言葉に溺れる僕と、海で溺れた彼女
「吃る(どもる)って、どんな感覚なの?」
無神経に、あるいは純粋な好奇心だけでそう聞いてくるやつがいた。
僕にとって、吃るというのは「海で溺れている感覚」に近いと思う。伝えたい言葉は、頭の中でははっきりと形を成している。けれど、それを出そうとした瞬間、目に見えない水圧が喉を締め上げ、うまく呼吸ができなくなる。一秒が永遠のように感じられ、ただ時間だけが残酷に過ぎていく。
周りからの突き刺さるような視線。喉の奥で火花を散らすような焦燥感。
だから僕は、人と関わることを避けてきた。風景の一部になれば、声を出す必要もないから。
「あ、あ……あ、う……
喉の奥で、言葉がひっかかる。
伝えたい一文字目が、まるで喉に刺さった魚の骨のように、頑固にそこから動こうとしない。深呼吸をすればするほど、胸の鼓動は早まり、余計に言葉は出口を失う。
ここは学校ではない。
見渡す限りの青、照りつける太陽、そして肺に刺さるような潮の香り。
千葉県の端っこにある、観光客もまばらな静かな海水浴場。
僕は家族旅行で、両親と妹と一緒にここに来た。特に面白みのない、例年通りの夏休みの一日だ。
本当は、もう家族旅行ではしゃぐような年齢でもない。けれど、僕は「理想の息子」を演じるためにここに来た。僕が大人しく参加して、楽しそうに笑ってさえいれば、両親は安心し、ニコニコと僕を見る。僕はその、少しだけ歪な平和が好きだった。
砂浜には、僕らの他に家族連れが二、三組いるだけだ。 僕は妹と一緒に、湿った砂で城を作っていた。指先に伝わる砂のざらつき、遠くで鳴くカモメの声。
ふと、視界の端に違和感を覚えた。
さっきまで波に揺れていたボートに、誰も乗っていない。
(……まさか)
ひっくり返ったサンダルが、一つだけ波間に浮いているのが見えた。
心臓が、警報のようにドクドクと鳴り始める。僕は慌ててその場を駆け出した。
ボートの近くにいた小さな男の子に状況を聞こうとした。けれど、僕の喉は無情にも固く閉ざされた。
「た、た……っ」
助けを呼びたい。でも、言葉が出ない。
「何が起きたのか」を説明する数秒の間に、誰かが死ぬかもしれない。
僕は説明することを諦めた。自分の吃音に絶望する暇さえ惜しんで、僕はそのまま海に飛び込んだ。
――ああ、なんて綺麗なんだろう。
水中に入った瞬間、ふとそんなことが頭をよぎった。 海水が目に染みるのを堪え、必死に辺りを見回す。
そこは、僕らならギリギリ足が届くかどうかの深さだった。
その光の届く底に、彼女はいた。
まるで眠っているように深く目を閉じ、緩やかな潮の流れに身を任せている少女。
(行かなきゃ)
僕は彼女の手を引き、必死に水をかいた。
水の中の彼女は、僕が思っていたよりもずっと重く、そして命の気配が薄かった。
陸へ、早く陸へ。
膝下まで水位が下がった頃、ようやく周囲の大人たちが異変に気づいた。ライフセーバーや、彼女の両親と思われる男女、そして僕の両親が悲鳴を上げて駆け寄ってくる。
「凪!!!」
誰かが彼女の名前を叫んだ。
砂浜に引き上げられた彼女の意識はなかった。
僕のせいで死んだのか? もっと早く動けていれば。
悪い妄想が頭を支配しそうになった、その時。
「がほっ……!!」
彼女が大量の水を吐き出し、その身体が一度、大きく痙攣した。
生きている。
そう確信して安堵した瞬間、背中に強烈な痛みが走った。
振り返ると、そこには親父が立っていた。
言葉はなくとも、屈託のない笑顔でサムズアップを向けてくる。
僕は少しだけ、鼻の奥がツンとするような誇らしさを感じていた。
救護を受ける少女のほうに目をやる。
彼女は、まだ焦点の定まらない瞳で僕を見上げ、か細い声でこう言った。
「ありがとう。悠真くん」
なぜだろう。
僕はこの少女を、知らないはずだった。
なのに彼女は、僕の名前を知っていた。
その日の夜、民宿の部屋は、潮騒の音と古びた扇風機の回る音に包まれていた。
夕食の席では、親父が「今日の悠真は凄かった」と何度もビールのお代わりをしながら僕を褒めちぎった。母さんは「もし悠真まで溺れたらどうするつもりだったの」と怒りながらも、僕の皿に大きなエビフライを余分に乗せてくれた。
普段、僕の吃音を気にして、どこか腫れ物に触れるような扱いをする両親が、今日だけは僕を「一人の男」として見てくれている気がして、胸の奥が少しだけ熱くなった。
けれど、僕の頭の中は、別のことで一杯だった。
(……佐々木凪。……なんで、僕の名前を?)
彼女が運ばれていった後、僕は彼女の名字が「佐々木」であることを知った。 確かに、聞き覚えのある名前だ。僕の通う高校は、一学年に三百人もいる。その中に「佐々木」なんてありふれた名字の生徒はいくらでもいるはずだ。
でも、彼女が僕を呼んだあの声。
「ありがとう、悠真くん」
その響きには、今日初めて会った人間に対するものとは違う、もっと深い、何というか「確信」のようなものが混じっていた気がする。
僕は畳の上に寝転がり、天井のシミを見つめた。
僕のような「喋れない奴」は、クラスでは風景の一部だ。自分から話しかけることはないし、グループ分けではいつも余る。出席確認で名前を呼ばれた時の「はい」という二文字でさえ、喉が詰まって舌を噛みそうになる。
そんな僕の名前を、あんな風に鮮明に記憶している人間が、この世界にいるなんて。
ガサリ、と隣の布団で妹が寝返りを打った。
家族の寝息が聞こえ始める中、僕はどうしても喉の渇きが収まらず、静かに部屋を抜け出した。
民宿の廊下は、昼間の熱気が嘘のように冷えていた。
自動販売機の青白い光が、薄暗い廊下を不気味に照らしている。冷えた麦茶のペットボトルを手に取り、僕はそのまま外へ出た。
夜の砂浜は、昼間とは全く別の顔をしていた。
街灯もなく、ただ月明かりだけが波打ち際を白く縁取っている。
昼間、僕が飛び込んだ海。
そこにはもう、死の気配も、叫び声もない。ただ、規則正しい波の音だけが、僕の鼓動と同調するように響いていた
「……あ、……あ……」
誰もいない海に向かって、僕は声を漏らしてみた。
昼間、あの子を助けるときに出せなかった言葉。
「危ない」「逃げろ」「助けて」
水の中では、言葉なんて必要なかった。ただ必死に腕を動かし、彼女を抱きしめるだけで良かった。皮肉なものだ。一万の言葉を尽くすよりも、黙って飛び込むことの方が、僕の想いを正確に伝えてしまったのだから。
「……悠真くん?」
突然、背後から名前を呼ばれた。
心臓が口から飛び出しそうになるほど跳ねた。
振り返ると、そこには薄手の白いワンピースを羽織った彼女――凪が立っていた。 昼間の、あの青白かった顔色は幾分良くなっているように見えた。
「……っ、あ……な、な……っ」
昼間の勇気はどこへ行ったのか。彼女を前にすると、僕の喉はまた、硬く冷たい鉄の扉になってしまった
「ふふ、そんなに驚かなくても。従兄弟の家、すぐそこなんだ。お医者さんには安静にしてろって言われたんだけど、どうしても、お礼が言いたくて」
彼女は一歩、また一歩と僕に近づいてくる。
月光に照らされた彼女の髪が、銀色に輝いて見えた。
「私ね、悠真くんと同じ学校だよ。二組の、佐々木凪。覚えてないかな? 悠真くん、いつも窓際で、難しそうな本読んでるでしょ」
彼女の言葉に、僕は目を見開いた。
二組。僕のクラスの、すぐ隣だ。
そして思い出した。
そうだ。彼女は、休み時間になるといつも友達に囲まれて、向日葵が咲いたような笑顔で笑っている、あの……。
「……っ、な、な……っ」
やはり、一文字目が喉に張り付いて剥がれない。
彼女が僕と同じ学校で、しかも隣のクラスの有名人であるという事実は、僕の喉にさらなる重しを乗せた。佐々木凪。その名前を、僕は知っていた。学校中の誰もが知っている、太陽のような存在だ。そんな彼女が、なぜ僕のような影の薄い人間の名前を覚え、さらには昼休みの読書姿まで見ていたのか。
混乱する僕を見て、凪は小さく笑った。その笑い声は、寄せては返す波の音に溶けてしまいそうなほど、優しくて儚い。
