第3話 魚釣りと、小さな約束
フィオラ村へ来て三日目の朝。
窓を開けると、涼しい風が部屋へ流れ込んできた。
青空は高く、白い雲がゆっくりと流れている。
庭では小鳥がさえずり、どこかで犬が鳴いていた。
カイロスは窓辺に立ったまま目を細める。
王都では朝になるたびに感じていた重さが、ここでは少し違った。
胸の奥に張り付いていた何かが、少しずつ薄くなっている気がする。
まだ眠れない夜が完全になくなったわけではない。
けれど、目覚めるたびに疲れが残る感覚は減っていた。
そんなことを考えていると、庭の方から声が聞こえた。
「カイロスー!」
元気な声ではない。
けれど、聞くと自然に顔が上がる声だった。
窓から覗くと、ミーナがこちらへ手を振っている。
蜂蜜色の髪が朝日に照らされてきらきらと輝いていた。
「今日はね、お父さんと魚釣りに行くの」
少し声を張りながら言う。
「カイロスも来る?」
カイロスは少しだけ考えた。
魚釣りなどしたことがない。
王都では訓練か勉強ばかりだった。
だが――。
「行く」
そう答えると、ミーナは嬉しそうに笑った。
「うん!」
その顔を見ていると、不思議と断らなくて良かったと思えた。
◇
川辺には、朝の光が降り注いでいた。
水面は穏やかで、空を映して青く輝いている。
エリアスは慣れた手つきで釣り竿を準備していた。
「魚釣りは初めてかい?」
「はい」
カイロスが答えると、エリアスは笑った。
「それじゃあ今日は先生にならないといけないな」
そう言って竿を一本手渡してくる。
カイロスは慎重に受け取った。
剣や杖なら慣れている。
だが釣り竿は勝手が違う。
「そんなに難しくないよ」
隣でミーナが言う。
「魚さんを待つだけ」
「待つだけ?」
「うん」
ミーナは頷いた。
「焦ると逃げちゃうから」
その言葉に、カイロスは少しだけ首を傾げる。
待つ。
それもまた、自分には慣れないことだった。
王都では常に結果を求められる。
早く。
正確に。
強く。
そればかりだった。
けれど、この村では違うらしい。
川の流れはゆっくりだ。
風も穏やかだった。
エリアスに教わりながら糸を垂らす。
水面が静かに揺れた。
しばらく誰も話さなかった。
ただ川の音だけが聞こえている。
不思議と気まずくない。
王都なら沈黙は緊張を生む。
けれど、ここでは違った。
沈黙すら景色の一部みたいだった。
風が吹く。
葉が揺れる。
水面に光が散る。
その時だった。
「……あ」
ミーナが小さく声を上げた。
竿がぴくりと動いている。
「ミーナ、引いてごらん」
エリアスが優しく言う。
ミーナは慎重に竿を持ち上げた。
水しぶきが上がる。
小さな魚が一匹。
「釣れた!」
ミーナの顔がぱっと明るくなる。
エリアスも嬉しそうに笑った。
「上手だ」
「えへへ」
その様子を見ていたカイロスは、なぜか少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
家族。
そういうものなのだろうか。
エリアスはミーナの頭を撫でる。
ミーナは当たり前のように笑っている。
それはカイロスの知らない光景だった。
しばらくして。
今度はカイロスの竿が揺れた。
「カイロス!」
ミーナが声を上げる。
「来てる!」
慌てて竿を握る。
どうすればいいのか分からない。
「落ち着いて」
エリアスが笑う。
「ゆっくりでいい」
その声に従って竿を引く。
すると水面が弾けた。
一匹の魚が姿を現す。
銀色の鱗が太陽の光を受けて輝いた。
「釣れたな」
エリアスが言う。
カイロスはしばらく魚を見つめていた。
戦いで魔物を倒したことはある。
難しい魔術を成功させたこともある。
けれど。
魚が釣れただけで、こんなに嬉しいとは思わなかった。
「おめでとう」
ミーナが笑う。
その笑顔を見ていると、胸の奥が少しだけくすぐったくなった。
◇
帰り道。
三人は釣った魚を籠に入れて歩いていた。
川沿いの道には白い花が咲いている。
風が吹くたびに花びらが揺れた。
「今日の魚は夕飯になるよ」
ミーナが嬉しそうに言う。
「楽しみだな」
エリアスが答える。
その会話を聞きながら歩いていると、不意にミーナが立ち止まった。
「どうした?」
カイロスが尋ねる。
ミーナは少し先を指差した。
川辺の草むらに、小さな白い花が咲いている。
「この花、好きなの」
しゃがみ込み、そっと摘み取る。
花は掌に収まるほど小さかった。
「毎年ここに咲くんだよ」
「そうなのか」
「うん」
ミーナは少し考えるように花を見つめた。
「なくなっちゃったら寂しいから」
そして微笑む。
「押し花にするの」
「押し花?」
「本に挟んで残しておくの」
カイロスは花を見る。
そんなことを考えたこともなかった。
「花は枯れるだろう」
「うん」
ミーナは頷く。
「でもね」
そして空を見上げた。
「思い出まで消えるわけじゃないから」
風が吹いた。
蜂蜜色の髪が揺れる。
陽射しの中で、その横顔はどこか大人びて見えた。
カイロスはしばらく言葉を失う。
思い出。
そんなものを大切にしたことがあっただろうか。
訓練の日々。
戦いの日々。
失敗しないことばかり考えていた。
けれど、この村へ来てから。
少しずつ何かが変わっている気がした。
「カイロス?」
ミーナが不思議そうに首を傾げる。
「なんでもない」
そう答える。
だが本当は違った。
たぶん。
この瞬間を覚えておきたいと思ったのだ。
川の音。
夏の風。
白い花。
そして――。
隣で笑う少女のことを。
夕暮れが近づく空の下。
三人はゆっくりと村へ帰っていった。
その時カイロスはまだ知らない。
今日摘まれた小さな白い花が。
何年も先まで続く手紙の始まりになることを。




