6:会えてよかった
雨が降っていた。
ただでさえ閑古鳥も泣かないような裏路地にある小さな青果店だ。雨の中こんなところまで来る物好きな客は少ない。しかも最近は鉄道の駅前におしゃれなフルーツパーラーができたという。二階建てのそのパーラーの一階部分は果物屋という話だ。2,3日前から顕著に感じていたが、完全に客が流れた。
この通りはいろんな店が立ち並んでいるが、最近ブランドものだとかいう衣服店や高級な雰囲気の店がちらほらと現れていて、古くからの町並みからは少しずつ変わってきている。それは喜ばしい地域開発なのだろうけれど、あおりを受けるのは我々のような昔ながらの店だ。
私はため息をついて、軒先の果物を店内に下げてから、店名の入った看板を外に出した。
何もかもぱっとしない毎日だが、身動きの取れない感じがしていて、私は近頃気分が晴れない。
父が腰を壊してからというもの、私が店の切り盛りをしているが、父の時代と同じ経営方法ではいけないのかもしれない。
だからって、学のない私が毎日の繰り返しのほかにどうするというのだろう?
せめて気晴らしに旅行でもできたらいいな。店は毎日開けているから、それも叶わないけど。
いつも野菜の切れ端などを食べにくる猫のため、小さな皿を片手に、私はゴミを出しに店の裏に出た。
いつもなら雨の日でも猫が2,3匹待っている時間だ。
しかし、今日は1匹もいなかった。
見渡しても、見当たらない。今日はどうしたんだろう。
私は首をかしげながらも、いつもの場所に野菜くずの入った皿を置き、店に戻ろうとした。
その時、ゴミ捨て場の陰に何かいるのに気が付いた。
猫?いや、それにしては大きい。何かが、横たわっている。
恐る恐る覗き込むと、それは人間だった。倒れている。
「きゃっ!?」
つい叫んでしまった。女の子だ。12.3歳くらいだろうか。黒い髪。高そうなコートに綺麗な服を着ているが、どろどろで破れもある。近くには同じく高そうな革の鞄が開いていて、中はほとんど空っぽだった。もう死んでいるのかと思った。
なんでこんなところに?浮浪者にしては身なりがしっかりしているし、病気か何かで、とりあえず雨をしのごうとここに入ってきたところで発作が起きたとか?
怖かったけど、放ってはおけない。私はその女の子を担ぎ起こした。
冷たい体だ。冷えきっていて、思った通り、もう血が通っているとは思えない。
私は女の子をひとまず扉の横の壁にもたれて座らせた。
死体に触れるなんて初めてだった。
綺麗な顔だ。美少女…。だったんだろう。見たこともないくらいに美しい少女だった。
吸い込まれるような長い黒髪も、丁寧に手入れされていて美しい髪だった。
はっとして、我に返った。死体に見とれるなんて。
「とりあえず…警察?」
私はつぶやきながら、落ちている鞄を拾って、中を改めた。なにか身元の分かるものが入っていればいいが。
だが、出てきたのは鉄道の使用済み切符やボロボロになった手袋、マフラー、櫛、鏡。それくらいのもので、彼女の身元をし証明するものはなにも見当たらなかった。
しばらく調べていると、鞄とコートに名前が入っていた。リーブ・ミネット。聞いたことはないが、とりあえず警察に届ける名前が見つかってよかった。
「ミネットさん。どういう事情があったか知らないけど、安らかにお眠りくださいね…」
少女の前に鞄を置いて、私は神に祈った。そのとき、
「ミネット…?」
少女から、声がした。私は一気に青ざめた。
「あっ!?生きてたの!?呼吸もしてないしあんまり冷たいもんだから…っ」
跳ねるように私は自分の来ていたコートを被せた。生きていたとは。少女はゆっくり瞼を開いた。長いまつ毛が印象的だった。
「大丈夫!?すぐに温めないと…歩ける!?肩かすから…ほらっ!」
「あなたは…?」
少女はか細い声で言った。私はひとまず無視して、少女を店の奥に横たわらせた。濡れてぴったり張り付いた服を脱がせながら、店の暖房を強めた。
「ちょっとアン!お風呂にお湯ためて!桶にもお湯汲んできてー!!急いで!」