「無理に喋らなくてもいいよ。……私、悠真くんの『声』、嫌いじゃないし。むしろ、海の中では誰の叫び声よりもはっきり聞こえた気がしたんだ」
凪は僕の隣まで歩いてくると、サンダルを脱いで砂の上に腰を下ろした。白いワンピースの裾が、夜風に吹かれてひらひらと舞う。
僕は、適当な距離を保って隣に座るべきか、それとも立ち尽くすべきか迷ったが、彼女が隣をポンポンと叩くのを見て、意を決して砂の上に腰を下ろした。
「……な、な……ん、で……」
ようやく、絞り出すように声が出た。「なんで」の三文字を出すだけで、全身から汗が吹き出すような労力を必要とする
「なんで名前を知ってるか、だよね?」
凪は僕の言葉を優しく先回りして拾い上げた。
「一学期の最初、図書室で本を借りる時。私の前に並んでたのが悠真くんだったでしょ。名前、カードに書いてあったから。……それに、悠真くん、貸出カードが埋まるくらい、いっぱいいっぱい本を読んでた。その時、この人はきっと、自分の世界を大切にしてる人なんだなって思ったの」
図書室。あんな場所での些細な出来事を、彼女は覚えていた。
僕は、自分の胸の鼓動が耳元まで響いているのを感じた。
風景の一部だと思っていた自分を、誰かが見ていた。それだけで、僕が今まで積み上げてきた「独りの世界」が、音を立てて崩れていくような気がした。
「私ね、いつも笑って、みんなに囲まれてるけど……時々、すごく息苦しくなるんだ。みんなが期待する『明るい凪ちゃん』を演じてなきゃいけない気がして。だから、海に来た時、わざと誰もいない岩場の方に行っちゃった。一人になりたくて。……でも、あんなことになって。波に飲み込まれた時、真っ先に思ったのは『ああ、私の人生、演じたまま終わっちゃうんだ』ってことだった」
凪の視線は、遠い水平線を見つめていた。
太陽のように明るい彼女が、僕と同じような「演じることの苦しみ」を抱えていたなんて。 昼間、僕が「理想の息子」を演じてこの旅行に来たことと、彼女の孤独が、月明かりの下で重なった。
「意識が遠のく中で、誰かが私の手を掴んでくれた。……悠真くん、君の手、すごく冷たかったけど、すごく力強かったよ。あ、この人は私を離さないでくれるって。そう思ったら、怖くなくなったの」
僕は黙って、自分の右手のひらを見つめた。
ただ必死だった。彼女が死ぬかもしれないという恐怖だけで、僕は自分の吃音も、周囲の目も、すべて忘れて飛び込んだ。
言葉が出ない僕にとって、唯一「本当の自分」を表現できたのが、あの瞬間の救助だったのかもしれない。
「……あ、……あ……」
僕は、何かを伝えたかった。
彼女に、僕も同じだということ。僕も君が羨ましかったし、君と同じように演じることに疲れていたということ。
けれど、言葉にしようとすればするほど、それは喉の奥で硬い石になって、僕の呼吸を妨げる。
凪は、僕の震える肩に、そっと自分の手を重ねた。
その温もりは、夜の潮風に冷えた僕の体に、じわりと染み込んできた。
「悠真くん、また学校で、話しかけてもいい? ……あ、迷惑かな」
彼女が少しだけ不安そうに首を傾げる。
僕は、激しく首を横に振った。
迷惑なはずがない。むしろ、僕の灰色の世界に、初めて色が着いたような感覚だった。
「……お、……お……う」
「おう」でも「うん」でもない、奇妙な音。
それでも凪は、満月のような満開の笑顔を見せてくれた。
「よかった。……じゃあ、これは二人の『秘密』ね。私が溺れたことも、悠真くんが助けてくれたことも」
彼女は立ち上がると、砂を払って、一度だけ振り返った。
「おやすみなさい、悠真くん。……また、二学期に」
彼女の白い背中が、闇の中に溶けていく。
僕は一人、砂浜に取り残された。
手元には、飲みかけのぬるい麦茶。
波の音は相変わらず静かで、けれど僕の心臓は、世界中のどんな雷鳴よりも大きく鳴り響いていた。
千葉の海から帰宅してからの夏休み後半は、まるで高熱を出した時に見る夢のように、現実味を欠いたものだった。
埼玉にある僕の自宅に戻ると、部屋には相変わらずの日常が待っていた。埃の舞う勉強机、読みかけのまま積まれた文庫本、そして開け放した窓から聞こえてくる蝉の断末魔のような鳴き声。
すべては変わっていないはずなのに、僕の心だけが、あの潮の香りが漂う夜の砂浜に置き去りにされていた。
家族の中での僕の立ち位置は、ほんの少しだけ変わった。
親父は時折、夕食の時に僕の顔を見て「悠真、少しは自信がついたか?」と聞いてくるようになった。彼にとって、人を助けたという事実は、僕の吃音という「欠陥」を上書きするほどの大金星だったのだろう。母さんも、どこか誇らしげに近所の人に僕のことを話しているようだった。
それが、僕にはたまらなく苦しかった。
僕がしたことは、ただ必死だっただけで、ヒーローになりたかったわけじゃない。それに、もしあの時、僕の喉が「助けて」と叫べていたら、僕は海に飛び込む必要さえなかったかもしれないのだ。僕の「沈黙の行動」は、言葉を持たない僕の、究極の妥協案に過ぎなかった。
(……二組、佐々木凪)
僕は何度も、彼女の名前を頭の中で反芻した。
学校の卒業アルバムを引っ張り出す勇気はなかったが、スマホの検索窓に「佐々木凪」と打ち込みそうになっては、指を止める。
彼女は僕と同じ学校の、すぐ隣のクラスにいる。
それは、二学期が始まれば、嫌でも彼女に会うということを意味していた。
「また、二学期に」
彼女のあの言葉は、救済だったのか。それとも、平穏だった僕の「风景としての日常」を破壊する宣告だったのか。
八月の終わり。僕は塾の帰り道、地元の公園のベンチに座って、一人で磨きかけの石を眺めていた。
僕の密かな趣味だ。河原で拾った変哲もない石を、耐水ペーパーでひたすら磨き上げる。
最初はザラザラとして、形もいびつなその石が、時間をかけて磨き続けるうちに、宝石のような滑らかな光沢を放ち始める。
石はいい。言葉を発する必要がない。
石は、僕がどれだけ時間をかけて向き合っても、急かしたりしない。
僕の吃音も、こんな風に丁寧に、時間をかけて磨き続ければ、いつかは誰かに届く「光」になるのだろうか。
そんな青臭い期待を抱いては、いや、無理だ、と自嘲して首を振る。
磨いても磨いても、石の中にある亀裂はなくならない。僕の喉に詰まったこの「塊」も、きっと死ぬまで消えることはないのだ。
そして、九月一日。
重い足取りで向かった学校は、相変わらずの熱気と喧騒に包まれていた。
真っ黒に日焼けしたクラスメイトたちが、大声で夏休みの武勇伝を語り合っている。
僕は、自分の席に座り、窓の外を見つめた。
風景の一部。風景の一部。
そう自分に言い聞かせ、周囲の雑音を遮断しようとした時――。
「あ、悠真くん! おはよう!」
教室の入り口から、弾んだ声が響いた。
一瞬、クラス全員の動きが止まった。
僕たちのクラス、一組の連中が、一斉に僕の方を振り返る。
そこには、朝の光を背負って、ひまわりが咲いたような笑顔でこちらに手を振る佐々木凪が立っていた。
彼女は自分のクラスである二組に行く前に、わざわざ僕の教室に寄ったのだ。
「お、……おは……」
喉が、肺が、爆発しそうだった。
周囲の視線がナイフのように突き刺さる。
「なんで佐々木が?」「あいつ、誰だっけ?」「吃音の野郎だろ?」
そんな無言の疑問が、教室の空気となって僕を押し潰そうとする。
凪は、そんな空気に気づいていないはずがないのに、平然とした顔で僕の席まで歩いてきた。 「夏休み、ちゃんと休めた? 私、あの日からずっと、悠真くんに会えるの楽しみにしてたんだよ」
彼女のその一言は、教室に投下された爆弾だった。
僕の「安全な隠れ家」だった窓際の席は、一瞬にして、学年中で最も注目を浴びる特等席へと変貌してしまった。
凪が嵐のように去った後、一組の教室には、重苦しい沈黙が数秒間だけ支配した。
しかし、その沈黙はすぐに、沸騰した鍋のように騒がしいざわめきへと変わった。
