魔術師リティカ・ランベルジュは怒っていた
定例議会を終え議場から出てきた魔術局長リティカ・ランベルジュは、怒り狂っていた。
「――だからっ、あの筋肉ヒゲじじぃとは話したくなかったのっ!」
靴音高く踵を鳴らすリティカの前で、人波が割れていく。塵一つ落とさぬよう整えられた宮殿の廊下を、怒りも露わに歩く魔術局長の姿は、確実に人目を引いている。
進行方向を一心に睨み付けるまなざしは悪鬼のようだが、実は年頃の少女である。それも、どちらかと言えば「美」がつくタイプの。
肩で切り揃えた金髪は興奮で逆立ち、青い瞳は高温の炎の如く燃え上がっていた。顔立ちが整っている分、怒りは見ている者に直接的に伝わり、結果として周囲からは人がはけていく。
「わたしが若いからって馬鹿にしてるのよ、あのじじぃ!」
妙齢と言うにはまだもう少し年月が必要だ。だが、十八歳なのだから、大人として遇されてもおかしくないだろう。少なくとも本人はそのように考えている。
もちろん、少女だからと甘く見て、怒り狂っているときの彼女に近づく愚か者はいない。腐っても魔術局長なのである。その腕は折り紙つきだ。
だから、彼女の傍にはただ一人、後方を追う副官の少年がいるばかりである。
「き、局長……その、もう少しゆっくり……」
「言うに事欠いて、『年相応に娘らしく遊んでいれば良いでしょうに』!? あーもう、いーやーみーっ!」
「リティカ……っさま! お願いですから……!」
背後から聞こえる哀願の声に、ようやくリティカは後ろを振り返った。立ち止まることを許された副官が荒い息をつく。
「はあ、局長ったら、気が短いんだから……」
「怒らせるあっちが悪いのよ」
「ええまあ、局長の気持ちも分かりますけどね。先ほどの議場での騎士団長さまの言いようは、あからさまに僕らを軽んずるものでしたし」
副官の言葉に、リティカは再びその瞳に怒りを宿した。
話題に出た相手の顔を、思い出したためである。
王国の興りからその歴史を共にする神聖騎士団。その騎士団長アグライネンは、押し出しの良い中年男性である。年相応に白髪の混じったロマンスグレイの髪を後ろに撫でつけ、同じ色の豊かな髭をきちりと整えている。紫がかった瞳と皺の目立ち始めた目元は穏やかな雰囲気を漂わせているが、ひとたび彼が剣を抜けば、その剣気だけで岩も砕けるとの噂だ。
そんなアグライネン率いる神聖騎士団と、リティカの属する魔術局は、結成以来ずっと対立している。
魔術そのものの歴史の浅さによって、どうしても軽んじられがちなためである。
魔術は、近年になって開発されたばかりの技術だ。
世界に流れる魔素をかき集め、魔法陣を描いて陣の中に規則的に整列させることで、特定の効力を及ぼすことができる。
炎を吹き、風をおこし、水を呼ぶ――場合によっては、敵対する存在を攻撃することもできる。
つまり、遠隔攻撃が可能である。
近接攻撃を中心とする神聖騎士団は、自分たちの存在価値を奪われたように感じ魔術局に敵愾心を抱いている――というのが、魔術の行使とそれによる王国の防衛を職務とする魔術局の見解である。
女王直々の命令で作った魔術局だが、魔術自体と比例し、局の歴史も浅い。
リティカのような少女が初代局長を務めているのも、そのせいである。リティカと同等以上の能力を持つ魔術師が、彼女より年長にはいなかったからだ。年上になるほど術師が少ないのは、魔術局が現在抱える問題の一つである。
「アグライネンのヒゲじじぃったら、分からず屋なのよ。魔術局だって女王陛下の役に立ってる。それを、子どものお遊びみたいに言って!」
「そうですね。僕も、局長に助けていただかなければ、隣国との戦争で死んでいたと思います」
副官がしみじみと呟き、前方のリティカをじっと見つめた。その目には、かつて己を救った少女に対する深い感謝と尊敬が浮かんでいるように見える。
その手の感情の表明に慣れていないリティカは、顔を赤くし、慌てて視線を逸らした。
「いえ、そんな昔のことはどうでもいいの! 大事なのは、これから筋肉ヒゲじじぃをどうやって凹ませてやろうかってこと――きゃっ!?」
