漢ガイドライン
煙草のことでは、ドストエフスキーが述べた話がいつも思い出されます。シベリアに十七年の刑で流されていたアナーキストがいた。ある日煙草の支給がとめられる。するとたちまち彼は帝政にひれ伏して思想も何もかも捨てると転向宣言をしてしまう。若い頃これを読んだときは意味がわかりませんでした。
――エミール・シオラン
「――うん、うん、りょりょりょの了! めっちゃ楽しみやって! ――カナマルキにもゆうとくな〜、ほにゃほにゃ……」
俺は彼女と遅めの朝食を食べている。場所は、こいつの家の真向かいにある洋麺屋万吉――和風パスタの店だ。
俺は上下チャンピオンの黒のセットアップ。こいつは、無名の水色のパーカーにもこもことしたクリーム色のショートパンツを履いている。フードを被っているせいで、よくわからない色(こいつ曰くカシスピンク)の髪が胸の両側に垂れ下がっている様は、さしずめネオ魔道士といった感じだ。
俺たちが店に溶け込んでいるかといえば、もちろん答えは否だ。今日は平日の昼間。客は年寄りと子供連れしかいない。
そんな中、こいつは誰憚ることなく、まるで自分の部屋にいるかのごとく大声で電話をしていた。ちなみに、カナマルキというのは、こいつの親友の金丸由紀のことだ。
「誰や?」
「ん? ああ、この前ミナミでナンパされた人。めっちゃイケメンで、DJやってんねん。インスタフォロワー20万人やで! ――――ほら、ヤバない? ほんで、明後日めっちゃ高いお寿司食べさせてくれんねんて」
「そうなんか」
念のためにもう一度だけ言っておく。
俺は今、彼女と遅めの朝食を食べている――
⬜︎
俺は男らしい。
紆余曲折を経て自分の性別に気づいたという意味ではない。俺は男っぽい男だという意味だ。
こんなことを自称すると、嘘っぽいと思われるだろうから、いくつか客観的事実を羅列する。
小学校から高校まで、俺はずっと学校で一番背が高かった。187センチだ。
部活はずっと野球部で六年間丸刈り。高三の春の選抜にはスタメンで出場した。キャッチャーだ。
一人飯では、味噌汁代わりにうどんかラーメンを選び、メインは常に丼ものを選ぶ。特盛だ。時には二杯だ。
教師からはなぜか頼りにされ、部活では意味もなく後輩から畏れられ、廊下を歩けばモーセよろしく同級生が俺に道を開ける。
プロのスカウトはひとつもなかったが、なぜか漁師(俺が住んでいるのは港町ではない)と地元のプロレス団体からのスカウトはあった。
担任で五十代の国語教師からは「お前は髭がない江田島平八みたいやな」と言われたことがある。聞いたことのない人物だったのでスマホで調べたら本当に似ていて度肝を抜かれた。一番よく言われるのは『髭のない坊主の張飛』だ。
高二のときには、他校の不良に絡まれてた奴を助けてやり、「僕もあなたみたいな男になりたいです!」と真剣に言われたことがある。ちなみに、そいつは一つ上の先輩だった。
以上の例はあくまでも一部に過ぎない。
客観的に見て俺が男らしい理由なんていうのは、数え上げたらキリがないだろう。
そんな俺だが、最近では自分の男らしさを疑っている。なんなら、女々しいのではないかとさえ思っている。
これまで俺は、自分の男らしさを確信していた。あらゆることに男らしさの行動規範――漢ガイドラインとでも呼称しよう――があり、それに則って生きてきたのだ。
が、このガイドラインのおかげで、俺の人生は斯くも生き難い仕上がりになってしまっている。
漢ガイドラインには、女とツレ――特に女関係に対する制約が多いからだ。
ちなみに、俺は自分の容姿が優れていると思ったことは一度もない。ただ、どんな見た目にもある一定の需要があるらしく、スポーツマン特需も合わさってか、俺は何度か告白されたことがある。
そのなかには、三組で一番可愛いと言われていた中野アリスも含まれていた。
中野は愛玩小動物のような見た目のおっとりとした女子だ。その上、オッパイも大きかったのでかなりモテていた。個人的に目を引かれたのは、上等な丹波産の黒豆みたいなその澄んだ瞳だった(うちの両親の田舎は丹波だ)。
今、中野が俺の彼女なのかと思ってしまった人には悪いが、中野は俺の彼女ではない。俺はただ一言「無理だ」と言って中野をフッた。
中野の友達や俺の友達からも、「何様のつもりだ」「武将顔!」などと散々批難されたが、俺は漢ガイドラインに則ったまでだ。
――惚れた女以外には優しくすべからず。
恐らく何かの影響だとは思うが、いつコレが漢ガイドラインに加えられたのかはわからない。ただ、気づいたときには、コレは俺の中に存在したのだ。
ただ可愛いくてオッパイが大きいからというだけの理由で、好きでもない中野と付き合うのは、コレに抵触した。故に、俺は中野に1ミリの期待も持たせることなくフッたのだ。
こういう調子で生きてきたから、畢竟、俺には彼女が出来ず、18年間童貞だった。
童貞とか言ってもどうせ陽キャのリア充だったんだろと思う奴がいるのなら、それははっきりと間違いだと伝えておく。
俺はこんなところに小説を書くほどのオタクだ。俺の中ではどんなジャンルであれ小説を書いてるなんて奴は、アニメイトに足しげく通っている奴よりもオタクだ(これはあくまで俺個人の見解だがな)。そして、アニメイトに足しげく通うのは漢ガイドライン違反だが、小説を書くのはセーフだ。ただし、小説内で情景描写や心情描写などを事細かく情感たっぷりに書くのは漢ガイドライン違反になる。
わかってもらえただろうか?
