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明日を盗め

作者: 蒼原悠



この物語はフィクションです。





挿絵(By みてみん)






 ──厄介なことになった。


 警報装置が思わぬ場所に設置されていた。ご丁寧に、家中に鳴り響くほどの甲高いサイレンと警光灯まで。

 赤い光の輪が走り回る長い廊下の彼方から、人の足音と声がする。最悪だ──。あらかじめ見当を付けてあった脱出経路は、よりによってあの廊下の向こうだ。ともかく落ち着け、このくらいの修羅場は想定してきただろと、一瞬の深呼吸に念を込めた。

 人質を取る。

 そう思い付くまでさほどの時間は必要なかった。

 幸い、金持ちの家に侵入するに当たって一通りの道具は(そろ)っている。ひときわ鋭利なアイスピックを取り出し、数歩先の壁にへばりついていたドアに素早く手をかけた。

 どうせ、この音と光で住人は気付いているだろう。ままよ、と手に力を込めて引き開けるや、アイスピックの先を向けながら部屋の中に飛び込む。

「動くな」

 先読みして放った言葉が、案の定そこに呆然と立っていた子供に届いた。

 (いく)つだ、こいつは。性別はどうも男らしい。背丈と容貌から言って、歳はせいぜい十五かそこいらか。子供というより少年だろうが、ともかくこちらを一瞥(いちべつ)した瞬間、その瞳に怯えの色がぼうっと浮かんだように見えて、少しばかりの良心が傷付いた音がした。

「手を挙げろ。声を出すな」

 少年は両手を掲げた。切っ先を向けたまま、深夜の暗い部屋の中をじりじりと移動して窓際に近寄る。遠い。数十歩は要るほど遠い。さすがは金持ちの家、たった一人のガキのためにこんな広い部屋を用意しやがる……。悪態を垂れるのは、今は内心だけ。

 ドアは閉まっている。窓の鍵は──しめた、補助なしのクレセント錠だ。これなら乱暴な手段を使う必要がない。物を壊したりして、うっかり証拠を残したまま逃走する羽目になってたまるか。少年を振り返り、念を押した。

「俺のことを話すなよ」

 やつは頷かなかった。

 構うもんか、脅えてる人間ってのは腕一本すら満足に動かせないもんだ。アイスピックを口にくわえ、手袋の()まっているのを確認してから錠に指をかけたその時──。

 背後から、声がした。

「やめといた方がいいよ。そこ、窓にもセンサーついてる」

 手が止まった。センサーの警告のせいではなくて、その声が驚くほど震えを欠いていて、むしろ愉快そうですらあったからだった。

 今のは、あいつの。振り返ると少年が数歩手前まで近寄ってきていた。

 本物の目は、少しも怯えていなかった。

「すげぇ。本物の泥棒だ」

 そいつは興味津々の声色で、もう一度、つぶやいた。間違いない、さっきの言葉もこいつのものだった。

 全身が(あわ)立った。悟られまいとアイスピックを再び手に持ち替え、声を張る。ふざけるな、この程度で調子が狂うほど、こちらとて生温い日々を生きていない。

「お前、さっき──」

「逃がしてあげようか?」

 気付けば本能的に目を見開いてしまっていた。

 少年は何気ない所作のような挙動で、部屋の片隅に向かいパソコンを起動した。青白い光が、あっという間に部屋に満ちる。あまりの行動力と、あまりの恐れ知らずさに、アイスピックを突き付けることも忘れて呆けていた。

「実はオレ、そこのセキュリティを管理するソフト、侵入できちゃったんだよね。バレないような解除くらい余裕だよ、心配しないで」

 旧来の友達にでも話しかけるかのような気軽さで喋りながら、少年はパソコンのキーボードを叩く。廊下を人が走る音がした。そうだ、修羅場はまだ終わっていないんだ──。危機感が爆発するように広がったが、やっぱり足は少しも動かない。

「解除できた、っと」

 刹那、少年の声に『ピー』と間の抜けた信号音が重なった。

 本当か、本当なのか。それを確かめる手段なんぞはこちらにはないわけだけれど、ともかくその瞬間、足の呪縛がようやっと解けた。

 慌てて窓に手をかける。錠を上に開き、窓を開け放って、外で誰も見ている者がいないかどうかを確かめる。幸運だった、まだ誰もいないようだ。もっともサイレンが鳴っている以上は時間の問題か──。

「安全だったでしょ?」

 笑い混じりの声がして、少年がそばにやって来た。

 どういうつもりか知らないが、どうも親切にありがとう。そんな言葉を掛けてやる暇も煩わしくて、すぐに床を蹴ろうとした。

 少年が、腕を掴んだ。

「何しやがる……!」

 喘ぐように叫んで、腕を振り回した。吹き飛ぶように離れた少年の手首が、今度こそと前を向いた自分の腕を再び掴む。それも、かなりの握力で。

「逃がしてあげるけど、条件付きだから」

 少年がにっこりと笑った。

「せっかくだからついでに盗み出してよ。オレのこと」

 何を言っているのか分からなかった。『オレを盗む』? お前の存在をか?

 冗談じゃない。このうえ、お前を誘拐してまで身代金をせびるつもりはない。こんな家と関わるのはもう、御免だ!

