第1話 眠れない少年と、花の村
カイロス・ヴァルクレインは、眠ることが苦手だった。
王都の夜は、静かすぎる。
厚い石壁に囲まれた部屋の中で、彼は何度目かも分からない寝返りを打った。窓の外には、月の光に白く照らされた王城の尖塔が見える。遠くで夜警の足音が響き、それがやけにはっきりと耳に残った。
目を閉じれば、眠れるわけではない。
むしろ、目を閉じた途端、余計なものばかりが浮かんでくる。
黒い炎。
割れた石畳。
焦げた土の匂い。
誰かの叫び声。
それらは夢ではなかった。けれど、夢のように何度も戻ってくる。
カイロスはゆっくりと目を開けた。
「……またか」
呟いた声は、夜の冷たい空気に小さく沈んだ。
枕元の燭台には、もう短くなった蝋燭が灯っている。眠るために火を消すこともある。けれど、暗闇の中では、かえって気配が濃くなる気がした。
眠れないのは、いつものことだ。
幼い頃から、そうだった。
カイロスは王国でも稀な黒魔術の才能を持って生まれた。強すぎる力は、祝福ではなく、役目になった。
王国の切り札。
黒曜の魔術師。
黒の継承者。
大人たちは、そう呼んだ。
けれど、そのどれもが、カイロスには少し重かった。
扉の向こうで、かすかな足音が止まった。
「起きているな」
低い声がした。
カイロスは返事をしなかった。返事をしなくても、相手は分かっている。
扉が開き、ハーラルド・ヴァルクレインが入ってきた。
王国最強の黒魔術師。
そして、カイロスの師匠だった。
銀混じりの黒髪を後ろへ流し、いつもの黒い外套を肩にかけている。厳しい顔立ちをしているが、カイロスはその人が本当に怒っているところを、まだ数えるほどしか見たことがない。
「眠れなかったか」
「……少しは」
「嘘が下手だな」
ハーラルドはそう言って、部屋の隅にある椅子へ腰を下ろした。
カイロスは起き上がり、膝の上に手を置いた。
「明日の訓練に支障は出しません」
「そんな話はしていない」
短い返事だった。
カイロスは黙る。
ハーラルドはしばらく何も言わなかった。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただそこにいた。
その沈黙が、カイロスには少しだけ楽だった。
「明日から、王都を離れる」
不意に告げられた言葉に、カイロスは顔を上げた。
「任務ですか」
「半分はな」
「半分?」
「休暇だ」
カイロスは思わず瞬きをした。
休暇。
その言葉は、自分にはあまり関係のないものだと思っていた。
「僕に休暇が必要ですか?」
「必要だ」
ハーラルドは即答した。
「お前はまだ十四歳だ」
「……子供扱いしないでください」
「子供だ」
迷いのない声だった。
カイロスは唇を引き結ぶ。
十四歳。
年齢だけを言えば、確かに子供なのだろう。
けれど、黒魔術の訓練を受け、魔物討伐にも同行し、王城の大人たちから期待と警戒の視線を向けられているうちに、自分が子供でいることは許されないのだと思うようになっていた。
ハーラルドはそんなカイロスを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「フィオラ村へ行く」
「フィオラ村……?」
「王国北東部の小さな村だ。花と光の里と呼ばれている」
花と光。
王都の石壁と訓練場しか知らないカイロスには、少し遠い言葉だった。
「そこで何をするんですか」
「何もしない」
「……何もしないんですか?」
「川を見る。飯を食う。歩く。眠る」
カイロスは眉を寄せた。
「それが任務ですか」
「お前にとってはな」
ハーラルドは立ち上がった。
「荷物は最低限でいい。明日の朝、出る」
「分かりました」
そう答えながらも、カイロスには分からなかった。
花の村。