漢ガイドラインとは、明文化などされてもいない、極めて曖昧かつしかし拘束力を持った、俺だけに適用される行動規範なのである。
さて、そんな男らしくもオタク童貞だった俺が、自分の男らしさに疑念を抱き始めたのは一年前――高三の夏の出会いがきっかけだった。
うちの部伝統の後輩にキャッチャーミットを継承する儀式を終えた俺は、何も言わずにただその後輩の肩をぽんっと叩いて野球部を去った(この振る舞いが漢ガイドラインに則っているのは言うまでもないだろう)。
その帰りに、高校も部活も地元も同じツレ二人――カズキとタカヤンとやよい軒で飯を食うことになった。
「お前はええよなカシコやから大学行けて」
「お前らがアホ過ぎんねん」
カズキが別に羨ましがってもいないのにそんなことを言うと、タカヤンもどうでもよさそうにスマホを見ながら答えた。
カズキはなんでも思いついたことを口にする。要は発言に中身がない。タカヤンはどんなことでも思いつきを口にしない。だから、タカヤンの発言には中身がある。
漢ガイドラインに則ると、カズキはアウト、タカヤンはセーフだ。
「おい、一括りにすんな。アントンより考えてるっちゅーねん」
アントンというのは、俺――蟻坂大和のことだ。アントとジャイアントのダブルミーニング。最後の「ン」は恐らく詠嘆のようなものだろう。小学生が考えたにしては気が利いている。
「アントンマジでどーするん? 就職か?」
高三の夏だというのに、俺は明確な進路を決めていなかった。くどいようだが、ここでもまた漢ガイドラインが適用される。
――男たるもの将来を危惧すべからず。
これは将来のことを何も考えるなという意味ではない。無暗矢鱈と将来の心配をして、やりたくもないことをするなという意味だ。
俺には将来やりたいことがある――そう、小説家になることだ。
しかし、ここでもまた漢ガイドラインだ。
――自分の欲するところをおいそれと他人に語らず。
つまり、小説家になる見通しが微塵も立っていない俺は、このガイドラインにより、おいそれと自分の夢を語ることが出来ないのだ。
「せやな。就職するかもしれへんな」
曖昧に答えたのは、嘘をつくのが漢ガイドライン違反だからだ。
「ここまで来たらすごいな。めっちゃ適当やん、お前」
カズキは自分のことを棚上げする癖がある。
「ほんでお前ら祭りどーするん?」
「行く一択やろ。白崎、来るんかな~」
その頃、俺たちの地元恒例の夏祭りが数日後に控えていた。
地元で仲のいい奴らは、違う高校でもそれなりに会っていたから、カズキの言う白崎が女なのは言うまでもないだろう(念のために伝えておくが、白崎はこの話には一切登場しない)。
「俺も行くつもりや」
俺は純粋に祭りが好きだ。祭りの雰囲気を感じるとわくわくする。
「ほんま。ほな一緒に――ッ」
そう言いかけたタカヤンが入り口を見て口をつぐむ。何事かと、俺とカズキもつられてそっちを見た。
そこにいたのは、アマガエルみたいな髪色の女だった。髪が全部緑というわけではない。耳の辺りからは黒くなっており、しかしところどころ緑になっている――そんな髪色だった(これがビリー・アイリッシュなる外人歌手を模していたと、俺が知るのはもっと後になってからだ)。
オーバーサイズのロックテーシャツから脚が生えているみたいな格好。つまり、その女は一見ティーシャツしか着てないように見えた。剥き出しの脚はエロ白く、胴より長いのが一目でわかった。
「やっば……めっちゃ可愛いやん」
カズキはそう呟いたが、俺はどこがやねんと思った。
「どこの子やろ。私服やし」
俺もタカヤンと同じことを思った。こんな目立つ女を地元で見るのは初めてだった。
女は俺たちが見ているのに気づくと、ずかずかとこっちに歩いてきた。
「めっちゃ見てくるし。なになに~、どこ高なん?」
女は黒いぼこぼこしたレザーのナップサックを下ろしながら、まるで待ち合わせしていたかのごとく俺の横に躊躇いなく腰を下ろした。俺はデカいから、テーブル席に三人のときは、隣がいつも空いているのだ。
近くで見ると若干両目が離れてはいるが、その女は確かに整った顔立ちをしていた。ただ、ヘアスタイルが異常過ぎて、そのポテンシャルの半分も発揮出来ていないのは明白だった。
「澄高やで。なあなあ、中学どこなん?」
カズキはノリがいい。
高校ではなく中学を訊いたのは、地元がどこかを知るためだったのだろう。
「当ててみー。せやけどもしハズれたら奢ってや」
「ええよええよ。……よっしゃわかった、三中や」
三中はこの辺で一番柄が悪い。
「ぶーッ! ハズレな。はい、奢って!」
「まじで~、最悪や~……ほんでどこ中なん?」
