111話 チグリスをお手伝い
そして深夜。
宵も深まり、お月さまも下り坂を駆け下り始めた頃。わたしはふと目が覚めた。
「お水……」
喉が渇いたので水を飲もうと、一階に下りていくとぼんやりと灯りが点いている事に気がつく。
何だろうと思ってみると、そこには椅子に座って何か作業をしている髪をチグリスの姿があった。
いつもは二つに束ねている髪は解いており、ネグリジェの上に羽織ものをしている。
「チグリス? 何しているの? こんな時間に」
わたしが目を擦りながら声を掛けると、チグリスは「あ……」と少し驚いた顔でわたしを見てから、
「ちょっとね。眠れなくて気晴らしに」
そう言うと、罰が悪そうにはにかんだ。
彼女の前のテーブルの上にはペーパーナプキンで出来たお花が何個も並べられていた。ショコラの言っていたペパナプフラワーというやつだ。
「これ、わたし達が買ってきたやつだよね。へぇ、すごい。こんな綺麗になるんだ」
わたしは紙で出来た花のひとつを手に取ると、感心しながらマジマジと見る。それは紙で出来ているとは思わないほどに、ちゃんと花になっていた。
わたしが、紙で出来た花をじぃっと品評していると、
「ところでルナちゃん。何かしに来たんじゃないの?」
照れたように髪を揺らしながらチグリスが言った。
わたしは、はっとして花をテーブルに戻す。
そうだった。
「ちょっと喉が渇いちゃって、水でも飲もうかと」
「水なら冷蔵庫の中にお水の壜が入ってるから、それを飲んだらいいわ」
「うん、ありがと」
「場所分かる?」
「冷蔵庫くらいわかるわよ。扉を開けて冷たかったら冷蔵庫よね」
わたしが揚々と答えると、チグリスはふっと目を細める。
「間違ってお酒を飲んじゃ駄目よ」
「大丈夫大丈夫。蓋を開けてお酒の匂いがしたらお酒よね」
「ずいぶんと完璧な理論武装ね」
「まあね」
チグリスがぐっと親指を立てるのに、照れ笑いを返すとキッチンへと行く。
チグリスも心配性だよね。と苦笑を浮かべながら物色する。
さすがにわたしでも冷蔵庫と普通の棚を間違えたりしないし、お水とお酒を間違えたりしない。
そもそも、わたしは冷蔵庫がどういうものか知ってるし、毎日水ばっかり飲んでたんだから、水の味や匂いに関してはチグリスよりも絶対詳しいと思う。
冷蔵庫にしたってわたしはプロである。なにしろ、わたしがまだ小さな子猫で実家に居た時、弟のアルと一緒に冷蔵庫の中にいたずらで入ってハムと一緒に冷蔵された事まであるくらいなんだから。
あの時、ミルクお姉ちゃんとクルミお姉ちゃんとミルモお姉ちゃんが鳴き喚いて、ママとママの飼い主さまに伝えてくれなかったら、おそらくわたし達はあそこで死んでただろうなぁ。
などと昔の事を思い出しながら、わたしはキッチンにある家にあったものよりも幾分大きなおそらく業務用の冷蔵庫を開けて、中から一本の壜を取り出す。
一応蓋を開けると匂いを嗅いでみる、澄んだお水の匂いがした。
壜から透明なコップに水をトクトクと注ぐと、わたしはそれを一気に飲み干す。
冷たい感触が喉を通り過ぎていくのがわかる。
喉越しが気持てよくて、なんだが気分がすっきりした。
わたしはもう一杯コップに水を注ぐと、ちょびちょびと口をつけながらキッチンからバーに戻ってくる。
テーブルでは相変わらずチグリスがペーパーナプキンを使った花の飾りを量産していた。
わたしはチグリスの隣に腰掛けると、その様子を見つめる。
しばらくはコップに口をつけながらチグリスの手元を眺めていたが、さすがになんだか手持ち無沙汰になってしまって声を掛けた。
「ねぇ、眠れないのはわかるけど、こんな真夜中にやらなくてもいいんじゃない?」
チグリスの作業は作り終わったら、また次に手を出して、それが出来上がったらまた次の花に取り掛かるといった具合でキリが見えない。