何もしない時間。
眠るための旅。
どれも、自分には似合わない。
ハーラルドは扉の前で一度だけ振り返った。
「カイロス」
「はい」
「力だけでは、人は生きられない」
その言葉の意味を、カイロスはすぐには理解できなかった。
扉が閉まる。
部屋には、また静かな夜が戻ってきた。
カイロスは窓の外を見た。
王都の夜空は、どこか遠い。
星はあるはずなのに、城の灯りにかき消されて、ほとんど見えなかった。
眠れないまま、朝が来た。
翌朝、王都を出る馬車の中で、カイロスは黙って外を見ていた。
石造りの街並みが遠ざかり、やがて道は緩やかな丘陵地帯へと入っていく。空気が少しずつ変わっていくのが分かった。
王都の空気は硬い。
人の声、馬車の音、鉄の匂い、城壁の影。
けれど、進むにつれて、風の中に草の匂いが混ざり始めた。
窓の外に広がる緑。
風に揺れる麦畑。
小さな花が咲く道端。
カイロスは何も言わなかったが、視線だけはずっと外へ向いていた。
ハーラルドは向かいの席で腕を組み、目を閉じている。眠っているようにも見えたが、たぶん起きている。
「退屈か」
「いいえ」
「そうか」
それだけの会話だった。
夕方近くになって、馬車はゆっくりと坂道を下り始めた。
その先に、村が見えた。
石畳の小道。
白い壁の家。
窓辺に咲く花。
遠くには森があり、その向こうで川が光っている。
風が吹くたび、花の香りが馬車の中まで届いた。
カイロスは思わず息を止めた。
王都とは違う。
静かなのに、寂しくない。
人の暮らしの音が、あちこちから聞こえてくる。水を汲む音。誰かの笑い声。犬の鳴き声。鍋をかき混ぜる音。
それらはどれも小さくて、柔らかかった。
「ここがフィオラ村だ」
ハーラルドが言った。
馬車が村の入口で止まる。
降りた瞬間、土と花の匂いがふわりと足元から立ち上った。
カイロスは黒い外套の裾を握った。
見慣れない場所。
知らない人々。
けれど、不思議と息苦しくはなかった。
「ハーラルド!」
明るい声が響いた。
坂の上から、一人の男性が歩いてくる。柔らかな茶色の髪をした、穏やかな目の人だった。その隣には、優しげな女性が立っている。
「久しぶりだな、エリアス」
「本当に久しぶりだ。相変わらず怖い顔をしている」
「お前は相変わらず緊張感がない」
二人はそんなことを言いながら、どこか嬉しそうに笑った。
カイロスは少し離れて、その様子を見ていた。
ハーラルドがこんなふうに誰かと話すところを、あまり見たことがない。
エリアスと呼ばれた男性が、カイロスの方へ視線を向けた。
「君がカイロス君だね」
「……はい」
「ようこそ、フィオラ村へ。私はエリアス・フローレンス。こちらは妻のレイラだ」
「よろしくね、カイロス君」
レイラは柔らかく微笑んだ。
カイロスは少し迷ってから、頭を下げた。
「お世話になります」
「そんなに固くならなくていいのよ。ここでは、ゆっくりしてね」
ゆっくり。
また知らない言葉だった。
その時、家の奥から小さな足音が聞こえた。
「お父さん、お客さま来た?」
扉の向こうから現れたのは、同じくらいの年頃の少女だった。
蜂蜜色の髪が、夕方の光を受けて淡く光っている。瞳は若葉のような翡翠色で、こちらを見ると、ぱっと表情が明るくなった。
「こんにちは」
少女はまっすぐカイロスの前まで来た。
「私、ミーナ。ミーナ・フローレンス」
カイロスは一瞬、返事に詰まった。
初対面の相手に、こんなふうに自然に笑いかけられたことが、あまりなかった。
王都の子供たちは、カイロスを遠巻きに見た。
大人たちは、才能を見た。
けれど、この少女は違った。
ただ、そこにいる一人の子供として、彼を見ていた。
「……カイロス」
ようやく、それだけ言った。
「カイロス?」