「住中って――言うても知らんやろ!」
女はそうツッコみながら、カズキが渡す千円を受け取り、
「昨日、引っ越して来てんもん」
そう言って食券を買いに行った。
「なあ、めっちゃよくない、あの娘?」
カズキはいやらしい視線を女の脚に向けながら訊いてきたが、どこがやねんと俺はまた思った。バイトをしてないカズキの千円を騙し取った変な髪色の女。会って数分ではあるが、この女に魅力的な要素は皆無だった。
「――せやな。可愛いな」
俺は思わずタカヤンを凝視してしまった。
タカヤンが口に出して言ったということは、思いつきで言ったのではないということだ。だからといって、俺はこのことをさほど気にしていなかった。タカヤン趣味悪ッと思った程度だ。
食券を買った女は、再び俺の横に腰を下ろすと、俺の顔をジッと見つめてきた。そして――
「すご! 絶対ちんちんもデカいやん」
そう言って、いきなり俺の股間に手を置いてきた。言っておくが、この時点で、俺はこいつと一言も言葉を交わしていない。
初対面の女にいきなり股間を触られた俺は――鷹揚にうなずいた(この首肯には複数の漢ガイドラインが適用されていたのは言うまでもないだろう)。
これが俺の彼女、松木羽衣との出会いだった。
羽衣は大阪の中心部から引っ越してきた。俺たちが出会った日の前の日だ。だから、あの日あいつはまったく知らない土地で、一瞬で俺たちに溶け込んだということになる。おまけに、初対面の男の股間をいきなり握ったのだ。冷静に考えると、ソーシャルスキルの高さが陽気な外人のそれを遥かに上回るレベルだ。
「うち羽衣、はごろもって書いてうい――よろ。あんたは?」
「蟻坂大和や。よろしくな」
背筋を伸ばし腕組みして座る巨漢。その股間を掴みながら自己紹介してくる女。そして、困惑する食券を取りに来た店員。
これが正統派ラブストーリーなら、俺たち二人にスポットライトが当たるところだろうが、もはやどこぞの部族の挨拶にしか見えない。
「羽衣ちゃん、エッロ、エッロ!」
カズキの未調理の言葉を受け、羽衣はニコッと笑い、
「せやで、うちエロいねん」
と、なんら憚ることなく言った。
それからカズキとタカヤンの名前を訊き出した羽衣は、突然テーブルから身を乗り出してタカヤンの頭を撫でた。
「めっちゃ気持ちいい! タカヤンが一番頭の形ええなぁ」
タカヤンは恥ずかしそうに、しかしまんざらでもなさそうに撫でられるがままになっていた。こんなタカヤンを見るのは初めてだった。
それからは羽衣の独壇場だった。
しかし、自分のことは昨日引っ越してきたこと、学校には通ってないことしか語らなかった。では、何を話していたかと言うと――
「――えーっ、三人とも童貞なん! 高校三年間何してたん! ……あ、そか、野球やんな」
「そうそう。ほんで羽衣ちゃんは? 何人くらいやったん?」
もはやカズキの軽薄さが霞むほど、羽衣は軽薄だった。
「えー、わからん……三十? う~ん、五十人くらいちゃうかなー」
少し迷った末に、やった男の数が一気に二十人増える。そう、俺の彼女は出会ったときから超ビッチだったのだ。
この出会いが、俺を――いや、俺たちを変えることになったのは言うまでもないだろう。
□
あの日、俺たちから連絡先を聞いた羽衣はその日の内にもうタカヤンと連絡を取り合い、祭りのメンバーに加わっていた。
ここで語るべきは祭りに行く前の出来事であり、祭りで俺たちがどう過ごしたかについては割愛する。
「なんでタカヤンやねん」
待ち合わせ場所のバス停に来るやいなや、カズキが心のままにタカヤンを責めた。
「連絡してくんねやったら絶対俺やろ」
「知らんやん、そんなん」
今ならわかるが、羽衣はタカヤンが俺たちのリーダー的存在であることを見抜いていたに違いない――
これはごく最近の話だが、羽衣と窓際の席で飯を食っていたとき、三十代と五十代ぐらいのスーツ姿の男二人が歩いているのを見て、「あの若い方が上やで」と言うから、店を出て二人を駐車場まで追うというわけのわからない展開があった。
俺にはどう見ても五十代の男の方が上司という感じがした。だが結果は、おっさんが後部座席のドアを開けて、若い方が乗り込んだ。それを見て羽衣は「な、言うたやろ」と不敵に笑ったのだ。
閑話休題。
「タカヤン、羽衣ちゃん狙ってん?」
「はあ? なんでそうなんねん。まだ一回しか会うてへんのに」
そのとき、爆音でヒップホップをかけた車が走ってきた。真っ黒のエルグランドだ。
その車は俺たちの前で停車し、知らない女が助手席側から声をかけてきた――幕末の攘夷派の侍に見つかったら、にべもなく切り捨てられそうな女だった。
「羽衣のツレ君たちやろー、乗ってー」