「おい、悠真。今の、何だよ」
真っ先に声をかけてきたのは、健太だった。
サッカー部のエースで、クラスのヒエラルキーの頂点に立つ男。彼は僕の机を軽く蹴るようにして前に立った。彼の後ろには、金魚のフンのように取り巻きの男子たちが数人、ニヤニヤとした卑屈な笑みを浮かべて控えている。
「お、……あ、……」
喉が、一瞬で鉄板のように固まった。
「今の」と言われても、説明できる言葉など僕の中にはない。あの夏の海での出来事は、凪との秘密だ。そう約束した。けれど、言葉を持たない僕がその沈黙を守ろうとすればするほど、それは「やましい隠し事」のように周囲には映る。
「佐々木がわざわざ他人の教室に来て、挨拶するなんて聞いたことねーぞ。お前、あいつに何かしたのか? 脅してんのか?」 「……ち、……ちが……っ」
違う。そう言いたいのに、「ち」の音が喉の奥で火花を散らすばかりで、外に出てこない。顔が熱くなり、耳の奥でドクドクと血の流れる音が聞こえる。
健太は鼻で笑った。 「喋れねーなら、無理すんなよ。お前のその顔、見てるこっちがイライラすんだわ」
健太たちが去った後も、クラスメイトたちの好奇の視線は僕を刺し続けた。
窓の外では、まだ終わらない夏の日差しが校庭の砂を白く光らせている。
僕は教科書を開き、活字の海に逃げ込もうとしたが、一行も頭に入ってこなかった。
昼休み。僕は逃げるように屋上へと続く階段の踊り場へ向かった。
そこは、普段から僕のような「はみ出し者」が時間を潰す、死角のような場所だった。 僕は買ってきたばかりのメロンパンの袋を開ける気にもなれず、ポケットから例の「磨きかけの石」を取り出した。
十円玉ほどの大きさの、ありふれた珪岩。
指の腹でその表面をなぞる。昨日の夜、二時間かけて一〇〇〇番の耐水ペーパーで磨いたおかげで、角が取れて少しだけ透明感が増している。
石はいい。
石には、悪意がない。
僕がどれだけ言葉に詰まっても、石は僕を嘲笑したりしない。
「……あ、やっぱりここにいた」
聞き慣れた、けれどこの場所には不釣り合いなほど明るい声。
見上げると、そこにはパンの袋を抱えた凪が立っていた。
彼女は僕の驚く顔を見て、いたずらが成功した子供のように笑うと、当然のような顔で僕の隣に座った。
「……な、なぎ、さ……っ」 「学校、大変でしょ。私が朝、あんな風に話しかけちゃったから」
凪は申し訳なさそうに眉を下げたが、その瞳にはどこか楽しそうな光も宿っていた。 「でも、秘密を隠してるのって、なんだかワクワクしない? 世界中で私と悠真くんだけが知ってる、特別な時間があるってことだもん」
凪が僕の手元に視線を落とした。 「あ、それ……石? 磨いてるの?」 「……う、……うん」 「見せて」
僕は戸惑いながらも、手のひらの石を彼女に差し出した。
彼女の細い指先が、僕の手に触れる。
その瞬間、電流が走ったような衝撃があった。僕は慌てて手を引っ込めそうになったが、彼女は気にせず、石を光に透かして眺めていた。
「きれい……。悠真くんみたいだね」 「……え?」 「不器用で、硬くて。でも、時間をかけて向き合えば、こんなにきれいに光る。……悠真くん、私、君のそういうところ、本当に尊敬してるんだよ」
尊敬。
吃音で、ろくに挨拶もできない僕に向かって、クラスの女王が放った言葉。
それは僕の心の中にあった「亀裂」を、温かい蜜で埋めていくような不思議な感覚だった。
けれど、その甘美な時間は長くは続かなかった。
階段の下から、騒がしい足音が聞こえてきた。 「佐々木、こんなところにいたのかよ!」
現れたのは、健太だった。彼は僕と凪が並んで座っているのを見て、露骨に不快そうな表情を浮かべた。
「おい、佐々木。こんな根暗な奴と一緒にいんなよ。お前、午後の体育の準備、忘れてるだろ?」 「忘れてないよ、健太くん。……それより、悠真くんのことをそんな風に言うの、やめてくれないかな」
凪の声は静かだったが、その芯には、夏の海で見せたような強い意志が宿っていた。
健太は信じられないという顔で僕を睨みつけ、吐き捨てるように言った。 「……ちっ。お前、マジで何なんだよ。佐々木に魔法でもかけたのか?」
健太が去った後、重苦しい空気が踊り場に満ちた。
僕は、石を握りしめた。
凪が僕を庇ってくれた。それは嬉しいはずなのに、僕の胸には、泥水のような重い感情が溜まっていった。
僕のせいで、凪が嫌な思いをする。
僕がもっと、普通に喋れて、普通に笑えて、普通に彼女を守れる男だったら。
この「石」のような僕の喉は、彼女の輝きを曇らせるための重りでしかないのではないか。
「……ご、……ごめ……ん」
絞り出した謝罪に、凪は寂しそうに首を振った。
「悠真くん。謝らないで。……私が、君と一緒にいたいって決めたんだから」
午後の授業を告げる予鈴が、無機質に校内に響き渡った。
僕たちは立ち上がり、それぞれの教室へと戻る。
背後に感じる凪の気配と、握りしめた石の硬さ。
僕の心の中で、何かが少しずつ、けれど決定的に変わり始めていた。
九月の半ばを過ぎても、暴力的な暑さは衰えを知らなかった。
学校中が浮足立っている。一年に一度の祭典、文化祭が近づいているからだ。廊下には色とりどりのポスターが貼られ、放課後の教室からは木材を叩く音や、吹奏楽部の練習する不揃いな音階が漏れ聞こえてくる。
僕にとって、文化祭は「透明人間」でいられる絶好の機会のはずだった。皆が準備に奔走し、役割に没頭する中で、僕は看板の裏を塗ったり、備品を運んだりといった、声を出す必要のない雑用の中に埋もれていればよかった。
けれど、今年の空気は違った。
僕が凪ちゃんと昼休みを過ごし、彼女が僕を庇うような素振りを見せるたびに、クラスの男子たちの視線は冷ややかさを増していた。特に健太は、凪ちゃんに執着していた。彼にとって、学年のアイドルである凪ちゃんが、自分のような「勝ち組」ではなく、吃音で影の薄い僕を選んでいるという事実は、耐え難い屈辱だったのだろう。
「――はい、じゃあ文化祭の出し物、劇に決まったから。次は配役を決めるぞ」
ホームルームの時間。学級委員の乾いた声が響く。出し物は『ロミオとジュリエット』を現代風にアレンジした恋愛劇に決まったらしい。
クラスの女子たちが色めき立つ。当然、ジュリエット役は他薦で凪ちゃんに決まった。彼女は困ったように微笑んでいたが、周囲の熱狂に押されるようにして引き受けた。
問題は、ロミオ役だった。
誰もが、健太が立候補すると思っていた。健太自身も、当然自分が選ばれるという顔をして椅子に踏んぞり返っている。
「ロミオ役、推薦ある人ー?」
学級委員が問いかけた瞬間、健太の取り巻きの一人が、わざとらしい大声で手を挙げた。
「はーい! 俺、悠真がいいと思いまーす!」
教室が、凍りついた。
僕の心臓が、一度だけ大きく跳ねてから、冷たい石のように固まった。
「え、悠真? あいつ、喋れないだろ?」
「だからいいんじゃん。現代版だしさ、『寡黙なクール王子』ってことで。……なあ、悠真。お前、凪ちゃんと仲良いんだから、ピッタリだろ?」
健太がニヤニヤしながら僕を振り返る。その瞳の奥には、濁った悪意が渦巻いていた。 これは攻撃だ。
人前で言葉を詰まらせ、無様に溺れる僕の姿を、全校生徒の前で晒し者にしようとしているのだ。恥をかかせ、凪ちゃんとの格の違いを見せつけ、僕を再起不能にするための。
「……っ、あ、……な、……」
拒絶の言葉を吐こうとした。けれど、喉の扉は非情にも閉ざされたままだった。僕が苦しそうに肩を上下させる様子を見て、クラスの一部からクスクスという忍び笑いが漏れる
「決まりだな。悠真、期待してるぜ?」
健太の言葉に、クラスが同調する。それは「推薦」という名の、集団リンチに等しい強制だった。
放課後。人気のない図書室の隅で、僕は台本を握りしめて震えていた。
開いたページには、ロミオの長い台詞が並んでいる。僕にとっては、地雷原のような文字の羅列だ。これを舞台の上で、ライトを浴びながら、何百人もの前で発する?