「カイロス・ヴァルクレイン」
「そっか。よろしくね、カイロス」
ミーナは嬉しそうに笑った。
その笑顔に、カイロスはどう返していいか分からなかった。
「疲れてる?」
不意に聞かれて、カイロスは少し驚く。
「別に」
「でも、顔がちょっと眠そう」
エリアスが小さく笑い、レイラが「あら」と目を丸くした。
ハーラルドだけが、何も言わずにカイロスを見ていた。
カイロスは少しだけ視線を逸らした。
「眠くない」
「そうなの?」
「ああ」
「じゃあ、夜に眠れるといいね」
ミーナは、それをとても当たり前の願いのように言った。
眠れるといいね。
その一言が、カイロスの胸の奥に、静かに落ちた。
誰かにそんなふうに言われたのは、初めてだったかもしれない。
眠れないことを責められるのではなく。
弱さとして見られるのでもなく。
ただ、眠れるといいね、と。
ミーナは庭先に咲いていた小さな白い花を一輪摘んだ。
「これ、いい匂いがするの」
そう言って、カイロスに差し出す。
カイロスは受け取るべきか迷った。
花を持つ理由が分からなかった。
それでも、差し出された手を拒むのは、もっと分からなかった。
そっと受け取る。
白い花はとても軽かった。
「部屋に置くと、少し落ち着くよ」
「……そうか」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「人によるから」
ミーナは笑った。
その笑い方があまりに自然で、カイロスは少しだけ困った。
王都では、誰もこんなふうに笑わない。
少なくとも、自分に向かっては。
夕食は、フローレンス家の食卓でとることになった。
焼きたてのパン。
野菜のスープ。
川魚の香草焼き。
蜂蜜をかけた焼き菓子。
どれも特別豪華ではないのに、湯気の向こうに家族の声があった。
ミーナは食卓の向かいで、今日村で見つけた蛍の話をしていた。
「今年は早いんだよ。川の近くで、もう少しだけ光ってたの」
「夏至祭の頃には、もっと増えるだろうね」
エリアスが言う。
「カイロスも見に行こうね」
急に話を振られ、カイロスはスプーンを止めた。
「僕も?」
「うん。蛍、見たことある?」
「……ない」
「じゃあ絶対見た方がいいよ。すごくきれいだから」
ミーナの目は、本当に蛍の光を映しているようだった。
カイロスは短く頷いた。
「行けたら」
「行けたらじゃなくて、行こう」
ミーナはきっぱりと言った。
その勢いに、カイロスは少しだけ押される。
ハーラルドが横で小さく喉を鳴らした。笑ったのかもしれない。
夜になると、フローレンス家の客間に案内された。
窓の外では、虫の声がしている。
王都の夜とは違った。
静かなのに、音がある。
風が木の葉を揺らす音。
遠くの川の水音。
どこかで鳴く鳥の声。
部屋には、ミーナがくれた白い花が小さな瓶に挿してあった。レイラが用意してくれたのだろう。
カイロスはベッドに座り、その花を見つめた。
眠れるはずがない。
場所が変わったからといって、簡単に眠れるなら苦労しない。
そう思っていた。
けれど、布団に入ると、王都の夜とは違う匂いがした。
干したばかりの布。
花の香り。
木の床。
遠くの川。
カイロスは目を閉じる。
黒い炎は、すぐには現れなかった。
代わりに浮かんだのは、夕方の村の景色だった。
白い壁の家。
窓辺の花。
蜂蜜色の髪の少女。
眠れるといいね、と言った声。
カイロスは知らないうちに、深く息を吐いていた。
窓の外で、風が吹く。
小さな白い花が、かすかに揺れた。
その夜。
カイロスは、久しぶりに夢を見なかった。
そしてまだ、彼自身は気づいていなかった。
この村で過ごす夏が。
一人の少女と交わす何気ない約束が。
いつか自分にとって、帰る場所になることを。




