第4節
標高の高いノース・メタロギーにも春の陽気は温もりを与えてくれる。つい一月くらい前までは吹き付けるたびに憂鬱な気持ちにさせた風も、肌触りが幾分柔らかくなった。間も無くやってくる繁忙期に向け、ホテルでは着々と受け入れ態勢を整えているが、コーミー傘下の小作人達が本業に戻っているこの時期は、なんとものんびりした空気感で奴隷達が仕事をしていた。「与えるべきものを与え、手綱をとっていれば逃げ出す理由がない」というロミス夫人の方針により、比較的自由に生きられているのもウェイドやハル達が心穏やかでいられる理由の一つだ。
特にハルはロミス夫人に信頼されており、度々麓まで買い出しを任されることすらあった。ハルもますます仕事に精を出しており、上手くいけばその働きによって生まれる利益が、自分の買われたときの価値を上回ろうかという程だった。もし実現できれば、奴隷には自分の所有権を買い戻す権利が付与され、そのための私財を蓄えることができると法律で制定されている。
空の背嚢を負ってホテルを出る彼を2階の窓から見送ったウェイドは、この頃ハルの様子が変わったような気がしていた。元から優しくて良いヤツだが、最近はそれに輪をかけて寛容というか、どこか浮かれているような感じだ。ちょうど館内の箒がけも終わったので、わずかに湿った額を拭うと道具を片付けるついでにロビーへと降りた。
「最近のハル、なんか雰囲気違いませんか、ロミス夫人?」
仁王立ちで地平を見据えるロミスに訊いた。「む?」とウェイドに一瞥くれるのに、末端で束ねたバサバサの金糸が微かに揺れる。その髪も肌も、そう遠く無い昔に陽光を照り返すことをやめてしまっていたが、目付きの鋭さとコーミー家特有の高い鼻がそのことをむしろ武器に変えていた。都でオーダーメイドした真っ赤なドレスと合わさって、彼女はこの宿にいる誰よりも精悍だった。
「フン、ウェイド坊にもそんなことが分かるのかい。それなら、他の連中も勘づいてる頃合いだねェ」
避暑に来る名士たちと大酒を過ごすこともある彼女の喉は、もう幾ら休ませても枯れたままだ。ささくれ立った声色がちくちく言葉たちを乗せてウェイドの耳穴に入ると、それらは心にヤスリをかけるように引っ掻いていく。が、今のウェイドは以前より、幾分心臓の毛が生え揃ってきたので、「そんなぁ〜…」大袈裟におどけてみせることだって出来るようになっていた。
「つか、やっぱり夫人は何かご存知なんです?」
「あーぁ、そうだとも」
ロミスは腰に当てていた手を、わざとらしく胸元で組み直した。
「何でもお見通しさ。ハルが何でヘラヘラしてやがんのかってこと以外はね」
箒を持ったまま、ウェイドの膝がカクンと抜ける。
「ご存知無いんじゃないか!」
落胆で脱力するウェイドを横目に、ロミスはフフンと笑う。
「で、それを調べて来んのがテメーの仕事ってワケだ」
はい?と首を傾げる。夫人はウェイドに向き直ると、僅かに「にこやか」だった口元をひき結んだ。
「ウェイド、アイツをつけていきな」
思っても無い言葉が飛び出した。どんくさ頭が意味を考える前に、脊髄が勝手に喉を震わせる。
「え、ボクも外出ていいんですか!?」
発声の余韻が抜けたくらいのところでロミスのゲンコツがウェイドの頭頂を突いた。
「大声出すんじゃないよバカモン!」
「痛っッア!!」
叱りつけるロミスの声の方が絶対に大きかったが、それを言ったら二発目が飛んできそうだと考えられるくらいには思考が追いつき始めた。一方彼女は、いたって真面目なトーンで話を続ける。
「ハル相手にヘマこいてもジョークで済むのはテメーだけってことさね。ここ最近アイツを使いに出すと、ちんたらちんたら帰って来やがる。キチンと仕事はこなしてるから泳がしてるが、つけ上がった挙句に代金をちょろまかそうモンなら……」
「まさか、ハルはそんなことしませんよ! アイツが自分を買い戻すつもりなの、夫人も知ってるでしょ!?」
彼は疑いようもなくいいヤツだったし、同時に損得についてある程度シビアな考えを持っていた。自分にとって有利な環境を、自分でふいにする様な真似はしないだろう。なんだかんだ自分が「奴隷」という身分であることを忘れたことも無い。そんな彼が、どうして小銭をくすねるなんて安っぽい不正を行うだろうか?
