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日はすっかり暮れていた。
この星独特の紫色に染まる夕暮れ時の空は既に深く色を落とし、日中の光を通す高い天井も闇に包まれていた。側壁に等間隔に設けられた照明は、不均一な瞬きをしながら丸く穏やかな明かりを灯し、ヒロミの足元から先を歩くトワの姿までをぼんやりと照らし出した。
来賓用のフロアなのだろう、普段はほぼ人影もなく物音もしない廊下を、力なく歩くトワの足音がはっきりと響いていた。慌ただしく走り寄るヒロミの足音がそれに続いた。近付くヒロミの存在には当然彼女も気付いているだろう。ヒロミも、大きくなるトワの姿を視界に捉えつつも思案を巡らせた。
模擬戦のときこそ終始冷静さを保ってはいたが、そもそもこのトワという人物が激しい感情を持ち合わせていることは到着時から十分に承知している。首席操士という地位や名誉は傷つけぬように、それでいて譲歩しすぎてもいけない。ヒロミは元来取り引きというものが好きではなかった。だがこの状況は、フェイミの言う通り唯一残された、そしてもっとも可能性の高そうな問題解決の手段と言える。押し引きをコントロールし、うまく好条件に導く必要がある。初対面のときのように強く怒りを向けられても、毅然として対処しよう、そうヒロミは覚悟を決めた。
「トワさん……!」
トワの反応を待たず続けて2~3言、ヒロミは言葉を重ねるつもりでいた。しかし声にはならなかった。なぜなら、ヒロミの呼びかけに対しトワがあまりにもオーバーに、そして怯えたようにビクッと体を震わせたように見えたからだ。
「トワ……さん……?」
むしろヒロミが意表を突かれた。ヒロミは急停止し、一歩、一歩と慎重にトワに近付きながら問いかけるようにそう声をかけた。その度、トワは肩を縮ませ髪色を冷たいスケイルヴェールの色で染め、身構えるように全身を硬くこわばらせた。トワは遂に立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
「ゆる……して……、おねがい……」
消え入りそうな声で彼女は確かにそう言葉を発した。瞳は潤み、怯える小動物のように全身を震わせながら、上目遣いで許しを請うような眼差しをヒロミに投げかけた。
「……!?」
ヒロミは対応に窮した。怒りに震えていたのだったらむしろ謝らねばならない、彼女が部屋でしていたことを自分が妨げたのだとしたら、そして驚かせてしまったら、申し訳なかった、そう伝えるつもりだった。しかし、気高く自信に満ちた所作を崩さなかったトワの豹変ぶりを眼前に、ヒロミは戸惑いとは別に、心奥に強烈に湧き上がる感情に気付かずにはいられなかった。
「トワさん」
「そんなに怯えないでください」そんな言葉を普段のヒロミなら続けたに違いない。ヒロミ自身そう思った。だが、目の前の人物、この国一の有能な操士が、一歩近寄るごとにビクッ、ビクッと後ずさりする姿を見て、ヒロミは歩みを止めることができなかった。
「トワさん」
近付くごとにヒロミはそう声をかけた。トワの目には涙が溢れ、立っているのもやっとというくらいに弱々しく、腰が引けた様子でヒロミから遠ざかろうとした。
「トワさん」
トワは何度も首を横に振りその呼びかけを拒否するような仕草をし、そしてヒロミから目を逸らせないまま、とうとう力なく壁まで追いつめられる格好になった。髪が揺れるたび、青白いスケイルヴェールが撒き散らされ、その欠片はヒロミにも舞い落ちた。既にヒロミはトワに手が届く距離にいた。
「そんなに怖がらないで」
ヒロミはトワの両腕を掴み、言った。トワの怯えぶりは手を通してはっきりと伝わった。あまりに華奢な身体だった。トワはまだ泣きそうな瞳でヒロミを見つめるのをやめない。ヒロミの言おうとしていたこと、その内容とは裏腹の思いをヒロミの表情は伝えていたからかもしれない。
「トワさん」
ヒロミはさらにトワへと顔を近づけ、にっこりと微笑んだ。そこでふとヒロミは我に返ったように、手をほどき、距離を開けた。
「あ!あの……、ごめんなさい。驚かせてしまって……」
自身の行為に驚いているかのように、ヒロミは言った。ううん、というようにトワは無言でまた首を横に振った。ヒロミが離れたことで少し落ち着きを取り戻したのか、長い髪を包むスケイルヴェールの色味にも平常時の温かみが戻りつつあった。しばしの沈黙の後、ヒロミが口を開いた。
「許すだなんて……、私が試料として持ち込んだ植物のせいで部屋を壊してしまったんですよね」
「それは……、もうヴォイミを手配してある。しばらくすればより強力な材質の窓に替えられている、はずだ……」
「そ、そうだったんですね、お手数おかけしてしまって……、こちらこそごめんなさい!」
ヒロミは軽く頭を下げた。
「いや、勝手に客人の部屋に立ち入るのはやはり無礼が過ぎた、それに……」
トワは目を伏せ、急に恥ずかしそうに顔を真っ赤にした。スケイルヴェールの色もにわかに赤く染まるのが見てとれた。
「大丈夫!今日見たことは言いませんから……!」
ヒロミは要件を思い出すのと同時に、また心がざわつくのを感じた。
「その代わり一つお願いがあるんです」
そう言っていたずらっぽく微笑みを浮かべた。




