第11節
エコーズ・ギーガーは良い家庭教師だ。フライヤ・イクスビーが信頼する優秀な楽士であることには疑いようがないことを、ウェイドは早速思い知った。
彼女が「勉強につまずく」ことで目くじらを立てることはなかった。ウェイドは分からないことがあると「ねぇ、エコーズ?」と恐る恐る手を挙げる。彼女は退屈そうな半目で彼の隣へやってきて、質問を聞いてくれる。聞いた後は淡々と、理屈を順序立てて教えてくれた。根本からスタートし、徐々に解法へと近づいていく中で、彼女はときどき言葉のあとを数拍おくことがあったが、これは彼に自発的な気づきが現れるかどうかの確認であった。ウェイドは期待通りに答えに辿り着けたので、正答を言い切ってしまうことは、ごく稀だった。ひとしきりリアクションをしたあとで「ありがとう」と礼を述べると、彼女はフフン、とだけ鼻を鳴らして講義へと戻った。
反面、昼食などの休憩時間ではエコーズがウェイドに食ってかかる形で、二人はぎゃいのぎゃいのと言い合いになった。原因は様々で、食事の作法だったり、授業中の仕草であったり、フライヤとどう知り合ったのか、フライヤと何を話したのか、フライヤのことをどこまで知っているのか、フライヤ、フライヤ、フライヤ……。
「口を開けばそればっかりじゃないか!? たまには彼みたいにヴォイスへの信仰を語ってみたらどうだ!?」
「ヴォイスへの忠誠は楽士の基本でしてよ、今更言うまでもありませんわ! ワタクシはその上でフライヤさまをお慕いしているんですのよ!」
「そこまで開けっ広げだと清々しいんだか気持ち悪いんだかだな!? いや、両方というのも有り得る、清々しく気持ち悪いぞ君は!」
「うるさいぺったり髪! 貴方洗髪はこまめにしているようですけれど洗い方が中途半端でしてよ!」
「んなっ、今はそれは関係ないだろ!」
「そのままで楽士になってご覧なさい、礼拝堂で見つけた途端にボコボコにしてやるんだから!」
思わず髪を押さえてエコーズと睨み合うが、臨戦態勢に水を差すように振り子時計の鐘の音が部屋に響くと、お互い何も無かったかのように席に着いて授業を始めた。
最初は度々イクスビー邸の使用人達が心配して様子を見に来たものだったが、2人の言い争いが半ばお約束化してくると、誰も気に留めなくなった。
1時間半ほどが過ぎて小休止に入ったとき、窓枠に寄り掛かったエコーズは「ねぇ、ウェイド・ビーツ?」と、彼がやるように肩を縮こまらせて片手を挙げてみせた。どう見てもおちょくってるような動作にウェイドは目を細めつつ「なんだよ」と返した。
「貴方、どうして楽士になろうと思ったの? やっぱりフライヤさまがいるから?」
虚を突かれた気分だった。語尾は相変わらずだが、自分自身にエコーズから興味が向けられるなどとは夢にも思わなかった。
「…まぁ、全く無関係じゃないとは思うけど。でも、ボクは誰かの為に良いことをしたいんだ。この街では楽士が、ボクにとって理想に1番近い、良いことをする人達だった…そんなとこかな」
「ふぅん、あっそ」
玩具に飽きた猫のように、あっという間に窓の外へと視線を向けたエコーズに、ウェイドは一方的にカロリーを使わされたような気がして、天井を見てため息を吐きかけた、が、それがなんとなく、今までのコミュニケーションと違うようなことに気がついた。
「怒らないんだ、「もっとフライヤのこと気にしろ〜」みたいにさ?」
「言ったでしょう、ワタクシたちの道徳の源はヴォイスですわ。カルナバルで生まれ育ったなら、共通の感覚です。でも、貴方は違う」
今度は伸びでもして見せるかのように、窓枠に手をついたままお尻を突き出して、背を弓形にする。その姿勢のまま見返るものだから、さながらグラビアアイドルのようで、少し目のやり場に困った。
「貴方は異邦人。それも、フィフストラベラー。こちらとは何もかも違う価値観で生きてきた人」
「大袈裟だな」
「そんなことありませんわ。ワタクシが貴方を将来の仲間として受け入れられるか。一緒に円滑な仕事が出来るかどうか。馬鹿に出来ない大問題です。ですが……」
うぅん、と本当に伸びをして、また上体を起こすとヴォイス山を背景に凛とした立ち姿を披露した。両肘を胸元で抱えた彼女のシルエットを風が通り抜け、石鹸の甘い香りを運んでくる。逆光の中であっても大きなルビーの瞳は輝かしく、それがますます猫っぽい。