これがカナマルキこと金丸由紀だった。
羽衣は運転席に乗っていた。
「アントンはデカいから一番後ろなッ!」
羽衣は音楽に負けない声で叫んだ。
「マジでッ! 羽衣ちゃん免持ちなんや!」
「せやで! はい、乗ってのって」
このエルグランドは、羽衣の新しい親父さんのものだ。それをこいつは勝手に乗ってきていた。
車内は音楽のボリュームがデカ過ぎて、会話もままならない状態。前の席では、俺たちなぞ存在してないかのごとく会話する奇抜な見た目の女二人。
俺たち三人は人数で勝っており、もろ地元にいるにも関わらず、一瞬でアウェー感を味わわされた。
「場所わかるん!?」
「――ええっ!?」
カズキが大声で話しかけて、ようやく羽衣はボリュームを下げた。
「なんて?」
「祭りの場所わかるん?」
「あ……わから~ん――ってウケる! ヤバない、うち?」
羽衣はそう言って、ゲラゲラ笑い出した。
「何しに来てんってなあ?」
「羽衣ちゃん天然やーん。あ、どうも俺カズキ」
カズキはカナマルキに手を差し出した。何も考えないカズキは時々一番頼りになる。
「あ、どもども、カナマルキって呼んで」
「金丸由紀やねん、名前」
羽衣の補足がなければ、俺はこの女を、流暢な日本語を話す留学生か何かだと思っていたかもしれない。この女は、長い金髪をオールバックでまとめ、でかい金のフープピアスをしており、おまけに外人みたいな濃い顔にどぎつい化粧をしていたからだ――まあ、後に判明するのだが、その相貌は沖縄由来のものだった。
ちなみに、こいつらは俺たちと同じく小学校からの付き合いで、話し方や仕草なんかもめちゃくちゃ似ている。
「なあなあ、ここめっちゃ田舎やな! 普段、何して遊んでるん?」
この一言で、俺はこの外人かぶれの馬鹿女が一瞬で嫌いになった。こいつは塗りたくった粉っぽい目で俺たちを値踏みしながら、そう言ったのだ。明らかな嘲笑の色を孕んだ視線を俺のツレに向けただけでなく、あまつさえ俺たちの地元を馬鹿にしたのだ。
「おう、お前、馬鹿にしとんか、こら、おお?」
後部座席からの俺の怒声に、車内が静まり返る。
「お前、俺らんこと馬鹿にしとんか言うとんじゃ。都会から来たゆーて、いちびっとったら叩き回すぞ、こら」
――ツレが馬鹿にされたらたとえ女が相手でも黙すべからず。
「おんどれ、こら。女やから許される思うてんなよ!」
「え、嘘……これマジギレ?」
カナマルキは、しばらくミスターポポみたいな顔をして固まっていたが、ようやく事態を飲み込んだらしく、隣の羽衣にそう言った。
「うちに訊くんそれ……なータカヤン、アントンのこれマジなん?」
羽衣にそう言われたタカヤンが、俺の方を振り向いた、
「アントン、なんでそんな怒っとんねん」
俺の知る限り、タカヤンが初めて中身のない事を口にした。タカヤンは絶対カナマルキが馬鹿にしてたのに気づいていたはずだ。なら、長い付き合いのタカヤンが、俺がキレてる理由に考えが及ばないはずがない。
「せやって、めちゃくちゃ空気悪なったやんけ」
事ここに及ぶと、中身のないカズキの言葉が一番中身があるように聞こえるから不思議だ。
こうなってくると、全員ムカついてくる。
「やかまわしいわ、ボケが。その女俺らんこと馬鹿にしとんねんぞ。お前ら気付いとるやろーが!」
痛いところを突かれたのだろう、二人はだんまりを決め込んだ。
そのとき、羽衣がいきなり道路わきに車を停車させ、運転席から降りて後ろのドアを開けた。
「ああん!? お前こそうちのツレなんやと思ってんねん! ヒガモ入ってんちゃうぞ!」
羽衣はそう怒鳴り散らすと、カズキを押しのけシートを倒し、ドアの縁に手を掛けてから、最後部座席にいる俺に蹴りを入れてきた。
「デッカい! 図体! してる! くせに! 器! ちっちゃいんじゃ!」
言葉の数だけ蹴りを入れられ、俺は初めて直面したその状況に驚愕し、ただただそれを受け入れることしかできなかった。
「羽衣! もうええって! ごめんごめん、うちの言い方が悪かったんやんな!」
カナマルキがそう声を張ると、羽衣は、はあはあと肩で息をしながら、まるで親の仇でも見るような双眸で俺を睨みつけてきた。
そう、このとき不覚にも、俺はこのT-falみたいな女を美しいと思ったのだ。蹴られた痛みなぞはまったくなく、友達のためにブチ切れ息を切らしている女に見惚れてしまった。
「……まあ、ええわ……カナマルキが、そう、言うん、やったら」
肩を上下させながらそう言って、羽衣はまた運転席に戻った。
ここからずっと気まずくなると思ったのなら、それはこの二人のパリピを理解していない。
「あんたまたT-falなってたで――ごめんな~、この子ほんますぐキレんねん!」
