表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
110/123

12-3

 ヒロミの足取りは再び自然と早まった。


 この場に向かう際に感じていたような高揚感によるものではない。湧き上がる怖れに近い感覚から逃れるように、ヒロミはこの次期女王の間に至る小径を引き返していた。勿論、フェイミが新たな女王となる存在だったことは衝撃だった。しかしそれだけではない。この地にとどまれば、あの変成の途中にあったフェイミの足元のように、まるでこの空間に飲み込まれ一体化してしまいそうな感覚があった。それは肉体的に、というだけではない。多くの者たちと同様、多くの物事、歴史、記憶を共有し、自分の意識も"均一化"されてしまうのではないか――という、そんな言い知れぬ恐怖だ。


 あるいは兆候は既に始まっているのかもしれない。一部ではあるがヒロミの体にもネーリアの器官が移植されているのだ。そしてその時にも体験した。はっきりとは思い出せないが、確実に体内に流れ込み刻み付けられた経験や記憶がある。そのことがヒロミを積極的に戦闘へ向かわせた一因でもあった。何かのきっかけでそれらの記憶が鮮明に思い出された時、ヒロミははっきりと言うことができるだろうか?どこまでが自分の記憶で、どこからがそうではないと――。他人の記憶が流れ込むのと同様に、自分の記憶が流れ出てしまってはいないだろうか、と。


 ヒロミはフェイミと現王城の聖蛹を訪れた際、彼女が軽くパニックに陥ったように、自らの記憶や時系列に関する認識の不自然さを語っていたことを思い出した。今ならばその感覚もある程度は理解できる。自分のものか定かではない記憶や経験に行動が左右されるのは、決して愉快なことではないだろう。同時に、今の自分を形作っている記憶が奪われ、失われていくとすれば、そこに対する恐怖や怒りもまた大きいはずだ。先程のフェイミの発言はそうした事態を想定すれば理解しやすいだろうか。王国の土地が侵食され、人命が失われることが、そのままフェイミの、女王自身の喪失に繋がっている、と。だが、それが誰かにコントロールされているとすればどうだろうか――。


 フェイミは自覚した瞬間に全てを思い出した、と語った。彼女が思い出せずもやもやとしていた部分はまさにそこだろう。今後彼女の体内には無数のオスたちの体液が絶え間なく注ぎ込まれ、多くの子らの命を育んでいかねばならない。女王になることはネーリアにとって名誉なことかもしれない。しかし候補となる者が蛹からかえり自我が目覚めた瞬間から、その運命を突き付けられたとしたらあまりに酷だろう、無用な争いに巻き込まれる可能性も高いだろう、――そうした判断が働いたとしてもおかしくはない。ヒロミはそう考えた。資質や適性がありながら、変成することなく一生を終える者もいるかもしれない。女王の記憶、経験は誰もが明確に覚えていなくてもいいもの、とも言える。つまりフェイミが思い出せずにいたことは、種の存続に関わる何らかの機構が働いた結果なのではないかということだ。不必要な、不利な情報は、生物的に忘れるか、忘れさせられているのではないだろうか。それが遺伝子的にネーリアに組み込まれたものなのか、先代女王たちによる配慮の結果なのかは分からない。少なくともネーリアにとっては記憶や能力の継承と同時に、それらを忘れる、もしくは忘れさせるという力が備わっていると考えるのが自然なのではないか。そしてもし、女王にもその力が備わっているとするならば、フェイミにもそれが可能、ということだ。


 ヒロミは重大な情報を知ってしまった。


 それはこれまで知ったどの情報よりも重い。今、この地が次期女王の営巣地であることを知っている者はほぼいないだろう。人々が目指し集まりつつあるのはここよりも更に数kmは北に位置する場所だ。やや離れたこの地に何かが作られていても、それは建設中の施設の一つくらいにしか思われないだろう。人々の集う中心地に聖蛹が作られる、あるいは既に作られている、と誰もが思っているはずだ。ヒロミも特に疑問を抱くこともなくそう考えていた。実際には違った。新たな王城はこの地が中心となり拡張され築き上げられていくのだ。


 女王の頭上、ドーム状の天井部分からはわずかに自然光が差し込んでいた。それは現王城中央区画の構造にも通じる、おそらくは伝統的なネーリア、もしくはスマーリの建築様式の一つだろう。ヴォイミらが生成したと思われるバリアのような膜で守られているとはいえ、攻撃に晒されればその守りは決して堅固なものとは言えまい。とはいえここに防衛のための施設や兵器を配備するわけにもいかないはずだ。それはここに聖蛹があるとアピールするのに等しい。適切に情報をコントロールし、完成するまでは国民や国内外のネーリアだけでなく、ユーフらの攻撃も避け、その目を欺かねばならない。一見して何もなさそうなこの僻地を選んだのにはそうした意図があると解釈していいだろう。