思わず地団太を踏んだ勢いで、リティカが足を滑らせる。その腰を、背中側からそっと大きな手が寄り添って支えた。
「――誰が筋肉ヒゲじじぃですか?」
頭上から降ってきた低い声に、中途半端な体勢のリティカは、びくりと背を震わせて顔を上げる。
この上なく丁重なのに、深く響く強めのバリトン。そろそろと見上げた先では、冷ややかな紫の瞳がリティカを見下ろしていた。
たった今話題にしていた人物――神聖騎士団長、アグライネンである。
「……あ、アグライネン団、長……いえあの、これは」
「いやあレディ、議会ぶりですね。こんなところで油を売っている余裕があるとは、うらやましい。魔術局などという歴史のない組織は、それだけ暇なのでしょうな」
「こんの――油を売っているのはあんたもでしょうが、アグライネン!」
リティカの怒りには、若さゆえの瞬発力がある。つい今、助けて貰った礼は、既に頭から消え失せている。
放っておけば、文字通り噛みついてきそうなリティカから、アグライネンは素早く距離をとった。
そろそろ不惑を迎えようかという年だが、素早さはまだまだ衰えない。筋肉ヒゲじじぃなどという嬉しくないあだ名は、その体力に由来するものである。そのあだ名を使っているのは、リティカ一人だけではあるが。
「残念ながら、私の方はそうそう時間がありませんのでね。ここにいるのも仕事ですよ、レディ」
優雅な物腰は、伝統と儀礼を大切にする神聖騎士ならではだ。
だが、彼に「レディ」と呼ばれるたびに、リティカの胸にはむかむかとした悔しさがこみ上げてくるのだった。
アグライネンは、他の同僚に対しては、きちんと名前で呼びかける。それが女性騎士であっても、別部署の人間であっても。
リティカを「レディ」と呼ぶのは、彼女のことをただの少女としか思っていないからだろう。そう考えるから、リティカは彼と会うたびに、こみ上げる苛立ちを宥めながら会話することになる。
「で、時間のない団長殿は、何の仕事でこんなところへ? まさか、わたしの陰口にわざわざ聞き耳立てに来た訳じゃないでしょう」
「陰口だというなら、もう少し抑えた声でお願いしたいものですね。ええ、もちろん、レディの独り言に興味などはありません。ただ、女王陛下がレディと私を呼んでいらっしゃるそうですので」
「わたし――と、あなたを?」
「ええ、非常に遺憾ですが」
皮肉な表情で片眉を上げるアグライネンを置いて、リティカはさっさと踵を返した。
もちろん、遺憾なのはリティカも同じだ。
女王への忠誠にかわりはなくとも、アグライネンと共に呼び出されたとあっては、不穏な予感しか浮かんでこないのだから。
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王国の女王陛下は御年六十二歳、初老の穏やかなご婦人であった。
笑みを絶やさぬ瞳は、しかし己が敵に対しては容赦がないともっぱらの噂である。
その彼女が、王国の二大戦力である魔術局長と神聖騎士団長を前に、にこやかに宣言した。
「そなたらの明日からの訓練を合同とするよう、わたくしの名をもって命じます」
「はぁ!?」
「何を――!」
リティカとアグライネンそれぞれの怒声を間近に浴び、女王は微かに首をかしげて見せる。
「わたくしの命令に不満でも?」
「そういう訳ではありません、陛下。必要とあらば、私はこの命も捧げますが」
「命は捧げるが、肉体労働はごめんこうむると、こう申しますか?」
「陛下!」
「ほほほ、冗談じゃ。そう怒った顔をするのではありませんよ、アグライネン」
立ち上がりかけたアグライネンをたしなめておいて、女王はリティカへと向き直った。
リティカは一瞬どきりと胸を鳴らしたが、落ち着いた女王の視線を受けて顔を上げる。
「魔術局長。そなたならば、魔術による攻撃の長所短所をよく存じておるでしょう?」
「は……はい、陛下。破壊力と応用力には長けますが、魔法陣を起動させるまでの時間のロスが大きいという短所があります」
「そうですか。もちろん騎士団長も、騎士団の弱みと強みを理解しているでしょうね?」
「もちろんです、陛下。騎馬隊と守護隊、それぞれに長短両面が」