「断る」

「断らせないから」

 少年の握力が増した。本格的に焦りを覚えて、力任せに床を蹴った。窓の外に身体が飛び出して、少年に掴まれた手首にひどく重い力がかかる。痛い、だけど痛みくらい我慢しなければ──。

 あっと声がした。少年の手が、腕を離れた。

 死に物狂いで屋根の上を駆け出した。背後など振り返りもしなかった。どこだ、事前に目星をつけておいた、防犯カメラのない石垣……。月に照らされた闇夜の奥、冷たい外気を振り払うように走って、跳んで、ようやく道路まで逃げ出した。

 仰ぎ見た家の二階の窓から、あいつがこちらを見下ろしている。一部始終、バレバレってか。向こう五年はこの街に近寄れないな。悔いを食んでいる暇を惜しんで、また前を向き直した。車を置いた路端まで、急げ、俺──。


 ──『ついでに盗み出してよ。オレのこと』


 いくらハンドルにかじりついても、アクセルを踏み込んでも、まともに向かい合って聞いたあの言葉は脳内でぐるぐると再生され続けていた。






 お前の職業は何かと聞かれたら、適当に『派遣』とでも答えるようにしている。

 パートとかバイトとか、他にも答えようは色々とある。いちばん便利なのは『無職』だ。だらけた格好をして無職と口にすれば、大概の一般人は遠巻きにしながら傍らを離れていく。真っ当な人生を歩んできたような連中すれば、それが当然の反応だろうとは思う。

 本当は盗人だと知っている人間は、どれくらいいるだろう。せいぜい盗品の買い取り屋くらいか。この稼業をしていると、友達とか恋人とか、そういうものからは一気に疎遠になる。


 今年で二十五歳。窃盗を生業(なりわい)にするようになってから、だいたい七年も経った頃合いになるだろうか。

 日中の車上荒らしや空き巣狙い、それから夜間の忍びが専門だった。なるべくセキュリティの甘い、なるべく金を持っていそうな家を標的に、高校を中退してから少しずつ盗みを働くようになった。年収はどのくらいだろう。せいぜい多く見積もっても一千万、そんなものか。同い年の一般人よりは収入が多いはずだ。

 同業者と徒党を組んで仕事をしたりはしない。そんなことを必要とするような大きな家、危険な家にはそもそも入らない。だから収入は安定しないし、外れもそれなりにある。最近は防犯意識の浸透してきたせいか、裕福なところはどこの家も一定レベルの対策を施していて、どうも稼ぎが振るわない。一発逆転を狙いつつ、少しは冒険してみようか──そんな気の迷いで()かれたのが、あの家だった。

 家族構成は親が二人と子が二人、そのうち一人は家を出て独り暮らしをしている模様。それから住み込みの手伝いが数人。有名なIT関連企業の社長宅だったようだ。下見に二日を費やしても発見できないような手の込んだ警報の仕掛けをしていたのは、もしかしなくてもそのためかもしれない。

 予定通り無音でガラスを割って中に入ったはいいものの、恐らくはあの廊下で顔認証機能のある防犯カメラか赤外線センサーにでも引っ掛かったんだろう。結局、文字通り取るものも取り敢えず、あの少年の手助けで脱出するのが限度だった。

 そして、あの夜のことを思い出すたび。

『盗み出してよ、オレのこと』

 あの無邪気な声が、今でも頭を苦しめる。

 一度や二度の失敗、誰にだってある。これまで警察に追跡されたこともあったし、職務質問に捕まって危うく鞄を改められかけたこともあった。こんな程度のミス、それに比べたら何倍もマシじゃないか。

 家に帰り着いてからも、何度も何度もそう自分に言い聞かせたもんだった。




 あの少年に顔を覚えられたリスクを読んで、高級住宅街から車で移動すること十数キロ。経験上、このくらいの時間と距離が離れていれば安全だろうと踏んで、二日後の夕暮れ時、仕事を再開した。

 例の家の獲物を逃してしまったせいで、今月の状況はそれなりに危機的だ。早く、少しでいいから金を見つけたい──。一台の高級そうな車を駐車場の隅に発見したのは、喘ぐように思いを玩んでいた時のことだった。

 黒のセダン、それもかなり大型だ。国産のブランド車だとすぐに気付く。賑やかな地区から隘路(あいろ)を二本ほど入った場所にある、高い雑居ビルの谷間に挟まれたコインパーキングは、昼過ぎという微妙な時間も相俟ってか人がいない。監視カメラは──素早く走らせた視線が、ろくに防犯装置もないのを確認した。泥棒が言うことではないが、なんと不用心な駐車場だろう。自分ならこんなところに停めたくはない。

 すぐさま車に駆け寄った。中を確認してみると、どうやら車主は近隣の繁華街で買い物中のようで、紙袋に入ったままの商品がいくつも車内に放置されている。

 貴金属店のロゴマークが、きらきらと自己主張しながら目に飛び込んできた。

 泥棒と言っても色々で、絵画やら金庫やらを狙うような大胆不敵な者なで滅多にいはしない。狙うものはもっぱら、現金、商品券、それから貴金属類だ。特に貴金属品は、換金すればそれなりの額面にはなる……。ごくんと鳴った喉を、そっと撫でた。こんな音さえ周囲に聞かれたくなかった。

 車上荒らし用の解錠道具は、ちょっとばかり闇のルートを使えば今でもインターネットで簡単に手に入る。ポケットから取り出した小さな金具を、慎重に鍵に差し込んだ。


「見ーつけた」


 心臓が止まりそうになった。

 発見されたからではない。その程度で動揺するほどの素人ではない。

 無邪気なその声色に、聞き覚えがあったからだった。

 顔を上げると、夕闇色の影の中に少年が立っていた。凍り付いたのは言うまでもなかった。なぜ。どうして。ここにいることがこんなにも呆気なく分かってしまうはずが……。

「気付かなかったでしょ。オレ、その服にちょっとした細工をさせてもらってたんだよね」

 少年はにっこりと笑った。その手に握られたスマートフォンの地図が、今いる駐車場を赤いマーカーの点滅で示している。

 まさか、GPS(全地球測位システム)の発信器。

 上着を振った。小さく金属音が響いて、足元に豆粒ほどの物体が転がった。いくら小さくとも、それが今の自分にとって大変な危険性を持っていることくらい、すぐに悟ることができた。

