3-7
不思議と警戒心はなかった。漏れ聞こえてきた「歌声」からは、どこか温もりのようなものが感じられたからかもしれない。
この星に来てから、思い返してみても施錠というものをした記憶がヒロミにはなかった。生体認証のような鍵を使用しているものと思っていたが、ネーリでは他者も容易に部屋に入り得るものなのか。この辺りの慣行には地球の個人間でも隔たりがある。画一的な判断はできない。部屋を借りている身でもあり、誰かが出入りしていたとしてもそこは受け容れる覚悟が必要だろう。ヒロミはそんなことを考えながら、部屋に踏み入れるべきかを決めきれずにいた。わずかに開いた扉のすき間からは、歌声と共に室内の照明とも異なる鮮やかな光が漏れてきた。そう、それはスケイルヴェールのものだ。
ヒロミは何かを確信しそっと扉に手を触れた。ドアが軽く音を立てて開くと、そこにはスケイルヴェールの光に包まれて歌うトワの姿があった。
歌唱者は扉側を背に歌い続けていた。声色はこれまで聞いたどの会話や心韻のものとも違う。だがヒロミは一瞥してその姿、声の主がトワであることを疑いもなく理解できた。
長い銀色の髪は旋律に合わせるようにゆっくりと宙を舞い、放たれるスケイルヴェールによってタイトなスーツに包まれた体全体を輝かせている。歌声は響き、発音器とかけ合わせて発せられているようにも思える不思議な和音を響かせていた。詞や言葉の意味は掴めず、なぜトワがそこにいるのかも分からない。だがヒロミはその光景に目を奪われた。室内には植物が伸び広がり、花を咲かせている株もある。それらに囲まれ、トワは体の前で手を合わせたり、細い腕を広げたりと軽く手振りを交えながら、植物たちに語りかけるように歌い続けていた。まるで彼女の不思議な歌の力で草木を繁らせているかのようだ。
植物……――?そう、この部屋には元々植物など生えてはいない。眼前の光景に見入っていて思考が及んでいなかった。よく見ると窓が割れている。ヒロミが試料植物として持ち込んだ苗が、容器の蓋を破壊し、そして部屋の窓をも突き破って異常に生長しているようだ。破れた窓からは外気とともに虫も舞い込んでいる。これは直ちに対処すべき事態であろう。だがヒロミは身動きもせず、ただその様子を見守ることしかできなかった。青や緑、水色――、これまでほとんど目にしなかった落ち着いた色味のスケイルヴェールが、陽の光を受けてトワの周りを漂い、植物や入り込んだ虫たちもまるでそれにつられ舞い踊っているかのように揺らいでいた。全てが幻想的だった。
声の主は一心にメロディーを紡ぎ、まだヒロミの存在にも気付いていない。その歌声は力強さや温かさもあり、同時にひどく懐かしいような胸を締め付ける切なさも持ち合わせていた。細身の体から発せられる儚く繊細な声は、触れればすぐに折れてしまいそうに弱々しく、それでいて大地のような逞しさも備えている。先程までヒロミの嗅覚と思考を覆っていた蛹室の記憶は洗い流されていた。歌声はヒロミの体内に染み入り、心を揺さぶった。トワの姿を見つめるヒロミの目からは、自然と涙がこぼれ落ちていた。扉が開いたままの入口付近に立つヒロミのもとに、輝きを放つスケイルヴェールの粒子がいくつか漂い流れてきた。ヒロミは思わずそれに触れようと手を伸ばした。歌声はそこで不意に止んだ。
トワが部屋の主の存在に気付いたのだ。
目を丸くし、驚きの形相でヒロミを見つめていた。スケイルヴェールの色は一転して暗く沈み、全身を震わせている。室内の空気はたちまち冷え切ったように感じられた。トワは怒りとも恥ずかしさともとれないような複雑な表情をにじませている。
「あ、あの……!」
慌てて声をかけようとしたヒロミの脇を、トワは足早に通り過ぎようとした。そして、歯を食いしばりしぼり出すような声で告げた。
「窓が……、割れていて何事かと立ち入ってしまったのだ。すまない、ここで見たことは忘れてほしい……」
それは心韻とも歌声とも異なる、口から発せられたトワの声だ。先程までの繊細さや力強さはまったく失われていた。
「待っ……!」
ヒロミは涙も拭わず、トワを呼び止めた。トワは応じなかった。その硬い表情と他者を寄せつけまいという勢いに、ヒロミはそれ以上言葉をかけることが出来なかった。「部屋に入っていたことについては何も思っていない、歌に感動して聞き入ってしまった」と、せめてそれくらいのことは伝えたいと思った。遠ざかっていく足音を聞きながら、ヒロミはもはや何の種だったのか分からないほどに肥大化した試料用の植物たちをしばし眺め、やはり思い返してもう一度トワに声をかけようと振り返った。そのとき、部屋の外に気まずそうに立つフェイミの姿を認めた。
「あ、えぇ……」
相変わらずフード越しのため表情は読み取れないが、彼女が困惑していることは十分に伝わった。
「も、もしかして見て……?」
ヒロミは慌てて涙を拭いながら尋ねた。フェイミは自分の話を進めた。
「先程お伝えし忘れたことがございましたので」
そう言ってカード状のものを取り出し、ヒロミに手渡した。それは日中発行された滞在許可証と同様のものだ。
「6区の研究棟への入館証になります。明日お渡ししてもよかったのですが念のためにと」
「あ、ありがとうございます……」
「そしてもう一つ――」
フェイミは一呼吸し落ち着いて切り出した。
「通信手段の確保が正攻法でうまくいかなかった場合の手段について、お話しておりませんでしたよね?」
「あぁ、えぇ」
「簡単に言ってしまえば、権力者と仲良くなる、ということです」
きょとんとするヒロミに対し、フェイミはトワの立ち去った方を向いて静かに続けた。
「特に……、高位の者の弱みを握れるケースなどがあれば、それを活かさない手はないでしょう」
「え、あぁ……、えぇ!?で、でもそれは」
ヒロミはフェイミの意図を察した上でためらった。
「真っ当なやり方ではこの先もまず話は進まないわけですからね、ご判断はお任せいたします」
フェイミはそう言うと、にっこりと微笑み続けた。
「ただ、私は案外うまくいくと思いますよ」
ヒロミは尚も困惑の表情を浮かべていたが、やがて意を決したように
「ありがとう!」
と告げ、トワの立ち去った先へと勢いよく駆け出した。




