婚約破棄された銀眼の令嬢は闇の皇帝に溺愛される~「不吉」と蔑まれた私を「俺の月光」と呼ぶ人に出会いました~
「——婚約破棄だ」
月が太陽を蝕み始めた戴冠式の大広間に、その言葉は残酷なほど明瞭に響き渡った。
私——セレナ・ヴェルディーナは、三年間支え続けた婚約者の背中を見つめたまま、瞬きひとつできずにいた。
「アレク様、それは……」
「聞こえなかったか?」
太陽王国の至宝と讃えられる王太子アレク・ソラリスは、金色の髪を揺らしながら振り返りすらしなかった。その隣では、私の異母妹リディアが勝ち誇った笑みを浮かべている。
「月蝕の戴冠式をもって、我が婚約者はリディア・ヴェルディーナとする」
ざわめきが波紋のように広がる。しかしそれは驚愕ではなく——嘲笑だった。
「ようやくですわね」
「影の王女に三年も付き合うなんて、殿下もお優しい」
「あの不吉な銀眼が王妃になど、最初から無理があったのよ」
(……ああ、そう)
不思議なほど、心は凪いでいた。
三年。三年間、私は誰よりも早く起き、アレク様の衣装を整え、政務の補佐をし、夜会では壁の花となって彼の邪魔にならぬよう息を殺してきた。愛されていないことは知っていた。それでも、いつかは——
「お姉様」
リディアが、わざとらしく心配そうな声を上げる。蜂蜜色の瞳が、月明かりの下で嗜虐的に輝いていた。
「可哀想なお姉様。でも仕方ないわ。だってお姉様は——」
彼女は一拍置いて、大広間中に響く声で宣言した。
「太陽の下では、輝けないのだもの」
嘲笑が、爆発した。
(……ええ、知っています)
私は静かに頭を下げた。震える手を、握りしめたドレスの裾で隠しながら。
「——殿下のご多幸を、お祈り申し上げます」
その声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「下がれ、セレナ。お前はもう、この場にいる資格がない」
——三年間、私は何を見ていたのだろう。
俯いたまま、私は大広間を後にした。背中に突き刺さる視線と嘲笑を浴びながら。重い扉が閉まる直前、リディアの甲高い笑い声が聞こえた。
「さようなら、影の王女」
月蝕が、深くなっていく。
私の世界を覆っていた偽りの太陽が、ゆっくりと翳っていく——。
***
宮殿の外れにある小さな庭園。月光草が静かに咲き乱れる、誰も訪れない場所。唯一、私が息をつける場所だった。
「……私は影で構いません」
誰もいない庭で、私は呟く。
「誰かの光を遮らずに済むなら」
そう自分に言い聞かせて、三年間を耐えてきた。
私の銀の瞳は「不吉」と忌避され、実の両親からも疎まれてきた。『月に魅入られた呪いの子』——幼い頃から、そう呼ばれ続けた。
その時——
「——ようやく見つけた」
低く、深く、闇そのもののような声が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは——
漆黒の髪に深紅の瞳。月光を纏うように佇む、圧倒的な存在感の男。
「お前は知らないのか?」
彼は私に向かって手を差し伸べた。その唇が、三日月のように弧を描く。
「月蝕の夜にだけ現れる銀の瞳を持つ娘は——我が国の『月の后』となる宿命を持つと」
何を、言って——
思わず目を瞬いた瞬間、視界が銀色に染まった。
月光を受けた私の瞳が、輝いている。普段は灰青色のはずの瞳が——まるで月そのものを宿したかのように。
「美しい」
男は一歩近づいた。その深紅の瞳が、まっすぐに私を捉える。
「太陽に焼かれる必要はない。俺の傍で——」
彼の手が、私の頬に触れた。
「——月光の中で、永遠に輝け」
月が、太陽を完全に覆い隠した。
世界が闇に包まれる中、彼の深紅の瞳だけが——太陽よりも眩しく、私を照らしていた。
***
「……あなたは、誰」
声が震えていた。目の前の男から発せられる威圧感は、アレク様など比較にならない。
「レイヴン・ノクターシュ。月影帝国が皇帝だ」
——月影帝国。
息が止まった。「血の皇帝」「闇帝」と恐れられる暴君が治める、太陽王国の宿敵。その皇帝が、なぜここに——
「十五年前」
皇帝の深紅の瞳が、微かに揺れた。
「月蝕の夜に迷子になった銀眼の少女がいた。国境で、俺が見つけた」
——え?