奥から「んー」」という間の抜けた声が聞こえて、どどど、と勢いよく水の出る音が聞こえた。ややあって、妹のアンが欠伸をしながら湯気の立つ桶をもって現れた。
「早くしてって言ってるでしょ!」
私は桶を奪って、お湯に手ぬぐいを沈め、簡単にしぼってから少女の体を温めた。たしか体が冷えているからといって、急激に温めるとまずかったような記憶があった。
「え、お姉ちゃん、それ何?誰?」
「知らない。裏に倒れてたのよ。死んじゃってるかと思ったけど…」
アンはようやくことの重大さに気づいたのか、慌てて電話の受話器をとって、
「お、お医者さん呼ぶ?警察は…」
といった。私は少し考えて、頷いた。警察もね、というとアンはダイヤルを回した。
「待って、だ、大丈夫…だから…」
少女がまた声をあげた。私は顔を寄せて、
「ミネットちゃん?今は温まらないと。お医者さんにもかかったほうがいいわ。ああ、お金のことなら平気よ、そんなの心配しなくていいからね」
「警察は…困るわ…そ、それより、なにか…食べるもの…」
「あなた…逃げてきたの?」
少女は答えなかった。私はしばらく彼女を見つめて、
「お腹すいてるのね?すぐに何か暖かいもの持ってくるから。アン、お医者さんも警察ももういいわ」
「で、でも…」
「なにか事情があるのよ。とにかく、今はいいから。命があったんだから、それでいいじゃない。台所に昨日のスープがあるから、あっためてパンと持ってきて。すぐにね」
アンは納得のいっていない顔をしていたが、ぱたぱたと走って奥に消えた。
「十分に回復してから、事情を聞かせてくれたらいいから。とにかく生きててよかったわ」
「…甘かった…お腹がすくとこんなに動けなくなるなんて…」
「何日食べてないの?」
すると、アンが食事を運んできた。少女は目の色を輝かせて飛びついた。人ってあんなに低体温で動けるものなのかな、と思った。少女は見た目に似合わず大口を開けて、がつがつと食事に食らいついた。おいしそうに食べるなあ。とてもさっきまで死にかけていた子とは思えない。顔にはいつしか血色が戻っていた。
「…っおいしい!!」
「よ、よく食べるわね。足りなかったらまだあるから…」
「貰うわ!ありがとう!」
スープをごくごくと水のように飲みほした少女は快活に、にっこりと笑った。私とアンは顔を見合わせて、その異常な回復ぶりに驚いた。寒さのほうは本当に平気だったんだろうか?それにしても、笑顔の素敵な子だ。天使みたいに笑う。
「むぐ…七日くらいかしら…、この街についてからだから、それくらいかも」
「七日も食べてないの!?そりゃ倒れるわ…」
少女は、パンをとうとう1斤食べ終えて、3杯目のスープに手をかけた。
「もぐもぐ…うーん、この体でも空腹には耐えられないかあ。まあ死にはしなかったでしょうけどね」
「はあ、何言ってるのよ。あきれた。私が見つけなかったら間違いなく死んでたわよあなた!」
「死なないわよ。私、普通じゃないもの。でも、助かったわ。ありがとう」
私は、「普通じゃないってどういうことよ」と聞き返したが返事はなかった。もぐもぐと胃袋の中に消えていく食事を見ながら、私はやれやれとため息をついた。命の恩人に向かって偉そうなお子様だが、話し方には気品があり、清らかな感じがした。やはり、ただの浮浪者じゃない。もっといいところの…。
「お姉ちゃんお風呂入ったよ」
アンが声をかけてきた。そして、小声で「あの子家のパン全部食べちゃった」とやや面白そうにいってまた奥へ隠れた。
「ありがとアン。ねえ、食べたらお風呂に入っちゃいなね。服も洗っといたげるから、全部脱いじゃって」
そういえば服を脱がしている途中だった。構わず食べているもんだから忘れていた。私は部屋の対角に座った。ベアトリスは心から喜んだような声で言った。
「お風呂!!ああ、ありがとう!私お風呂大好きなのよね。これ以上入れないと発狂するところだったわ」
「…ま、こういうときはお互い様だからね。大したものはないけど、落ち着くまではここにいてもいいから。外は雨だしね」
本人が大丈夫だというんだから大丈夫なんだろうが、さっきまであんなだった子を、元気になったからと言ってすぐに放り出すのも夢見が悪い。
