ユリ・ヒュームン
東京中の熱を一ヶ所に集めて煮詰めたような暑さの中、ハヤトは満足気な足取りで国際展示場駅に向かっていた。
彼にとっての初めてのサークル参加であり、中学生として最後のサークル参加でもあった西暦2018年のC94は、誰も買いに来やしないのではないかという昨夜の不安を実現せずに、持ち込んだ50部の完売という形をもって彼を歓待した。
紫陽花を描いた水彩画を雨に濡れた硝子越しに見たような夢幻泡沫の絵を生み出す画力と、画風に徹底して寄り添った少女の繊細な関係性の叙述に界隈が目を付けるまでに、彼がイラストを投稿し始めてから、それほど時間が掛からなかったのだ。
歩みがコスプレ広場に差し掛かる頃にふと顔を上げると、帽子を深く被り、禍々しい装飾過剰の杖を携えた女の完成された妖艶さに、思わず足が止まった。
ハヤトのほうは家に帰るために視線を彼女から逸らしたが、男子中学生の煩悩に塗れた視線のほうはひとりでに彼女に戻ってきた。
この人を撮影しようとする先客は見当たらない。
昼食を食べ終わるなどして今ここに来たばかりなのかもしれない。
しかし彼女の美しさが男どもの手を次から次へと取っていき、彼女への列を形成させるのは時間の問題と思われた。
でも無許可での撮影はここでのルールに違反するから、律儀な性格からしても、不要な諍いを避けるためにも、まずは声をかけなければならかった。
鼓動が速くなり、血流で回る水車のピストンが彼の勇気を口から押し出した。
「あの!そこの魔法使いのコスプレイヤーの方!」
彼女は視界の外から思わず現れたハヤトに一瞬警戒するそぶりを見せたが、それが15歳くらいの少年だと分かるとまるで本物の魔女であるかのようにニヤリと笑って言った。
「コスプレイヤーって何?」
「え、コスプレイヤーではないんですか?」
「それは職業?それとも種族?確かに私はクウェントゥス様に仕える魔法使いだよ」
ハヤトは少しの間の後にこう考えた。
この人は心にまで衣装を着込んでおり、きっと今日一日の間は撮影者たちに彼女なりの粋な計らいをしているのだろう。
確かに彼女は普段は学生か会社員かもしれないが、今日は中世の絵本から出てきたような魔法使いである。
したがって、コスプレという現代語など、彼女の知識にあるはずがない、ことになっているのだ。
すると、ハヤトの心にこの人の魔法使いのときではない、素の状態が見てみたいといういたずら心が芽生えてきた。
「では魔法使いさん、何か魔法を使って見せてくださいよ」
「なんで?」
「僕は魔法を一度も見たことがなくて、見てみたいんです。例えばこれを火の魔法で燃やしてみてください」
ハヤトは戦利品でいっぱいの自分の紙袋を意地悪そうに指差した。
すると、彼女は怪訝な表情で5秒くらい押し黙ってしまった。
「すいません、あの」
ハヤトはまた自分がいつものように変なことを口走り、他人を困らせてしまったと思い、いたたまれなくなって目を逸らして、捕食者が現れ散り散りになる小魚の群れのように泳がせて下を向いた、自分の右手の下で、紙袋がごうごうと火を噴き始めていたことをそれまで知らずに!