不可能だ。そんなことをすれば、僕は二度と学校に来られなくなる。
「悠真くん」
背後から、ひそやかな声がした。
振り向くと、凪ちゃんが申し訳なさそうな、それでいて決意を秘めた表情で立っていた。
「……ご、ごめん、……な、……ぎ、ちゃん」
僕は、彼女にまで迷惑をかけてしまうことが情けなくて、俯いた。
「悠真くん、断れなかったよね。みんな、ひどいよ……。私のせいで、君をあんな目に」 凪ちゃんが僕の隣に座り、震える僕の手に、そっと自分の手を重ねた。夏の海と同じ、温かい温度。
「……ぼ、……僕、……で、……できない」
「わかってる。でも、あいつらに負けたくない」
凪ちゃんが、僕の目をまっすぐに見つめた。
「悠真くん、一つ提案があるの。……声だけ、私に預けてくれないかな?」
「……え?」
「劇の演出を変えちゃうの。悠真くん演じるロミオは、不慮の事故で声を失った設定にする。そして、ロミオが伝えたい心の声は、舞台の袖で私が『心の声』として朗読するの」
凪ちゃんの突飛な提案に、僕は目を見開いた。
それは、僕が舞台上で喋る必要がないということだ。僕は表情と体を使った演技に集中し、僕の「想い」は凪ちゃんの透明な声が代弁する。
「それなら、吃音なんて関係ない。むしろ、声が出ないからこそ伝わる想いがあるって、あいつらに見せつけてやろうよ。……私、悠真くんの『本当の言葉』を、誰よりも綺麗に響かせる自信があるから」
凪ちゃんの瞳が、悪戯っぽく、けれど力強く輝いた。
彼女は、僕という石を、また別の角度から磨こうとしてくれている。
僕は、深く息を吸い込んだ。
初めて、喉の奥の塊が、少しだけ軽くなった気がした。
「……お、……ねがい……します」
たどたどしい僕の言葉を、凪ちゃんは最高の笑顔で受け止めてくれた。
文化祭まで、あと二週間。
僕と凪ちゃんの、密かな、そして最大の反撃が始まろうとしていた。
凪ちゃんの提案は、クラスの連中には「ロミオを耳の聞こえない、あるいは声を失った設定にする」という変更点だけが伝えられた。健太たちは「なんだ、結局逃げたのか」と鼻で笑っていたが、僕が舞台に立つこと自体は変わらないため、彼らにとっては十分な見世物だったのだろう。
しかし、放課後の体育館裏や図書室の隅で行われる僕と凪ちゃんの二人だけの稽古は、想像以上に過酷で、そして濃密なものだった。
「悠真くん、今のシーン。ロミオはジュリエットに、ただ『好きだ』って言いたいだけじゃない。自分の過去も、声が出ない絶望も全部受け止めてほしいって、祈るような気持ちなの」
凪ちゃんが台本を片手に、僕の顔を覗き込む。
僕は声を出さない代わりに、指先の震え、視線の動かし方、そして呼吸の間隔だけで、その感情を表現しなければならない。
言葉に頼れないという状況は、僕にとって日常そのものだった。けれど、それを「演技」として昇華させるのは全く別の話だ。僕が動く。その一瞬の静寂の間に、舞台袖のマイクから凪ちゃんの声が重なる。
『――君に、伝えたい言葉が、喉の奥で渋滞しているんだ』
凪ちゃんの声。それは僕の心臓の鼓動をなぞるように、優しく、けれど切実な響きを持って響く。
驚くほどに、彼女の声は僕の感情とシンクロした。まるで、僕の喉に詰まっていた「塊」が、彼女の唇を通して、美しい旋律に変換されていくような錯覚。
「……す、……すごい」
「ふふ、息がぴったりだね。私、悠真くんのこと、ずっと見てたからかな。君が今、何を言おうとしてるか、空気の震え方でなんとなくわかるんだよ」
凪ちゃんは冗談めかして言ったが、その頬は少し赤らんでいた。
僕たちは、一文字も喋らなくても会話ができるようになっていった。僕が視線を落とせば、彼女は僕の不安を読み取り、僕が拳を握れば、彼女は僕の覚悟を感じ取った。
一方で、クラス内での孤立は深まっていた。
健太たちは、僕が凪ちゃんと二人きりで練習しているのが気に食わないらしく、あからさまな嫌がらせが始まった。
僕の机に落書きがされたり、大事にしていた磨きかけの石がゴミ箱に捨てられていたりした。
ゴミ箱を漁り、泥にまみれた石を見つけ出したとき、僕は怒りよりも先に、深い悲しみに襲われた。
やっぱり、僕のような奴が彼女の隣にいてはいけないのではないか。
石を握りしめ、冷たい水で洗っていると、背後に人の気配がした。
「悠真、まだそんなゴミ拾ってんのかよ」
健太だった。彼の後ろには、いつものように取り巻きが数人。 「文化祭、楽しみにしてるぜ。お前が舞台で一言も発せずに、ただ突っ立ってる滑稽な姿を。凪ちゃんも、本番になれば気づくさ。お前みたいな欠陥品より、俺の方がお似合いだってな」
健太の手が、僕の肩を強く突いた。
僕はよろめき、石を床に落としてしまう。 「……あ、……あ……」
言い返したい。こいつの言葉が間違っていると、大声で叫びたい。
けれど、喉は熱く焼けるようで、言葉の欠片さえ出てこない。
「ほら、やっぱり喋れねー。お前は一生、石ころみたいに黙って踏みつけられてりゃいいんだよ」
健太たちが嘲笑しながら去っていく。
僕は床に膝をつき、石を拾い上げた。
傷がついている。あんなに時間をかけて磨いたのに。
視界が、じわりと滲んだ。
「――石は、傷ついても石だよ。悠真くん」
いつの間にか、凪ちゃんがそばに立っていた。
彼女は僕の隣に座り込み、自分のハンカチで、僕の手の中にある石を丁寧に拭いた。
「傷がついた分、もっと磨けば、前よりもっと深く光るようになる。……健太くんたちは、言葉で人を傷つけることしか知らない。でも、悠真くんは言葉にできない想いを大切にできる人。どっちが強いか、本番で見せてやろう?」
凪ちゃんの指が、僕の手に触れる。
彼女の温もりが、健太に突き飛ばされた肩の痛みを、静かに溶かしていった。
僕は、石を強く握りしめた。
もう、逃げない。
僕には声がない。けれど、僕には彼女がいてくれる。彼女が僕の声になってくれる。
そしてついに、文化祭当日がやってきた。
全校生徒が集まる体育館。暗幕が引かれ、重苦しい緊張感が漂う舞台裏。
僕は、中世の貴族のような派手な衣装に身を包み、出番を待っていた。
舞台袖では、マイクを握った凪ちゃんが、僕の方を見て小さく頷いた。
「――開幕だ。ロミオ」
彼女が囁く。
ベルの音が鳴り響き、スポットライトが舞台中央を照らし出した。
僕は、光の中へと足を踏み出した。
眩いスポットライトが視界を白く染め上げる。客席からは、ざわざわとした私語が聞こえてくる。「おい、あいつ本当にロミオかよ」「喋れるのか?」という好奇の混じった視線。最前列では、健太たちがニヤニヤしながら、僕の失態を今か今かと待ち構えていた。
僕は、舞台の中央で足を止めた。
心臓が喉元までせり上がり、呼吸が浅くなる。いつもの、あの「海で溺れる感覚」が僕を襲う。指先が震え、台本の最初の一行が頭から消えそうになった。
その時。
舞台袖の暗がりから、ふっと柔らかな風が吹いた気がした。
そこには、マイクを握り、まっすぐに僕だけを見つめる凪ちゃんの姿があった。
彼女が静かに、一度だけ頷く。
(大丈夫。僕の声は、あそこに置いてきたんだ)
そう思った瞬間、不思議と震えが止まった。僕はゆっくりと前を見据え、架空のバルコニーを見上げるようにして、大きく手を伸ばした。
『――ああ、夜の闇よ。なぜこれほどまでに僕の心を締め付けるのか』
スピーカーを通じて、凪ちゃんの透明な声が体育館全体に響き渡った。
それは紛れもなく、僕の心の中から溢れ出した「声」だった。
客席のざわめきが、一瞬で消えた。
僕は動いた。声が出ない設定のロミオとして、伝えたい言葉の数だけ、指先を震わせ、胸を掻きむしり、瞳に涙を溜めた。
僕が一歩踏み出すたびに、凪ちゃんの声が僕の感情に色を塗っていく。 『言葉を持たない僕にとって、君は唯一の光だ。この喉がどれほど沈黙を強いたとしても、この胸の鼓動だけは、君の名前を叫び続けている』
凪ちゃんの声は、僕が稽古で伝えた「吃音の苦しみ」や「伝えたい切実さ」を完璧に拾い上げていた。それはもはや演技を超えて、僕たちの魂が混じり合うような、奇跡的な調和だった
劇の中盤、ジュリエット役の凪ちゃんが舞台に現れる。
僕たちは見つめ合った。台本上のロミオとジュリエットとしてではなく、あの夏の夜の海で、互いの孤独を知った「悠真」と「凪」として。
僕は膝をつき、彼女の手を取った。
本当ならここで愛の言葉を囁く場面だ。僕は口を動かさない。ただ、必死に彼女を見つめる。
『ねえ、悠真くん。……聞こえるよ。君の、声にならない声が』
凪ちゃんが台本にはない、アドリブの言葉を混ぜた。
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
客席からは、鼻をすする音が聞こえ始めていた。健太たちの冷笑は、いつの間にか消え失せ、彼らは呆然と舞台を見上げていた。
クライマックス。毒を飲むロミオの最期のシーン。
僕は力なく倒れ込み、暗転する直前、舞台袖の彼女に向けて、声にならない口の形で「ありがとう」と告げた。