 それでも弱味を見せるわけにはいかない。精一杯声を低くして、凄もうとした。

「……何が目的だ、てめぇ」

「勘違いしないでほしいんだけど、別に通報したかったんじゃないよ」

 少年はまた、口角を上げて微笑んだ。

「言ったじゃん、オレ。オレのことを盗み出してよ、って」

「…………」

「今からだって実現できると思うんだよね。例えばさ、今ここでオレが家族の連絡のつかない場所に行けば、オレはあんたに“拉致された”ことになると思わない?」

 もう訳が分からなかった。分からなすぎて怖くなってきた。

 そこまでしてこいつは俺に『盗まれ』……否、連れ去られたいっていうのか。そのためにわざわざ、発信器を取り付けてまで?

「ちなみに断ったら、あんたのことがばっちり映った防犯カメラの動画を警察に送らせてもらおうと思うんだけど」

 少年の目付きが変わった。「うち、あのあとしっかり警察にも通報してるらしいから、あっという間に足がついちゃうだろうなぁ」

「俺を脅すつもりか」

「そりゃそうだよ。だってさ、そうでもしないとダメでしょ?」

「お前──」

「きっと役に立って見せるから。ね、いいでしょ? 都合のいい仲間が増えたと思ってよ」

 ……観念する時が来たようだった。どう考えても断れない。現に今、あいつは目の前まで来てしまっているのだ。あまり話を長引かせていると、車の持ち主が戻って来かねない。逃げようにもここは袋小路、おまけにあいつはこちらの証拠を握っているときている。状況は徹底的に最悪だった。

「どうして、そこまで」

 少年の瞳孔を睨み付け、尋ねた。少年は楽しそうに答えた。

「宝の持ち腐れは嫌なんだよね、オレ」

 日暮れ前の雑居ビルの谷間に、(けが)れを欠いた低音の声が途切れ途切れに反響した。




 まだ十五歳の、高校一年生らしい。

 名前は聞いていない。余計なことは知らないでおく主義だった。この界隈(かいわい)で生きていると、互いのことなんて何一つとして信頼していない。名前を覚えることは一種の期待なんだと、個人的には考えてしまう。

 『ガキ』と呼ぶと、あいつはいつも嫌がった。十五歳はガキと呼ばれる年齢でも体格でもない──と。

『オレ、ずっと憧れだったんだよね! こういう自由な生活!』

 仕方なく案内したアパートの一室で、ガキは至極嬉しそうだった。やつの持ち物は唯一、小さなタブレットパソコンだけ。親から買い与えられたものだという。

 あぁ。どうしてこんなことになったのか……。

 窓からの景色を眺めながら鼻唄を奏でるガキの背中に、何度もため息をつかされた。こんなやつでも自分には協力的な意思を持っているようだし、それがせめてもの救いと考えるしかない。

 こうして、十五歳のガキとの奇天烈(きてれつ)な二人暮らしが始まった。


 泥棒の日常に定時はない。深夜だろうと夕方だろうと必要ならば起き出し、行動を始める。

 空き巣や車上荒らしを考える場合、狙い目の時間帯は真っ昼間だ。少し意外かもしれないが、深夜は人通りが少なくなるので、胡散臭(うさんくさ)い格好をして出歩いていれば警察に真っ先に怪しまれてしまうわけだ。よほど人目を警戒しなければならない状況でなければ、基本的に犯行は昼間が望ましい。

 もっとも思うように収入が上がらない昨今、そんな悠長なことを言っていられるほど余裕があるわけではなく、多少のリスクは承知の上で一日に二、三件ほどは当たってみるようにしている。車上荒らしも空き巣も、実際のところ当たりの物件は本当に少なくて、せいぜい小遣い稼ぎ程度の収穫しかない場合がほとんどなのだ。


 ガキはひどく落胆しているようだった。

「こんなに地味だと思わなかった」

 忍び──夜間の家捜しにたまに連れ出すたび、ガキは小声でぶつくさと文句を垂れた。荷物を運んだりするのに人手が入り用だったり、監視要員として廊下や道路に立っていてもらう分には、適度に大人びたこのガキは実に使いやすかった。

 あんまりしつこかったので、ある日、聞いてみた。

「どういうモノを想像してやがったんだ、お前」

「もっとこう、大胆に豪邸に侵入して大金を奪ったり、銀行の金庫室に忍び込んだりするんだと思ってた」

「漫画の読みすぎだ」

 そんな危険なことを成功させたかったら、もっとたくさんの連中と連携しなければならない。御免だ。ガキ一人の扱いにすら手を焼いている部分があるっていうのに。

 そう断じると、やつはいつも不機嫌そうに俯いた。

 泥棒は夢のある仕事なんかじゃない。どうしようもない野郎が就くべくして就いてしまう、常に闇の果てを(うごめ)いているような職業だ。

 ガキが文句を垂れる回数は、日を追うごとに減っていった。盗みを働くという稼業がどういうものなのか、だんだんとやつも理解し始めたんだろう──そう捉えることにした。


 ガキの特技はパソコンらしい。中学の頃から自学を積み、高校でも実技の課程でかなり勉強をしていたと言っていた。

 機械を弄るだけが得意なのかと思っていたが、愛用のピッキング道具が歪んで使えなくなったと口にした途端、購入可能な裏サイトを発見して教えてきた。ネットもかなり駆使している方だと、誇らしげに語っていた。