口に出す前にロミスは自分の考えを述べた。
「アタシだって根拠なく言ってる訳じゃあない。昔にも見込みのあるヤツはいたが、どいつもこいつも調子に乗ってホテルを裏切った。そういうやつは陸運に引き取って貰って、そっから先どうなるかはアタシ達にも分かったもんじゃない。…人間なんて簡単に変わっちまうんだよ、ウェイド坊。良い方にも悪い方にもね」
「でもっ…!」
なんとか抗議しようとした彼のの頭頂に再び夫人の手が当たる。しかしそれは先ほどのゲンコツと違い、手のひらで受け止めるように置かれ、ウェイドはそれに微かな温もりを感じた。
「そして、それはアタシの望むところでも無い。アイツは優秀だ。優秀で従順なまま手元に置いておくのが、私にとっての得だ」
言い方は奴隷の持ち主としての振る舞いだが、彼女もまた、ハルを信じようとしていることくらいはウェイドにも分かった。その「納得」をウェイドの沈黙から感じ取ったロミスは手をどけて、自分の腰に戻した。
「今ここでアタシが出れば、原因いかんによっては"責任を持って対処"しなきゃいけなくなる。その前にテメーが動向を探るんだ。特に問題なければアタシはハルに「真面目にやれよ?」とだけ言って、この話を終いにできる」
ロミスの言う通りに動かない理由は無かった。
ウェイドは口の両端をきゅっと結ぶと、いままでそうしたことも無いくらい真面目な顔で主人を見据えた。
「わかりました、やらせてください」
実年齢の割に幼い彼が、ようやく見せたそんな表情に、ロミスはむず痒さを感じて、腰のベルトからファーの付いた扇子を抜き取って、口元で広げた。
「フン、最初からテメーの返事なんざ関係無いよ。散々ケツを拭いて貰った相手だ。親孝行だと思って行ってきな」
くるっとそっぽを向いて、細く皺の寄った首元へ扇子で風を送る。ウェイドは彼女の背に「ハイっ」と返事して深く一礼すると、ロビーの隅の壁に箒を放るように立てかけて、外へ飛び出して行った。
*
麓へと続く道のりを、ウェイドは本当に「初めて」目にした。アレクサンドル・カバネルの描く女体のように美しい曲線を見せる丘陵と、その奥に蒼くそびえる山脈、点在する森林と隙間を埋めるような田畑からなるノースメタロギーの景色は正しく「風光明美」であった。地球ではもう見られなくなった大パノラマに、一瞬ウェイドは目的を忘れるほどだった。すぐに我に帰って坂の下を見やるが、ハルを探し出すのにそう時間はかからなかった。遮る物のほとんどない山道を、彼はだらけもせず急ぎもせず、マイペースに下っている。おかげでウェイドは身を隠すのに難儀したが、麓に下り切るまでついぞハルが振り返ることはなかった。
そうして辿り着いたのは「ゲダン市場」という、この集落で一番賑わう場所だ。村人たちの日々の暮らしの拠り所であり、ホテル「ノース・メタロギー」を始めとした周囲の宿屋の仕入れ先ともなっている。ここに観光客も合わせると、いよいよ通りは芋洗い状態となる訳だが、幸い今は閑散期であるので、ウェイドもハルを見失うことなく尾行できている。
ハルは目的の雑貨店にたどり着くと、店主を呼んで話を始めた。今回の使いは客室に備え付けるアメニティのいくつかを仕入れてくることだった。何でも、倉庫の隅が湿気を原因とするカビに侵され、在庫のいくらかがダメになっていたらしい。ノース・メタロギーではあまり見られない現象で、経営陣は皆首を捻っていたが、現在までに原因はハッキリしていない。
やがて背嚢一杯に荷物を詰めたハルは店主から領収証を受け取ると、山頂側の街道へ振り向いた。ノンキに上流から様子を見ていたウェイドは慌てて建物の陰に隠れ、間一髪でバレずに済んだ。ホッと一息ついた瞬間、今度は頭上から「ハル!」と呼ぶ声が響いた。人通りの多い中でもよく通る、元気な女性の声だった。ウェイドは驚いて野良猫のように飛び上がると、その必要もないのに四つ足で路地裏に駆け込み、薄暗く蒸し暑いところから声の発生源を見た。
どうも先程彼の隠れていた場所の上には、窓があったらしい。大きく開け放たれたそこから、赤毛の女性が身を乗り出している。その娘が大きく手を振ると、気づいたハルも手を振り返した。