「とりあえず、合格です。飲み込みも早いし、見込みあるんでなくって? 知りませんけど」
エコーズの退屈そうな表情は変わらない。だから、ウェイドは自分が何を言われたのか、またしても気付くのに遅れた。
「…え、今褒めたの?」
「不満がありまして?」
「いや、違うけど」
フフン、と鼻を鳴らして、エコーズはウェイドの対面の椅子に座り、胸ポケットに仕舞っていた丸メガネを取り出してかける。すると彼女の目は先ほどよりも、ショーケースの中の宝石のように遠くに行ってしまったような気がした。まぁ、別に近くにあった訳でもないのだが。
「ほら、続きやりますわよ?」
「あぁ、うん」
エコーズ・ギーガーは良い家庭教師で、きっと良い楽士だ。だが、彼女という人間のことは、ほとんどよく分からない。彼女が言うように、この街の基本となる道徳の上に、彼女だけの世界観が構築されているのだ。
エコーズの世界は、エコーズを中心に、エコーズの為に回っている。そして、それはきっと誰にでも当てはまるのだ。そのことに気がついたとき、ウェイドもまた、自分が主観の世界では自分が中心でも良いことを、少し許容できるような気がしたのだった。
*
カルナバルはノース・メタロギーほどではないが、標高が高めで涼しい。だから、すべすべになった顎を撫でていく風が変わったことを、ウェイドは木の葉の色で知った。真っ赤な枯れ葉が一枚落ちてくるのを掌で受け止め、じっと見つめる。そんな彼の胸元には、若々しい緑色の楽士章が輝いていた。
白のショートマント、ブラウス、ニッカボッカース、ブーツ。彼は楽士の装束一式に身を包み、ナイア大聖堂へと入ろうとしていた。周りにも多くの楽士がいたが、皆一様にウェイドと同じ、緑の八分音符がマントに刺繍されていた。
*
ウェイド・ビーツは楽士となった。エコーズの指導の甲斐あって、彼は試験を無事にパスできた。結果発表の封筒を受け取り、中身を確認したウェイドは声をあげようとしたが、それよりも先にフライヤの歓声があがった。珍しく年相応にはしゃぐものだから、ウェイドは嬉しさに頬を綻ばせつつも、フライヤを抑える側に回った。こんな光景、エコーズにはとても見せられないと思いながら。
なので、後日改めて彼女には礼を述べに行った。イクスビー邸からはさほど離れておらず、川沿いにあるギーガー邸もやはり巨大な屋敷だった。門から奥まで続く高い生垣の細道に圧倒されたウェイドは、フライヤに着いてきて貰えたことに心から安堵した。使用人に案内されるまま辿り着いたのは、「試奏場」という名前の、要するに道場であった。フローリングとは全く質の違う板の上に座布団が綺麗に敷かれており、エコーズの支度を正座して待つ間、ウェイドはフライヤに小声で訊いた。
「エコーズの家って、武闘派なワケ?」
「まさか。むしろ真逆さ。非常に繊細な芸術家気質なんだ」
フライヤが道場の一角を指差す。見てみると、そこの壁には革製の鞘に収められた刀剣がいくつもぶら下がっていた。その上には神棚のように、少し特別な飾り方がされているモノもあった。そばに円板状の何かが配置されているが、青みがかった黒色で影に紛れてしまい、細部までどうなっているかは分からない。隣にも同じ棚があるが、そこには何も置いていないようだ。
「代々、ギーガー家は楽士の剣を打つ鍛治職人の一族なのさ。ほら、よく耳を澄ましてごらん?」
言われた通りにすると、割と近くから金属を打ち付けるような音が聴こえてきた。だがそれは、鍛治という言葉から連想するそれとは若干違い、メロディアスだった。
「ヴォイスの背に堆積している、音鋼という金属を加工して作るんだよ。名前を「ヴィオラ・ダ・スパーダ」というんだ」
「ヴィオラ…なんだか楽器みたいだ」
「みたい、では無くて楽器でしてよ?」
横からふいに知っている声がする。見ると、エコーズが相変わらず金の縦ロールを揺らして立っていた。髪型はキチンとセットされているが、服装は楽士の制服でなく、白いリネンシャツに赤いロングスカートというオフの格好だ。
「やぁ、エコーズ」とフライヤは座布団から立ち上がり、ウェイドも少し遅れてそれに倣う。エコーズは入り口で小さくカーテシーをして、道場へ上がった。