「親には全く理解されなかったけどね」

「悪いが、俺も全く理解しない」

 わざと冷たい言い方をするとやつは黙る。単純なものだと思った。何だかんだと偉そうな口を叩いても、やっぱりガキはガキでしかないのだろう。

 そう思った。なぜか少しばかり、胸を撫で下ろしたくなった。




 大したことのない役には立つ、少しばかり能のあるお邪魔虫。

 そんな自分にとってのガキの存在意義に、揺らぎの生まれる日が来るだなんて考えもしなかった。


 それはやつとの生活が始まって、二週間も経った頃のことだった。いつものように深夜、家に忍び込もうとしていた。

 広いガレージには自動車が二台も止まっている。それなりの規模の家族で、かつ、二台の車を運用できるだけの経済的余裕があるということだ。目を付けた日のうちに侵入の手筈を整え、いざ塀を越えようと手袋をはめたところで。

「──ちょっと待って」

 ガキが言った。

 警察が通り掛かったら無線で伝える役のはずだった。誰か来たか、そう思って手袋を外そうとすると、ガキはあのタブレットを取り出していた。

 路面が明々と照らし出される。これでは不審なことをしているのが明白(あからさま)になってしまう。

「おい、早く消せ。何してる」

「いいから待ってて。そのまま入らない方がいいよ」

 ガキの声がいつもと違った。

「多分、塀の内側の見えにくいところにセンサーが設置されてるな。反応する信号が検知されてるから間違いないよ」

「まさか」

 塀の上を見た。昼間の下見と変わらない、そこに防犯設備らしき姿はない。

 けれどガキの様子の変化を、そのまま見過ごすのも何だか落ち着かない。

 やつがタブレットを操作し終えた。大丈夫、とガキは呟いた。ひどく沈着な声だった。

「通報システムに介入してみた。センサーには反応されるだろうけど、発信される信号を乱しておいたから通報はされないと思う」

「……何を適当なことを」

「嘘だと思うなら入ってみなよ」

 上等だ。アスファルトを蹴り、塀の上に登る。満月の輝く空が明るくて、懐中電灯がなくとも庭の景色が一通り(うかが)える。よく整備の行き届いている、思った通りの立派な庭だ。にやりと笑って地面に降り立った瞬間、赤い閃光が目元を掠めた。

 はっとして振り返ると、塀から数十センチほど離れた地面に突き立った棒の先に、赤外線のビームを放つ装置が渡っていた。

 電池式の屋外型無線センサー──それもカバー範囲がべらぼうに低くて遮蔽物(しゃへいぶつ)にも強い、最近になってメーカーのカタログに登場したばかりの新型モデルだと、一目ですぐに気付いた。泥棒たるもの、防犯装備の研究は常に怠らない。目が点になったのは言うまでもなかった。

 ガキの言うことは嘘なんかではなかった。あいつは中を見もしないまま、何らかの手段でそれを確かめてみせたんだ。もしもこのセンサーに引っ掛かっていたら、俺は……。今や(から)ばかりになった危機感が、ぞわりと心臓を舐めて流れ消えてゆく。

「あったでしょ」

 イヤホンからガキの声がした。屈託ない笑い声は、聞き慣れたいつものそれに戻っていた。

「ね。こういう役立ち方もさ、アリだと思わない?」




 ガキの役立つ機会は、やがて徐々に増えていった。……別にこちらから指示を出したりしたわけではない。やつの方から勝手に、そこのセキュリティ何とかするよとか、その電子錠はオレの方で解除できるよとか、名乗り出てきて実行しただけだ。

 聞けば、こいつはパソコンが強いのではなくて、電子系の機械全般の扱いに長けているということらしい。

「幼い頃から、よく家電とか分解して壊すのが好きだったんだよねー」

 ある夜、夕食を摂りながらガキは愉快そうに語っていたか。「そしたら自然と、機械の仕組みにも詳しくなってきちゃったっていうか。大学に進学する機会が与えられたなら、工業系の国立大学がいいなって思ってたんだ」

「そんなら俺のところになんて来ようとしないで親元に残ればよかっただろ」

「それはそれ、これはこれ」

 ため息をついて文句をかけると、ガキは済ました顔でするりと逃げてしまう。

 こいつが来てから数週間。ずいぶん時間が経った割には、警察によるガキの捜索はいっこうに始まる気配がなかった。警察の捜査能力を()めてはいけない、あれが本気で捜索を始めればこのアパートなんて簡単に特定されてしまうだろう。そういう意味ではガキはリスクであって、せめてこの家に転がり込んできた理由ぐらいは把握しておきたかったのだ。

 ともあれこちらとしても、ガキの存在がありがたかったのは事実だった。その頃にはやつの働きもさらに進歩して、どこやら怪しげなサイトにアクセスしては防犯カメラの設置位置を事前に確認したり、マンションのオートロックすら解錠できるようになってきていた。

「『きっと役に立って見せるから』って約束したもんね、オレ」

 補助を立派にやり遂げるたび、胸を張ってそう主張するのが、そのうちガキの習慣になっていった。


 ガキが単なる足手まといではなくなってくると、色んな使い途が見えてくる。

 プロの泥棒はほとんど仲間と手を組まない。大きな仕事の時は連携を取るけれど、それはあくまで目標達成のための契約関係みたいなもので、基本、同業他者を信用したりすることはできない。──その理由は単純で、互いに窃盗という触法行為を生業にしているような輩だからだ。(だま)し、騙され、痛め付け合う危険を冒してまでも、積極的に徒党を組んで窃盗に励みたくはないわけだ。