『――さようなら、僕の世界。……さようなら、僕の声』
凪ちゃんの最後の一節が、祈りのように響き渡り、舞台は深い闇に包まれた。
数秒間の、真空のような静寂。
その後、割れんばかりの拍手が体育館を揺らした。
舞台裏に戻ると、僕は衣装のまま崩れ落ちるように座り込んだ。全身が汗でびっしょりだったが、これまでに感じたことのない爽快感が体を満たしていた。
「悠真くん!」
衣装のドレスをなびかせて、凪ちゃんが駆け寄ってきた。彼女は僕の前にしゃがみ込むと、迷うことなく僕の首に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。
「最高だった。悠真くん、私たちの勝ちだよ」
「……あ、……あ……」
言葉は出ない。けれど、僕は初めて、自分の喉が「不自由」であることを恨まなかった。この沈黙があったからこそ、彼女の声と出会えたのだ。
幕の間から、クラスの連中が舞台裏に入ってくるのが見えた。健太が、複雑そうな顔をしてこちらに歩み寄ってくる。
「……おい」
健太の声に、僕は身構えた。
「……悪かったな。お前のこと、何も知らねーで」
健太はそれだけ言うと、バツが悪そうに目を逸らして去っていった。取り巻きたちも、毒気を抜かれたように大人しく従っている。
凪ちゃんが僕の腕を掴み、立ち上がらせた。
「さあ、行こう? まだ文化祭は終わってないよ。……今日は私たちが、この学校の主役なんだから」
彼女の手の温もりを感じながら、僕は自分のポケットにある「石」に触れた。
傷だらけだった石は、今、僕の心の中でどんな宝石よりも輝いている気がした。
僕の吃音は治ったわけじゃない。これからも「溺れる感覚」に襲われる日は来るだろう。 けれど、もう怖くない。僕には、僕の沈黙を肯定し、光に変えてくれる人がいるから
秋の午後の柔らかな光が、体育館の入り口から差し込んでいた。
文化祭という熱狂の渦が去った後の学校は、まるで魔法が解けた後のように、しんと静まり返って見えた。
けれど、僕を取り巻く世界は、確実にあの日を境に形を変えていた。
教室を歩いていても、刺すような視線はもうない。健太たちは相変わらず騒がしかったが、僕を「欠陥品」として扱うことはなくなった。それどころか、時折、数学のノートを貸してほしいと頼まれるような、ごくありふれたクラスメイトとしての関わりが生まれていた。
そして何より、僕の日常には「凪ちゃん」という存在が、風景ではなく実体として溶け込んでいた。
「悠真くん、お疲れ様!」
放課後、僕が図書室で返却本の整理をしていると、決まって彼女が現れる。
「……な、……なぎ、ちゃん。お、……つ、かれ」
「ふふ、お疲れさま。ねえ、今日はこれから時間ある?
近くの公園に、すごく美味しい焼き芋屋さんが来てるんだって」
文化祭での『ロミオとジュリエット』以来、僕たちは周囲公認の「仲の良い友人」になっていた。けれど、その境界線は、薄いベールのようでもどかしく、そして壊れそうに繊細だった。
公園のベンチ。オレンジ色に染まり始めた空の下で、僕たちは一つの紙袋に入った焼き芋を分け合っていた。
半分に割ると、黄金色の湯気が立ち上がり、甘い香りが鼻をくすぐる
「……あ、……つ、い」
「あはは、本当だ。でも、冬の匂いがするね」
凪ちゃんは熱そうに耳たぶを触りながら、ハフハフと芋を口にする。その何気ない仕草の一つ一つに、僕の心臓は、舞台の上にいた時よりも激しく脈打っていた。
僕は、自分の右手のひらを見つめる。
あの海で彼女を助けた時、文化祭で彼女の手を取った時。何度も触れてきたはずなのに、今の「何でもない時間」に隣にいることが、一番緊張する。
「……悠真くん、何考えてるの?」
凪ちゃんが、小首を傾げて覗き込んできた。彼女の瞳には、夕焼けの赤と、僕の戸惑った顔が映っている。
「……あ、……い、石のこと」
僕はとっさに嘘をついた。ポケットから、あの傷のついた石を取り出す。 「……き、……傷、……消えな……い、けど……ま、……磨いてる」
「そっか。……ねえ、悠真くん。私、あの石になりたいな」
凪ちゃんが、ぽつりと呟いた。
「え……?」
「だって、悠真くん、その石のこと、ずっと大切に、丁寧に、時間をかけて見てるでしょ。……誰よりも長く、君に触れられてる気がして」
冗談めかした口調だったけれど、彼女の視線は僕の手元に固定されたまま動かない。
心臓が、ドクンと跳ねた。
彼女は、僕と同じ気持ちなのだろうか。それとも、これは彼女特有の、誰にでも優しい親愛の表現なのだろうか。
吃音のせいで、僕の言葉の選択肢は極端に少ない。「好きだ」という三文字を出すのに、どれだけの時間と勇気がいるか、彼女は知っているはずだ。
「……ぼ、……僕、は……」
喉が、ギュッと締まる。伝えたいことが多すぎて、言葉の入り口で大渋滞を起こしている。
僕が沈黙すればするほど、凪ちゃんの表情から少しずつ余裕が消えていく。
「……ごめん。変なこと言ったよね」
凪ちゃんは無理に笑って、立ち上がろうとした。その横顔が、寂しそうに夕闇に溶けそうになる。
(行かせちゃダメだ)
僕は反射的に、彼女の制服の袖を掴んだ。
驚いて振り返る凪ちゃん。僕は、大きく息を吸い込んだ。肺が痛くなるほど、冷たい秋の空気を吸い込む。
「……な、……なぎ、ちゃん」
「……うん」
「……ぼ、……僕の、……声、……あ、あげる、から」
「え……?」
「……ぶ、……文化祭、……だけじゃ、……なくて……。こ、……これからも、……ずっ、……ずっと……」
一文字ずつ。まるで、喉の奥にある硬い石を、一つ一つ吐き出すような作業。
顔は火が出るほど熱く、視界は涙でぼやけていたけれど、僕は彼女の手を離さなかった。
「……き、……君に、……僕の、……全部を、……き、……聞いて、……ほしい」
言い終えた瞬間、膝の力が抜けるほどの疲労感が襲った。
けれど、僕を待っていたのは絶望ではなかった。
凪ちゃんは、袖を掴んでいた僕の手に、自分の手を重ねた。
そして、今度は彼女の方が、言葉を詰まらせていた。
「……ずるいよ、悠真くん。そんなの、告白よりずっと重いよ」
彼女の目から、大粒の涙がこぼれ、僕の手の甲に落ちた。
凪ちゃんはそのまま、僕の胸に顔を埋めた。
「……いいよ。悠真くんの、一生分の『声』、私が全部預かる。……その代わり、一生、私の隣で、その声を磨き続けてね」
公園の街灯が、パッと灯った。
僕たちは、どちらからともなく笑い合い、そしてまた、泣いた。
言葉がうまく出ない僕と、誰かの期待に応えるために笑い続けてきた彼女。
二つの欠けたピースが、ようやく一つの形になった瞬間だった。
帰り道、僕たちは繋いだ手を離さずに歩いた。
右手の石はポケットの中で眠っている。もう、それを磨く必要はないのかもしれない。 僕の隣には、僕の沈黙さえも「愛おしい」と言ってくれる、世界でたった一人の「僕の声」がいるのだから。
「ねえ、悠真くん。明日、おはようって言うとき、何秒かかるか競争しようか」 「……じ、……じゅう、びょう、……かな」 「あはは、負けないよ!」
「付き合う」という約束を交わしてから一週間。僕の世界は、色鮮やかな静寂に包まれていた。
放課後の図書室で交わす視線。廊下ですれ違う瞬間の、わずかな指先の触れ合い。そのすべてが新しく、僕の不器用な心臓は毎日、限界近くまで跳ね上がっていた。
そして迎えた、初めての土曜日。僕たちは駅前の時計塔の下で待ち合わせをした。
(……な、……なに、……話せば……いいんだ……)
駅に向かう電車の中、僕は何度目かわからない深呼吸を繰り返した。スマホのメモ帳には、沈黙が怖くて書き出した「会話のネタ」が十個以上並んでいる。けれど、いざ彼女を前にしたら、その一文字目さえ喉に詰まって消えてしまうのではないか。そんな不安が、冬の訪れを予感させる冷たい風のように僕の首筋を撫でた
「悠真くん!」
人混みの中から、聞き慣れた、けれどいつもより少しだけ大人びたトーンの声がした。 振り返ると、そこにはベージュのベレー帽に、白いダッフルコートを着た凪ちゃんが立っていた。冬の朝の光を反射して、彼女の頬はほんのりと赤らんでいる。
「……な、……なぎ、ちゃん。お、……お待た……せ」 「ううん、私も今来たところ。……その、今日の悠真くん、すごくかっこいい。似合ってるよ、そのマフラー」
凪ちゃんが僕の首元を指差して、はにかむように笑う。
僕はただ、顔が熱くなるのを感じて「あ、……あ、……りがとう」と絞り出すのが精一杯だった。
最初に向かったのは、街の外れにある小さな水族館だった。
大きな水槽の前。青い光に包まれながら、色とりどりの魚たちがゆったりと泳いでいる。
「……あ、……あの、……海、……みたい……だね」
僕は、出会ったあの夏の海を思い出して呟いた。
「本当だね。あの時は、こんなにゆっくりお魚を見る余裕なんてなかったけど」
凪ちゃんが水槽に顔を近づける。ガラスに反射する彼女の瞳が、深海のような青を湛えていた。