慌てて紙袋から手を離すと、
「レーン!」
彼女がそう叫び杖を振るった。
地面に落ちた紙袋の上だけに雲ができ、降り注いだ雨が消火した。
ハヤトは腰を抜かすと、戦利品が灰になってしまったことを嘆くのも忘れ、再び立ち上がって大声で叫びながら逃げ出した。
「ほ、本物の魔法使いだーーーーー!!!誰か助けてくれーーー!!!」
大声を聞き甲冑で身を包んだ男たちが雪崩のように駆け寄ってくる。
「何事か!」
「見知らぬ男が教会の門の辺りから大騒ぎしながら逃げて行きます!」
「捕らえて調べよ!」
ハヤトは聞こえてきた物騒で場違いな会話を不審に思いつつ、走り続けながら背後の空を見た。
そこには有明の夕影も銀色の転倒した四角錐もなく、どこまでも澄み渡った神話的な青空とそれを突き刺すように精巧な教会だけが意地悪そうにそびえ立っていた。
十分後くらいだろうか、ハヤトは人生初の取調べを受けていた。
「お前盗賊ではあるまいな!」
「しかし、教会から何かを盗んだ盗賊であれば、騒がず逃げていくと思われます」
「確かに、職業は何だ?」
「ありません!強いて言うなら中学生です」
「そのような職業は聞いたことがない!この者の職業を鑑定せよ」
すると、その男の部下と思しき者が水面に映る満月のような水晶玉を手に取り、いくつかの言葉を掛けられた水晶玉が生きているかのように揺らめいたり明滅したりし始めたので、ハヤトは驚いた。
「この男は、勇者でございます!職業が勇者です」
「何!?このような女らしさのかけらもない者が勇者であるはずがない!」
「女らしさのかけらもない者とは誰のことだ!というか、それを言うなら普通男らしさだろ!」
「また、この者はLv.1です。したがって、おそらく鑑定結果に偽装魔法などによる誤りはありません」
このとき、この場にいた騎士たちはみな、民衆の間で「もうすぐ勇者が現れ、我々を救ってくださり、やがて教皇になられる」という噂が、ここひと月広まっていたことを思い出していた。
「やはり、あの噂は本当だったのではないですか。この者が、その勇者なのです」
「なるほど……俄かには信じがたいが、陛下にご報告しなければ……」
少し待たされた後に、ハヤトは豪華絢爛な聖堂で、先導者あるいは連行者の後を歩き、隊列を組むように並んだ大勢の聖職者や王侯貴族の敬礼の間を通り抜けると、中でも一段と豪華絢爛な座席に座っている男の前で止められた。
「勇者ハヤトよ、朕が教皇クウェントゥスである。ここにいる者らの最高位の長であり、さらに全国一千万の信徒たちはみな朕の教えに従う。国じゅうの教会も最終的にはみな朕のものである。精強なるわが兵も朕の指揮下にある」
ハヤトはきょとんとしたまま、内心開口一番に自慢話を始めたこの男が何をしたいのか図りかねていた。
「そこで勇者よ、お主を次の教皇にしようと思うのだが、いかがかね」
聖職者がざわつき出した。
「それは、どういうことですか?」
「無論、タダでではない。もしその力によって我々の宿敵、魔王ローレンツを倒してくれたなら、その暁には、この地位をくれてやろう」
何人かの聖職者が教皇の考えに納得したか、または教皇の良識に安心したような笑顔になった。
「しかし、俺はもともと戦いが好きではないし、あなたの部下たちのように魔法が使えるわけでもありません。魔王というからには伝説的に強いのでしょう。俺には無理だと思います」
「お主は職業が勇者であるのだから、魔法を使ったことがないだけで、使えるはずである。教皇位を譲るなど、生半可な覚悟では約束できぬ。朕はローレンツの軍勢による、我々を奴隷にしようという百年に渡る断続的な攻勢と、種族の将来を深刻に考え、持てるものをすべて差し出す覚悟で頼んでいるのだ。どうか、引き受けてくれぬか」
ハヤトは、どうしても魔王討伐なる任務を引き受けたくはなかった。
しかし、ただ断っても、自分を勇者であると考えるこの者たちが、脅迫したり、未知の魔法を使ったりして、あの手この手で自分を戦場へ連れ出そうとするかもしれない。
どうすれば、勧誘が来なくなるだろうか。
どうすれば、相手は勧誘したくなくなるだろうか。
もうこの者とともに戦いたくないと思わせることができるだろうか。
そして、ハヤトは思いついた。
自分を関わりたくない、気持ち悪い存在だと思わせれば、みな自分から逃げていくのではないだろうか。
しかし、それによって投獄されてしまったり、殺されてしまったりしては困る。