 ところが、ガキの場合は必ずしもそうではない。こちらを完全に信頼し切っている様子のこいつに対しては、他の連中ほどの警戒をする必要がない。

 侵入するにあたっては一人の方が楽で、安全なのは事実だ。とは言え全てを一人で抱え込もうとすると、うっかり何かをミスしてしまう危険がどうしても大きくなりやすい。分業は何にしても、大事なことだ。

 そして何よりガキには特技がある。それは言うまでもなく、この手があまり得意としないような電子機器関連、セキュリティ関連の発見と操作だ。

 これがあるのとないのとでは大違いだと、ガキと行動を共にするようになって気づき始めた。防犯カメラの位置と向き、その管理元についてはガキが事前に調べてくれる。それだけで逃走経路の確保が簡単になる。裏の道具の調達も遥かに簡単になった。面倒なセンサーも警報装置も、ガキの手がことごとく無力化してくれる。煩わしさを感じることなく、こちらも事に及ぶことができる。

 なるほど。安心というのはこういうことなのか──。

 そんな感傷に柄にもなく浸るようになったのは、多分、ガキが隣でいつも楽しそうにしているせいだと思う。


「最近、ちょっと狙いが大胆になってきたよね」

 ある日、ガキにそんなことを言われた。丘陵地帯の崖沿いに建つ高級物件を狙おうとして、下見のために車で周囲を回っていた時のこと。

 誰のせいだと思ってると、毒づきながらハンドルを回した。人員が二人になって金の必要量が上がったから、より収入の期待できる家を目標にせざるを得なくなってきただけだというのに。

「お前に逃げられて正体を明かされたら、俺も困るからな」

「なーんだ……。てっきりオレの活躍で、それまでは厳しかったような大胆な犯行が可能になってきたのかなって思ってたのに」

 がっかりしたようなガキの顔から、何気なく視線を外しておいた。こいつがいるから、犯行の幅も広がった──間違っているわけではなかったし、だからと言って素直に認めてやるのも(しゃく)だった。

 今日の家は、どうしてやろう。塀の上に立っているルーターのような機器は、恐らくセキュリティ用の装置の類いか。相変わらず区別はできないが、あのくらいならガキは簡単に無効にしてしまえるんだろうな……。

 考え事をしながらハンドルを切る。流れていく景色を遠い目で眺めながら、ふとしたようにガキが、呟いた。

「……楽しいね、この仕事」

「そうか」

 無反応なのも悪いかと思って返事を寄越してしまうあたり、自分自身もこのところ少し、変わってきてしまっているように感じる。




 相対的なガキの利用価値が上昇するに従って、あの生意気なガキとも段々と、日常会話を交わすようになった。

 なんたってすでに独り暮らしではないのだ。食事、洗濯、買い物──何もかも自分だけで完結させることはできない。

 仕事の前にはガキの見つけてきた空中写真や見取り図などをもとに、どこをどう通って盗みに入るか、車はどの路地に停めておくかなどを話し合う作戦会議を開く必要があるが、会話量が増えてくると、この作戦会議もスムーズになっていく。一般人からすれば当たり前の事実かもしれないが、これは思わぬ収穫だった。まずもってこれほど頻繁に話をする相手というのが、このガキの他には誰もいなかったから。

 絶対安全。泥棒を稼業にする上で、これほど重要な原則はない。それを遂行するために、今やガキの存在と活躍はなくてはならなくなった。そしてその働きを維持するには、こいつとの意思疏通が適切に取られていなければ──。

 そんな理由でもガキとの間には、それなりに安定した関係を築くことができていたような気がする。


 よほどこちらに慣れてきたのか、それとも単に油断しているだけなのか。ガキは自分の身の上話もするようになった。

 こいつの両親は超エリート至上主義で、そのエリートコースから早々に落ちこぼれたガキは、親から完全に『見放されて』いたということ。そのくせ、家の空気は異様に厳しく、できないことや足りないことがあるたびにこっぴどい叱られ方をしていること。実は有名国立大に進学した兄がいて、そのせいで重い劣等感をいつも抱き続けてきたのだということ。

「結局さ、オレは親の期待するような姿ではいられなかったし、いたくなかったんだなって思う。前も二週間くらい家出したことがあったし、あいつら今回も長い家出だとか考えてるんじゃないかな」

 両親の話をするたび、ガキはいつも半笑いになる。

 ガキの方も両親の通報や捜索願提出を警戒して、そういった情報の出回るネット掲示板を頻繁に確認しているらしい。『家出』から二ヶ月、あれから両親の反応はないそうだった。仮初(かりそ)めにも我が息子が窃盗犯の片棒を担いでいると知ったら、両親はどんな顔をするのだろうか。

 放任主義すら通り越して、何の関心も感じてくれようとしない両親。兄に劣るという覆せぬ意識。周囲からの理解を得られない趣味。──どうしようもなく閉鎖的な環境に辟易し続けた矢先、俺が現れた。突き付けられたアイスピックの(きら)めきに、無限の自由と楽しみを感じて心を奪われ、ついて行きたいと思わせるに至ったのだとガキは説明した。

「泥棒が悪いことなのは知ってるよ、そりゃ。でも、だからこそ、やってみたかったっていうか」

 自分の話になると、ガキの声はいつも喘ぐように変わる。

「そしたら想像した通りだった。法律に背くって、こんなにスリリングで緊張感があって、しかも楽しいことだったんだって」

「…………」

 ガキの持論にまで興味があったわけではないので、いつも同意するでもなく、反対するでもなく、黙って耳を傾けるようにした。

 どんな理由があろうとも犯罪は犯罪だ。分かっていて法を犯している以上、そのことは常に念頭に置かなければならないだろうと思う。けれど、だからといって頭ごなしにこいつの考え方を否定してやる気にもなれなくて。