「私、今でも時々思うんだ。もしあの時、悠真くんが飛び込んでくれなかったら、私の世界はあそこで真っ暗なまま終わってたんだなって。……そう思うと、今のこの時間が、夢みたいでちょっと怖くなるの」
彼女の寂しげな横顔を見て、僕は思わず、ポケットの中で震えていた手で彼女の左手を包み込んだ。
冷たいガラス越しではなく、直接伝わる彼女の温もり。
「……ゆ、……夢じゃ、……ない、よ」
僕は、一文字ずつ、石を置くように言葉を紡いだ。 「……ぼ、……僕が、……ここに、……いる。……な、……凪ちゃんも、……ここに、……いる」
凪ちゃんは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに僕の手をぎゅっと握り返してくれた。
「……うん。そうだね。悠真くんがこうして手を握ってくれてるんだもんね」
水族館を出る頃には、僕のメモ帳にあった「会話のネタ」は、一度も使われることなく消えていた。
言葉がなくても、繋いだ手の温度だけで、僕たちは多くのことを伝えていたから。
夕暮れ時、街は少しずつクリスマスのイルミネーションで彩られ始めていた。
僕たちは、雑貨屋の軒先に並んでいた「スノードーム」の前で足を止めた。
ガラスの球体の中に閉じ込められた、小さな冬の世界。
「きれい……」
凪ちゃんが見惚れている。
僕は、そのスノードームを一つ手に取り、ゆっくりと振ってみた。
銀色の雪が、中の小さな森に静かに舞い落ちる。
(……この、……雪みたいだ)
僕の吃音は、このスノードームの中の雪に似ている。
一度動き出せば、激しく舞い上がり、視界を遮り、僕の言葉を閉じ込めてしまう。
けれど、こうして誰かと一緒に、その静かな降り積もりを眺めている時間は、決して「不自由」ではない。むしろ、世界から音が消えた分だけ、隣にいる人の存在が際立つのだ。
「……これ、……か、……買っても、……いい?」
「えっ、私に?」
「……き、……記念、……に」
僕は拙い言葉で、店員さんに代金を払った。
ラッピングされた小さな箱を、凪ちゃんに手渡す。
「ありがとう、悠真くん。大事にする。私の部屋の、一番よく見える場所に置くね。……雪が止まったら、また振って、悠真くんのことを思い出すから
駅の改札前。
初デートの終わりを告げる時間がやってきた。
「……じゃ、……じゃあ、……ま、……また、……月曜日に」
「うん。……あ、でもその前に、明日電話してもいい?」
凪ちゃんが、少しだけわがままな子供のような顔をして聞いた。
「……で、……電話?」
「声を聞かなくてもいいの。繋がってるだけでいい。悠真くんの、呼吸の音とか、ページをめくる音とか、聞いてたいんだ」
僕は、自分の喉を一度撫でてから、力強く頷いた。
「……う、……うん。……ま、……待ってる」
凪ちゃんは満足そうに笑うと、背伸びをして、僕の頬に柔らかく触れるか触れないかの距離で囁いた。
「大好きだよ、悠真くん。……今日の『初デート』、百点満点だった」
彼女が改札の中へと消えていく。
僕は、夜風に吹かれながら、自分の頬に残った微かな熱を、何度も手のひらで確かめた。
帰り道。
僕はスマホのメモ帳をすべて消去した。
次のデートには、もう「ネタ」なんていらない。
僕たちの間には、言葉を超える沈黙があり、沈黙を満たす愛があるのだから。
冬の夜空には、あのスノードームの中と同じような、銀色の星が輝き始めていた。
冬休みが間近に迫った十二月の放課後。
学校中が期末テストの解放感とクリスマスの浮ついた空気に包まれる中、僕たちはいつものように、図書室の窓際の席で肩を並べていた。
外は予報通り、今シーズン初めての雪が舞い始めていた。
街灯に照らされた雪の粒は、あのスノードームの中の世界を現実へと引きずり出したかのように、静かに、そして容赦なく降り積もっていく。
「……ねえ、悠真くん。屋上、行ってみない?」
凪ちゃんが教科書を閉じ、悪戯っぽく微笑んだ。
「……え、……い、いま……から?」 「誰もいないよ。雪が積もる音、聞いてみたいんだ」
立ち入り禁止の鎖をこっそり抜けて、冷たいコンクリートの階段を上る。
屋上の扉を開けた瞬間、冷気が刃物のように僕たちの頬を撫でた。視界の先には、白く化粧を始めた街並みが、呼吸を止めたように静まり返っている。
「……き、……きれ……いだね」
吐き出した息が白く濁り、空へ溶けていく。
「本当だね。……世界に、私たち二人しかいないみたい」
凪ちゃんはフェンスに身を乗り出すようにして、空を見上げた。彼女の長い睫毛に、小さな雪の結晶が落ちては消える。その横顔があまりに儚くて、僕は無意識に彼女の肩を引き寄せた。
分厚いコート越しでも伝わってくる、彼女の華奢な体の震え。
彼女は僕の胸に頭を預け、小さく息を吐いた。
「悠真くん、私ね。君と付き合ってから、自分の声が好きになったんだよ」 「……え?」 「君の代わりに想いを言葉にするとき、私の声は、私だけのもんじゃなくなる気がして。……君の鼓動と、私の声が重なるあの感覚。あそこで初めて、私は『演じる』んじゃなくて『生きてる』って思えたの」
凪ちゃんが顔を上げ、僕をまっすぐに見つめた。
彼女の瞳は、潤んで、熱を帯びていた。
僕は、何かを言わなければと思った。
でも、喉はいつものように固く閉ざされている。
伝えたい。
君の声が僕を救ってくれたこと。
言葉を持たない僕にとって、君の存在そのものが、僕の人生で唯一の正解だということ。
「……あ、……あ……」
喉が鳴る。言葉にならない、祈りのような音。
僕は、言葉を紡ぐことを諦めた。
その代わりに、震える手で彼女の頬を包み込んだ。
冷え切った指先とは対照的に、彼女の肌は驚くほどに熱かった。
凪ちゃんは、逃げなかった。
むしろ、吸い込まれるように、ゆっくりと瞳を閉じた。
降る雪が、僕たちの周囲の音をすべて吸い込んでいく。
鼓動の音だけが、耳元で早鐘のように鳴り響く。
僕は、ゆっくりと顔を近づけた。
触れるか触れないかの距離で、彼女の甘い吐息が僕の唇を掠める。
そして。
雪の結晶が触れるよりも微かな重みで、僕たちの唇が重なった。
柔らかく、ひどく熱い感触。
それは、どんな言葉を尽くすよりも雄弁に、僕の「好き」という感情を彼女へと流し込んでいった。
一秒が永遠のように引き伸ばされる。
僕の吃音も、彼女の孤独も、この熱の前では何の意味も持たなかった。
唇を離すと、凪ちゃんは顔を真っ赤にして、視線を泳がせた。
「……今の、……返事だよ。……な、……なぎ、ちゃん」
僕の喉から、驚くほど自然に言葉がこぼれた。
吃りも、詰まりもない。
心の底から溢れた想いは、障害を飛び越えて、彼女へと届いた。
凪ちゃんは、幸せそうに泣き出しそうな顔をして、僕の胸に強く顔を埋めた。
「……バカ。……そういう時だけ、……かっこよく、喋らないでよ」
屋上の白い静寂の中で、僕たちはしばらくの間、寄り添い続けた。
降り積もる雪は、僕たちの足跡を消していくけれど。
唇に残ったあの熱さだけは、僕たちが確かにここで、互いの魂を分かち合った証として、いつまでも刻まれていた。
三学期が始まり、凍てつくような寒さが廊下を支配していたある日のことだ。
一組の教室が、朝から異様な熱気に包まれていた。
「――転校生を紹介するぞ。今日からこのクラスの一員だ」
担任に促されて教室に入ってきたのは、僕とは正反対の、冬の太陽を凝縮したような眩しい少年だった。
「一ノ瀬 湊です。……凪、久しぶりだな。迎えに来たぞ」
クラス中がどよめいた。
彼は教壇からまっすぐに、二組との境界にある廊下側の窓際、つまり僕の席の近くではなく、隣のクラスにいるはずの凪ちゃんの名を呼んだのだ。
湊は、洗練された身のこなしと、育ちの良さを感じさせる端正な顔立ちをしていた。そして何より、その声。よく通り、自信に満ち溢れた、欠け一つない完璧な「声」だった。
昼休み。事件は屋上で起きた。
いつものように僕と凪ちゃんが二人で過ごそうとしていた場所に、湊が当然のような顔で現れた。
「凪。……十年ぶりか? 相変わらず可愛いな。親父たちが言ってた『婚約』の話、覚えてるか?」
湊の言葉に、凪ちゃんの顔が青ざめる。
「……湊くん。あれは、親同士が勝手に決めた昔の話でしょ。今はもう――」
「俺は本気だったよ。ずっと海外にいたけど、お前のこと、一度も忘れたことはない」
湊は凪ちゃんの言葉を遮り、彼女の手を取ろうとした。凪ちゃんが戸惑い、一歩後ろに下がる。その背中が、僕の胸に当たった。
湊の鋭い視線が、初めて僕を捉えた。
「……で、そいつが例の『ロミオ』か。噂は聞いてるよ。吃音で、ろくに喋ることもできない、凪の『介護役』だってな」
「……な、……な……っ」
喉が、怒りで沸騰しそうだった。
けれど、感情が高ぶれば高ぶるほど、言葉は出口を見失う。僕の喉は、最悪のタイミングで僕を裏切り、無機質な喘ぎ声だけを漏らした。
「湊くん、やめて!」
凪ちゃんが僕の前に立ちはだかる。
「悠真くんは、私の大切な恋人なの。そんな風に言うのは許さない!」
湊は肩をすくめ、冷ややかな笑みを浮かべた。
「恋人?
