次のお話
山に入ると、二人を邪魔するように、とたんに霧が深くなりました。
イマヌエルは頂上までどれくらいあるのかイシュタルに聞きました。
「さあ、僕にも分からないよ。ひょっとしたらたどり着けずに、二人とも倒れてしまうかもしれない。でも、それも仕方ないよね。『尊いものはそう簡単には手に入らない』のだから。それに、あまり簡単にたどり着いてしまったら面白くないだろう?」
イマヌエルは歩きながら、話すイシュタルの顔を見ました。少し不思議なところがあったからです。人間の顔は本の中で何度か見た事がありましたが、イシュタルの顔は普通の人間とは違っていたのです。
イシュタルは不思議そうな顔をするイマヌエルに気づくと、笑って答えました。
「僕の顔が気になるかい?右と左で顔が違うだろう。これは僕の中にある正しい心と、間違った心がぶつかってできた顔なんだ」
イマヌエルは首をかしげました。イシュタルは説明を加えました。
「僕はね、この山にいる『もう一人の自分』と会う為に来たんだ。名前はイモータル。僕はそいつと決着を付けない限り、『自分に満足する事はない』んだ。僕のこの顔は、正義と悪の、二人の僕が心の中にいる事を表している」
イシュタルの言葉に、イマヌエルは首をかしげました。自分が二人いるとは、どういう事か分からなかったからです。
「君にもいるはずさ。おくびょうな自分と、おくびょうではいたくない自分がね。少なくとも僕にはそう見えるが」
イマヌエルはハッとしました。そして、どうしてイシュタルに自分の心の中の事が分かるのか不思議でした。
なおもイマヌエル達が山道をのぼっていると、みすぼらしい服にリュックを背負った女の人が、ヨロヨロと坂道を登っている所を見つけました。
「こんな山を女性が一人で登るのは危険だ。忠告してあげよう」
イシュタルが声をかけると、女の人は振り返ってあいさつをしました。
「どうも、私はインテグラといいます。どうか私の事はそっとしておいて下さい」
イシュタルはその顔を見て驚きました。
そのインテグラと名乗る女性は、目は左右でズレ、鼻は曲がっており、おせじにも美しいとは言えない顔をしていました。
イシュタルが気になって、彼女に話しかけました。
「失礼、僕はこれまで色んな人に会ったけど、君はなかなか個性的な顔立ちをしているね」
「あなたは確か……聖戦士のイシュタル様ですね。
どうかはっきり言って下さい。醜い女であると。誰もかれも、みんなこの顔を見ると逃げていくのです。時には優しくしてくれる人もいましたが、私が心を許して近づこうとすると、やはり逃げてしまいます。私はもう人間というものが信じられません。私は世間から遠ざかる為にこの山に来たのです」
イマヌエルにはなんだかインテグラの気持ちが分かる気がしました。イマヌエルも他のネズミを遠ざける為に巣にこもったからです。
インテグラの話を聞いたイシュタルはとたんに、何かを憎むような顔つきになりました。
「差別は僕がこの世で最も嫌うものだ。特に女性を差別するなんて、罪深い事だ!」
「ならば、イシュタル様、あなたは私を愛してくださいますか?」
インテグラの言葉に、イシュタルはたじろぎました。
インテグラの顔はにわかに曇りました。
「ほら、あなたも私を拒絶する。口ではうまい事を言って、本当は私を気味悪がっているのでしょう?」
「イランッ!」
イシュタルの肩に乗っていたイランイランも彼女に同調するかのように怒りました。
イシュタルは、あわてて言い訳をしました。
「おいおい、待ってくれよ。まださっき会ったばかりなのに、愛してくださいはないだろう。君は自分が愛をもらう事ばかり考えているのではないか?」
「どういう意味ですか?誰だって『みんなから愛されたい』のではないでしょうか」
「そうだ。その為に身ぎれいにして、愛想笑いをして、生きている。だが君は何だ。髪もボサボサで、服もボロボロじゃないか。それで愛してくださいというのは虫が良すぎるんじゃないか」
「私は、鏡を見るのが怖くて、全て割ってしまったのです」
「ならば、僕の剣を鏡の代わりにして見るといい」
イシュタルは腰にある剣を抜いて、自分の前に掲げました。
曇り一つない、手入れのされたピカピカの刃に、インテグラの顔が映りました。
