その次のお話
三日目も霧が深くなる中、三人と二匹は歩いていきます。
インテグラはつややかになった長い髪の毛を後ろでくくってポニーテールにしていました。
イワンコフはその仕草をじっくりと見ていました。
「女は髪型も変わるのか。ううむ、興味深い」
インテグラは何も言わず、ただ機嫌良く笑いました。
「昨日はあんなに怒っておったのに、今日は笑っておるのも分からん」
「それは男の僕にだって分からないよ、イワンコフ」
イシュタルはそう言いました。
「分からん事はまだまだある。この前歯の欠けたネズミがリーダーなのか?わしらの中では一番力の強いものがリーダーになるのが普通だがな」
イシュタルはその質問に答えました。
「イマヌエルは小さい体で、僕たちと同じ山に登っている。つまり僕たちとは比べものにならないほど辛い思いをしている。それなのに弱音を吐かずにちゃんと僕たちの前を歩いている。リーダーになるのにこれ以上の条件が必要か?」
「ふむ、確かに。そりゃ頼もしい事だな。しかしイシュタルよ。わしらは本当に頂上に向かっているのか?」
イワンコフの言葉を聞いてインテグラは不安になり、先頭を行くイマヌエルに聞きました。
「ネズミさん、私たちが進んでいるこの道は本当に合っているの?」
イマヌエルは「確かな事は昨日の事だけ」と言いました。
「どういう意味かしら?」
「自分の行く道が合っているか、先の事を分かるわけがないって事さ。イマヌエルもなかなかシャレた事を言うじゃないか」
そう言ってイシュタルは笑いました。
イマヌエルは誰かの言葉を真似するだけでなく、自分の言葉で言えるようになっていたのです。
「確かにそうね。先の事が分かると言い出すのは、インチキ占い師くらいのものよ」
そう言ってインテグラも笑いました。
その時です。みんなの笑い声にひかれるように、霧の中から人影が現れました。
それはいかにも頑固そうなおじいさんでした。
「おお、人がおったか!これで助かる!」
喜ぶおじいさんに、イシュタルがていねいに話しかけました。
「失礼ですが、あなたは……?」
おじいさんはゴホンと咳払いをしてから仰々(ぎょうぎょう)しく答えました。
「私はインデペンデント。インデペンデントとは大学教授の最高位の事である」
「名前は何というのですか?」
「名前なんぞとうに忘れたわい。わしは誰もが憧れるインデペンデントなのじゃ!」
一同は呆然としたような顔で目の前にいるおじいさんを見ました。
このおじいさんは肩書きを大事にするあまり、本当の名前を忘れてしまったのです。
「わしは助手とこの山の霧について研究していたのじゃが、どうもはぐれてしまったようでの。おぬしらに付いていく事にするぞ」
「それは構いませんが、呼び名を決めておかないと不便でしょう」
「じゃから、サー・インデペンデントと呼びなさい。敬称を忘れるでないぞ」
「それじゃ長すぎる。インディというのはどうですか?」
その名前を聞いてインデペンデントは怒りました。
「そんな名前の人間ではない!大学では最高位の人間なんじゃぞ!誰もが私を見ると必ずあいさつをするのだ!」
一同は困りました。このおじいさんとどう接していいかわからなかったからです。
「わしはエラいんじゃ!わしにたてついた者は社会で生きていく事はできんくらいにな!」
イシュタルは、インテグラとイワンコフとイマヌエルをチラリと見てから言いました。
「あいにく、ここにいるみんなは社会とはあまり縁のない者でしてね」
「なんと!」
「我々(われわれ)の旅では、あなたのいう『エラい』というのはあまり役に立たないのですよ」
「そうじゃったか……」
インデペンデントは落ち込みました。
イシュタルはそんなインデペンデントを元気づけるように言いました。
「代わりにあなたの『知恵』をお貸し下さい。我々はどうやったらここから頂上に行けるのでしょうか」
するとインデペンデントは得意そうな顔になって言いました。
「それなら簡単だ。山の入り口は南じゃったから、よほどの事がない限り、北に向かえば着くじゃろう。それにだ。この山はトンガリ山で有名じゃ。トンガリ帽子を想像してみなさい。例えどこにいたとしても、『登り坂を登っている限り、必ず頂上に向かっている』という事が分かるじゃろう」
「なるほど、流石はサー・インデペンデント。では北に向かおうか、みんな」
一同は太陽の位置から北の方角を確認して、進み始めました。
なおも霧の中を歩いていると、インデペンデントは不思議そうな顔をしました。
「あの先頭におる実験動物は何じゃ?」
「実験動物ではありません。黒ネズミのイマヌエル、我らがリーダーです」
「ネズミがリーダーじゃと!?なんということじゃ!インデペンデントであるわしが、いまや実験動物よりも下におるなんて……」
インデペンデントは悲しみました。
「実をいうとわし、つまりインデペンデントの地位はどんどん落ちてきておる。近頃わしの事を気にかけてくれるものがいなくなっての。生徒達はわしの事を口うるさいジジイとしか思っておらんのじゃ!『全く最近の若いもんは……』」
イマヌエルはあまり意味のなさそうな言葉もどんどんファイルしました。『いつかどこかで役に立つ』と、イシュマエルに言われた事が、役に立っているのです。
それにイマヌエルはインデペンデントがしゃべった言葉の中に、さみしさを感じたのです。このおじいさんはさみしくて沢山しゃべっているのです。