凪、目を覚ませよ。お前はいつも『完璧』であることを求められてきただろ。そんな欠陥のある奴と一緒にいて、お前の価値が下がるのが怖くないのか?
お前に相応しいのは、お前の声を支える奴じゃない。お前の横で、堂々と愛を語れる奴だ」
湊は僕に一歩近づき、耳元で残酷に囁いた。
「お前に、凪を『守る』なんて言葉が吐けるのか? 舌も回らないくせに」
言葉の暴力が、僕の心を真っ二つに切り裂いた。
健太の悪意よりも、湊の放つ「正論のような残酷さ」の方が、僕の急所を的確に突いてくる。
僕は、凪ちゃんの肩を掴むことができなかった。湊の言う通り、僕の沈黙は、彼女の未来を縛る足枷なのではないか。そんな暗い疑念が、足元から這い上がってくる。
「……ま、……たな。凪、ゆっくり考えろよ」
湊は勝ち誇ったような背中を見せて、屋上を去っていった。
残された屋上の空気は、雪の夜よりも冷たかった。
凪ちゃんが心配そうに僕を振り返る。
「悠真くん、気にしないで。湊くんが言ったことなんて、全部デタラメだから。私は――」
「……ご、……ごめ……ん」
僕は、彼女の瞳を見ることができず、逃げるようにその場を立ち去った。
自分の不甲斐なさが、喉の奥で鉄の味がした。
石を磨いても、宝石にはなれない。
完璧な「声」を持つ湊を前にして、僕は自分の無力さに、初めて絶望していた。
湊が転校してきてから、学校の空気は一変した。
彼はその圧倒的な「声」と行動力で、またたく間にクラスの中心に居座った。かつて僕を嘲笑していた健太たちでさえ、湊の放つ都会的で洗練されたオーラには気圧され、どこか一目置いているようだった。
湊は執拗だった。
授業中、僕が指名されて言葉に詰まるたびに、彼はわざとらしくため息をつき、完璧な発音で代わりに正解を口にする。放課後、僕と凪ちゃんが二人になろうとすれば、必ずどこからか現れて「凪、ピアノのコンクール、また出るんだろ?
伴奏の相談に乗るよ」と、僕の知らない彼女の過去を引き合いに出して、彼女を連れ出そうとする。
凪ちゃんは一貫して拒絶していた。けれど、湊が提示する「凪の未来」――音楽の道や、彼女が本来いるべき華やかな世界の話――は、僕には逆立ちしても用意できないものばかりだった。
雨の降る、金曜日の放課後。
僕は下校途中の昇降口で、湊に待ち伏せされていた。凪ちゃんは先生に呼び出されて、まだ教室にいる。
「……ま、……まち……」
「待ち伏せか?
ああ、そうだ。お前と二人で話したくてね」
湊は傘も差さずに、雨の音に負けない明瞭な声で言った。
「お前、凪がピアノを辞めかけてた理由、知ってるか?」
「……え?」
「彼女は、周囲の期待に完璧に応えなきゃいけない重圧で、音が聞こえなくなるまで自分を追い詰めてたんだ。そんな彼女が今、お前と一緒にいて『楽だ』って言ってるのは、お前が自分より『下』の存在だからだよ」
湊の言葉が、冷たい雨水のように僕の首筋を伝う。
「お前と一緒にいれば、彼女は頑張らなくていい。喋れないお前の面倒を見ている間は、自分の問題から目を逸らせる。お前は彼女の『癒やし』なんかじゃない。ただの『逃げ場所』だ。……そんなので、彼女を幸せにしているつもりか?」
「……ち、……ちが……っ!」
僕は声を荒らげようとした。けれど、喉は無情にも激しく痙攣し、奇妙な呼吸音を吐き出すだけだった。
「ほら、大事な時に何も言えない。……凪は、光の中にいるべき人間なんだ。お前みたいな、湿った石の下に隠れているような奴と一緒にいちゃいけないんだよ」
湊は僕の肩を強く突き飛ばした。
濡れたアスファルトに手をつき、泥水が制服を汚す。
湊は蔑むような視線を向けると、そのまま雨の中を歩き去っていった。
僕は立ち上がることができなかった。
湊の言葉は呪いのように、僕の胸に深く突き刺さっていた。
『逃げ場所』。
僕が彼女を助けたと思っていたあの海での出来事も、文化祭での成功も、すべては彼女が「完璧な自分」から逃げるための口実だったのではないか。
「悠真くん!」
背後から凪ちゃんの声がした。彼女は傘を放り出し、泥だらけの僕に駆け寄ってきた。
「どうしたの? 転んだの?
けがは……」 「……な、……なぎ、ちゃん」
僕は彼女の差し出した手を、取ることができなかった。
彼女の綺麗な白い指先が、僕の泥まみれの手と対照的で、見ていられなかった。
「……ぼ、……僕、……は……」
「悠真くん?」
「……き、……きみの、……お、……重荷に……」
言いかけた言葉を、凪ちゃんの激しい動作が遮った。
彼女は僕の胸ぐらを掴み、そのまま無理やり僕を立ち上がらせた。
「……湊くんに、何か言われたんでしょ。あいつ、最低……!」
彼女の瞳には、今まで見たこともないような激しい怒りと、それ以上の悲しみが宿っていた。
「悠真くん、私を見て。お願い、ちゃんと私の目を見て!」
僕は、震えながら視線を上げた。
雨に濡れた彼女の顔は、ぐしゃぐしゃだった。
「私は逃げてなんかいない! 悠真くんといるとき、私は初めて『自分』でいられるの。……言葉が出なくて、一生懸命伝えようとする君の姿を見て、私も頑張らなきゃって、もう一度ピアノに向き合おうって思えたんだよ。君は私の重荷なんかじゃない。私の『勇気』なんだよ!」
彼女の声が、雨音を切り裂いて僕の耳に届く。
「……あ、……あ……」
喉が熱い。湊に言われた呪いが、彼女の言葉で少しずつ解けていく。
「湊くんは、完璧な私しか見ていない。でも悠真くんは、溺れていた私を見つけてくれた。……お願い、悠真くん。自分を信じて。私を、信じて……」
凪ちゃんは僕の胸に顔を埋め、声を上げて泣き出した。
僕は、ゆっくりと、泥だらけの腕で彼女を抱きしめた。
湊のような完璧な声は持っていない。
彼のような華やかな未来も見せてあげられない。
けれど、この腕の中にある温もりだけは、誰にも渡さない。
「……な、……なぎ、ちゃん。……ご、……ごめ……ん。……ぼ、……僕は、……に、……逃げない」
雨の中で誓った。
どれだけ傷ついても、どれだけ言葉が詰まっても。
僕は、僕自身の声で、彼女を愛し続けると。
その時、校門の影からその様子を苦々しく見つめる湊の視線に、僕はまだ気づいていなかった。
雨の日の誓いから数日。凪ちゃんは僕の前では努めて明るく振る舞っていたが、校内での湊の攻勢は、より残酷な形へと進化していた。
彼は「生徒会主催・早春のチャリティ・コンサート」を企画し、その目玉として凪ちゃんをピアノ独奏に指名した。それだけではない。湊は全校生徒の前で、堂々とこう言い放ったのだ。
「凪のピアノは、聴く者に『言葉』を届ける。ならば、その曲の合間に、彼女への想いを朗読する『語り手』が必要だ。……もちろん、それは彼女を最も理解している人間がやるべきだろう?」
湊の視線が、体育館の隅にいた僕を射抜く。
「悠真。お前が凪の隣に立つ資格があると言うなら、このコンサートで、彼女の演奏に合わせて愛の詩を朗読してみろ。……もし一度でも言葉に詰まれば、その瞬間にマイクを切る。それができないなら、凪の隣はお前に相応しくない。身を引け」
それは、あまりにも理不尽な、けれど全校生徒の好奇心を煽るには十分すぎる「決闘」の申し込みだった。
「……悠真くん、断っていいんだよ」
図書室の片隅で、凪ちゃんが僕の手を強く握りしめた。その手は、かつてないほどに震えていた。
「湊くんは最低だよ。君が一番苦しんでいる場所で、わざと恥をかかせようとしてる。私、コンサートなんて出ない。君を傷つけてまで弾きたくない!」
僕は、窓の外を見つめた。
校庭の隅に置かれた、冬の雨に打たれる石。
