59話 そりゃ、胃袋に決まってるじゃん
「えっ、うそっ?!」
わたしはばっと飛び跳ねるように、その場を離れると注意深く床を観察する。
「やだやだっ、ゴキブリは駄目なのっ。どこ、どこにいるの?!」
「嘘だよ」
「え、嘘……なの」
わたしは放心したように、ペタンと座り込む。
ミケはその様子をみてニヤニヤと笑みを浮かべながら、
「こいつ前に、ゴキブリほいほいに手を突っ込んで取れなくなった事があってさ。その中には蠢く沢山のGが……」
「いやぁっ、思い出させないでっ」
「それ以来ゴキブリがトラウマなんだよ。……なっ?」
「なっ? じゃないわよ」
涙眼でキッとミケを睨みつける。
「ほんとに心臓が止まるかと思った……はぁ」
わたしは肺に溜まった空気を吐き出すと、座ったまま鞘を引き寄せると猫村正の刀身を戻す。
「ごめん、ユーフラテス戦うのはまた今度にしてもらってもいい? わたしどっと疲れちゃった」
「あ、はい。もちろんです」
歯切れよく返事を返すユーフラテスの様子を見上げながら、わたしはほっと胸を撫で下ろす。
よかった。もしかしたら気を悪くさせちゃったんじゃないかと思ったけど、そうでもないっぽい。
もしかしたらユーフラテスはそこまで乗り気じゃなかったのかも。だったら、なんで斬りかかってきたんだって話だけど。まあ、どうでもいいか。
わたしがそんな事を考えていると、洗い物を終えたショコラとチグリスの二人がキッチンから出てきた。
「みんなで何しているの?」
只ならぬ空気を感じ取ったのか、チグリスがキョトンとして訊ねる。
「ミケがゴキブリが出たっていうんだもんっ」
わたしが言うと、チグリスとショコラざわつく。
「ネコミミゴキブリが出たの!?」
「ゴキブリにも猫耳がついてるんですよね。ショコラも最初見たときどうすればいいのかわかりませんでした」
「ショコラちゃんは甘いわね。猫耳がついていてもゴキはゴキ。ぶち殺し安定よ。で、どこかしら?」
チグリスが目をキラリと光らせる。
「ゴキブリは出ていませんよ。嘘を既成事実化するのはやめてください。風評被害に繋がりますから」
やんわりとした口調で、ナイルが釘を刺す。
「え、嘘なの?」
「こいつが、ゴキブリ超苦手だからちょっとからかっただけだよ」
チグリスが呆気に取られたようにミケを見ると、ミケは床に座り込んでいるわたしを指差して言った。
むぅ、とわたしは睨み返す。
「それはさすがに酷いですよ。ショコラもゴキブリは苦手ですから」
「というか、ゴキブリが得意な猫はいないでしょう」
ショコラが苦笑し、チグリスが同意する。
ミケはそんな二人にニヤリと含みを持たせた笑みを向けると、
「それはどうだろうか? こんな話をしよう。とある飼い主が夜中に自分の飼い猫とゴキブリが戦っているのを目撃したんだ。ゴキブリが大嫌いだった飼い主は飼い猫とゴキブリを部屋に閉じ込めて、ゴキブリを駆除するために殺虫剤を取りに行った。そして殺虫剤を手に戻ってくると、部屋にゴキブリの姿はなく飼い猫しかいなかったんだ。飼い主はおかしいなと思って飼い猫を抱き上げて床を見てみると、床にはゴキブリの足だけが数本落ちていたそうな――」
「いやぁっ!」
わたしは耳を押さえると、叫び声をあげる。
「まるでホラーですね。消えたゴキブリはどこに行ってしまったんでしょう」
「……」
首を傾げるショコラに、え? という表情が集まる。
「つまりな――」
「もう、いいからっ。それ以上言ったらほんとに怒るよっ!」
補足説明をしようとするミケの言葉を遮るように、わたしは涙眼で鋭い声を飛ばす。
「え、でもショコラ気になります」
「ショコラ、世の中には知らない方がいい事もあるの。わかって……」
搾り出すような声でわたしはショコラに言った。
「でも……」
「わかって」
怨念の篭った声の圧力に負けて、ショコラが怯えながらコクコクと頷く。
気まずい空気が流れる。
「えっと、ところで私たち寝る前にもう一度お風呂に入りなおそうって話していたんだけど、ルナちゃんはどうする?」
取り繕うように笑みを作ると、チグリスが思い出したようにわたしに声を掛けた。
「え、あ、うん。もちろん入る」
わたしは立ち上がると、スカートをパンパンと叩いて埃を払い、二人の元まで駆け寄った。
「ほら、早く行こ?」
そう言って二人を急かす。
「……べーだ」
ちらりとミケを振り返り舌を出すと、二人の背中を押しながら足早にバーを去っていった。
「姦しいという字を考えた奴は天才だな……」
風呂から上がりパジャマ姿ではしゃぎながら階段を上っていくルナ達を見送ると、ポツリとミケが呟いた。
「ふふふっ」
ナイルはそんなミケの呟きを聞きとめると、クスリと笑い彼の前にほんの少しブランデーが注がれたグラスを置いた。
