最初のお話
霧がかった山々、その中に人間の知らない、たくさんの谷がありました。
その谷の一つに、黒いネズミだけが住む町がありました。
ネズミ達はおどろくことに、人間とおなじ言葉を話し、文化も持っているのでした。
彼らのご先祖様は、もう何十年も前に、突然変異で生まれた真っ黒のネズミです。
人間はどうも『黒くて素早いもの』が苦手なので、駆除されずに残ったその真っ黒のネズミは沢山の子孫を残す事ができました。
こうしてネズミ達は、ひっそりと自分たちの町を作り上げていったのでした。
そんな小さな黒ネズミだけが住む町。その町に一匹だけ、とてもおくびょうなネズミがいました。そのネズミの名前はイマヌエルと言います。
イマヌエルはネズミにとって一番大切な、前歯が折れていました。
そのせいで、多くのネズミにいじめられました。
イマヌエルはだんだん歯の事を笑われるのが嫌になり、巣にこもるようになりました。
歯やおくびょうの事を笑われるかと思うと、怖くて外にでることができなくなってしまったのです。
イマヌエルはある日、旅をすることに決めました。
自分がおくびょうなのは、何か自分の知らない事がたくさんあるからだ、と思ったのです。
いろんなところを旅をして、みんなの知らないことを教えてあげたり、話をしてあげられる、立派なネズミになりたいと思いました。
しかしイマヌエルは生まれてから一度もこの町を出たことがないので、旅がどういうものかわかりませんでした。
旅に出る前に、イマヌエルは、まちで一番の旅好きであるイサクのところに行って、旅について聞いてみることにしました。
ちょうどイサクは家にいて、妹のイザベラと、新しい旅の準備に取りかかっているところでした。
「麻でできたヒモ、よく切れる小刀、太めのえんぴつ、少し古びたかみ、しんせんなくだもの、かさばらないふとん、これでよし、と」
イサクは旅慣れたように、ヒモでしばって荷物をまとめていました。
イザベラはあれもこれもと、イサクに持っていくとべんりなものを家中から持ってきましたが、イサクはどれもこれも「必要ない」と不機嫌そうに言うばかりでした。
それでもイサクはイマヌエルに旅について聞かれると、パっと明るい笑顔になって答えてくれました。
「おれが旅をするのは、おいしいたべものと美人のネズミを探すためだ。おいしかったものや旅で出会ったネズミの事を紙に書いて本にしているんだ。俺たちクロネズミは苦労して文化を築いてきたけど、恋と食べ物のロマンだけは昔からずっと変わらないからな。悪いけど、お前の質問に答えられるような大した理由じゃないよ。旅のことが聞きたければ、この町に旅しに来ているネズミに聞くのが一番早いんじゃないかな」
早速イマヌエルは町の宿に泊まっているという旅ネズミのところに行きました。
宿屋の主人が言うには、そのネズミはまだ若い『てつがくしゃ』なのだそうです。名はイシュマエルと言います。
イシュマエルはオレンジ色の明かりが灯る文机で本を読んでいました。
机の上では沢山の万年筆が行儀よく並んでおり、本も机の角にピッタリと合わされていました。
イシュマルは客用の座布団をイマヌエルに差し出すと、旅の素晴らしさについて語りました。
「てつがくしゃが旅をする目的は、心について知る為だよ。苦しむのも心、喜ぶのも心。てつがくしゃはみんな心の不思議に魅了されたんだよ。心が言葉を作り、言葉が文化を作ったんだ。そして文化が町を作っている。つまり逆からたどると、町を見れば文化が分かり、文化が分かれば言葉が分かる。言葉が分かれば、心が分かるというわけさ」
イマヌエルには少し難しいようでしたが、自分が苦しんでいるのは「心」のせいだという事だけは分かりました。
「これから先、君が出会った人々の言葉を集めなよ。そして重要だと思う言葉は『』(にじゅうかぎかっこ)で囲って、キーワードとして頭の中にファイルするといい。なぜそんなことをするのかって?それは『いつかどこかで役に立つ』からだよ」
イマヌエルは、イシュマエルの言うとおりにしてみようと思いました。
タバコの空き箱や、ジュース瓶のふたなど、何かを集めるのが好きだったからです。
「さあ、『思い立ったが吉日』。今日から準備して明日の朝旅立つんだ」
イマヌエルはワクワクしてきました。普段みんなが話している言葉を集めるなんてこれまで考えもしなかったからです。
できるだけ沢山の生き物と出会って、沢山の言葉を集めようと決心しました。
イマヌエルはみんなに明日旅に出る事を告げ、準備に取りかかりました。
イサクの見よう見まねで、ふとんや食べ物を思いつくままにリュックに詰め込みました。
次の朝、数匹のネズミ達がイマヌエルの旅立ちを見送ってくれました。
眼鏡をした学者のイシアタマは不思議そうに言いました。
「どうして君が旅に出る必要があるのか、僕にはまだ分からないね。旅の景色はテレビや本の中で見られるのに、どうしてわざわざ自分で見に行くんだい?」
イマヌエルはその質問に答える事ができませんでした。それでも旅をやめようとは思いませんでした。
イマヌエルは、心の中では友達から離れていくのが心細くて仕方ありませんでした。
それでも行かなければ立派なネズミになれない、そう思い直して、最初の一歩を踏み出しました。
