秋 1節
カルナバル全体が赤や黄色に色づき、風は冷たさを増していく。そろそろまた、楽士団は新しい団員を迎える季節が来た。今年は楽士団総合演武会と霊鳥祭が重なったので、いつもより応募者は多いらしい。あと少しだけ忙しない一年は続いていくのだろうが、クロウ・ワイトは今、喧騒と隔絶された自室で床に並べたインクの缶を見ながら固まっていた。
椅子に座って足を組み、その上に肘を置き頬杖をつく。室内には彼の呼吸の音だけが泳ぎ、街路の鳥や人々の声は、アパートの外壁と窓ガラスにはたき落とされていく。軽く目を閉じて眉間を指で押し、再びインク缶を眺め回す。額に汗が滲み、それは集合して彼のこめかみを駆け抜ける。一雫が床に飛び込んで、クロウははっと口を開く。
「ダメじゃあ、決まらん……」
立ち上がって窓を開けると、冷たく乾いた新鮮な風が入り込んで来るのが心地いい。煙突があるとはいえストーブを焚きながら長いこと部屋を閉め切っていたし、少し換気をしてやる必要があるだろう。なんなら少し休憩にしちまおう。…作業は、遅々として進んでいないが。
本日のクロウ・ワイトは大スランプの真っ只中だ。つい1、2ヶ月前にはウェイドとエコーズのふたりに即興でプレゼントを作ってやれるくらい生き生きしていた脳みそが、気温の低さに合わせて硬く締まって動きが鈍っている気がする。キッチンで空のマグカップに茶漉しを載せて、その上にいくらか茶葉を振りまいたら、ストーブの上からやかんを取り上げて中身を注いだ。蛇口から水を足して、やかんを元の場所に戻すと底についたわずかな水滴が小さく悲鳴を上げて消えていった。
茶漉しを外すと、カップの中にも秋が来たかのようだった。香り高いこの紅茶はクロウが故郷にいた頃からのお気に入りの茶葉で、当時は村に行商人がやって来ないと手に入らないご馳走だったが、カルナバルでは家の正面にある専門店で容易に手に入る。というか、それが気に入ってこの家に決めたのはクロウ自身だ。
「…今思うと、失敗じゃったかのォ」
味と香りは相変わらず大好きだ。しかし、かつてこれを愛飲した1番の理由は「これさえ飲めばなんか思い付く」からだった。最早その魔法はほぼ機能していないが、それでも、クロウはカップを持って窓際へ行く。
風景を眺めながら一口目を啜る。急激に熱を持った彼の呼気は、白く大きなもやになって飛んでゆく。行き先をぼーっと見つめていると、ふと耳にポン、と一音入り込んできた。聴こえた方に目線がピクリと動く。どうやらピアノの音色らしい。テンポ自体は緩やかだが、音数が詰め込まれていて忙しい。知らない曲だったが、中々クロウの好みだったし、何より演奏が上手い。
「ほーん。ライタイじゃ珍しいのぉ。こんな洒落たメロディは」
しばらく、BGM代わりにさせて貰いながらお茶を味わった。いつか昇進してレフタイに住めるようになったら、こんな生活を送りたいものだと思った。
すっかり飲み干してマグカップをシンクに置くと、また椅子に戻って考え込もうと机を睨む。すると、
「デンレー!デンレー!」
曲がった背骨がただちに一直線になり、真顔で窓際へ駆け寄る。上半身を外へ乗り出して周囲をくまなく見回した。一羽の伝声鳥がクロウのアパートのすれすれを…飛び去っていった。遠ざかる「デンレー!」という声は、どうやら違う建物へ向かうらしい。見届けてから、自分が息すらも止めていたことに気づいたクロウは「はぁ〜っ」と、不足分を一気に肺へ取り入れて膝をついた。
「か、かんべんしてくれェ……」
マイペースに思考に耽るためのチルな空気はすっかり崩壊してしまった。仕事上、仕方がないとはいえ、こんなにも作業がままならないのは正直辛い。もう家でダメなら…いっそ、散歩にでも出るべきかも知れない。インプットの1番の基本は周囲の観察だ、と、一旦自分に言い訳をし、散らかりに散らかった精神を再び統一しなければという焦りのもと、戸締りもそこそこに早足で部屋を出た。
アパートのエントランスを出てから、作務衣に外套を羽織っただけで散歩を試みたことをもう後悔した。寒い。高地の秋は、寒い。熱帯地域出身のクロウには尚更だ。草履の足は靴下を履いているにもかかわらず、氷水に突っ込んでいるかと思うほどであった。
(なんじゃあ、わらぐつでも履いてきたら良かったちゅうんか!?)