「親切なのね。あなた…名前は?」
「私はシンディ。あれは妹のアン。ここは姉妹でやってる青果店なの。親切というか、まあ、当然の施しよ。それより…あなたの名前、ミネットさん?」
少女はスープを飲む手を止めた。そしてこっちを見て首を振って、やや自嘲気味に言った。
「違うわ。私の名前は…ベアトリス。ヴィンセント・グウェネヴィア・ベアトリス。ミネットというのは…私の恩人の名前。家を出る私にコートと荷物を持たせてくれた人よ」
「はあ、やっぱり。家出してきたの?綺麗な服を着てたからそうだろうと思ったわよ」
「家出…そうね、そうかも。だからね、警察なんて呼ばれたら連絡が行っちゃうでしょう。大見栄きって家出しておいて、そんなみっともないことはないものね」
「子供にありがちな短絡的な行動ね。まあわからなくはないけど。…きっと心配してるわよ親御さん…」
私はいさめるように言った。だが、
「どうかしらねぇ」
ベアトリスと名乗った少女はからからと笑った。乾いた笑いだった。
「要するに…いいとこのお嬢様が、気まぐれで家出してみたら食べ物も買えなくて、行き倒れたってわけ?つくづく呆れた。悪いこと言わないから、もう帰ったら?もう気が済んだでしょう。なんなら送ったげるわよ」
ベアトリスは水を飲みほして、こっちを向いて、舌を出した。
「べー。やだもん」
「なっ…あんたねぇ…」
まったく、生意気な子供め。
「名前だけでも、調べくらいつくんだからね。ベアトリスって高貴な名前だし…グウェネヴィアって言ったら、貴族によくある性だわ。そのうえ、あなたの言葉、北のほうの訛りだからね。詳しい人が聞いたらすぐわかっちゃうわよ」
「ああそうなの…うーん。でもまあ、いいのいいの。家のみんなには迷惑かけたくないけど、お父様にはちょっとだけ迷惑かけたいし」
「はぁ?意味わかんない。お父さんと喧嘩でもしたの?」
「あっちが悪いのよ。隠し事してたんだから。だから私はベアトリスって本名を名乗ることにしたの。この名前で生きていれば、いつかお父様にぶつかると思うから。いい気味よ。私お父様には怒ってるんだから」
言葉の真意は不明だったが、そんなに怒っていなさそうだった。
「ふうん…?でも…なんか楽しそうね」
「わかる?お父様のことなんて、家を出た理由の1パーセントくらいでしかないからね。今は、自由に生きられるのが楽しくて仕方ないの」
「それでお腹すかせて倒れてたんじゃ世話無いわよ……まあ私は、あなたの事情をとやかくいう義理はないから家出の旅自体は止めないけど。忠告くらいはさせてよ」
私はすこし息を吸って、一息に言った。
「たまたま私が善良な市民だったから良かったけどね、倒れていたのがここじゃなくて怖い人のところだったら?私が行き倒れの人を助けもしない冷たい人間だったら?あのね、一人旅をするなら、もっとうまくやらないと。ずっとそんなんじゃすぐにまた行き倒れて帰る羽目になるか、さもないと死んじゃうから」
ベアトリスはきょとんとして、しばらくして、にやりと笑った。
「そうね、反省。出来るだけ遠くに来たかったし、あの時は興奮してたから…。だからってお金全部運賃にしちゃうなんて馬鹿だった」
このご時世、少女の一人旅というだけでも無謀なのに、無計画、世間知らずときたもんだ。私は呆れかえって立ち上がった。
「ま、いいわ。元気そうで何より。お風呂入って少し休んだら旅の相談にでものったげるから、無計画はやめなさい?」
見上げて聞いていた、ベアトリスは、さっきまでの小悪魔的な笑いとは打って変わって、くすぐったそうに笑った。
「なに?」
聞くと、ベアトリスはかぶりを振った。
「ううん、シンディ、あなたに会えて良かった。ありがとうね。アンも」
私はなんとなく照れくさくて、
「…いいから、お風呂入っちゃって。この天気じゃ、服が乾くのは明日ね。明日には雨だって上がるわよ。そしたら出て行ってよね」
ぶっきらぼうに言って見せた。ベアトリスは答えた。
「ふふ。ありがとうシンディ」
その後。湯船を見たベアトリスは、
「狭っ!!」
と叫んでいた。