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芸術に生きる者の話

作者: うたう

 その画家はね、かれこれ三日は色を作っていたよ。飲まず食わず、寝るのも忘れて絵の具を練っていたよ。肌は乾燥して頬はこけ、無精ひげに覆われていた。

 でもね、いいじゃないか。人里離れた山奥のアトリエさ、誰に会うわけでもない。それに絵なんてものは身なりで描くものじゃないだろ? 魂を搾り出して、それをカンバスに塗りたくるものなんだから。完成した作品がすばらしければ、身なりも過程も何もかもが許される、それが芸術ってものさ。

 だから僕はその画家が色を作るのを黙って見ていたよ。油絵の具の匂いと画家の体臭に耐えて、ただ見ていたんだ。そりゃそうさ、確実に三日は風呂に入ってないんだもの。肌が垢でくすんでいたから、あれは三日どころじゃあないね。二週間以上、入ってなかったんじゃないかな。でも、鼻なんて器官は麻痺しやすいもので、アトリエを訪れてから十分もすれば臭いは気にならなくなる。そうじゃなければ、三日も通い続けたりはできなかったよ。

 すごいって? いやすごいのはその画家さ。寝食を忘れて、おそらく三日以上集中を切らさずに絵の具をこね回してたんだから。「私が欲しいのはこんな陳腐な赤じゃないんだ」っていうのが口癖になってたな。

 でもね、集中力なんて永遠のものじゃなくて、やっぱりその画家にも尽きるときが来たんだ。パレットを投げ出して、倒れ込んじゃってね。もちろん、生きていたよ。寝てもなかった。視線は宙をさまよっていてね、それでも赤い色を探し求めているみたいだったよ。 それで僕の吸っていたタバコを見て目の動きが止まった。すごい勢いで起き上がって僕からタバコを取り上げたんだ。で、目線をタバコの先端に向けながら吸っていた。三度は吸い込んだかなぁ。その度にぽぅっとタバコの先の火が赤みを増した。だけど違うって言って、その画家は火をもみ消してしまったよ。

 僕は訊いたんだ。どんな赤が欲しいんですか、って。

 その画家が言うには「もっと煌々とした赤なんだ!」って。

 だから僕はライターを点けた。

 でもその画家は、「違う! 全然違う!」って言ったんだ。

「妖艶さも兼ね備えていなければ駄目なんだ」って。

 僕はその辺にあった紙を束ねてねじって、それに火を点けたよ。少し油を吸っていたのかな。火はゆっくりと大きくなっていって、たいまつみたいになった。先端じゃ大きな火が揺らめいていたよ。

 どこがいいのか僕にはちっともわからなかったけど、その画家は震えていてね。

「それだ! その色だ! ああ、なんと艶かしくて冷たいんだ」って火に向かって恍惚とした表情で言ったんだ。持ってる僕は熱くてしょうがなかったっていうのにさ。

 そして、その画家は僕から火の点いたその紙束を奪い取ったんだ。あんまりにも不用心に取るもんだからさ、少し火傷してしまったよ。



 そう言って、十八、九歳くらいの少年は腕にできた火傷の痕を私に見せつけた。

「で、今日はその画家が描きあげた絵を持ってきたのかい?」

 私の営む喫茶店では貸しスペースを設けていて、そこには手作りの絵はがきやイラスト、粘土細工が並んでいる。スペースのレンタル料さえ払えば、持ち込んだ作品が売れたときの代金はそっくりそのまま作者に入る、委託販売の形を採っていた。

 置いてくれと作品を持ってくる人間は少なくなかった。作者以外の者が持ってくることもあった。私が気に入った作品しか展示しないことにしていたから、自信のない作者は家族や友人に託すのだろう。もっと多くの人の目に触れさせたいと、友人らが他薦として作者の許可なく作品を持ってくることもあって、その場合は良いものであれば、作者本人を連れてくるように促した。

 だから私は作者ではない人間が作品を持ち込むことに疑問は抱いてはいなかった。ただ、少年の格好を不思議には思っていた。別段、奇抜な服装をしていたのではないが、彼の持っていたバッグは小さくてぺしゃんこで、0号のカンバスでさえ入っているようには見えなかった。怪訝に思い、私はそう訊いたのだ。

「ううん。あの人、もういっちゃってたからさ、僕から奪い取った火をカンバスに筆で塗るようになでつけたんだよ。油絵の具ってホントに油なんだね。すごい勢いで燃え上がってね、だからさ、彼が描いてたカンバスはもうないんだよね」

 少年は楽しそうに笑った。

「火事にはならなかったのかい?」

「そりゃあなったさ。湯壺なんて置いてあるし、あっという間にアトリエ中に燃え広がって、僕も危うく焼け死ぬところだったんだから」

 少年の口調は武勇伝でも語っているかのようだった。

「僕も?」

 私は思わず復唱していた。

 少年はバッグの中から、サイズぴったりの透明の袋に入れられた、一枚の写真を取り出した。

「あの人はこんな風になっちゃったよ」

 緑豊かな森林の写真だった。右下には少年のものだろう、筆記体でサインが刻まれている。森林の中央は開けていて、木漏れ日を浴びている大きな切り株があった。その上には四本の焼け焦げた枝のようなものを宙に向かって伸ばしている黒い塊が写っている。

 私は言葉を失っていた。幻想的で美しい写真であったからではない。黒い塊が画家の焼死体であると悟ったからだ。焼け落ちたアトリエの中から、少年は画家の遺体を捜し出して、運び出し、切り株に載せて撮影したというのか。店内は冷房が効いているのに、私の額には汗が滲んだ。

「緑の中に、その黒が欲しかったんだよね」少年はまったく悪びれなかった。「いい写真でしょ? 置いてくれるよね?」

 私は何も言えずにおののいていた。

 焼け跡から無断で遺体を持ち出すのは何かの罪に問われるはずだ。画家の遺体が今も切り株に横たわっているのなら、死体遺棄罪に当たるのではないだろうか。そもそも火災時には通報の義務というものがある。それを怠り、少年はアトリエが焼け落ち、画家が焼け死ぬのを待っていたというのか。ひょっとして――。

 疑念は私の背筋を凍らせた。

 ――少年がアトリエに通い詰めていたのは、画家を焼き殺す機会をずっと探っていたからではないのか。

 いや、まさか。私は慌てて首を何度か横に小さく振って、疑念を追い払おうとした。そんなことは到底許されるはずもない。誰がそんなことをするというのだ。

 少年は私の心の内を読んだのか、屈託のない笑みを浮かべ、そして誇らしげに言った。

「僕だって芸術に生きる者のひとりだよ?」

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