とたん、インテグラは両手で自分の顔を覆い隠しました。
「なんと醜い顔でしょう!もうやめてください!」
「君が思うほど醜くはない!それに、見なさい!僕の左半身だってバケモノのように醜いじゃないか」
インテグラはイシュタルの顔を見ました。それまでは自分の事で頭がいっぱいで、イシュタルの顔が左右で違う事に気づかなかったのです。
「しかし、右半身はとても凛々(りり)しく、お美しいじゃありませんか!」
「君だって、目と鼻はひどいものだが、口元は美しい。一緒だよ。君も僕も」
イシュタルは言いました。
「ああ、そう言ってくださるのはあなただけです。でも私は一体どうすればいいのでしょう」
その時、イマヌエルが記憶のファイルを引き出しました。
『尊いものはそう簡単には手に入らない』
インテグラはその言葉にハっとしました。
「そうか……私は美しさをタダで手に入れようと、求め嘆いているだけだったんだわ!でも、それではいけない、そういう事ね、ネズミさん!」
イマヌエルは何も言いませんでした。イマヌエルの記憶の中のファイルはイシュタルの言葉だったからです。
代わりにイシュタルが答えました。
「その通り。君の中にはまだまだ沢山の眠っている美しさがある。それを表現しなさい」
「ありがとう、ありがとう……」
そう言ってインテグラは霧の中に消えていきました。
「しかしすごい顔だったな。イマヌエル、君もそう思うだろ?」
そう言ってイシュタルは笑いました。
イマヌエルはこの時、「インテグラと比べれば、自分の前歯が欠けている事なんて、あまり大したことじゃない」と思いました。
その夜、二人は大きな岩場に隠れて眠ることにしました。
夜だけは霧が晴れるのですが、代わりに暗闇が夜を染めるので、山を登ることはできません。
二人はたき火をしながら、少し話をしました。
イシュタルが国の高貴な役職に就いて仕事をしていた事、ある女性との出会い、あとは好きな食べ物などを聞きました。
イマヌエルはおくびょうな自分が好きではなかったので、自分のことは話しませんでした。
イシュタルはそんな寡黙なイマヌエルのことを尊重しました。
「昨日なんて忘れちまえばいい。これからどうするかが重要さ。で、君はどうしたいんだい?イマヌエル」
イマヌエルは勇気を付けたい、と言いました。
「勇気ならすでにあるだろう。こんな危険な山を二人で登ってるんだぞ。ほら、こんなに暗い夜だってへっちゃらだ」
イシュタルは暗闇の方を指さしましたが、イマヌエルは怖くて暗闇の方を見ませんでした。
その時です。何もないはずの暗闇が急にうごめいて、何かの形に変わっていくのをイマヌエルは感じました。
それは黒く大きい、山猫のような生き物でした。
イシュタルもそれに気が付き、声を上げました。
「これは!……聞いたことがある。恐怖におびえている生き物を見つけて、食べようとする夜の悪魔がいる、と。名前は確か……イリーガル!」
イリーガルは暗闇から飛び出たかと思うと、恐怖におびえているイマヌエルに食らいつこうと、口を大きく開きました。
あわててイシュタルが叫びます。
「イランイラン!君の出番だ!」
「イランッ!」
イランイランは白い体から大きな光を放ちました。
突然の強い光にびっくりしたイリーガルは、ものすごいスピードで暗闇の中に逃げていきました。
イランイランは光を出しきると、疲れてイシュタルの腕の中で眠ってしまいました。
「何とか助かったな。イマヌエル。だけど、もしこれからも君がおびえているなら、あいつは何度でもおそってくるぞ。次は君が戦うんだ。それが勇気を付けるたった一つの方法だよ。『習うより慣れよ』というだろう?」
イシュタルの言葉に、イマヌエルはうなづきました。
この夜はイシュタルがたき火の火をめいっぱい明るくしてくれたので、イマヌエルは安らかな気持ちで眠る事ができました。
*
イシュタルとイマヌエルは山の頂上を目指して、朝から歩き始めました。
すると今度は、霧の中から見知らぬ男が出てきました。
男はひげを蓄えた背の低い、太っちょの男でした。
男は何かに怒っている様子で、イマヌエル達を見ると、叫びながら、持っている斧でおそってきました。
「ええい!また男か!」
男の野太い声を聞くや否や、イシュタルは剣を抜き、その斧を受け止めて横になぎ払いました。