イシュタルもそのことに気づき、インデペンデントを励ましました。
「では霧の謎を解いて、皆をアっと言わせましょう。それでこそインデペンデントというものです」
「そうじゃな」
こうして、四人と二匹になった仲間たちは更に上を目指しました。
三日目の夜。月が隠れた、暗い夜がやってきました。
四人と二匹の一同は、たき火を囲んで、交代で見張るようにしました。
いつ後ろから夜の悪魔、イリーガルがやってくるか分からないからです。
インデペンデントは夜の悪魔と聞くと、興味深そうに質問しました。
「そのイリーガルというのは、どんな姿をしているのじゃ?」
イマヌエルは山猫と言いました。しかしイシュタルは違いました。
「僕には大きなクモに見えたけどね。黒い影を見て僕が嫌いなものを想像しただけかもしれない。どちらにせよ、人を襲う怖い悪魔だ。用心しよう」
一同はたき火の火をできるだけ明るくして、交代で見張る事にしました。
最初はイワンコフとインデペンデント、次に交代して、イシュタルとインテグラが見張りを始めました。
インテグラはぐっすりと眠るイランイランを見つめて言いました。
「イシュタル様、イシュタル様のパートナーはこの辺では見ない生き物ですが、どうやって知り合ったのですか?」
イシュタルは愛おしそうにイランイランの寝顔を見つめると、言いました。
「イランイランは俗に言うグレムリンという妖精だよ。彼を飼うのはすごく難しい。沢山の光、沢山の水、沢山の愛情、それがもし途絶えると狂暴な悪魔に変身してしまうんだ。犬や猫を飼うのよりも、もっと深い愛情が必要なんだよ」
「それをイシュタル様は実行しておられるわけですね」
「ああ。自分一人では規則正しい暮らしができなくても、動物の世話をし出すと、うまくいくものだよ」
「私も何か飼ってみようかしら」
「いいね、応援するよ」
イシュタルの瞳はインテグラの顔をまっすぐ見つめていました。
インテグラは恥ずかしくなって俯きました。
その時です。イシュタルの後ろに素早く動く黒い影が現れました。
その影は一直線にイシュタルの後頭部に向かっていきました。
インテグラがハッと立ち上がりました。
「イシュタル様、危ない!」
インテグラは腰に刺してあったナイフを取り出し、投げました。
ナイフはイシュタルの顔のそばを一直線に飛んでいき、ブスリと後ろにいるイリーガルの顔に命中しました。
黒い影は消え、それを見ていたイシュタルは冷や汗を流しながら、後ろを振り返りました。
「今、巨大な黒いクモが……」
「いえ、イシュタル様。今のは巨大なカミキリムシでしたわ」
「そ、そうか。
それにしてもインテグラ、君の投げナイフは正確だったね。どこで習ったんだい?」
「私はいつも一人でしたから、退屈しのぎにダーツや投げナイフの練習をして過ごしていたのです」
「努力家なんだな、君は……尊敬するよ」
インテグラは再び恥ずかしくなって俯きました。
イシュタルがイリーガルのいたあたりを調べると、黒い髪の毛が落ちているのを発見しました。
「これは、女性の髪の毛だな。これがイリーガルに化けていたのか」
「そのようですね」
「明日、インデペンデントに聞いてみよう」
*
次の朝がやってきました。霧はますます深まるばかりです。
インデペンデントはイリーガルが落としていった髪の毛を見ていいました。
「これは女の髪の毛じゃ。それ以外は何にも分からんわい」
「インデペンデントにも分からない事があるんだな」
「当たり前じゃ!人間は人生をかけても、物事の1%をも分かる事はできん!わしは『分からないと分かった』事でインデペンデントになれたのじゃからな」
「よく分かりませんな」
イシュタルとインデペンデントの話はイマヌエルには分かりませんでした。でも会話というのは、お互いが分かりあえなくても進むものだ、とイマヌエルは思いました。
一同が歩いていると、今度は霧の中から杖を持った女性が現れました。
「ごきげんよう」
その女性は白い衣装に身を包んだ、まるで天使のような美しい姿をしておりました。
「私の名前はイデア。神の使いです。私はここでずっと、イモータルを倒す者が現れるのを待っていました」
イシュタルは一同の前に立ち、言いました。
「あなたが本当に神の使いならば、イモータルを倒せないのですか?」
「神の使いと言っても、命じられたわけではないのです。私の意志は神の意志であると直感しているだけに過ぎないのです。ですので、私は私に従って動いているだけです。戦う力がない代わりに、私には不思議な力が備わっているのです。そのことが私が神の使いである証なのです」
イシュタルはうなづきました。
「信じましょう。我々は神の使いではないが、あなたも一緒に来ますか?」
「あなたたちも立派な神の使いです。ただそれを知らないだけなのです」
「なぜそう言えるのですか?」
イデアは、様々(さまざま)な姿をしたイマヌエル、イシュタル、イランイラン、インテグラ、イワンコフ、インデペンデントを見ました。
「それは、あなたたちの姿がどうであれ、『天があなたたちを生かしている』からです」
そうしてイデアは祈りのポーズをとりました。
そしてイデアが杖を頂上に向けると、霧が一直線にパっと晴れました。
一同はもう少し山を登れば、頂上に着くというところまで来ていたのです。
「さあ、イモータルはこの道を行った所にいます。共に行きましょう」