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「この星の言葉はお分かりですか?」
先を歩くフェイミは、特に会話をつなげることもなくそう尋ねた。
「あ、はい、少し勉強してきましたので、さっきトワさんに、おそらく心韻を使われたというのも分かりました」
「え……!?」
フェイミが驚いたことに、ヒロミもおや?と首を傾げた。
「お分かりになったんですか?」
「ぼ、ぼんやりとですよ、空気の圧力みたいなものを感じて」
「それは……不思議ですね。我々には、地球の方で言うところの鎖骨の上辺りに発音器と呼ばれる器官がありまして、対象の者のみに思考や情報を伝えることができるのですが、対象者以外は聞き取ることができませんし、聞き取るにはネーリア特有の構造である顎関節付近の骨の空洞を利用することが分かっています。
偶然ヒロミ様が近い構造になっていたのか、もしくは、心韻にはいまだに未解明な部分も多いので、何らかの条件にヒロミ様が合致していたのかもしれませんが」
「言われたのは『失せろ!』でしたけどね……」
「それは……」
確かに、ネーリアの服装は共通して首周りを露出させるか、ゆったりとした布で覆うような作りになっている。発音器を常時使えるように、という配慮なのだろう。
「着きました。こちらになります」
会話がちょうど途切れたころ、アーチ状の高い天井が続く通路の側壁に設けられた一つのドアの前で、フェイミは振り向いて立ち止まり、そう告げた。天窓から光が差し込んでいることから、ここが王城の上層部に位置することが分かる。ここまでの込み入った道程を思うと、急に場違いな部屋に案内されたようにヒロミは感じた。
フェイミが軽く触れると、木製のような、それでいて金属のような、薄くて軽く固そうな独特の建材のドアが、スライドして開いた。正面には広い窓が配され、一面にネーリの雲海が広がっている。
「わぁ……!」
ヒロミは思わず声を上げた。
右手側にはキッチンやリビング、その奥は中二階とそこへ続く階段があり、寝室となっているようだ。そこから室外へは、ベランダと呼ぶには広すぎる空間が張り出しており、王城の外周を巡る通路にも繋がっている。派手な装飾などはないが、開放的で清潔感あふれる空間だ。ヒロミは小躍りしつつ、興奮気味に室内を見て回った。
「お荷物はあちらに置かせていただいております」
フェイミが一角を手で示した。かなりの量の荷物を持ち込んでしまったと思っていたヒロミだったが、ボール箱の山やリュック、スーツケース等も、この広々とした部屋の片隅では小物のようにしか見えない。
「ありがとう!こんな素敵な部屋だなんて、なんだか嬉しくなっちゃって。早速皆にも知らせ……」
荷物に手をかけそこまで言いかけて、ヒロミはふと気付いた。
「通信環境は完備されてるって聞いてましたけど……、それってもしかして……」
「あぁ、ネーリアには心韻がありますから、ある意味完備されていますね」
「……」
ヒロミは大きく一呼吸した。
「確か博士が通信用の設備やら何やら一式を持ち込んでいたと思うけれども」
「おそらくここではすぐにはお使いにはなれないでしょう。何らかの形で心韻のシステムと連動させる必要があるかと思います」
「……これは……、思ったより大変そうね。報告は毎日入れるように、という決まりだったのだけれど」
ヒロミはそう言いながら、観念したように荷物を解き始めた。
「こちらでは明日は休日の曜日となっておりまして、研究施設なども稼働しておりません。なので、その間に諸々ご準備などなさるのがよいかと思います」
「ありがとう、ちなみに博士の部屋はこの近くですか?」
「いえ、随分と下層の部屋だと聞いています」
「……そうですか……」
この両者の待遇の違いはあらかじめ徹底されていたようだ。ヒロミはしばし考えて、
「フェイミさん、明日もし空いていたら、案内をお願いできますか?」
そう頼むことにした。
「ええ、朝のうちに一度ご用をお聞きする予定でした」
「さすがに博士のこともちょっと心配になりますしね」
ヒロミは苦笑しつつ言った。
「色々と苦労してそうで……」
「そうですね、この国で地球の言葉が通じるのも私一人ですし……」
「え……」
ヒロミは苛立つ博士の様子を想像しつつ、しれっとそう答えたフェイミに向け乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
「では私はそろそろ失礼いたします。何かありましたらこのブレスレット型の端末をお使いください。心韻が使えなくても連絡を取り合うことができます」
そう言ってフェイミは、腕時計よりやや幅広なくらいのブレスレット型の端末をテーブルに置いた。
「色々とありがとう!本当に助かります」
荷物を取り出す手を一旦止め、ヒロミは応えた。そのうちの一つ、フォトスタンドを手に取ると、ヒロミはやや目を細めて続けた。
「隠すつもりもないから、フェイミさんには一応言っておきますね」
ヒロミはそう言ってにっこり微笑み、フェイミの方にそっとフォトスタンドを向けた。
「私、フィアンセがいるんです。相手は地球人の男性で」
写真の中では宇宙開発局の作業着姿の二人の男女、ヒロミと婚約者と思われる男性が笑顔で寄り添っていた。フェイミには見えていないかもしれないが、彼女もあえて覗き込むようなことはしなかった。
「ここでの研究を終えたら結婚しようって約束してるんです……。彼が後押ししてくれたから、私もこの渡航を決断できて……、あの……、写真くらいは置いてもいいですよね」
「ええ、もちろん。そういったことには立ち入りません。写真を焼き殺したりはしませんので、ご安心ください」
「フフ!ごめんなさい、呼び止めちゃって」
「いえ、では無事通信できるように、私も出来る限り協力いたします。今日はひとまずごゆっくりお休みください」
「ええ!フェイミさんもお疲れ様」
フェイミは小さくお辞儀をし立ち去った。ネーリの空はすでに紫色に暮れ始め、部屋も薄暗くなっていた。ヒロミはまだ写真を見つめていた。ようやく訪れた静寂の中、一日の出来事とこれからのこの地での生活に思いを馳せた。
トワという操士に殴られたときに降りかかったものだろうか、ヒロミの肩口から、スケイルヴェールが一粒滑り落ち、ギラリと光ながら写真の男性の上に舞い落ちた。