心の中では癇癪で大暴れする自分をイメージしているが、実体の彼は冷気に硬直し、悲しみの重さに負けた眉が急角度にへし折れている。このままでは紅茶で温めた臓腑さえ凍えそうだ。部屋に戻って着替えてしまえば良いのだが、今の打ちのめされた気持ちだと、そのまま引き篭もってしまいそうで嫌だった。ならもう、ひたすら身体を動かすしかない。歩くのみだ。外套の襟に耳も鼻も埋めながら、前だけを向いてほとんど小走りの早歩きをする。そんな状態では、右からやってくる小さな駆け足の音にも気づくのが遅れてしまった。
どんっ、と脇腹にタックルを食らって、クロウはバランスを崩す。しかし体幹の強い彼は二、三歩後ずさったくらいで済んだ。一方、ぶつかってしまった相手は盛大にずっこけたらしい。彼自身よりも頭ひとつ分小さい女の子が尻餅をついていて、クロウは顔を青くする。
「お、おい嬢ちゃん! すまん、大丈夫か!?」
すぐさま近寄って、女の子の手を取り起こしてやる。するとその子は、立ち上がるやいなやクロウの手を振り払い、両手で彼の胸ぐらを掴む! しかも、そこそこの馬鹿力だ!!
「だぁれがお嬢ちゃんだ! こちとらハタチ過ぎてんだよ!!」
くりくりお目々が三角にかっ開き、シルバーブロンドのお団子ともちもちの頬が怒号に合わせてぶるぶる震える。彼女の言っていることの全てが彼女自身の容姿を裏切っているとすら感じられる。
「げぇぇっ、年上ェ!? すんませんでしたぁ!!」
フンっ、と鼻を鳴らすと彼女はクロウを放し、「こちらもぶつかって済まなかったな、あばよ!!」と内容に反して捨て台詞のように言うと、クロウの行こうとしていた方向へ向かって駆け出していった。その速度ときたら、霊気に頼ってるのかと思うほどの快速であった。
彼女の背を見送って、クロウは踵を返し、アパートへ戻った。そして、今日は何をやってもダメだと思ったので、ベッドにつっ伏して、そのまま目を閉じた……。
*
「と、いうのがこの間の休みじゃあ。まったく近頃はツいてないのう。まるでちょっと前までの姫様みたいな娘だったわい」
肘をつきながらタコスをかじるクロウの表情は疲れ切っている。思うように休日を過ごせず、彼の疲労は解消されていないようだ。だからといって、同じテーブルを囲んでいたエコーズには聞き捨てならない台詞もあった。
「そういうトコでしてよ! クロウ・ワイト!!」
立ち上がって彼に人差し指を突きつけるエコーズの隣で、ウェイドは「まぁまぁ」と宥めつつ、そんな様子を静かに黙って凝視しているフレディの視線は一旦無視することにした。一同はこの日、たまたま夜のスケジュールが一致して、ライタイの馴染みの酒場に来ていたのだった。
「しかし珍しいねクロウ? 君が近づいてくる人に気が付かないなんてさ」
「きっと、どん詰まって視野が狭まっとるんじゃあ。自分の中で余裕がケシゴムみたいに削れてくのを感じるわい」
「そこまで俯瞰できていて、どうして解決できませんの?」
「姫様ゥ〜、そういうトコっスよ」
以前より素直になったぶん、知り合ったばかりの頃のウェイドみたいな物言いをするエコーズに、フレディは釘を刺すことを躊躇わなくなっていた。エコーズはすこーしだけバツが悪そうにすると、席について麦藁の刺さったクヤッシュの果汁を吸う。
「ま、ぐちぐちせんと解決に動けっちゅーのは、姫様の言う通りじゃなぁ……」
「そんだって、心当たりはあるの?」
「結局はマンネリズムじゃろうて。新しいインプットが足りとらんのじゃあ。霊鳥祭のトーク・セッションも聴きそびれたしのう、なんか刺激が欲しいもんじゃが……」
言ってから、クロウの頭の中で、先日のピアノの音が軽やかに鳴る。そうだ、あんな感じの刺激が欲しい。たまには音楽鑑賞に没頭してみるのも良いだろう。
「そうじゃあウェイド、お前さん蓄音機買ったって言っとったじゃろ? なんかいい曲知らんか?」
「いんや、まだ届いて無いよ。王都まで注文が行くのが明日か明後日くらいで、品がこっちに到着するのが一週間くらい先だってホーミィさんが言ってた」
ホーミィからダンスレッスンを受けて以来、ウェイドは音響機器がどうしても恋しくなってしまい、彼女の伝手を頼ってとうとう蓄音機を買い付けていた。家賃と生活費を差し引いても貯金は溜まっていく一方だったので、いい使い道が出来たと思っている。それでも、本体とレコードが何枚かと、カルナバルはまだ電気が一般的で無いため手回し式のバッテリーをセットで購入すると、口座から半分吹き飛んでいた。
「レコードもホーミィさんのセレクトだし…あ、王都じゃ最近エレキギターが流行りだってんで、そういうのも入れてもらってるよ」
「ほーん。んじゃあ、届いたら是非聴かせてくれぇ」
自分から振った話題なのでそう返したが、ぶっちゃけエレキギターにはそこまで興味が無かった。というか、話してみてから気がついた。自分が聴きたいのはひょっとすると、あのピアノの音色なのかも知れない、と。