「少量のアルコールはよい眠りの一助になりますよ。幼子達も眠りついてしまったことですし」
「自分が飲みたいんじゃないのか」
「いえいえ」
そう言いながらもまんざらではないようだった。この男、慇懃な態度をとっているが実の所かなり茶目っ気がありそうだ。きっとネット上では「だお」とか言いながら草を生やしまくってるに違いない。いや、それはさすがに妄想が過ぎるか……。
ミケはニヤリと笑みを向ける。
「ありがたくもらうよ」
ミケはグラスの中の琥珀色の液体を回すと口に含む。
舌の上にほのかな甘みが広がり、心地よい香りが鼻を抜けていく。
その様子を満足気に眺めると、ナイルはさらに、二つのグラスにブランデーを注ぐと一つを自分の前へ、そしてもう一つをミケの隣に神妙な面持ちで座っている少年の前へと置いた。
「君もどうぞ」
「どうも……」
目の前に置かれた琥珀色の液体をユーフラテスが見つめる。
そして意を決したように、隣に座るミケに話しかけた。
「あの、先ほどはありがとうございました」
ミケはグラスに口をつけながら、ユーフラテスを一瞥すると、
「いや別に」
グラスをテーブルに置いた後、改めて顔を向け少し厳しい顔をつくる。
「油断してる相手にいきなり斬りかかるのはな。さすがに俺もちょっとヒヤっとしたぞ。結果的になんともなくてよかったが、相手が相手なら大事になってた」
「すみません……」
申し訳なさそうに、ユーフラテスは頭を垂れた。
「ルナが戦闘バカな性格で助かったな。俺だったらちょっとだけ喰らって賠償金を請求して搾り取れるだけ搾り取っていた所だ」
そう言うとミケはユーフラテスに、ふっと笑顔を作る。
ユーフラテスは恐縮したように体を縮こまらせた。
「でも、助かりました。あの一刀でわかりました。僕では彼女の相手は無理です」
「なんだ、やっぱり戦〈や〉るきだったのか。なら止めない方がよかったか?」
「いえ、そんなつもりはなかったんですけど……」
ユーフラテスは「うーん、なんでだろ」と唸る。
おそらくは状態異常に掛かりやすい体質なのだろうなとミケは当たりをつけていた。
その手の魔法に対する耐性には少なからず個人差がある。ただ、魔法は気からという言葉もあるように、大体の場合は気の持ちようでカバーできる幅に留まっているものだ。
ミケはそんなユーフラテスに流し目を向けると、
「妖刀に不用意に触るからそうなる」
「やっぱりあれ妖刀なんですか?」
「ああ」
ユーフラテスが訊ねるのに、ミケが頷く。
「妖刀も妖刀。しかも、かなり強力な……な」
ミケの言葉にユーフラテスが息を呑む。そして、微かに逡巡を見せると、
「そんな危なそうな剣を、ルナさんに持たせてていいんですか?」
ミケに言を進めた。
「んー」
ミケは胡乱な目をユーフラテスに向けると、肩を竦めた。
「今の所実害らしい実害もないし。本人も気にしてないし、まあ、いいんじゃないか」
「適当ですね。そんなんでいいんですか……」
ユーフラテスが眉を顰めるのに、ミケは軽く目を瞑り脱力すると、
「そんなんでいいんです。というかな、一応俺もあの刀について調べてはみたんだよ。でも、よくわからなかった。あの刀は間違いなくエクスカリニャンやレバンニャンと同格の伝説級の武具なのは間違いないんだが、それに付き物の使い手の逸話のようなものがまるで存在しない。つまり、あの刀はルナ以前に使い手がいなかったという事だ。あの手の剣は、剣と使い手が揃った時に初めて完成するものだと聞いたことがある。ルナが鞘から引き抜いた瞬間にあの刀はやっと完成をみたんだ。いわばルナの半身が刀に入っているようなもの。だからむしろ持たしておいた方がいいんだよ」
「失礼しました。意外と考えてるんですね」
「意外とは余計だけどな」
ユーフラテスが引き下がるのに、ミケは笑みを返すとグラスに口をつけた。
「彼女の事随分気にかけてらっしゃっているんですね。意外とは余計ですよね」
ナイルが茶化すような声音と共に、グラスの脚を持つと中のブランデーを愉快そうに揺らす。
「いや、仲間なんだから普通だろ」
「それだけなんでしょうか」
「な、なんだよ。にやつくな気持ち悪いぞ」
ナイルの視線を避けるように、ミケはグラスを一気にあおると席を立ち上がった。
話がおかしな方向に行きそうな気配を瞬時に察したが故の防衛的行動である。
「ごちそうさま。俺も風呂入って寝るわ」
「あ、わかっていると思いますが三階は現在使用禁止ですよ。ユーフラテスの部屋に泊めてもらってください」
席に離れたミケの後ろ姿に、ナイルが声を掛けると「わかってるよ」という風に軽く手を上げミケは扉の奥の廊下へと去っていった。