「よろしい。ええ、互いも分かりましたね。わたくしは、そなたらの組織が力を合わせることによって、互いの弱みを打ち消し国難に備えよと言っているのです。何か異論がありますか?」
反論しようのない正面からの正論に、二人はそろって頭を下げた。
先に退出するリティカの背中を見ながら、女王は渋い顔のアグライネンに向けて囁く。
「アグライネン、そなたは以前、リティカに首輪を付けよと申しましたね」
以前、奏上した件であると気づいて、騎士団長は深く頷いた。
アグライネンとしては、責務の重さに少女が潰れてしまうのを、ただ黙って見ている訳にはいかないとの思いから出た言葉である。
「ええ、確かに。あの若さで、彼女はほかの術師をのけ頭角を現しております。しかし、やはり若い。局長という立場をもってしても、経験不足は補えない」
「そなたの言うことは正しいと、わたくしも思いますよ」
女王は笑って、そして再びアグライネンを焚きつけた。
「と、なれば、首輪になれるのはあの子よりも年が上で、そして同等以上の立場を持つ、大人である必要があるでしょうね」
「そんな人物なら、この先いくらでも」
「今、彼女に危険が迫っているとしたら?」
笑顔に押され、アグライネンは渋々と女王に向き直る。
話を聞かないという選択肢は、もうなかった。
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翌日から始まった魔術局・神聖騎士団の合同訓練は、地獄みを帯びていた。
トップの仲が悪いのだから、その下の構成員に至るや推して知るべしというところだ。
「こうして落書きをしているのが仕事だなんて、うらやましい限りですね」
「お貴族さまは馬に乗って上から見下ろして気が向きゃ走るだけか……頭使わなくていいよなぁ」
「魔素を集めるというのは、ぼーっと立っていることを意味するのですか。寡聞にして、初めて知りました」
「守護隊っても、まさか盾を持って突っ立ってるしか能がないとはねぇ」
あちこちで睨み合いが発生している。
リティカはため息をついて、横に立つアグライネンの顔を見上げた。表情の分かりにくい髭面は、それでもいつもより不機嫌そうだ。
「……どうするの、これ」
「仕方ありません。陛下の思し召しですから」
「だけど、もうちょっとなんとかならない?」
「私に聞かれても、どうしようもないでしょう」
「あなたにどうしようもなければ、誰にもどうしようもないじゃない。騎士団長は誰よ?」
冷ややかなリティカの声に、アグライネンは微かに顔をしかめた。
直後、地を揺るがすような低い声が、辺りに響く。
「――貴様ら、神聖騎士団の名にかけて、同朋への無礼は許さんぞ」
アグライネンの一喝を受けて、騎士団員が一斉に口をつぐむ。直立不動の姿勢となった団員たちを見て、背後から副官がリティカの袖を引いた。
「やっぱり長いこと訓練してるだけあって、僕らとは練度が違いますよ」
「最初からわかってるわよ、そんなこと……」
吐き捨てて、リティカはぐっと唇を噛み締めた。その視界に一人の魔術師の姿が映る。
「乗ってるお馬よろしく上のもんには尻尾振るんだから、騎士団ってのはお行儀のいい団体だなぁ」
もう見向きもしない騎士団員に、魔術師の方から絡みに行っているらしい。卑怯に感じて、リティカは思わず制止の声を上げかけた。
だが、その術師が大人の男性であることを見て取って、リティカの心は怯んでしまった。声をかけて叱責して――本当に聞き入れて貰えるものかと。
リティカには、どうしても打ち消せない怯えがずっとある。
できたばかりの部署、実績のない年下の局長。近年、急激に増えた魔術師たちと、共に乗り越えてきた経験や信頼はない。
いつだって怯えている。局長と言っても、指揮官として認められてはいないのではないかと。
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日暮れの宮殿は、中庭全体が黄金色に染まり、まるで一面の麦畑にいるようだった。
宮殿を辞すリティカは、その光景を見るためにこうして徒歩で正門まで歩いている。
少しずつ暗くなっていく空の下、太陽を横目にリティカは歩き続ける。その脇を、馬車が次々と通り過ぎて行った。