そう言って、カナマルキはさっきとは別人みたいな屈託のない笑顔で俺たちに微笑みかけてきた。
こいつらには、後腐れみたいなものがまったくないのだ。
「ごっめーん! うち、めっちゃ興奮してたしっ! ウケるっ!」
羽衣も、運転席に着くや、まるで引きずってる様子もなくゲラ笑いし出した。
後で言われたのだが、このときカナマルキは、俺が友達のためにキレたのを知って、好印象を持ったのだそうだ。こいつらも、俺たち同様に地元のツレは大事にしていたとういことだ。
「ぶははははっ! 羽衣ちゃんマジで輩っ! えっぐぅ!」
カズキは中身は乏しいが、いつでもムードを明るくしてくれる奴なのだ。
「アントンも謝ったら? もうええんちゃうか?」
俺はただの短気な田舎者かもしれない。だが、あのときカナマルキは俺たちのことを小馬鹿にしていたと今でも確信している。
――こっちに非がなければ謝るべからず。
その場を収めるためだけに、謝るのはコレに違反する。そのとき俺は、自分の非を認めていたわけではなかったから謝る道理はどこにもなかった。だが、気づかずに落ちていた初恋の魔力に当てられていたのか、
「おう、こっちもすまんかったな」
と謝ってしまった。
これが、これから続くことになる漢ガイドライン違反の一発目だった。
⬜︎
断っておくが、俺は女に蹴られて喜ぶ特殊性癖の持ち主ではない。自分でもよくわかっていないが、羽衣を美しく思ったのは、絵画に対するそれに似ていると思う。後述するが、あいつはその見た目もさることながら、中身も酷く芸術的な女なのだ。
羽衣には常識と貞操観念が著しく欠如していることについても後に詳しく触れるが、先に知っておいてもらいたいのは、あの祭りの日に、カズキはカナマルキとタカヤンは羽衣とセックスをしたということだ。
カズキはその発言と同じく性に対する観念も軽かったらしく、俺やタカヤンみたいにビッチという泥沼にハマることはなかった。ただ、あいつのヤッた女リストの一ページ目に最初の正の字の横棒が引かれただけだ。
タカヤンは羽衣に惚れた。最初の女ということもあるのだろうが、タカヤンは俺同様あいつの在り方を美しいと思ったのだ。直接聞いたわけではないが、タカヤンとはお互いパンツにうんこが付いてた頃からの付き合いだから、俺にはわかる。
この時点で、俺は二つの漢ガイドラインの制約を受けることになった。
――ツレよりも女を優先すべからず。
――惚れた女はなんとしてでも己のものとすべし。
つまり、二律背反というやつである。
俺は生まれて初めて精神的板挟み状態に陥った。それまでは、漢ガイドラインが被ってもより効力の強いものが優先されたのだが、先にも述べた通り、これは俺の初恋でありしかもツレと惚れた女が被るという状況。どうにも優先順位がつけられなかったのだ。
そこで、俺は無意識に新たな漢ガイドラインを生み出した。
――男子たるもの日々を悶々として過ごすべからず。
コレは常々俺のどこかに存在していたのだが、小説家というものは悶々とすることも必要であるという、至って根拠の乏しい小説家ガイドラインなる別枠の行動規範が、その存在を頑なに認めようとしなかったのだ。
コレの登場により、俺は精神的危機を乗り越えた――要は、考えるのを放棄したのだ。
この世界の仕組みは不思議なもので、欲しがるのを止めた途端、求めていたものの方からやって来ることがある。
『――なあ、アントンってうちのこと好きやろ?』
羽衣にこう言われたとき、俺はこいつへの想いを放棄していた。だからといって、タカヤンを応援していたというわけでもない。ただ、自分をそういうことの蚊帳の外に置いていた。
『なんでそう思うねん』
この日、羽衣は俺に初めて直接連絡してきた。
『え~、なんとなくやけど』
こいつは生まれてきたときに、固有スキルか天賦を授かったに違いない。
『――なあ、うちもアントンのこと好きかも』
俺は付き合っている今でさえ、なぜこいつが俺のことが好きなのかを知らない。なぜなら、そういうことを訊くのは漢ガイドライン違反だからだ。とはいえ、こいつは「かも」と言ったのだから、今現在ですらこいつが俺のことを好きだという保証はどこにもない。
『お前タカヤンと付きおうてんのとちゃうんか?』
『え、タカヤンッ? ないない! 三回ヤッただけやん』
こいつはこういう女なのだと俺はこの段になって理解した。だからといって、そのことが俺にとってのこいつの魅力を損なうことはなかった。
結句、俺の精神状態は再びスタートラインに戻った。とはいえ、今回は惚れた女からのアプローチである。
――惚れた女はなんとしてでも己のものとすべし!
