表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/21

第3話 魚釣りと、小さな約束

 フィオラ村へ来て三日目の朝。


 窓を開けると、涼しい風が部屋へ流れ込んできた。


 青空は高く、白い雲がゆっくりと流れている。


 庭では小鳥がさえずり、どこかで犬が鳴いていた。


 カイロスは窓辺に立ったまま目を細める。


 王都では朝になるたびに感じていた重さが、ここでは少し違った。


 胸の奥に張り付いていた何かが、少しずつ薄くなっている気がする。


 まだ眠れない夜が完全になくなったわけではない。


 けれど、目覚めるたびに疲れが残る感覚は減っていた。


 そんなことを考えていると、庭の方から声が聞こえた。


「カイロスー!」


 元気な声ではない。


 けれど、聞くと自然に顔が上がる声だった。


 窓から覗くと、ミーナがこちらへ手を振っている。


 蜂蜜色の髪が朝日に照らされてきらきらと輝いていた。


「今日はね、お父さんと魚釣りに行くの」


 少し声を張りながら言う。


「カイロスも来る?」


 カイロスは少しだけ考えた。


 魚釣りなどしたことがない。


 王都では訓練か勉強ばかりだった。


 だが――。


「行く」


 そう答えると、ミーナは嬉しそうに笑った。


「うん!」


 その顔を見ていると、不思議と断らなくて良かったと思えた。


 ◇


 川辺には、朝の光が降り注いでいた。


 水面は穏やかで、空を映して青く輝いている。


 エリアスは慣れた手つきで釣り竿を準備していた。


「魚釣りは初めてかい?」


「はい」


 カイロスが答えると、エリアスは笑った。


「それじゃあ今日は先生にならないといけないな」


 そう言って竿を一本手渡してくる。


 カイロスは慎重に受け取った。


 剣や杖なら慣れている。


 だが釣り竿は勝手が違う。


「そんなに難しくないよ」


 隣でミーナが言う。


「魚さんを待つだけ」


「待つだけ?」


「うん」


 ミーナは頷いた。


「焦ると逃げちゃうから」


 その言葉に、カイロスは少しだけ首を傾げる。


 待つ。


 それもまた、自分には慣れないことだった。


 王都では常に結果を求められる。


 早く。


 正確に。


 強く。


 そればかりだった。


 けれど、この村では違うらしい。


 川の流れはゆっくりだ。


 風も穏やかだった。


 エリアスに教わりながら糸を垂らす。


 水面が静かに揺れた。


 しばらく誰も話さなかった。


 ただ川の音だけが聞こえている。


 不思議と気まずくない。


 王都なら沈黙は緊張を生む。


 けれど、ここでは違った。


 沈黙すら景色の一部みたいだった。


 風が吹く。


 葉が揺れる。


 水面に光が散る。


 その時だった。


「……あ」


 ミーナが小さく声を上げた。


 竿がぴくりと動いている。


「ミーナ、引いてごらん」


 エリアスが優しく言う。


 ミーナは慎重に竿を持ち上げた。


 水しぶきが上がる。


 小さな魚が一匹。


「釣れた!」


 ミーナの顔がぱっと明るくなる。


 エリアスも嬉しそうに笑った。


「上手だ」


「えへへ」


 その様子を見ていたカイロスは、なぜか少しだけ胸が温かくなるのを感じた。


 家族。


 そういうものなのだろうか。


 エリアスはミーナの頭を撫でる。


 ミーナは当たり前のように笑っている。


 それはカイロスの知らない光景だった。


 しばらくして。


 今度はカイロスの竿が揺れた。


「カイロス!」


 ミーナが声を上げる。


「来てる!」


 慌てて竿を握る。


 どうすればいいのか分からない。


「落ち着いて」


 エリアスが笑う。


「ゆっくりでいい」


 その声に従って竿を引く。


 すると水面が弾けた。


 一匹の魚が姿を現す。


 銀色の鱗が太陽の光を受けて輝いた。


「釣れたな」


 エリアスが言う。


 カイロスはしばらく魚を見つめていた。


 戦いで魔物を倒したことはある。


 難しい魔術を成功させたこともある。


 けれど。


 魚が釣れただけで、こんなに嬉しいとは思わなかった。


「おめでとう」


 ミーナが笑う。


 その笑顔を見ていると、胸の奥が少しだけくすぐったくなった。


 ◇


 帰り道。


 三人は釣った魚を籠に入れて歩いていた。


 川沿いの道には白い花が咲いている。


 風が吹くたびに花びらが揺れた。


「今日の魚は夕飯になるよ」


 ミーナが嬉しそうに言う。


「楽しみだな」


 エリアスが答える。


 その会話を聞きながら歩いていると、不意にミーナが立ち止まった。


「どうした?」


 カイロスが尋ねる。


 ミーナは少し先を指差した。


 川辺の草むらに、小さな白い花が咲いている。


「この花、好きなの」


 しゃがみ込み、そっと摘み取る。


 花は掌に収まるほど小さかった。


「毎年ここに咲くんだよ」


「そうなのか」


「うん」


 ミーナは少し考えるように花を見つめた。


「なくなっちゃったら寂しいから」


 そして微笑む。


「押し花にするの」


「押し花?」


「本に挟んで残しておくの」


 カイロスは花を見る。


 そんなことを考えたこともなかった。


「花は枯れるだろう」


「うん」


 ミーナは頷く。


「でもね」


 そして空を見上げた。


「思い出まで消えるわけじゃないから」


 風が吹いた。


 蜂蜜色の髪が揺れる。


 陽射しの中で、その横顔はどこか大人びて見えた。


 カイロスはしばらく言葉を失う。


 思い出。


 そんなものを大切にしたことがあっただろうか。


 訓練の日々。


 戦いの日々。


 失敗しないことばかり考えていた。


 けれど、この村へ来てから。


 少しずつ何かが変わっている気がした。


「カイロス?」


 ミーナが不思議そうに首を傾げる。


「なんでもない」


 そう答える。


 だが本当は違った。


 たぶん。


 この瞬間を覚えておきたいと思ったのだ。


 川の音。


 夏の風。


 白い花。


 そして――。


 隣で笑う少女のことを。


 夕暮れが近づく空の下。


 三人はゆっくりと村へ帰っていった。


 その時カイロスはまだ知らない。


 今日摘まれた小さな白い花が。


 何年も先まで続く手紙の始まりになることを。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