そのうちの一台、ちょうど通り過ぎようとしている馬車に、リティカはなんとなく目をむけた。
途端、同じタイミングで見下ろしてきた紫の瞳と目が合った。
「――アグライネン?」
思わず、リティカは立ち止まる。その横で、馬車はなぜかスピードを落として停止した。
扉の小窓から、アグライネンが顔を覗かせる。
「レディ」
「な、何よ、アグライネン――団、長」
「私とあなたは同格でしょう。少なくとも、女王陛下はそうおっしゃっている。無理に敬称を付ける必要はありません。お気になさらず、慣れたように呼び捨ててください。いえ、何ならいつも呼んでいるように『筋肉ヒゲ爺』とでも」
「そ、そ、そ、そんなことはっ!」
慌てるリティカに苦笑を見せながらも、染み一つない手袋に包んだ手が、落ち着き払って馬車の扉を開いた。
「どうぞお乗りなさい、レディ」
「は? いえ、結構ですけど」
「そうおっしゃらず。もうだいぶ暗くなってきましたし――そう、あなたが遅くなったのは私の責任でもありますし」
リティカは思わずため息をついた。
アグライネンの言葉は、散々な結果に終わった合同訓練の反省会が長引いたことを指しているのだろう。
招く手に、リティカは強情に首を振るが、アグライネンはわざわざ馬車を降りてきた。
「どうか乗ってください。あなたに伝えたい話がありますから」
「話? さっきの反省会であれだけ魔術師が訓練不足だって言い募って、それでもまだ足りないの?」
「そうではありません、レディ。私が言いたいのは――」
「どうしてもって言うなら――そう、その『レディ』って呼ぶのをやめてくれたら、乗ります」
リティカの言葉に、アグライネンは軽く目を見開いた。
ぱちりと一度瞬きをした後、苦笑を浮かべ、太い腕でリティカの腰を引き寄せる。
「その条件でいいでしょう、リティカ。少しばかり不用意な気はしますが」
「不用意?」
「こちらの話です」
「なんでもいいけど……わたしにつたえたい話って何ですか?」
「陛下が突然、共同訓練などと言い出した理由です」
向かい合わせに腰を下ろす。
動き出した座席が、がたりと揺れた。狭い馬車の中、リティカの膝がアグライネンの固い太腿へぶつかる。その感触で、アグライネンの言った「不用意」という言葉をリティカはようやく理解した。
頬の熱さを隠すように、リティカは窓の外へ目を向け、吐き捨てるように呟く。
「……失礼」
「お気になさらず。私がお呼びしたのです」
アグライネンの瞳は、揺らぐことなくまっすぐに見詰めてくる。
その真剣な表情で、リティカも本題へと頭を切り替えた。
「それで、陛下は何をおっしゃってたの」
「隣国の動きがおかしいと。どうやら、こちらに間諜が入り込んでいるようですね。放置すれば、また戦争になるかもしれない」
「停戦条約が、破棄されるってこと?」
唇を震わせたリティカに向け、神聖騎士団長は重々しく頷き返す。
「その通りです。隣国では既に魔術が戦術の中心を担っているとか。我が国では、いまだ魔術政策が適切に広められていない。どうやら、今がチャンスと考えているのでしょうか」
「そう……確かに、隣国では魔術を重視していると聞くわ」
「ご存じでしたか」
「わたしの副官が、隣国との国境にある村の出身で、向こうの様子にも詳しいから」
「ああ……昨年の衝突で、村民が全滅しかけたところをあなたが救ったと」
「よく調べてるのね」
リティカは苦々しく唇を歪めた。救えなかった命は数えきれない。そのことはずっと後悔している。あの日、もっと強くあれなかった自分を。
アグライネンが何かを悼むように、胸元に手を当て瞼を伏せる。
だが、ふたたび目を上げた時には、既に普段の無表情に戻っていた。
「……とにかく、このままいくとどうなるか、おわかりですね?」
「神聖騎士団との連携に前向きに取り組めと言いたいんでしょう」
「そうです。今、我々が手を携えねば、隣国を食い止めることはできない。あなたの副官と同じ嘆きを、国中に与えることになる――」
「――わかってる、けど」
噛み締めた奥歯が、ぎり、と鳴った。
顔を伏せたリティカの表情に気付かぬまま、アグライネンは身を乗り出す。