無害だが、同時に気持ち悪い存在として認識される必要がある。
そして、そのような方法について、彼は自分自身の経験によって人一倍リアルな知見があった。
ハヤトは深呼吸して、教皇と大勢の部下たちの前に立つと、息を大きく吸い込んだ。
ハヤトのもの言いたげな雰囲気を感じ取り、視線がハヤトに集まった。
「皆の者、よく聞かれよ!私は戦争が嫌いである。剣と剣、槍と槍が一方を勝者とするまで互いを削り合うあの野蛮な戦争が嫌いである。それは、戦争が生命を奪うからではない。戦争が道徳的に許されない行為だからではない」
教皇、聖職者、王侯貴族などの無数の瞳が演説するハヤトを見つめている。
「戦場で剣を持っている者、槍を持っている者はほとんど全員が男である。あの地上で最も汚らわしい性別、隣人の妻から天上の星々まで自分のものにしようという無制限的なる欲望を持つ獣性の代議士!下半身にのみ脳が付いた生物の欠陥品!私はただ、彼らと関わりたくないのだ!一方で私が愛するものは、典型的には女性のみの世界に実現するような、女の関係性である!女女の空間を無遠慮に飛び回る、巨大な感情の一群である!私は、自らの男性としての欲求に従って、女性を愛しているのではない。男性の欲求から自由な女性たちを愛しているのだ。私の天命は戦場になく、紙面にある。先人の空想と現実の恋愛の双方から、理想化された女性的なるものを析出し、各人が生まれ持ったあるいは経験的に獲得した独自性を加えて紙面に落とし込むこと、それが作り手として百合の神への信仰を告白する最善の方法であることを、君たちは知らないのか!生命の存在意義は、まさに百合にあり!」
それは彼なりの信仰告白だった。
百合厨――敵対者からそう呼ばれていた彼は、家族からは疎まれ、クラスメイトからは気持ち悪がられ、インターネットでは思想の異なる者たちといさかいを起こしていた。
それゆえに、世間の百合趣味に対する冷淡な視線を理解していた。
これで、この者たちはハヤトを変態、酔狂あるいは触れないほうが良いものと考えるようになるだろう。
そうすれば、この教会とやらを抜け出しても、もう追ってくることはあるまい。
大聖堂を、割れんばかりの拍手が埋め尽くしていた。
「この人は、我々の悲願を理解していらっしゃる!」
「種族の希望だ!」
「百合万歳!」
「百合の神への信仰心において、我々聖職者を凌ぐ者がいるとは……」
「勇者万歳!」
クウェントゥスは孫の誕生を喜ぶ祖父のように涙を流していた。
冷めやらぬムードの中、もとの話題については有耶無耶になった気がしたので、ハヤトは足早に聖堂を退出した。
そして、自分をここまで連行してきた騎士に問うた。
「『種族の希望』とか『百合の神への信仰』とか言っている者たちがいましたが、あなたたちの種族と宗教について、できれば何も知らない子供に教えるように教えてください」
「先ほどの名演説をお聞きしましたが、今更あなたに説明することはないのではありませんか?我々はご存知の通りユリ・ヒュームンという種族で、その性癖は百合です」
「せ、性癖とは何かもお願いします。私は田舎者で無教養なのです」
「まあ、性癖をよく理解しているのは血なまぐさい戦う職業の者だけだから、よく知らないのも無理はありません。各種族には性癖が一つあります。それがその種族の平均的・基本的性的嗜好をなします。そしてユリ・ヒュームンの信仰対象は百合です。つまり我々は百合を尊いものであると考えます」
この言葉を聞くと、ハヤトは少し安堵し、また先ほどなぜ聴衆が感激したのかをゆっくりと咀嚼していった。
おそらく今、自分は夢を見ているか、または神隠しにあって異世界にでも来てしまったのだろう。
元いた世界では、ほとんどの男は狩人のごとく女を捕まえるか、捕まえないにしても代替的な諸手段によって女を夢見るかしていて、それが常識的な生態であると考えられてすらいた。
しかしこの人々はどうか。
姿かたちを同じくしながらも、各自が関係性の楽園を思い浮かべ百合に生きている。
何と清らかなことか。
彼は勇ましく晴れやかな笑顔となって聖堂に向かって踵を返した。
皆が戻ってきたハヤトに驚いたように注目すると、ハヤトは明朗な口調で言った。
「教皇陛下、みなさま、この類まれなる正義の種族を、脅かす粗野な者どもから、私が勇者としてお守りいたします!」
再び割れんばかりの歓声と拍手が、ユリ・ヒュームンの勇者の誕生への祝砲のように、盛大に鳴り響いた。