イマヌエルはみんなに見送られながら、照れくさそうにゆっくりと歩きだしました。
そして、いつも曲がっている道を反対に曲がって、生まれて初めて町を出ました。
イマヌエルが町を出ると、街道はすぐに山道に変わりました。
この長い長い坂道を上って、山を越えなければなりません。
この長い坂道を上るのはイマヌエルにとっては非常につらいものでした。
大げさではありません。なぜなら、イマヌエルはいつも平坦な道ばかりを選んで歩いていたからです。
そのせいでちょっとの登り坂ものぼれなくなっていたのです。
イマヌエルが坂をのぼっては振り返り、のぼっては振り返りしていると、ふと山道の横に立っている木の上に、一匹のナマケモノがいました。
ナマケモノが木から降りてくると、イマヌエルの行く手を邪魔しました。
そして自分は「昨日の使者」だと言い張りました。
「僕の名前はイデオット。僕らナマケモノは昨日の使者と言われている。君は昨日を思い出せるかい?」
イマヌエルはすぐに昨日を思い出しました。
昨日は町のネズミと話し、ふかふかの布団で眠り、とてものんびりした一日でした。
「昨日はとても良いものだったろう。どうして旅なんて危険な事をするんだい?家で寝ていた方がいいに決まっているじゃないか」
イマヌエルの気持ちは揺らぎました。
「今ならまだ間に合う。引き返して家に帰るんだ。もしこのままこの道を行ってしまったら、もうふかふかのふとんで眠る事はおろか、満足に屋根のない所で寒さに凍えながら寝起きする事になるぞ。それでもいいのかい?」
イマヌエルはだんだん不安になってきました。
冬はもうすぐそこまで来ており、外で眠る事の辛さがイマヌエルの心を揺るがせたのです。
「さあ、おかえり」
しかしイマヌエルは堪えました。イマヌエルにとって、『昨日はそんなに素晴らしいものではない』と思い直したからです。
イマヌエルは思っている事をイデオットに告げました。
「なんだって?君は沢山の【昨日】によっておくびょうな自分を作ってしまった。だからこれからは【昨日】を思い出す事をやめるだって?」
イデオットは怒りました。なぜならナマケモノ達はいつも同じ【昨日】を過ごしていたからです。
「どうして【昨日】に従わないんだ!昨日だけが確かなものじゃないか!明日は分からないけど、昨日は分かる。昨日と同じように今日を生きればいいんだよ!」
イマヌエルは首を振り、決意を固めました。
イマヌエルが進むと、イデオットは、今度は泣きそうになりました。
「君は【昨日】をすてるのか?そうしたらどうなるんだ?」
イマヌエルは首を振りました。彼にも分からなかったからです。
しかしイデオットは、これ以上イマヌエルを止める事は無理だと思い、イマヌエルが坂を上っていく姿を悲しそうに見つめているだけでした。
イデオットは声を大にして叫びました。
「僕はこの木から降りてどこかに行こうかと思っている!」
そう言いました。イマヌエルは早速、記憶の中にあるファイルを引っ張りだしました。
『思い立ったが吉日』
「そうか!それでいいんだな!?ありがとうネズミ君、僕も昨日とは違う日を過ごしてみるよ!」
イデオットは木を離れて歩き出しました。その足元はおぼつかない様子でした。他の動物には何でもない事が、イデオットにとっては大きな一歩だったのです。
イデオットは本当はもっと早く木を離れたかったのに、これまでは勇気が出なかったのです。
こうしてイマヌエルは再び歩き始めました。
イマヌエルが坂の上にたどり着いた時、大きな霧に包まれたとんがり帽子の影が現れました。それは山の影でした。
イマヌエルは、自分がこれまで登ってきたものは、山じゃなかったという事に気づきました。
人間の世界から見ると、イマヌエルはただ、山のすき間から出てきただけだったのです。
あの途方もなく、遠くにあるものこそが、本物の山だったのです。
イマヌエルにはとてもあの山を登れるような気がしませんでした。
それでも、どうしてもあの山が気になり、とうとう入り口のところまで行ってみる事にしました。
イマヌエルが山の入り口に立つと、一つの看板がかけられているのを見つけました。
『後戻りはできない』
イマヌエルが看板の文字に首をかしげていると、後ろから声がしました。
「霧が深いからさ。10m先も後も見えないんだよ。不思議な事に頂上だけは霧が晴れているけどね」
声の主はイマヌエルより何倍も大きい、銀色の髪をした人間でした。
「僕の名はイシュタルという。こっちは相棒のイランイラン」
男の肩には、白い毛むくじゃらな体に羽を付けた、変な生き物がいました。
「イランッ!」
イランイランはイマヌエルを威嚇するように飛び回りながら叫んだあと、再びイシュタルの肩に戻りました。
「君もこの山、インビジブルに登るのなら、一緒に登らないか?足手まといになる事はないよ。なぜならこの山の頂上までは『自分の足で行かなければならない』からね……ともかく『善は急げ』、出発しようじゃないか」
イマヌエルは言われるがままにイシュタル達と一緒に山に登る事にしました。
イマヌエルにとって山は初めてだったので、どんなに山が危険なものか、考えもしませんでした。