「分かっているなら、魔術局員たちの反発を抑えてください。魔術師の長はあなたでしょう」
「やらなきゃいけないのはわかってる……でも」
「レディ、迷う猶予など――」
「――レディなんて呼ばないでって言ってるじゃない!」
顔を上げたリティカの怒声に、アグライネンが怯んで身を引いた。
地平線に少しだけ残った夕日が、横から二人を照らしている。
怒りに燃えるリティカの瞳は――その怒りは、むしろ自分自身に向けられていた。
「わたしだって分かってる。内部で衝突してる場合じゃない、今はあなたたちと一緒に頑張るときだって。だけど……でも、わたしの言うことなんて、きっと、誰も聞いてくれないわ……」
叫ぶように口を開いたのに、最後は鼻声でぐちゃぐちゃと聞き取れなくなった。
顔を伏せ震える細い肩を、微かに顔をゆがめたアグライネンが見下ろしている。
「レディ――いえ、リティカ。あなたは……」
伸ばした手は、肩に触れる前に跳ねのけられた。リティカの小さな手が、すぐに扉へと伸ばされる。
アグライネンは慌てて御者へ声をかけ、馬車を止めた。
ほとんど同時に扉から飛び降りたリティカが、バランスを崩し芝生へ膝を突く。
「リティカ!」
「あなたの話は分かった。子ども扱いされても、わたしは魔術局長だもの。『できない』じゃ済まされないんだから。だから――わたし、もう一度話してみる」
「リティカ、しかし」
「じゃあね、騎士団長さま」
飛び跳ねるように身を起こした小さな背中は、アグライネンの伸ばした手をすり抜けた。
そのまま意外なほどの素早さで、宮殿の方へと駆けて行く。
アグライネンの視線の先で、その背中は夜闇に紛れて溶けていった。
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今なら――と、リティカは走りながら考える。
宮殿には夜間待機の魔術師がいる。宮殿兵や神聖騎士団と分担し夜間の宮殿の防衛を担っている彼らなら、神聖騎士団員とも接点があるだろう。
リティカ自身の話を聞いてもらうというよりも、接点のある相手との仲を取り持ってもらう方が簡単かもしれない、と思ったのだ。
既に夕日は地平線のかなたに消え、中庭には薄闇が広がっている。
ところどころ防犯のために掲げられた灯りは、魔術によるものだ。魔素を感じるリティカには、それがどのように作られたものか感じることができるから。
ふと、灯り以外の魔術の気配を感じて、リティカは少しだけ脇道へ反れた。
足元に大きく広がる魔法陣。そこに流し込まれ、整列された魔素。
「これは」
知っている人物によるもののような気がする。
地面に指先を当て、更に詳細を感じ取ろうとしたところで――後ろから、聞き慣れた声が呼びかけてきた。
「局長、こんなところで、一体どうされたんですか?」
思わず振り向いた先には、リティカの副官が立っていた。
魔法陣の作り主たる、人物が。
リティカは少し警戒しながら、後ずさる。
「その……夜当番の局員たちと、少し話でもしようかと思って」
「話とは?」
「わたしたち、神聖騎士団といつまでもいがみ合っててもどうしようもないでしょ。だから……」
「ああ、なるほど」
いつもの様子で近付いてきた副官の表情に、一瞬、影が落ちた。見えない顔色の向こうから、普段通りの声が聞こえてくる。
「それじゃ、急がなきゃいけないですね」
「急ぐ?」
問い返した瞬間、足元でばちばちと火花が散った。魔術の発動だ、と頭だけが先に理解した。
だが、身体は反応しきれず、流れ込む電流を避ける術はない。
痛みよりも熱さに近い衝撃が、彼女の意識を刈り取っていった。
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目を覚ました時には、執務室の奥に転がされていた。
身じろぎで気付いたのか、副官がリティカの机から身を離し振り向く。
「気付きましたか」
「……何、してるの」
リティカは苦労して声を押し出した。
どうにも喉が痛んで、声がしゃがれてしまう。先ほどの電流の効果だろうか。
