81話 水底に沈む街
「ぐぅ……」
扉を開け外に出ると、微かに青みがかった石レンガ造りの街並が目に入る。
街全体に薄い青色のライトが当てられているかのよう。時折、ゆらゆらと差し込んだ光が揺れる。
違和感はそれだけではない。
外に出た瞬間から体が重い。
体を動かす度に、ぐっと体が重たくなるのを感じた。
まるで水底を歩いているかのように、一歩踏み出すにも重い抵抗を感じる。
目の前を黒々とした魚の群れが横切っていった。
周囲を見れば、至る所に魚群が泳いでいる。
まるで、街が水の底に沈んでしまったかのような錯覚すら覚えるその光景に、わたしはとにかく困惑するしかなかった。
その時、ふいに地面に影が落ちた。
光が遮られ、景色が群青に染まる。
「……?」
わたしは怪訝に思い空を見上げると、そこには他の魚とは比べ物にならないくらいにとてつもなく巨大な魚が泳いでいた。
「くじら……?」
その姿は前に飼い主さまに図鑑で見せてもらった鯨というとっても大きな魚の姿によく似ていたのだ。
その鯨の形をしたモノは、まるで空を覆い隠さんとばかりに大きな体をしていた。
小さなわたし達なんて簡単に丸呑みにしてしまえる。
建物何個分かなんて数えるのもめんどくさい。
とにかく巨大なのだ。
そんなものが空中を悠々と泳いでいる。
魅入られたように、わたしは空に浮くその巨体を見つめる。
ぞわぞわと皮膚が震えた。
耳がピクピクと警戒している。
背中に氷の塊を入れられたみたいに、見ているだけでゾクリとする。
あれは、全然レベルが違うものなのだと、わたしのネコ科としての本能が一生懸命警告を鳴らしていた。
「……」
ゴクリと唾を飲み、冷や汗を拭う。
でも、大丈夫。相手はこちらに気づいていない。
ただ、悠々と泳いでいるだけで、特別敵意のようなものは感じない。
なら、通り過ぎるのを待てば……。
わたしが息を殺しその鯨を見つめていると、ガチャリと音がして雑貨屋の扉が開いた。
「……っ!?」
音がした方を見て、わたしは目を見張る。
ショコラ?
そこには、まるで夢遊病患者のようなふらふらとした足取りでショコラが店の中から出てきていたのだ。
ショコラは通りに出てくると、特に何も気にする様子もなく通りの中央へと歩いてくる。
丁度、魚達が多く泳いでいる場所へととてとてとした足取りで向かってくる。
「そんな……、何でっ?! ショコラ、出てきちゃ駄目だって。早く建物の中に戻って……っ」
「……」
わたしは慌てて駆け寄り声を掛けるが、わたしの声はショコラの耳には全く届いていないようだった。
声を掛けたこちらに一瞥も向けることなく、ショコラは恍惚な表情を浮かべながら手を前に伸ばす。
「ショコラっ!」
これは……、さっきのおじさんの時と全く同じだ。
このままでは、ショコラも魚に食べられてしまう。
先ほどのおじさんが魚達に虫食いにされ、そして喜びの表情を残して跡形もなく消え去ってしまった光景が脳裏にフラッシュバックする。
ショコラが差し出した人差し指に吸い寄せられるように、一匹の魚が寄ってくる。
クスリと微笑むと、ショコラは食べてくださいと誘うように、人差し指の先を揺らす。
「だめ……」
わたしは唇を噛む。でも、もし、ここで攻撃したら――。
逡巡。
引き寄せられた魚が、ショコラの人差し指を啄ばもうと、大きく口を開ける。
わたしは瞼を閉じる。はぁはぁと息が荒くなっていく。
もし、ここで攻撃したらどうなってしまうかわからない。
勝てるかどうかもわからない。
でも……。
フルフルと震える手が、猫村正の柄へと向かっていく。
そして、
「駄目って言ってるでしょ!!」
魚がショコラを食べようとした瞬間、わたしは猫村正を一気に引き抜くとその魚の胴体を一刀両断に斬り捨てた。
斬られた魚は頭と尾に分断され、魔力の粒子となって霧散した。
この魚……、魔法で作られたものだったんだ。
ピィィィン――。
まるで音が聞こえるかというくらいに、一瞬にして空気が張り詰めた。
わたしが魔魚の一匹を切りつけた事で、瞬く間に周囲に濃厚な殺気が充満していった。
周囲を泳いでいた魔魚達は、巨大な魚群となってわたし達の周囲の旋回を始め、夥しい数の敵意〈ヘイト〉がわたしに向けられているのが肌を伝わってくる。
「はぁはぁ……」
もはや敵意を受けているだけで息が上がる。心臓がドクドクとどんどん速く脈打ってくる。
その時だった。
わたし達の周りを旋回していた魔魚達が蜘蛛の子を散らすように、ぱっと距離を取る。代わりに空を泳いでいた巨大な鯨は降りてきて、わたしの前を塞ぐように立ち塞がったのだ。
「――っ!」
空気が震え、押しつぶされるかのような圧力がわたしの体に襲い掛かる。
わたしは刀を構えなおすと、キッと睨みつけた。
もう、逃げられない。戦うしかないっ。
覚悟を決めた。
「~るすょじ、いはでここ、つやなんけ、き? いなか、きがんせお、んしいせは、えまおなぜ~」
「?」
濁ったノイズのような声が耳朶を叩く。
何を言っているのか分からない。そもそも言葉なのかもわからない。
血のような赤黒い目を、鈍く光らせると、黒々とした巨大な鯨は大きく口を開けた。
口の中には亡者の手のような無数の触手が、もぞもぞと蠢いていた。
触手の先端は口の裂けた魚の頭となっていて、ノコギリのようなギザギザとした鋭利な歯が獲物に喰らいつかんと、開閉を繰り返している。
「ショコラ……」
わたしはチラリとすがるような目で横のショコラを見る。
瞳孔の開ききった虚ろな目が、まるでわたしを侮蔑するかのように、無表情に見つめ返してくる。
素直に食べられてしまった方が幸せなのに。
その目はそう言っているようにも見える。
「……っ」
わたしは耐え切れずに目を伏せた。
「ショコラ、わたしの後ろを離れないでね……」
搾り出すように言うと、ショコラの体をわたしの後ろに引いた。
「さあ、来なさい化け物。猫と魚どっちが食物連鎖で上にいるか教えてあげるわ!」
啖呵と共に魔魚の一匹を切り捨てると、鯨の化け物が「――ッ!」と声にもならないような咆哮を上げ、口の中に蠢く触手が一斉に牙を剥き、恐るべき速度で襲い掛かってきた。