「ミーツ! 今日は春だってのに蒸し暑いなぁ!」
ミーツと呼ばれた女性はホテルの中でも見るような給仕服を着ており、その襟を軽く摘んでパタパタと扇いで見せた。
「まったくさ! こう暑くっちゃ、荷物運びは堪えるだろう?クヤッシュを飲んでいきなよ!」
そう言って彼女はハルに何かを投げ渡した。よくよく見てみると、それは木の実だった。ココナッツのように中が果汁で満たされた固い果実で、ヘタを引き抜くことで穴が空き、中身を飲むことができるというものだ。ウェイドも何度かホテルでゲストに提供していたが、自分で飲んだことは無かった。
「ありがとよ! お代は近いうち払いにくるからな!」
「無理しなさんな、奴隷さんよ。そいつは私のおごりだからいいんだよ」
ミーツは悪戯に微笑んで見せるが、それに対しハルは両手を腰に当て、胸を張った。
「ところがだ、俺はもうすぐ「買い戻し権」を貰えるかも知れないんだ! 自由に外へ出て、君の店の常連になる日も夢じゃない!」
得意げに白い歯を見せるハル。そんな彼を初めて見たウェイドは、ポカンと口を開けていた。
「そりゃすごいね! でも、予定は未定って言うだろ?こんなとこで油売ってたら、折角のチャンスふいにしちゃうぞ!」
「ハハ、そりゃそうだ!」
背嚢を背負い直し、ハルは再びミーツに大きく手を振った。
「また今度!」
そう言って、小走りで街道を登っていく彼に、ミーツはしばらく手を振り続けていた。やがて彼女が手を止めて、窓を閉めるのを見届けてから、ウェイドはのそのそと路地裏から這い出して、
「マジか」
とだけ呟いて帰路についた。
*
帰ってから、見たままを全てバカ正直に報告したウェイドを前に、ロミスは腹を抱えて大笑いした。その笑い声はやはり館内中に響いているような気がしたが、皆これに対しては聞こえないフリをすることに慣れている。
挙句、「なんだそのしょうもないオチは」だの「そんなコッテコテの展開じゃ王国劇場だってシラけるぜ」だの言いたい放題だったが、最後には和やかな笑顔で「ま、私が監督してりゃあ大丈夫サ」と、ハルのことについては見守り続ける意志を示した。
だが、そんなロミスはおろか、コーミー一族や奴隷たちから、一月もしない内に余裕が無くなった。理由は繁忙期では無く、連日続く酷い蒸し暑さだった。
ノース・メタロギーはいわゆる避暑地だ。
王侯貴族も都の工場長も、皆、涼を求めてこの地に足を運ぶ。ところが、近頃のゲダン集落といえば昼夜を問わず霧に包まれ、真夜中の山の中腹ですら生暖かい。カラッとした気候を前提に建てられた家屋に湿気がもたらす被害は甚大で、倉庫は保管の用を為さず、リネン類はいつまで経っても乾く気配を見せない。急遽冬にしか使わないボイラー室を稼働させて乾燥機代わりにしているお陰で、本来よりも燃料代が嵩んでいる。こんな始末だというのにジメジメのせいで客足は遠のいているので、今年は赤字が出るかどうかの水際だろうというのがロミスの試算の結果だった。
噂によれば、麓の市場では建物の一部が腐り落ち、怪我人が出たという。どこの建物かまでは分からなかったが、そのせいで噂を耳にしたハルが余計にピリピリしているのが、ウェイドにはいたたまれなかった。
さらに皆を苛つかせたのは、夜ごとに聞こえる機械音だった。それはどこから鳴っているのか見当が付かないが、山中に響き渡る不気味な金属滑車の回る音だった。最初は誰も気にも留めなかったのが、日を増すごとに音が大きくなり、人々の眠りを妨げた。ただでさえ湿気でなかなか寝付けないのに、ようやく意識が落ちたところで…
「ボォー!!!!」
と、けたたましい汽笛のような轟音。
夜驚症のように奴隷たちは布団から飛び起きて、周囲を見回すが、誰も彼も自分と同じで隈を浮かべて頭を振り乱すのを見ると、身体がだんだんと疲れを自覚し始めて、各々花が枯れていくように、ぐにゃりと布団に転がっていった。
そんな日々が続いて、集落の皆皆が限界を迎え始めていたとき、とうとうこんな事を言うものが出始めた。
裏の山に、霊獣が出たのだと。