逃げるのは簡単だ。湊の誘いに乗らなければいい。けれど、ここで僕が黙って引き下がれば、凪ちゃんはずっと「吃音の彼氏を守るために、夢を諦めた女の子」という重荷を背負って生きていくことになる。
(……それだけは、嫌だ)
僕はポケットから、あの傷だらけの石を取り出した。
何度も何度も磨いて、今は少しだけ光を透かすようになった、僕の分身。
「……な、……なぎ、ちゃん」
僕は彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
「……ぼ、……僕、……やる、よ」
「悠真くん!?でも……」
「……こ、……声は、……ま、……負ける、けど。……き、……君への、……お、……想いは、……あ、……あいつに、……ま、……負けない」
僕は初めて、自分の意志で「地獄」へ足を踏み入れる決意をした。
吃音という、僕の人生最大の敵と。
そして、完璧な言葉を持つ湊という男と。
正面からぶつかるために。
練習の日々が始まった。
曲目は、リストの『愛の夢』。
凪ちゃんの弾く流麗なメロディの合間に、僕は自ら書いた詩を朗読する。
「あ……っ、あ、あ……」
自宅の部屋で、時計の針が刻むリズムに合わせて声を出す。
一文字目で詰まる。呼吸が止まる。喉が焼ける。
練習すればするほど、自分の無力さが浮き彫りになり、絶望が足元から這い上がってくる。
それでも、僕は辞めなかった。
台本には、びっしりと書き込みをした。
どのタイミングで息を吸うか。どの言葉なら、詰まっても「間」として成立するか。
これは「流暢に喋る」ための練習ではない。「僕の魂を、どうやって彼女の音に乗せるか」という、命がけの調律だった。
そして、コンサート当日。
講堂には、興味本位で集まった生徒たちがひしめき合っていた。
舞台裏で、湊がタキシード姿で僕の前に立った。
「用意はいいか、欠陥品。……言っておくが、マイクのスイッチは俺が握っている。一度でも無様な沈黙が続けば、即座にBGMに切り替えて、お前の存在を消してやる」
僕は何も答えなかった。ただ、凪ちゃんから贈られた、あの日と同じマフラーをきつく締め直した。
「――一組、佐々木凪。ならびに、阿部悠真。ステージへ」
アナウンスが流れ、照明が落ちる。
僕は、光り輝くグランドピアノの横に立った。
凪ちゃんがピアノの椅子に座り、僕を一度だけ見て、深く、深く頷いた。
彼女の指が、最初の音を紡ぎ出す。
天上から降ってくるような、清らかな旋律。
僕の番が来る。
全校生徒の視線が、マイクを握る僕の手の震えに集中した。
『――愛せる限り、愛せ』
僕の第一声が、スピーカーを通じて講堂に響いた。
その声は、湊のような滑らかさは微塵もなかった。
けれど、それは土の中から響く地鳴りのような、力強い意志を宿していた。
(……な、……なぎ、ちゃん。……き、……聞こえてる……?)
僕は、溺れるような感覚の中で、必死に手を伸ばした。
彼女の音という光に向かって。
凪のピアノが、穏やかな湖面に広がる波紋のように、優しく、けれど確実に講堂の空気を塗り替えていく。
僕はマイクを両手で握りしめた。手のひらは汗でじっとりと濡れ、視界はスポットライトの熱で白く霞んでいる。
『――時が来れば、……君は……墓の前に立ち、……嘆くことになるだろう』
「嘆く」の「な」の音が、喉の奥にへばりついて離れなかった。数秒の沈黙。客席から「ほら見ろ」「やっぱりダメだ」という無言の圧力が波のように押し寄せる。
舞台袖でスイッチを握る湊の指が、勝ち誇ったように動くのが見えた。
(……くっ、……あ、……)
その時、凪のピアノの音が、一瞬だけ強く、深く響いた。
それは僕を急かす音じゃない。僕の沈黙を、旋律の一部として包み込むような、慈愛に満ちた低音の響きだった。
(悠真くん、焦らないで。私がここにいるよ)
彼女の音が、そう言っている気がした。
僕は目を閉じた。観客の目も、湊の嘲笑も、すべてを意識の外へ追いやった。今、この世界には凪の音と、僕の胸の鼓動しかない。
『……だから……今、……愛せる限り……愛し、……慈しむがいい
一文字ずつ、まるで命を削り出すように言葉を置く。
吃り、詰まり、声が掠れる。けれど、その「不完全な言葉」が、凪の「完璧な音」と不思議なほどに共鳴し始めた。
流暢な朗読なら、ピアノの添え物で終わっていただろう。けれど、僕の必死な、泥臭いまでの「声」は、聴衆の心の奥底にある、誰にも言えない弱さや痛みに直接触れていった。
湊の表情が変わった。
マイクを切るチャンスはいくらでもあったはずだ。しかし、彼は動けない。今のこの空間を切り裂くことは、音楽そのものを冒涜することになると、彼自身の高い美意識が告げていた。
曲はクライマックスへと向かう。凪の指が鍵盤を駆け抜け、感情が爆発するように音が溢れ出す。
僕は最後の一節に向けて、残ったすべての力を喉に集めた。
『――君の、……心が、……他の、……誰かのために……燃えている、なら』
僕は、ピアノの椅子に座る凪を見つめた。彼女もまた、鍵盤を見ることなく、僕だけを見つめていた。
『……その、……最後の一瞬まで、……幸せで、……あれるように』
最後の一音。
ピアノの残響が天井に消えていく中、講堂は静まり返った。
誰も声を出せなかった。
そこにあったのは、完璧な言葉ではなく、不器用な魂がぶつかり合って生まれた「真実」だったから。
数秒の後、地鳴りのような拍手が沸き起こった。
文化祭の時とは違う、もっと深く、敬意の入り混じった拍手。
僕は膝から崩れ落ちそうになるのを耐え、マイクを置いた。
凪が椅子から立ち上がり、僕の元へ駆け寄ってくる。彼女は全校生徒の前であることを構わず、僕の右手を両手で固く握りしめた。
「悠真くん、届いたよ。……全部、全部届いた!」
舞台袖。
湊は、マイクのスイッチから手を離し、呆然と僕たちを見ていた。
彼の完璧な「声」は、この瞬間、僕たちの「沈黙の共鳴」に敗北したのだ。
湊はゆっくりと歩み寄り、僕の前で足を止めた。
その瞳から、あの傲慢な光は消えていた。
「……マイクを切るつもりだった。……でも、できなかった」
湊の声は、どこか寂しげで、けれど憑き物が落ちたように澄んでいた。
「言葉は、滑らかに喋るための道具じゃない。……心を運ぶためのものだったんだな。……負けたよ、阿部」
湊は僕に背を向け、そのまま舞台を降りていった。
それが、彼なりの潔い別れの挨拶だった。
コンサートが終わり、夕闇に包まれた校舎の屋上。
雪はもう止んでいた。
冷たい空気の中で、僕たちは二人、並んで街の灯りを眺めていた。
「……な、……なぎ、ちゃん」
「なあに?」
「……ぼ、……僕、……これからも、……うまく……喋れない、と……思う」
「うん」
「……で、……でも……。……ずっ、……ずっと……磨き……続ける、から」
僕はポケットから石を取り出し、彼女に手渡した。
何度も磨かれ、角が取れ、今や月明かりを優しく反射するようになった、ただの石。
「……こ、……これ、……あげる」
凪はその石を宝物のように胸に抱き、僕の肩に頭を乗せた。
「ありがとう。……ねえ、悠真くん。言葉に詰まったら、いつでも止まっていいんだよ。その『間』には、私への想いがいっぱい詰まってるって、もう知ってるから」
僕の喉の奥にある「塊」は、まだそこにある。
けれど、それはもう、僕を溺れさせる重りではなかった。
大切な人に想いを届けるための、世界でたった一つの、僕だけの楽器だった。
遠くで響く街の喧騒。
僕たちは、言葉にならない温もりの中で、いつまでも寄り添い続けていた。