「あんたはどうして泥棒を始めようと思ったわけ? やっぱりオレみたいに、興味本位?」

 身を乗り出したガキに、こう返しただけだった。

「……なりたくなくても泥棒になっちまう奴もいるさ」

 と。






 泥棒は嫌いだ。


 現役でその泥棒をやっていながら、何を血迷ってそんなことを言う──。以前から取引のあった盗品専門の買取業者(バイヤー)に、そう鼻で笑われたことがあったか。

 そんなことは指摘されずとも自分がよく分かっている。

 それでも、『泥棒が嫌いだ』という考え方が今の自分の大半を形成しているのは、きっと疑いようのない事実なのだと思う。だから話したくない。窃盗が生業になってしまった理由なんて。


 育った家は、貧しかった。

 父親も母親も低賃金労働者だった。いつも汚れた古着を着て、いつも少ない食事を分け合って……。もう二十年以上も昔のことだが、当時の困窮はよく覚えている。

 その貧しさに追い討ちをかけたのが、ある夜、家に侵入した泥棒だった。たまたま口座から下ろして翌日に使うつもりだった百万以上もの大金が、重い個人用金庫もろとも盗み出されたのだ。

 ついでに大事な書類やら何やらも盗まれたらしく、そのかどで父親はやがて職を失った。母親は精神が参ってしまった。結果、一年と経たないうちに両親は離婚し、貧しくても優しかったあの家庭は完全に破綻してしまった。

 もう十年以上も、昔の話。

 困窮のために高校すら通えなかった俺に、与えられた人生の幅は本当に狭かった。その時、思ったものだ。道を踏み外した人間に、この世界はひどく冷たいのだと。みんな口では『可哀想』とか言うけれど、その発言が上辺の域を出ることは決して有り得ないのだと。

 だったら俺も、泥棒になってやる。

 直感的に思った。どうせめちゃくちゃになってしまったこの人生、残りの時間を悪人として生きたところで大差はないだろうと思った。一度でも確信してしまうと、それはもはや規定路線のように自分の行動を制限・操作するようになっていき……そうして、今の自分がある。

 泥棒は嫌いだ。何気ない幸せを奪うその行為は、時として他人の人生を簡単に破滅に追い込む。──それを知っていながら、今さら堅気(かたぎ)の道に戻る一歩を踏み出すこともできなくて、ズルズルと小金を盗み続ける日々を送ってきた。誰かの努力の結果を、奪い続けてきた。

 こんなものを誇れるはずがない。

 自分の汚さくらい、自分が一番、知っている。






 実際、ガキをしぶしぶ迎え入れてからというもの、盗みの成果は日増しに上昇している。それは金持ちの家ばかりを狙ったからではない。手当たり次第に侵入した結果、収入が上がった──それだけのことだ。

 金は使いたい時に使えなければ役に立たない。だからどこの家でも大抵、多少の現金を封筒か何かに入れて戸棚に置いてあるものだ。用心している家なら金庫に入れるだろう。そういうのには基本、手を付けない。ともかく静かに、素早く、足跡を残さないように仕事をするのが最優先なので、僅かな金しか見当たらなければそれだけをいただいていく。

 そういうやり方をずっと、貫いてきた。犯罪の『やり方を貫く』っていうのも、変な話かもしれない。


「立派なマンションだね」

 夜空を突き刺すようにそびえる壁を見上げ、ガキが呟いた。その日の獲物は高層マンション。まだ完成したばかりで、全戸成約済らしいが入居率は高くない。

 こういう物件はなかなかない。何せ、入居率が低いというのは住人に姿を見られるリスクが減らせるということだ。手袋の準備をしつつ、ガキを見るとタブレットに手を伸ばしていた。

「三階が狙い目じゃないかな。真ん中の一部屋以外、まだどこも入居してないよ」

「防犯カメラは?」

「廊下のエレベーター前にあるだけ。防犯は防犯でも、痴漢対策なんじゃない?」

 そうだなと答えた。確かに痴漢対策だ、泥棒の前では何の対策にもなっていないから。

 外壁を()う配水管を登り棒のように使って、壁を一気に登る。街が無人になる深夜、それも住人の少ないマンションだからこそ可能な、少しばかり大胆な侵入経路だ。ちなみに同じやり方を使えば、屋上から降りていって高層階に侵入することもできなくはない。タワーマンションの高層階だからといって安心ではない。

「敷地内の防犯装置、ぜんぶ無効にしてあるからね」

 頑張れーと呑気なガキの声を背に、壁を登り始める。

 慣れた手で手すりを握り、目的の三階へ。なるほど、確かに一部の部屋にはカーテンすらかかっていない。バルコニーの間仕切りをどうにかして越えてゆくと、やがてガキの言っていた部屋が姿を現した。

 難なくガラスを破って侵入。警報装置があったようだが、気にせずに物色を始めた。箪笥(たんす)の中が怪しい。ついでに指環も見つけた。発見した金目の物を、片端からポーチに放り込む。

 ガキのやつも、慣れてきたもんだ。

 家探しを続けながら、ふと、思った。以前からこういう現場は怖がらないやつだったけれど、あれからずいぶん落ち着いて『やること』をこなせるようになってきたというか。こちらが何かを指示しなくても、自分で考えて動いてくれる。便利なアンドロイドみたいに。