「今度は山賊か。人間の中には喧嘩してからでないと話ができないようなのがいるが、どうにもやりづらいね」
「俺は山賊なんかじゃあない。ドワーフ族のイワンコフ様だ」
イワンコフは急に冷静になったかと思うと、斧を背中にかつぎました。
「俺たちドワーフは岩から産まれる。だから女のドワーフというものがないのだ。俺は一度でいいから良い女というものが見てみたい。どうしても見てみたいのだ!その為にこの山に来たのだが、男としか出会わずにムシャクシャしていたところだ」
「あいにくだけど、僕は男だ。あと一応言っておくが、ここにいるネズミのイマヌエルもオスだよ」
「ネズミなんぞに用はない。俺は人間の女が見たいんだ!」
二人が話していると、後ろから声がしました。
「イシュタル様!」
その声の主は、昨日出会ったインテグラでした。
「ちょうどよかった、インテグラ。君がいてくれてよかったよ。ほら、イワンコフ。彼女はれっきとした女だぞ。顔をよく見なさい」
イワンコフはインテグラの顔を見て驚愕しました。
「こ、これが、女だと?ば、ば、ばけものじゃないか!」
「何ですって!あなたこそ小汚いおじさんのくせして……許せない!」
イワンコフとインテグラは喧嘩をはじめました。
それはもうひどいものでした。
思いつく限りの悪口を二人で言い合ったのです。
二人とも、顔を醜くして、ののしり合いました。
叫び疲れたイワンコフに対して、イシュタルはようやく思っている事を告げました。
「イワンコフ。君は岩から産まれたのだろう。女性に対する愛情なんてなくて当たり前だよ。男と女で好きになったり、嫌いになったりするのは、みんな男と女から産まれたからなんだよ」
「そうだったのか。じゃあ俺はなんで女に憧れていたんだろう」
「それはね、どこかで女という、自分の知らない人間がいて、それが素晴らしいものだと聞いて想像を膨らませたのだろう。だれしも『遠くにあるものにこそ憧れる』からね。
イマヌエルも僕もこの山に憧れて入った。でも入ってみれば、ただ長く苦しい道があるだけだった。何かに憧れる、というのはこういうものなんだよ」
イマヌエルは少し落ち込みました。こんな危険な目にあっている今が、あんなに憧れた旅の途中だとは、あまり考えたくなかったからです。
「でも苦しい思い出も、思い出すときにはいい思い出になっているものだよ。思い出も時間が経てば遠くなるからね」
イシュタルの言葉にイワンコフが疑問を感じました。
「そうか?わしはこんな女の事は思い出したくもないぞ」
「私だって同じよ!あなたなんかに好かれたらたまったもんじゃないわ!私は今はじめて醜い女でよかったと思っているところよ」
インテグラの言葉にイシュタルは喜びました。
「前向きになったな、インテグラ。そういう気持ちが大切だよ」
「イランッ!」
イシュタルの言葉に、インテグラは照れて少女のように赤くなりました。
イワンコフはそれを見て、感心したようでした。
「さっきまであんなにうるさかったのが、随分しおらしくなったじゃないか。女っていうのは不思議だな。少し興味が出てきたわい」
こうしてインテグラに加えて、イワンコフまでもイマヌエル達についてくる事になりました。
いつの間にかイマヌエルの旅は、三人と二匹の大きな冒険になったのです。
一同は長い山道をどんどん登っていきました。
そしてまた夜がやってきました。
この日は川の近くで、インテグラが持っていたテントを張る事にしました。
インテグラの持っている立派なテントは、全員が入る事のできる大きなテントでした。
イマヌエルはテントの中に入ると急に気持ちが落ち着いて、そのまま眠ってしまいました。
とても疲れていたのでしょう。イマヌエルはひときわ小さい体でここまで遅れずに登ってきたのですから、当然のことです。
インテグラは川に向かい、満月が見守る中、髪や体をしっかりと洗いました。
それまでのボロボロだった髪や体はうるおされ、インテグラは女性らしさを取り戻しました。
水浴びから戻ってきたインテグラをイワンコフはジロジロと見ました。
「水に濡れた女というのは良いものだな。例えインテグラでも綺麗に見えるわい」
インテグラは失礼なイワンコフに対して、不機嫌そうな態度でツンとそっぽを向きました。