『ほな、俺と付き合えや』
俺はいつもよりうるさいこの漢ガイドラインに従った。
『うん、ええよ〜。今どこおるん?』
こうして、電話越しで付き合うことになった俺たちは、その日の内に俺の家でヤった。そして事後、あいつは俺の上に覆い被さるようにして、耳元でこう囁いてきた。
「やっぱ、デカかったにゃ」
こいつは裸のときはめちゃくちゃ甘えてくる。とにかく、全身全霊で求愛行動をしてくるのだ。
俺は返事もせず余韻に浸っていた――訳ではない。
――ツレよりも女を優先すべからず。
俺はタカヤンのことを考えていた。
羽衣と付き合うにしろ、まずはタカヤンに一言断りを入れるべきだった。どう考えても、それが筋だった。
俺は惚れた女に「好きかも」と言われ舞い上がってしまい、意識的にこの漢ガイドラインを無視した。
さらに、彼女いない歴=年齢童貞だった俺には、女と付き合ってからの漢ガイドラインと、行為の最中の漢ガイドラインが存在していなかった。
はっきり言って、俺の初めてのセックスはそれほど良いものとは言えなかった。なぜなら、タカヤンのことが頭を過っていた上に、新たな漢ガイドラインが次々と制定されていたからだ。
――そう簡単に果てるべからず。
――声を出すべからず。
――舐めてと言われても舐めるべからず。
――相手が痛がることを致すべからず。
――自分勝手になるべからず…………etc
俺は自分の極端な性格を呪った。同時に、自分自身を自由にしていた何かが、俺の中から失われた。
それを罪悪感と呼ぶには虫が良すぎる。
俺は確信犯だったのだ。
タカヤンに謝れば済むという訳ではない。あいつは俺が謝ったところで、別に責めはしなかっただろう。それどころか、祝福してくれたかもしれない。だが、俺は間違いなくその表情や口調から本音を拾い上げてしまっていただろう。
タカヤンは優しい嘘をつくときでも、中身が漏れるからだ。
こうして羽衣と付き合ったものの、俺は自分の犯した罪を持て余す日々を送ることとなった。
タカヤンとカズキには俺から言うからと念を押し、羽衣には付き合っていることを黙ってもらっていた(こんなことをしている時点で女々しい)にも関わらず、俺はぐだぐだと漢ガイドラインを弄りまわし、男らしさを維持しながらも、誰も傷つかない都合の良い方法を探していた。
だが、時間というのはあらゆることを風化させるらしく、俺は次第に優勢になってくる漢ガイドラインに身を任せるようになっていた。
――こっちに非がなければ謝るべからず。
――男子たるもの日々を悶々として過ごすべからず。
我ながらふてぶてしい。一度破った規範に、まだ効力があると信じていたとは。
漢ガイドラインをないがしろにする度に、それがカズキの発言みたいに空洞化していくのが俺にはわかっていた。
もはやこの段になると、自分から言い出せなくなっていた。
あの頃の俺は、万引きが悪いとわかっていながらやり続け、いつか捕まることを無意識下で願っている有閑主婦のような状態だったのかもしれない。
しかし、俺の彼女はそんな鬱屈としたややこしい事情を、持ち前のチート能力で木っ端微塵に吹き飛ばした。
あいつは俺と付き合ってからも、タカヤンとヤっていたのだ。そして、口止めしたにも関わらず、付き合っていることを喋っていた。
だが、タカヤンは俺に一言もその話はしてこなかった。
つまり、タカヤンが俺の彼女と知った上で羽衣と関係を持ったことにより、俺たちは同じ十字架を背負い、俺は罪悪感から解放されたのだ。
これぞ松木羽衣であり、俺の愛する女なのである。
⬜︎
ここまで読んで、この女最悪だなと思った奴は正常だ。俺とタカヤンがおかしいのだ。しかし、俺とタカヤンの友情がこいつのせいで変わったかというと、それはない。俺たちは羽衣を通じて大人の階段を三段飛ばしで駆け上がり、お互い少し大人になっただけだ。
とはいえ、嫉妬や独占欲がなかったのかと問われれば――そういう感情を持つのは漢ガイドライン違反ではあるが――俺は正直にイエスと答える。確認はしていないが、タカヤンも同じだと思う。
では、なぜ俺たちは、よくあるドロドロとした痴情のもつれを回避できたのか?
それを説明するにはまず、松木羽衣についてもっと知ってもらう必要がある――
羽衣は、大阪の中心部にある汚い街で生まれ育った。
物心ついたときにはもう、父親は刑務所に入っており、母親と二人で暮らしていた。
母親は深夜の仕事(時間的なことではなく夜の仕事よりもさらに深いという意味だ)をしており、夕食はいつもチャイルド・ケア・センターの世話になっていたという。
あいつが小学校三年のときに、父親が刑務所から出てきた。理由は知らないが、あいつは父親のことが死ぬほど嫌いだったらしく、小学生の頃に100 万回は家出したらしい。
羽衣が中学に上がったときに両親が正式に離婚し、それからは比較的穏やかな生活に戻った。
ここまでなら、まあ、大変そうではあるが、よくある話に聞こえるだろう――だが、あいつがすごいのはここからだ。
それは羽衣が中一の秋だった。
昼間だったので母親は在宅しており、あいつは学校なんてほとんど行ってなかったから家でゲームをしていた。
アパートのチャイムが鳴り、母親がドアを開けた。立っていたの警察だった。しかも、私服。つまりは刑事だ。
居間からそれが警察だと察した羽衣は、急いでベランダに逃げた。それを見た刑事たちが居間に上がり込んできた。そして、あいつは――三階建てのアパートのベランダから飛んだ。
俺はこの話を聞いたとき、ありありとその様子が想像できた。
あいつはベランダの手すりを蹴り宙に舞ったとき、絶対に笑っていたはずだ。そして、両腕を翼みたいにして広げていただろう。
怪しげな薬をやっていたのではない。あいつは、ドラッグはもちろん煙草にすら絶対に手を出さない。俺が保証する。
『ほんまに飛べると思ってん、うち』
これこそが羽衣を象徴している。
こいつには、自然科学の法則が通じないのだ。それを有難がって、神羅万象の裏付けだと信じている俺たちのような凡俗は、こいつの一挙手一投足に間違った解釈を与えてしまうのだ。
とはいえ、あいつが重力から解放されているかといえば、答えは否だ。
肉体という檻にいる限り、通じなくとも、それから逃れることは出来ない。
見事、灌木に落下したあいつはなぜか右手首を骨折しただけで済んだのだが、重力だけでなく社会の仕組みからも逃れられなかった。
窃盗、傷害、強盗傷害、恐喝、小学生の犯罪ではあり得ないような罪名の数々を、あいつは家出していた期間に犯していた。
被害総額は500万円。
間違いなく単独犯ではないことから、警察の取り調べは執拗だった。しかし、あいつは自分一人でやったと言い切り、そのまま女子少年院に送られた。
『ほんまポリあり得へん――未だにどうやってうちがやったってわかったんか謎やわ』
小学生の羽衣がどんな仲間たちと連んでいたのかは知らないが、あいつがそのことにほとんど触れなかったことから察するに、そいつらはもうあいつにとって重要ではなくなっているということだ(おそらくカナマルキも関わっていたのは想像に難くない)。
あいつにとって重要だったのは、少年院で更生出来たということだ。
『うち、あっこでひらがなとカタカナちゃんと書けるようになったからな。あッ! あと、九九も!』
信じられるだろうか?