記憶の断片が、繋がった。幼い頃、月蝕の夜に森で迷子になったことがある。黒い髪の男の子が、銀色の花を見せてくれた。
『泣くな。お前の目、綺麗だから。月みたいだ』
「『また会おう』と、約束しただろう」
皇帝が、私の手を取った。
「忘れるものか。十五年、お前を探していた」
「そんな……」
「お前を愛さなかった男の元へ、戻りたいか?」
——戻りたくない。
心の奥底で、本音が叫ぶ。あの冷たい視線。嘲笑。私の存在を否定され続けた三年間。もう二度と、あの場所には——
「……戻りたく、ありません」
「ならば俺の国へ来い」
皇帝は、私の手を引いた。
「お前が望まぬなら、無理に后にはしない。だが——俺はお前を諦めない。十五年待ったのだ。あと百年でも待てる」
その言葉が、凍りついた心のどこかを——確かに、溶かした。
***
月影帝国での日々は、驚くほど穏やかだった。
誰も私の目を「不吉」と言わない。むしろ、敬意を込めた視線を向けてくる。
「月の乙女様だ」
「なんて美しい銀の瞳……」
——祝福された存在。
生まれて初めて、そう呼ばれた。
「寒くないか」
レイヴン陛下は、いつも私を気にかけてくれた。
「い、いえ、大丈夫です……!」
「嘘をつくな。お前は震えている」
「これは寒さではなく……緊張で……」
「——緊張?俺が、怖いか」
その声は、どこか寂しげだった。
「……いいえ。怖くはありません。ただ——戸惑っているのです」
「何にだ」
「こんなに……親切にされることに」
言葉にした途端、目頭が熱くなった。三年間、誰にも心配されなかった。寒くないかと聞かれることも、体調を気遣われることもなかった。
「……すまない」
陛下の声が、低く響いた。
「お前を、もっと早く見つけるべきだった」
外套が、私の肩にかけられた。陛下の体温が残る布地は、驚くほど温かかった。
「もう耐えなくていい。俺の国では、お前は——」
陛下は言葉を切って、視線を逸らした。月明かりの中、その耳が微かに赤く染まっているのが見えた。
「……俺の国では、お前は祝福された存在として扱われる。それだけだ」
(……耳、赤い)
初めて、唇が緩むのを感じた。
この人は、本当に「血の皇帝」なのだろうか。
***
「ふふ、兄上。早速惚気ですか」
凛とした声の主は、ルナリア皇女——レイヴン陛下の妹だった。
「ご存知ありませんでした?兄上、月蝕の度に国境へ向かうのですよ。『銀の瞳の少女を探している』と言って」
「——ルナリア」
陛下の声が、明らかに焦りを含んでいた。
「ある時などは、吹雪の中で——」
「ルナリア!」
陛下の顔は——明らかに赤かった。
「セレナ様。一つだけ覚えておいてくださいね」
皇女の紫の瞳が、真摯な光を宿した。
「兄上がどれほど不器用でも、あなたを大切に思っていることだけは——疑わないでください」
***
そして、運命の夜が訪れた。
月庭で、陛下は私の前に跪いた。
「——っ!?陛下、何を……!」
「十五年前の約束を、果たさせてくれ」
深紅の瞳が、真っ直ぐに私を見上げる。暴君と恐れられる皇帝が、私の前で跪いている。
「俺は、お前を探し続けた。お前以外の誰も、俺の后にはなれないと——そう決めていた」
「私は、何も持っていません。地位も、財産も——」
「俺には、お前がいればいい」
陛下が立ち上がり、私を抱きしめた。
「太陽に焼かれる必要はない。俺の傍で、月光の中で——永遠に輝け」
涙が、止まらなかった。
「……はい。私を、あなたの月にしてください」
***
それから一年後——太陽王国からの使者が訪れた。
「セレナ。戻ってこい。本当は……愛していたのだ」
アレク・ソラリスの言葉に、私は静かに口を開いた。
「三年前、私が熱を出して寝込んだ時——あなたは一度もお見舞いに来てくださらなかった」
「それは……」
「あなたは最初から——私を愛してはいなかった」
私は、真っ直ぐにアレクを見つめた。
「私は三年間、あなたの影でした。でも、もう——私は影ではありません」
レイヴンの傍らに立つ。彼の手が、自然に私の腰に回された。
「私は、自分で輝く場所を選びます」
「お引き取りください、アレク様。私はもう、太陽の下で枯れる花ではありません」
***
——月蝕の夜、戴冠式。
一年前、私は婚約破棄を宣言された。今夜、私は月影帝国の皇后として戴冠する。
「セレナ・ヴェルディーナ。お前を、月影帝国の皇后として戴冠する。——俺の、永遠の伴侶として」
銀の王冠が、私の頭上に載せられた。
「月光こそ、お前の王冠だ。お前が俺の月光だ。永遠に——俺だけを、照らしてくれ」
涙が、頬を伝った。
「レイヴン」
初めて、名前を呼んだ。
「私は——あなたの月光です。永遠に、あなただけを照らします」
レイヴンが、私を抱きしめた。
「愛している、セレナ」
「私も——愛しています、レイヴン」
月が、太陽を完全に覆い隠した。
闇の中で、私たちの愛だけが——永遠に輝いていた。
——これは、日陰者と蔑まれた少女が、闇の王に愛され、真の女王として戴冠するまでの物語。
そして、これからも続く——月光の中で紡がれる、永遠の愛の物語。




