいのだ。ヴォイスはついに、彼女の中に健在の硬い信念、「うた」の存在を見出した。
「しかしながら、あなたは既に恐ろしい体験をしましたね。二度と同じ轍を踏まないための方策を得られなければ、あなたは安心して"うた"うことが出来ない」
「そんな方法が、あるんでしょうか?」
「力になれそうな人物には心当たりがあります。周囲の霊気と調和することを誰よりも得意とする、わたくしが信頼をおく者が」
「…大司祭?」
「パーチならば、相談相手としてこの上ないと考えます。あなたの御父上を頼ればコンタクトも容易でしょう」
霊獣の進言に縋って、数日後クリスはイクスビー邸の門をくぐった。パーチの自室に通されて一歩踏み入れた瞬間に、暖炉で安楽椅子を漕ぐニコニコ顔の老爺が、室内の空気と完全に一体であることに気が付いた。
「分かるみたいだネ、クリス嬢」
対面の椅子に腰かけた彼女に、パーチ・イクスビーは串に刺さったマシュマロを差し出した。
「僕はよく、弟子とこれをやるのサ。つまり霊気との付き合いというのは、火との付き合い方によく似ている訳だネ」
パーチが手に持ったマシュマロの串をくるんと振ると、暖炉の火は勢いを増した。火の粉が溢れ出て来てしまいそうな勢いに、クリスは肩を縮める。
「やり方は一つじゃない。火が強いんなら、こうやって遠くから炙ってやる」
言う通り、暖炉から少し離れたところにパーチがかざしたマシュマロには、綺麗でおいしそうな焦げ目がついていく。
「そして、もしそれが可能なら…火の方を弱めてやればいい」
薪が吹き上げる熱はみるみる引いていく。もはや暖房効果を期待できるかも怪しいほどに可愛らしい火の手に向かって、老爺はどうぞと手を差し出すので、クリスもマシュマロを炙った。
「こんなことをする理由は結局ひとつ。自分がオイシイ思いをしたいからサ」
アツアツの菓子に控え目にかぶりつくと、大司祭は「う~ん」と満足そうに舌鼓を打つ。続いてクリスもかじりつくが、少し苦みが強かった。パーチはそんな様子を察してニカっと微笑む。
「なぁに、キミにできるやり方でやってみようヨ。いつでも自分の好みの焼き加減で、マシュマロを楽しめるようにサ」
つまるところそれは、彼の持つ模倣不可能な技巧、「霊通力」の訓練であった。実際問題、バーンナップと霊通力の間には「現象を制御できているかどうか」くらいしかメカニズムの上で違いが無い。感受性ばかりが強ければ人間は霊気にしてやられるだけだが、訓練によってある程度の抵抗力を得ることができる。クリスはそれから数年間、パーチのもとで修業を続けた。
そしてついに、彼女が18歳になる頃にはピアノを演奏しても気分のざわつきが起きなくなった。奏でる音色は幼少期の、陽だまりを想起させる温もりを取り戻していた。だが、クリスはそこで満足をしなかった。霊気の制御を楽士団の中枢で学ぶうちに、楽士として人のために能力を使うことに憧れを持つようになっていたのだ。とはいえ、テイシアの姓で堂々と矢面に立つことには不安があった。身長も低く目立つ顔立ちをしているため、偽名だけでも不十分のような気もする。そこに助け船を出したのもやはりパーチであった。ライデン王国で開発中だった拡張四肢技術を応用した機械鎧を調達し、指先と腰蓑、変声マスクをエクス・ギーガーに誂えて貰った。ギーガー邸でのフィッティングを済ませ、首から下が仰々しい黒鉄の楽士へと変わりつつある自分を鏡で見たとき、彼女は思わず吹き出した。
「これが私か?」
「職人としてはここで「お似合いですよ」とか言うべきなんでしょうが、コレを付けてしまえば、全く貴女とは分かりませんね」
装具の調整を済ませたエクスは、彼女にうやうやしく兜を差し出した。
「それで、新しいお名前は決まったんですか?」
「ええ、私とは似ても似つかないものをね」
兜を受け取り、装着する。その次に発した声ももはや、自分のものでは無いような気がした。
「今日から私は、ファド・パンチです」