識字率の高い先進国この日本において、ひらがなをちゃんと書けない中学生が存在したのである。
あいつは未だに漢字は、自分の名前とごくごく簡単なものしか書けない。だが、字と九九はあいつにとって、更生の第一歩に過ぎなかった。
『やっぱダンス知ったんが一番やったわ。うちの人生変えてくれてん』
そう、松木羽衣はダンサーなのだ。
知る人ぞ知る新進気鋭のコンテンポラリーダンサー。自分で撮影したYOUTUBE動画の再生回数は100万回を超えている。そして最近、そこそこ有名なミュージシャンのMVにも出演を果たした。
『いつか外タレと共演すんねん』
これが俺の彼女の夢だ。
高校卒業間近のある日、俺とタカヤンとカズキはカナマルキに連れられ、あいつの舞台を見に行ったことがある。
正直、まったく意味も良さもわからなかった。
「すっげえ、ほんまにすっげえ!」
唯一、カズキだけが感動し涙まで流していた。俺は初めてカズキを羨ましいと思った。
「なあ、アントン……羽衣と付き合ってんねやろ?」
観覧中に小声でタカヤンが俺に訊いてきた。
「おう、せや。タカヤンもたまにあいつとヤッてるらしいな」
俺たちは、舞台で意味不明な舞を披露している羽衣を見た。
「…………ぶほっ」
先に、噴き出したのはタカヤンだった。俺もそれにつられてしまい、そこからはもう笑いが止まらなくなった。
俺たちの友情の上で謎のダンスを踊る女。
シーンっとしていたこともさらに追い打ちをかけた。
「ちょっ、あんたら何笑ってるん。しーっ!」
焦っているカナマルキを見たらもう止まらない。
見かねた関係者に外に連れ出された俺たちは、それからも笑い続けた。たまにどちらかが、羽衣の踊りの真似をして、延々とその笑いを持続させた。
そう、俺たちは所詮ただの馬鹿高校生だったのだ。
一人の女を通して兄弟になる前からの兄弟なのだ。
でも、相手が羽衣だったからこういう結末になったのは間違いない――
あいつは俺たち二人の上で、絶妙なバランスで踊ってくれていたのだ。
公演後、俺たちがそれぞれ羽衣から本気の蹴りを喰らったのは、言うまでもないだろう。
□
もしかして、今でもタカヤンと女を共有しているのかと誤解されそうだから、ちゃんと書いておく。
あいつはもうタカヤンとはヤッていない。タカヤンは九州の大学に進学したからだ。
そもそも、俺とタカヤンが羽衣の上で共存できたのは、かなり特殊な事例だと思う。
田舎者の童貞二人とチート持ちビッチだから可能だっただけだ。
言わずもがなだろうが、別にあいつはタカヤンとだけヤっていたわけではない。
あいつの男関係を全て把握しているわけではないが、長時間返信がないときはだいたいヤってる真っ最中だ。
――惚れた女をみだりに疑うべからず。
残念ながら、これは俺の被害妄想ではないのだ。
ただ男と一緒にいるだけなら、あいつはなんら悪びれることなく折り電も返信もしてくる。
そういう女だ。
それでも、俺はあいつのそういう面を見ないようにしていた節がある。
どこぞの地中海の国の出来事であるかのように、どこか達観していたのだ。
しかし、俺の中で決定的な事件はちゃんと起こった――
高校を卒業した俺は、結局、進学も就職もせずに、バイトをしながらだらだらと本を読む生活をしていた。
羽衣は元々高校には通っていなかったが、その分交友関係が広く、俺たちの地元と大阪市内を行ったり来たりする生活をしていた。
でも、俺たちの関係はちゃんと続いた。
あいつが俺のバイト先に迎えにくることもあるし、俺があいつの家に行くこともあった。
最低でも週二回は会っていた。
五月のある日曜日、印刷会社に就職したカズキと地元をブラブラしていた。
すると、見慣れたエルグランドが俺たちの横を通り過ぎてから、すぐ先にあるコンビニで停車した。
車から出て来たのは、首まで刺青の入ったやんちゃそうな奴と羽衣だった。
あいつは、楽しげにその男の腕に自分の腕を絡めた。
「うおっ――――ヤバいやん」
カズキですら言葉を選んだのがわかった。
あいつが他の男と関係を持っているのはもちろん知ってはいたが、直に目にするのはそれが初めてだった。
俺の中で燻っていた感情が頭をもたげた。
瞬時にその男をぶちのめすシュミレーションをし、それを実行すべく俺は走り出した。
負ける要素はない。俺は喧嘩で負けたことがないからだ。あんな格好だけの奴はワンパンだ、そう思った。
二人が店内に入るところだった。
「アントン! ――あっかーん!!!」
羽衣が俺に気づき、タックルするみたいに俺の腰目掛けて走ってきた。
――惚れた女を傷つけるな。