副官は微笑んだまま、リティカの元へ歩み寄ってくる。いつもの笑顔のはずなのに、なぜか今まで見たことのない表情に見えた。
「どうやらそろそろ潮時のようです。お暇するのに手土産でもと思ったのですが……どうもあなたが知っている情報には、大したものはないようですね」
先ほど攻撃を受けた時に薄々感じていたこと――きっと彼が、アグライネンの言っていた隣国の間諜なのだろう。
だが、それが分かったところで、今のリティカにはどうしようもない。掠れた声を出すのが精いっぱいで、指先一本動かない。よほどの魔術を受けたようだ。
それに、副官の不用意な一言はリティカの胸を刺していた。
大切な情報を与えられていない――リティカの、王国での扱いなどその程度と言うことだ。
ゆがんだ顔に覆いかぶさるように、副官が覗き込んでくる。
予想に反して、その表情は憐れみを湛えていた。
「局長は、本当に可哀そうな人だ」
「な、なに……」
「そうでしょう? こんなに才能があるのに正当に評価されない。さっきの雷撃、僕はあなたを殺すつもりで仕掛けたのに。あの、国境の村に仕掛けたのと同じ魔術だったんですよ」
「あなた――まさか、あれもあなたの仕業だったの?」
「ええ、はい。まあ、でもそれもあなたに近づくためですから」
優しげな表情で、副官はリティカの肩を撫でる。
「あなたは、先ほどの一瞬、魔素を引き抜いて咄嗟に威力を弱めた。村人のように死ぬことなく、気を失うだけですんだのは、あなた自身の力によるものです」
怖気だった背中を抱くように、副官が手を伸ばしてきた。
抗えぬまま抱き寄せられ、リティカは困惑と恐怖で身を震わせる。
「ねえ、局長。あなたも、僕と一緒に隣国へ来ませんか」
「どういうつもりで、そんな……」
「こんな国じゃあなたの魔術もろくな評価を受けやしない。それよりも、その才能を適切に評価してくれる国にいきませんか。そうすれば、あなたは――」
「――悪いが、リティカを渡すつもりはありません」
だん、と踏み込みの足音で床が揺れる。同時に、リティカの目の前を銀色の光が通り過ぎていった。
光が、まっすぐに副官の喉を貫く。刃だ、と気づいた時には、溢れ出た血がリティカの腹を打っていた。
「リティカ、無事ですか!?」
「アグライ、ネン……?」
慌てた様子で身体を抱き起される。
どうして、という言葉は、唸り声だけで彼にも伝わっていた。
「暗闇の中に、レディを一人で放り出す訳がないでしょう。追いかけたところで、あなたの副官が魔術を仕掛けるのが見えて――魔術で移動されてしまったので、探すのに少し手間取りました」
安堵のため息が、リティカの耳元をくすぐっていく。
「ああ……間に合って、本当に良かった」
「そんな。わたしなんて、いない方が良かったんじゃ……」
大した情報も渡されず、才能があるとおだてられお飾りで長の地位についただけの自分。
アグライネンのように、自分の部下をまとめることもできない。副官の裏切りを止めることさえ。
脱力して血の海に落ちそうになる身体を、アグライネンの逞しい腕が支えた。
「リティカ、外をご覧なさい。あなたを探していたのは、私だけではありません」
「外……?」
騎士団長に手を引かれ、ベランダへ出る。
見下ろす宮殿の中庭一面に、うろうろと動き回る灯りがあった。光は門の外――市街地まで広がっている。その光が魔術によるものであることは、魔素を感じるリティカには分かった。
魔術師たち――そして、その傍らで同じく何かを探している様子の神聖騎士たちだ。
「これは……」
「あなたが危ないのだと伝えたら、魔術局も捜索の手を出してくれました。夜間待機の者だけでなく、ほぼすべての局員が動いています。神聖騎士団も含めて、ね」
愕然とするリティカを支えたまま、アグライネンは低い声で囁いた。
「あなたはまだ幼いと、自分の手で守りたいと思っていたのです。女王陛下も、私も」
ですが、と彼の言葉は続く。
「どうやらあなたは、もういっぱしの大人のようですね」
「……? どういうこと?」
「隣国に渡すつもりはない、ということです」
リティカは黙って、自分を探してくれているたくさんの灯りを見詰めていた。
柔らかな頬に、軽い口づけが落ちたことにも気付かずに。