第29話:狂気VS正気
動脈を斬られたアリシアは、しばしのタイムラグの後、再び観客席に飛び込んだ。
「きゃああああ!!」
「うわあああ、来るなぁ!」
しばらく観客ともみ合った後、アリシアが憑りついた男性は、出血多量でこと切れた。
だが、別の筋肉質な男性が立ち上がり、闘技場へ飛んだ。
「びっくりしちゃったわよ、おじさん」
「……」
「友達が増えたね」
安全な位置にいると思っていた客達が戦慄している。
無関係の人間を構わず殺せるクライド。
無関係の人間の体を乗っ取り生贄に出来るアリシア。
どちらも、正気の人間とは思えないタマだった。事実、アリシアは正気でないが故に悪夢になったのだ。
だがクライドは飽く迄正気であった。
間違いなく、先程の男性は彼が殺した。それでもなお、正気であった。
「今度はさっきみたいには行かないよ。近づかないもーん」
「シュッ」
それは息吹の音か、空気を裂く音か。
確かに言えるのはその音を聞いた瞬間、アリシアの『友達』の額にナイフが突き刺さっていた事だった。
ククリナイフ。遠接両方に活躍する最強の護身用ナイフだ。
「かっ……」
一瞬で男性の脳機能が停止する。今度は観客席に逃げて、『乗り換える』暇もなかった。
「ちぇーっ」
アヒル口を作りながらアリシアが再び闘技場に出現する。
きょろ、とその眼球が観客席へ向くと、前段に座っていた人々は一斉に避難しだす。
「来るな! こっち来るなァ!」
「あっち行けクソガキ! 失せろ悪霊、悪魔!」
聞き捨てならない言葉。それを許容できないから子供なのだと言う事を、その男性は分かっていなかった。アリシアの目の色が変わる。
「決ーめたっ!」
「うわああああ、やめろおお!」
逃げ惑う男は、ごった返した人込みの壁に阻まれ、捕まった。
ルネサンスが語った対処法、耳を塞ぐ事の有効性に気づいていなかったのが、彼の悲劇であった。
一方のクライドは観客席に目もくれず、先程停止させた死体を足で抑えると、額に刺さったナイフを抜き取っている。彼の歩いて来た日常を、その光景が語っている様だった。
「お待たせ、おじさん」
「……アリシアといったな」
「何よ、説教でもする気?」
初めてクライドがアリシアに語り掛けた。身構えたアリシアに対し、その掠れた声からは、想像だにしない言葉が飛び出した。
「大丈夫か?」
「……は? 何が?」
「お前は、友達を背負う器じゃない。無理をしているんじゃないかと聞いている」
「無理って、何がぁ?」
一瞬歪んだ表情を、無垢な少女のものに蘇らせる。
だがクライドは、表情など見ていない。
アリシアが、借り物の体で身構える。砂利を踏む音が、暗殺者の接近を告げる。
「それをやる度に、俺は殺す」
「いいわよ、私にはノーリスク……」
「いつまで、耐えられるかな」
喋る間に、クライドは間合いに侵入していた。見切りを許さない、最速の刺突がアリシアを襲う。
だがアリシアの警戒心は既に十分であった。左にステップを踏んで避ける。
間一髪で直撃を避けた……と思うのは、素人考えであった。
「あいっ!?」
唇の左端から、頬の終わりまで……ザクロの様に皮膚が裂けていた。
ククリナイフのその異形に、しっかりと捉えられていたのだ。
「ぐうっ……」
「はっきり言っておく」
ナイフを鋭く振るい、付着した血を払いのけるクライド。
「終わりは、ないぞ」
彼にとって、これはケーキのひとカケラにすぎない。
黒い男は、再び砂利を踏みしめる。