俺は足を止めた。どすんっと羽衣が衝突してきた。
「どうしたん? 誰なん、そいつ?」
クソ野郎が口を開いた。
もうこいつは殺そうと思った。
「お願いやって……やめて」
羽衣は泣いていた。
こいつの涙を見るのは初めてではなかったが、このときみたいな悲痛な声を聞いたのは初めてだった。
――惚れた女を泣かせるな。
俺は奥歯を鳴らし、羽衣の手をそっとどけてから、踵を返した。頭の中では、数えきれない漢ガイドラインが戻ってあの男をを殺せと仄めかしていた。
――惚れた女を泣かせるな。
俺は至上の漢ガイドラインに従った。
「アントン! あいつ、俺が代わりにシバいてきたろっか?」
カズキは喧嘩なんてしたことはない。内心ビビってるのもわかった。
だが、こういうときには、中身のない言葉にこそ意味があることを俺は知った。
「ええんや。行こうや」
その夜、羽衣から電話がかかってきた。
あいつは、あの男との関係を話してきた。
忘れているかもしれないから伝えておくが、これは別に白状ではない。
こいつは出会ったときからビッチで、俺にタカヤンとやっていること、タカヤンに俺とやっていることを包み隠さず話していただけでなく、他の男の話も平気で俺にしてきていたのだ。
問題だったのは、俺があれを目撃したことだった――いや、そもそも俺たちが付き合っていること自体だった。
『――なんでキレたん?』
こいつはこういう女なのだ。
『なんかムカついたんじゃ』
『そんなん言ってたらムカつき死にすんで、あんた』
俺はそれ以上そのことについて話すのを拒否した。
――男たるもの嫉妬すべからず。
俺がことのき、「もう他の男と会うなや」という一言を口に出来ていたなら、俺たちはどうなっていたのだろうか?
そんな女々しい言葉を口にして、俺は俺でいられたのだろうか?
そう、結局、男ガイドラインとは、俺が俺であるためのやせ我慢の寄せ集めなのだ。
こいつがこういう女だとわかっていて付き合った俺に、こいつの行動を制限する権限などない。
こいつと付き合い続ける限り、今まで貫いてきた信念は、コンドームみたいに使い捨ての運命にある。
所詮モブな俺がどうあがこうとも、チート持ちのあいつには太刀打ち出来ないのだ。
俺がもう、どうしようもなく松木羽衣に惚れているのは、言うまでもないだろう。
□
さて、長々と書いてきたが、本題に入る。
俺は、もう羽衣と別れようと思っている。
理由は、これ以上こいつと付き合っていたら、俺は来年にはスカートを履いているかもしれないと思ったからだ(別に、男がスカートを履くことを否定しているのではない。俺自身がスカートを履くことを否定しているのだ。改めて伝えておくが、漢ガイドラインは俺にだけ適用される行動規範だ)。
もちろん、今でも俺は松木羽衣に惚れている。だが、形骸化していく漢ガイドラインたちの断末魔の叫びを、もはや無視出来なくなったのだ。
俺は腹を決めた。
問題は、別れを切り出すにしても、ただ「別れよう」と告げるのではだめだという点だ。
――惚れた女を傷つけるな。
中野を鎧袖一触にしたのとは真逆の理由だ。
俺はちゃんと自分の気持ち、どうしてこうなったかを、真摯に伝える必要があると考えた。
あいつは言葉には出さないが、恐らく俺の将来を心配している。目標を持って邁進している人間にとって、俺の生活は無為に映るのは仕方がないことなのだ。
――惚れた女を心配させるな。
そう、俺がこれを書いているのは、羽衣に見せるためなのである。
そして、お前にはダンスがあるように、俺にもコレがあるというような文章で別れる理由を説明して、きれいさっぱり別れたい。
俺はそう考えた。
――俺たちはパスタを食い終わり、羽衣はイケメンDJとの電話を終えた。
頃合いを見計らい、俺はノースフェイスのナップサックから折りたたんだA4用紙の束を取り出した。
ここに投稿するために修正する前の文章である。
「これ読んでくれへんか」
「え、何!? ラブレター? 字多ッ! 真っ黒やん!」
あいつは、それをばっちい物でも掴むみたいに中指と親指で摘まみ上げた。
「ええから、読んでくれや」
「あかん……無理やわ」
羽衣は悲痛な面持ちで呟く。
「なんでやねん!」
「――――漢字多すぎ……やし、長すぎ。三行ぐらいにまとめてや」
「…………」
「あんた、こんなんラインで送ってきたら秒でブロックやで! キモいって!」
「…………」
「てか、お腹いっぱいなったし、もっかい家でやろ。あと三時間くらい誰も帰ってけーへんし」
あれから半年経った現在、俺は未だに別れを切り出せずにいる――そんなことは、言うまでもないだろう。