麦わら帽子の女性
初めてその女性が来たとき、俺はいつものように畑の手入れをしていた。マイコも葉虫がいないか、枝を持ち警戒していた。
普段なら、真剣な面持ちで侵入者を探すマイコはとても敏感になり、俺が気が付かない些細な音にも反応する。しかしマイコは、女性の足音がなんの音なのか分からないのか、遠くの音を聞くように顔を上げキョロキョロし、俺が女性の姿を確認した後やっと気付き、慌てて潜った。
母でさえこんなに近づくまでマイコが隠れなかった事はない。かといって女性が忍び足で近づいたわけでも無く、普通に町道を歩いてきて足を止めただけだった。
マイコは土に伝わる振動も感じる事が出来るようで、恐ろしいほど耳が良く、いつもなら必ず先に気付く。にもかかわらず、土を飛ばすほど焦って潜った。こんなことは初めてだ。
マイコの不自然な動きに、その不思議な女性を睨むように見た。すると、目が合うと話しかけてきた。
「貴方があの小人の人でしょ?」
すでにネットでは、精神を病んだ男性の悲しい話となっているのに、俺を馬鹿にしに来たのかは知らないが、怖がる事無くそう言った。
当然無視だ! ショートカットで顔はそれなりに可愛く、年齢も俺と同じくらいだが、絶対に会話はするつもりはない!
ジーパンに、黒いTシャツの上に白いカーデガンを羽織り、随分ラフな格好で旅行にでも来たような女性は、背中を向け、シカトを決め込み、完全に態度で不快感を出し続ける俺に対しても、しつこく話しかけてくる。
「貴方が育ててるの、マンドラゴラなんでしょ?」
マンドラゴラは、マインドレイクの別名だ。
「私も育てた事があるから、何か手伝おうか?」
その言葉に、一瞬ハッとしたが、すぐにそれは俺を騙すための口実だと思い、無視を続けた。
マイコもしっかり畝に潜り、擬態を続けている。
「ねぇ? ちょっとぐらい話をしてよ?」
するわけがない!
相当な悪党なのか、馬鹿にしたような話で興味を引き、マイコを攫おうとしているのだろう。まるでオレオレ詐欺のようなやり方だ!
しかし、女性は畑に近づく素振りも、写真を撮るような素振りも見せず、ただ道路から俺に話しかける。それも気を使っているのか、大きな声は出さず、近所に聞こえないように話す。
なんとかして追っ払いたいが、今日に限って母は病院に行き、居ない。
警察に電話しようにも、話しかけてくる以外のことはせず、迷惑行為とはいえない。何より、これ以上警察を困らせるわけにはいかない。
ここは根比べだと覚悟を決めた。
――およそ十分ほど女性は話しかけ続けてきたが、完全に無視という行為で拒否し続けると、何も言わずしゃがみ込み、ただ黙って畑を見ていた。まだ諦める気はないらしい。
早くどっかに行ってほしいが、ここで俺が声を出せば、それを切欠に話しかけてくるだろう。悪い奴は皆そうだ。こういう時は、相手は木だと思えばいい。
座り込みを決め込んだ女に、些か嫌悪を感じるが、我慢してやり過ごそうとしていると、何事も無い様にマイコが頭を出した。
テントで隠れているとはいえ、普段のマイコならもう少し警戒して出てくるが、女の存在には気付いているはずのマイコが、まるで安全だというように上半身を出し寛ぎ、遂には歌い始めた。それも上機嫌に!
こんな事は初めてだ!
今まで、誰かが俺の視界の中に居ても声を出す事はあったが、絶対に首以上を出すことは無かったし、ましてや歌ったことなど一度もない!