 ──『こんなにスリリングで緊張感があって、しかも楽しいことだったんだって』

 やつの言葉が脳裏を過って。お前の緊張感はもう少しあってもいいんじゃないかと、内心で小言を言ってやりたくなった、直後。


 ドアが開く音がした。

 目の前に住人が立っていた。

「あ……あ……!」

 住人が悲鳴にも似た呻き声を絞り出した。まだ若そうな女だった。その視線が一直線に、この手の掴んだ宝石付きのネックレスに向いている。

 くそ。なんてこった。余計な考え事をしていたせいで気付かなかったのか……。

 こうなれば金のことなど考えていられない、すぐに逃走モードへと切り替えようとした。大声を上げようとしたのか、住人の女は口を広く開けて、慌てて恐喝に路線変更した。

「動くな。声を出すな」

 低い声で牽制しつつ、すぐさまポーチからドライバーを取り出した。こんなものでも構えれば、暗闇の中では武器に見える。女が掠れた声を出した。

「そ……それ、それ……っ」

「聞こえねぇのか」

「返して……。返してください……、それ、私の、大切な……っ」

 一歩、後ずさった女の目に、大粒の涙が浮かんでいる。恐怖と悲嘆が入り交じったその表情に、思わずドライバーを握る手が震えたが──駄目だ心を鬼にしろと言い聞かせた。

「あと一言でもしゃべったら、ただじゃ済まさねぇぞ」

 だめ押しの台詞を突き付けると、女はようやく沈黙した。

 下がりすぎたのだろう、ドンと音がして女の背中は壁に突き当たった。はっとしたように女が後ろを見る、その隙をついて駆け出した。破ったガラス戸を力一杯引き開けて、バルコニーの暗闇へと飛び込む。壁を乗り越えて階下へ飛び降りようとして、そこでようやく、手に握っていたネックレスの存在に思い当たった。

 背中の向こうで泣く声が響く。

 くそ、俺は甘ちゃんだ……。耐えきれなくなってネックレスを放り投げた。宝石の煌めきがガラス戸をくぐって部屋の中へと飛び込んだのを見届けると、今度こそ自由になった両手で地面へ向かって飛び降りた。

 どうせ盗品は高くは売れない。ネックレスさえ返しておけば、あの女はしばらく黙るだろう。逃走時間さえ確保できれば、それで上等だ──。ネックレスを返してしまった言い訳を考えながら敷地内を駆け抜けて、待っていたガキに合流する。

「行くぞ、急げ」

「はいはい」

 いつものことで慣れているのか、ガキはタブレットを片手に隣へやって来た。停めてあった車まで走り、すぐさま鍵を開けて乗り込み、発進。

 今回もどうにか逃走に成功した。


 あの高層マンションが、連なる屋根の彼方にどんどん遠くなっていく。

 助手席のガキはポーチの中身を確認していた。どのくらいの収入があるか、持ち帰ったら危険なものは入っているか、仕事のあとには必ずガキに調べさせていた。

「すごいね、この封筒」

 感心したような声を上げた。「百五十万円くらい入ってる! こんなの家庭に置いておいて、どんなリッチな使い方をする気だったんだろ」

 道理でぎっしりと重たかったわけだ。引っ張り出して掴んだ時の感触を思い出していると、不意にあの住人の女の顔が浮かんだ。あの若さで百五十万円といったら、かなり大きな額に相当するだろうに。

 あんな不用心な場所に置いてあったということは、直近で使う予定でもあったのか。旅行の資金にしては高いし、車でも買うつもりだったか、それとも──結婚関係か。

 ハンドルを握る手に、力がこもった。女の泣く声が頭の内側でワンワンと響いて、深呼吸をして前を向いた。

 忘れるしかない。この稼業をやっていたら、ああいう事態に遭遇してしまうのは珍しくないことじゃないか。割り切るしかないのだ。こちらだって盗みを働かなければ、生きていけないのだから──。

 それでも、言葉に言い表すことのできない感情が胸の奥を渦巻いて、いつまでも消え失せてくれない。

「いっぺんにこんな金額が手に入っちゃうんだもんな、やっぱり泥棒稼業ってすごいよね」

 ガキの言葉が心臓を貫いた。

「スリルを味わえてお金まで貰えるなんて最高じゃん。オレ、ずっと泥棒のままでいたいなぁ」


 思えば、ガキの無邪気に放つ言葉の節々に段々と嫌悪感を抱くようになっていったのは、あの夜が発端だったのかもしれない。




 他人の幸せを奪って糊口(ここう)(しの)いでいる、それが泥棒だ。

 そしてそれを、どんな時にも忘れてはいけないのだ。

 覚えていたからって何かが変わるわけではない。どのみち盗むし、どのみち傷付ける。けれども僅かに残されていた最後の良心を失ってしまえば、その瞬間に自分は『人間』ではなくなってしまうような気がして、いつかそんな日がやって来るのが恐ろしくて。

 本当は何度か、自殺を考えたことさえあった。こんなやり方をしてまで自分は生き延びるべきなのか、分からなくなることなんてたびたびだった。家族を破滅に追いやった泥棒は憎むべき存在のはずだったのに、今度はその自分が泥棒に成り下がっていやがる……。津波のように押し寄せる自己嫌悪を何度もやり過ごしては、今日まで泥棒稼業を続けてきたつもりだ。

 その葛藤を、ガキは何の苦労も苦悩もなしに乗り越えてみせた。

 それが怖くて、不気味で、不愉快だったのか。


 あちらこちらへ盗みに出るたび、ガキは与えられた仕事を楽しそうにこなす。電波妨害だとか、電話線の切断だとか、防犯カメラへの目隠しだとか。

 そうして、盗品を確認しては嬉しそうに口にするのだ。『泥棒は楽しい』と。

 そのたびに、反応を返すことができなかった。返さなかったわけじゃない。『それは違う』と言ってやりたくても、現に泥棒を続けるこの背中では何の説得力も持たないと、無言のうちに分かっていた。

 あの日から急に怖くなってきてしまって、大型のマンションには狙いを定められていない。住人との遭遇なんてケースバイケース、どんな家でも有り得ることなのだが、事に及んだ後のガキの言動があまりに印象深く残りすぎていたんだろうと思う。目に入れるのさえ、嫌になった。