「ご機嫌よう、フライヤさま。…それとウェイド・ビーツ。その何でもなさそうな顔を見るに吉報と言うことね。ご苦労様」
「何でもなさそうな顔って?」
「貴方、嬉しいことや良いことがあったときほど、顔がのっぺらぼうみたいに無表情よ。表情筋が死んでいるのではなくって?」
「んなっ」
思わず自分の頬を摘む。言われてみれば人生のほとんどは良いことも悪いこともない引きこもり生活だったし、人に褒められることもあまり無かったので「どういう顔をしたら良いのか分からない」ことに気がついた。
「ほらほら、あんまりイジワルしないでやってくれ」
この世の全てを包んで許すような笑顔で、フライヤが歩み出た。
「今回の件、本当にありがとう。やはり君にお願いして良かったよ」
言われて、エコーズの顔は明らかに変化した。いままで見たことないくらい目蓋が開いて、ルビーの瞳が眩いくらいに輝いている。「なるほど、喜ぶってこういうもんか」と、ウェイドはまた一つ彼女に教えられた。
「そのようなお言葉をいただけるなんて…光栄ですわ! このエコーズ、今後もフライヤさまの期待には100%応えてみせましてよ!!」
ウェイドはこのとき初めて、オッホッホなんて高笑いをする人間を見た。コッテコテのお嬢様で、猫みたいに気まぐれで、しょっちゅう言い合いを起こすうるさい娘だが、彼女のおかげでウェイドは、目標への偉大なる一歩を踏み出した。
「エコーズ」
呼びかけると高笑いは止まった。目蓋はいつもより少し狭いくらいの開き具合になったが、瞳はきちんと、自身を向いていることがわかった。
「本当にありがとう」
とりあえず、目尻は下げた筈だった。意識してみると、自分の顔がいましっかりと、感情に沿ったものになっているか分からない。けれど、彼女の目尻も下がったのだから、きっと大丈夫だと思えた。
「フフン、これからも精々頑張りなさい?」
そして右手が差し出された。普段、剣を握っているとは信じられない小さな手だった。だがウェイドにとっては、自分を新たなステージへ導いた偉大な手だ。彼も右手を伸ばし、その手を取ろうとする。
そして、着地点であったはずのエコーズの手は素早くウェイドの手首を掴んだ。次の瞬間腕に縦方向の回転が加わったと思うと身体が浮き上がった。視界がくるっと回り、天井が正面にくる。背中から強烈な空気の流れを感じ、直後に音と衝撃、少し遅れて痛みを感じた。
全部終わったあとで、ウェイドはエコーズに、「投げられた」のだということを理解した。
「〜ってェェ!!?」
起き上がって背中をさする。なんでこんな事をされなきゃいけないのか問いただしたくて、涙目でエコーズを振り返り、喧嘩をふっかけてくるときの表情をしているのを見てしっかりと心得た。彼女の機嫌は、山の天気より変わりやすいことを。
「今のがアクト、楽士の用いる格闘術ですわ! 貴方も楽士になったからには、フライヤさまのオーダーを実行できるようビシバシ鍛えてやるんだから!」
力強いメリハリの効いた動きで人差し指を突きつけられる。その傍ではフライヤが、口を手で覆い、エコーズに呼びかけることを躊躇った手を行き先不明と言ったふうに震えさせてオロオロしていた。
全てを巻き込み振り回す暴風の中心。それが、彼女のもう一つの側面だ。これから楽士として仕事をしていくなかで、どうしても彼女と関わらざるを得ない状況は多いだろう。だから、ウェイドは今のうちに一言、言っておく事にした。
「…やっぱり、君のことは苦手だっ!!」
*
そんな訳で、そのあともう一回投げられた。おかげで未だに背中が痛いような気がする。2、3回ほど摩ってから、ウェイドはため息混じりに大聖堂の入り口を見た。大きな観音開きの扉は解放され、その奥から通り抜けてくる風は、キチンとサラサラにしてきたウェイドの髪を吹き上げて、少し寒いような思いをした。
思わず小走りで建物に入る。
雑音がぐっと減って、人の話し声だけになる。
エントランスには無数の人。その中にウェイドの知る人はおそらく、いない。今日はフライヤもエコーズも不在だ。ここを抜けた先に、新しい世界がある。
ウェイドは深呼吸して、自分の頬を両手で2回叩き、ホールへと歩き出した。
そして彼はこれから、神話と共に生きていくこととなる。