さらに成長したマイコの声量は、家の中から聞こえるテレビの音量に負けないくらいのもので、町道で静かに座る女には当然その歌声は聞こえているはずだ。しかし、女は何も言ってこない。
ただ耳が悪いだけかもしれないが、もしかしたら、彼女は悪い人ではないのかもしれない。
マイコは人の心が分かり、とくに植物に対する悪意には敏感に反応する。
そのマイコがここまでリラックスするからには、女性に害はないのだろう。
それでも、俺は彼女を畑に近づけるわけにはいかない! そう思い無視を続けた。
結局彼女は日が暮れるまでそこを離れず、次の日も、その次の日も朝からやってきて、黙って見ているようになった。
本来なら鍬を持って、「何を見ている!」と追っ払うべきだが、悔しい事にそれは俺にはできなかった。
そのうえ、不思議な女性は世渡りが上手なようで、徐々に距離を詰めてくる。
警察が見回りに来てくれた時には、声を掛けたが、何も問題ないようでそのまま帰って行くし、何故か母と仲良くなり、今では畑に入り、マイコの見えない位置に椅子を用意し、釣り人よろしく俺を見ている。
これにはさすがに頭にきて、「何故あいつを畑に入れたんだ!」と母を問いただすと、「あの子は悪い人じゃないよ」と言われた。
一体母は、何を根拠にそんなことを言っているのか分からないが、親のスネを噛じっている俺は、それ以上文句は言えなかった。
マイコも全く気にする様子も無く、普段通り元気に遊ぶため、姿は見せてはいないものの、完全にマイコの存在は知られてしまっただろう。
しかし彼女は、写真を撮ることもカメラを構える様子も無く、ただじっと見ている。
まだ七月中旬にもかかわらず、こんな所にいる彼女は、一体何の仕事をしているのだろうか疑問になる。
そんな彼女が居ついたせいなのか、さらに変な輩が現れた。
スーツ姿の男二人に女一人。プリウスを、狭い町道なのにもお構いなしに停車させ、そんな迷惑も気にする素振りも見せず、偉そうに道路から声を掛けてきた。
「○○大学の××というものですが、ちょっとお話を聞かせてもらえますか?」
馬鹿な学者があの噂を聞いて今頃やって来た。当然無視だ!
なによりマイコが、車が止まる前に気付き隠れた。どうやら相当な悪党らしい。
「あの~、宮川さんですよね? そちらに行ってもいいですか?」
麦わら帽子の女性と違い、大学から来たと言う学者は、俺が答えるより早くビニールテープギリギリまで近づいてきた。そしてどこで知ったか知らないが、俺の苗字まで知っていた。
賢いはずなのに、礼儀が全く出来ていない!
あまりの無礼にカチンときて、鍬を持って追っ払ってやろう! と立ち上がった。すると、それより早く麦わら帽子の女性が棒を持ち、学者に怒鳴った。
「あんたたち! 礼儀ってもの知らないの! どこで聞きつけたか知らないけど、金儲けがしたいなら来るとこ間違ってるよ! 警察呼ぶよ!」
その行動には正直驚いたが、彼女が俺以上に怒った事に学者達は怯み、この人はヤバイ! と感じたのか、そそくさと逃げて行くのを見て、「俺からしたら、貴女も来るとこ間違っているよ?」と言いたかった。
しかし、逃げる学者に棒を振り上げる後姿に、まるで母親が子供を守るような勇ましさと心強さを感じた。
少しだけ、少しだけならマイコに会わせてあげよう。
マイコを守ってくれた感謝からではなく、この人なら、マイコを幸せにしてくれる。そう感じ、驚いて畝に隠れたマイコに声を掛けた。
「マイコ……マイコ。もう大丈夫だから出ておいで?」
最初は嫌だと頭の先の蔓をわさわさ振り、拒否したが、
「あの人にマイコを見せたいんだけど、いいか?」
と声を掛けると、モゾモゾっと顔を出し、下を向き、照れくさそうに唇を尖らせた。
「どうする、マイコ?」
その仕草がどういう意味なのか分からず、もう一度訊くと、マイコは尖らせた唇をモゴモゴさせた。
「やめとくか?」
そう尋ねると、今度は目を合わせ、唇を尖らせたまま顎をクイクイと上げ、連れて行けと言ってきた。
「本当にいいのか?」
もう一度聞くと、頷くように頭を大きく上下させ、彼女のいる方を見た。
「分かった。じゃあ連れてくるから、待ってろよ?」
それを聞いたマイコは、パッと明るい表情になり、瞳を輝かせ、体全体を上下させた。