夜長に眠れなくて気晴らしにというにしてはあまりにがっつりし過ぎているように感じた。
「ちゃんと寝て、明日やった方が……」
おせっかいかも知れないと思いながらも、さすがにこのまま放っておいたら徹夜してしまいそうな勢いだったので言わずにはいられない。
わたしがそう言うと、チグリスは手を止めてわたしを見る。
「チグリス?」
それがあまりにも困った顔だったので、わたしはぎょっとしてしまう。
「どうかした?」
わたしが訊ねると、チグリスは逡巡するように視線を泳がせてから言いづらそうに口を開いた。
「実は、キヌちゃんが帰ってくる日って今日なのよね」
「えっ、今日なの!?」
わたしは驚いて飲もうと口をつけていたコップから思わず口を離す。
今は深夜なので真っ暗だが、もうすでに時計の針は零時を過ぎている為に日付が変わっていた。
「じゃあ、日が昇ったらそのキヌちゃんって猫が帰ってきちゃうって事?」
「どうかしらね。キヌちゃんは忙しいから、何時になるかは少し分からないんだけど」
もしかしたら、日が暮れてかもしれない。と付け足すようにチグリスは言ったが、それでも、もうほとんど時間が残ってないのは確かだった。
「本当は、昨日の内に全部終わらせるつもりだったんだけどね。街があんな事になってしまったから出来なかったの」
「そっか」
確かに昨日のあの状態ではしょうがない。
「じゃあ、みんな起こそっか?」
みんなでやった方が早いし。
そう思い席を立とうとすると、チグリスが慌ててブンブンと首を横に振った。
「いいのいいの。私だけでなんとかなるから」
「そう?」
「後はリースを完成させるだけだもの」
そう言うと、チグリスはまた一つ花を完成させてテーブルに置いた。
「ならいいけど」
わたしは浮かせかけた腰を再び着席させる。
まあ、リースだけならなんとかなるかもしれない。
とはいえ――。
わたしは部屋を見回す。
煌びやかなに室内が飾り付けられており、もう十分なように感じる。
仮に今チグリスが作っているリースが完成しなかったとしても、一応の格好はついているのだから徹夜までする必要はやっぱりないように思えた。
わたしがそう思い訊ねると、チグリスはこれまた罰が悪そうに睫を長くした。
言葉を零すように、訥々とした声。
「ただの自己満足だから。本当はもうとっくに飾りつけは終わっていて、それをズルズルと終わらせないでいるのは私のせいなの」
チグリスは顔を上げ続ける。
「でも、それも今日でおしまい。このパーティが終わったら、きっと私は自分の気持ちに一つの整理をつけられるような、そんな気がするの。だから悔いを残したくないってズルズル……。ユーフラテスもナイルもそんな私の我侭につき合わせてしまっている。本当はただ落ち着かないからってだけなのにね」
「チグリス……」
力なく笑うチグリスに、わたしはどう言ったらいいのか分からずに困惑してしまう。
そうして少し躊躇ってから、わたしはテーブルに置かれたペーパーナプキンの一枚を手に取った。
「ルナちゃん?」
不思議そうな顔をするチグリスに、
「チグリス、わたしにもペパナプフラワーの作り方教えてくれない? わたしも手伝う」
「え、でも悪いわ」
「ううん、わたしもチグリスの我侭につき合わせて」
わたしは眉尻を下げながら笑みを作ると、
「それになんだか目も覚めちゃったし、このままベッドに入っても気持ちよく眠れなそうだもん」
そう言って、悪戯っぽく人差し指で頬を掻く。
「でも……」
「駄目って言ったら、布団の中で羊の代わりに、チグリスが一匹、チグリスが二匹って数えながら寝てやるんだから」
「それは嫌かも」
チグリスは苦笑し、瞼を伏せる。
「ありがとう。それじゃあ手伝ってもらおうかしら」
そして礼の言葉を言うと、チグリスはわたしの手を取った。