 そんな情報をヒロミは教えられた。そしてヒロミは何も言われなかった。このことを内密にするように、といった類のことは何も。フェイミがここへ呼んでくれたこと、彼女と互いに信頼し合える関係であることを確認できたことは無論有難い。しかしそのことをイコール何でも話せるような信頼の証、などと捉えるのは楽観的すぎよう。ヒロミは共有する責任を負ったのだ。確かに一部の器官を移植した"だけ"ではある。だが否応なくヒロミは既にネーリアを包み込む生活環に組み込まれたのだと実感せざるを得なかった。仮にフェイミの発言が本気だとして、変成が完了した後の蛹にもしヒロミが入るようなことがあったとしたら――、おそらくヒロミの記憶からはフェイミに関する一切は消されてしまうだろう。変成前の女王がどういう人物であったかを知っていること、繋がりがあったのを覚えていることは決して有益ではないと思えるからだ。そして進行中の王城移転計画がもし頓挫するようなことがあったとしたら、――実際既に対象者を処分したとフェイミは語った。ヒロミも適切に処理されるに違いない。それはもはや記憶どうこうで済む話ではなくなるのかもしれない。フェイミはヒロミに戦闘への協力を願った。ヒロミももとより拒否するつもりはなかったが、それはもはや拒否できる立場にない問題だと考えるべきだろう。彼女が多くを語らなかったことが、同時にヒロミの果たすべき責任の大きさを物語っているようにも思えた。女王との繋がりは、今後のヒロミの行動を確実に決定付けていくことになるだろう。


 高温多湿で熱気に包まれた女王の間を離れ、湿っていた通路も徐々に岩肌の露出する地面へ戻りつつあった。谷間を下る風が吹き込み、ヒロミの思考を徐々に冷静にさせた。ヒロミは改めて意識した。地球人である要素が具体的に失われつつある。そもそも何事もなかったかのように地球へ帰れるなどと思っていたわけではない。覚悟は決めていた。ヒロミは既にこの地に足をつけ、この地に縛られている。女王の支配する王国で生きているのだ。それは生物的にも逃れられるものではない。


 オルモの待つ谷底の開けた場所まで戻り、ヒロミはヴォイアクーに乗り込んだ。


 彼女との間には相変わらず会話は少なかった。トワからの連絡もまだないということだ。宿に近付き、再び彼女は停める場所に困ったという様子を見せた。念のために、と構造体の谷間の更に狭い部分、宿のある場所よりも奥の、しかも下方へ向け、回り道をしながら降下して行った。亀裂のように狭く伸びる構造体の隙間はかつてのスラムや下層と同様に暗く、時折現れる抜け道を知らなければヴォイアクーでの飛行は難しい。オルモはその一画に注意深く機体を停め、何かあったら呼ぶように、と告げた。ヒロミには具体的に伝えなかったが何かに警戒しているという様子だった。


 暗く狭い道を、ヒロミは人の流れに乗りつつ進んだ。やがて道は広がり、傾きかけた日の光が差し込む先程の谷間に辿り着いた。上方にはテラス席と、さらにその上に宿の入り口も見える。今は連絡があるまで待機しているより他はないだろう、ヒロミはそう思いながら宿へと戻った。


 部屋のある2階まで上り、ヒロミはわずかに漂っている花のような香りに気付いた。新たに泊まることになった利用客のものだろうか。人々は大々的に移動をしているところだ。王城中心部に近いこのエリアで宿を取ることは珍しいのではないか。ヒロミはそんなことを考えながら自室の扉に手をかけた。香りは強まった。ヒロミは急に警戒した。記憶にある香りのように思えたからだ。


 「おかえり、ヒロミさ・ま」

扉が開き、左方からそう声がした。窓際に立つその小柄な人物は、影になっていても特徴的なシルエットで十分に伝わる。ルルアだ。サイドポニーの髪を揺らしながら、彼女はヒロミの正面まで近寄り、笑みを浮かべながら迎え入れた。ヒロミは何も言えなかった。なぜ宿の主人は彼女を部屋に入れたのだ?入り口では何も言われなかった。脅されている、ということだろうか。彼女を前にして、ヒロミが感じていたのは厳密には香りではないのかもしれないということに気付いた。これも手術後から鋭くなった感覚の一つだろうか。他人の発するスケイルヴェールや気配、を感じ取っていただけなのかもしれない。


 その気配は一つではなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