 ガキの声に見送られるたび、集中力が微妙に削がれるようになった。押し殺された『それじゃ頑張って』の声に、誰のために盗んでやってるんだと言いたくなる。めちゃくちゃだ。そんな尋ね方をしたら、まるで自分自身のためではないみたいじゃないか。

 軸のぶれたままの神経で犯行に臨み続けたせいか、発見される確率もずいぶん上がった。十件に一件くらいか。年寄りに発見されるならばまだいい、抵抗能力のある若者は最悪だ。鋭利な刃物やスタンガンをちらつかせて壁際に追い詰めて、動かなくなるまでひたすら脅し続けるしかない。やっているこちらも肝が冷える。傷付けたり殺したりしてまで盗みを働けるほど、自分は、強くない。それに、

 『な……何にもしないから、お願いだから殺さないで……』

 涙目になって懇願する姿なんて、まともに見ることができない。

 こんな苦労をガキは知らないはずだ。当たり前だ、あいつは実際に盗む役には就いていないのだから。当たり前のことになぜか苛立って、そのうちガキの顔を見ることにも嫌悪感を抱くようになっていくのだろうか。




「やば」

 パソコンの画面を見つめていたガキが、まばたきをしながら小声で呟いた。ここに来てから半年も経った頃だろうか。

「親が捜索願を出した」

「ずいぶん遅かったな」

「てっきり出す気なんてないと思ってたのに」

 見ると、行方不明者を一覧にしたようなスレッドの一番下に、それらしき名前が見当たった。あの家の表札と同じ文字だから、名前を聞いていなくとも察しがつく。いったいこのサイトはどこから情報を仕入れているのか……ネットの闇は、深い。

 警察に見つかりたくないなとガキが(うめ)く。当然だ、こっちだって見つかりたくない。

「ま、今までずっと安全だったし、不必要な外出をしなければそんなに心配しなくてもいいのかな」

 後頭部に手を組みつつ、他人事のような口調で天井を見上げるやつの姿を眺めていたら、──ふと心の奥で、何かが折れたような音がした。

 あまり気持ちのいい音ではなかった。


 その日の狙いは高級住宅街だと告げ、ガキを助手席に乗せて車を出した。めったに乗らない高速道路に入り、法定速度を守りつつ数多の街を抜けて、降りたのは懐かしの場所。ガキの実家がある街だ。

 珍しいねとガキが口にした。以前、こいつの親に通報された関係で、このあたり一帯にはなるべく近寄らないようにしていたからだ。ついでに拠点にしている家も、この街からは遥かに離れている。

「まぁな」

 それだけ返して、ハンドルを握る。(てのひら)が汗ばんでいた。

 深夜の町並みを走ること、十分。着いたのは警察署まで徒歩数分の市街地だ。車を停め、ガキを下ろさせた。

「今回はこんな危ない場所でやるわけ?」

 不審そうに辺りを見回すガキに、自分も車を降りてドアを閉めながら、言い渡した。

「お前」

「うん」

「今日限りで辞めろ、この仕事」

 ガキの目が丸くなった。その傍らに歩み寄って、分厚い封筒を渡した。今までの取り分をちょうど半分に割ったものだった。

「え、何だよ。これ」

「お前の働きは認める。だから報酬はきっちり渡しておく。警察とか親の前では死んでも見せるなよ」

 ガキの身体が、ゆらりと歪むように揺れた。

「親御さんもようやくお前の不在に危機感を覚えた、足を洗うにはちょうどいい機会だ。これを逃せば、お前は二度と娑婆(しゃば)に戻れなくなる。お前のようなガキは、普通の人生を歩んだ方がいい」

「なんでそんなこと言うんだよ!」

 ガキが首元を掴んだ。目が本気で怒っているのがすぐに見てとれたが、生憎(あいにく)こちらも鍛えられているからな。その程度で動じるようなら泥棒など続けていけない。

「オレじゃダメだって言うわけ⁉ 卑怯だよ! せめて理由くらい教えてくれたっていいじゃないか!」

「お前はまだ幼い。幼いやつは、泥棒になってはいけない」

 静かな口調を装って、答えた。「人のものを盗んで生きるっていうのがどういうことか、お前は分かってない。お前は泥棒を甘く考えすぎた」

「あんたは分かるってのか⁉」

「今まで明かしてこなかったがな。俺もガキの頃、盗みに入られて家庭が破滅したんだよ」

 ガキは言うことがなくなったらしい。ついでに力も抜けてしまった腕を、丁寧に払い除けた。

 お別れだ、ガキ。

 無言のまま車に乗り込む。

 ドアを閉める時、ガキは抵抗しなかった。諦めの境地に至ったのか、呆然としていて気付かなかったのかは定かではない。知る必要もない。これからお前と俺は、他人だ。本当は今までだってそうだった。

 アクセルを踏み込むと、立ち尽くすガキの姿はあっという間にサイドミラーの彼方へと消え去って行った。


 運転しながら、むしゃくしゃして何度もハンドルを殴った。

 この馬鹿が。やつの前では偉そうなことを言いやがって、こんなのはただの厄介払いだろうが。そんなことは分かっている。分かっているから腹が立つ。腹は立つけれど、こうするしかなかったのだ。

 あいつは『普通の人生』に戻るべきだ。ドロップアウトするのは俺みたいな輩で十分なんだ。社会の最底辺しか這うことを許されない、カーストの最下層に堕ちたような人間だけが、泥棒を自称する資格がある──。

 どこか納得のいかない、釈然としない言い訳を延々と垂れ流しながら、その日は何もせずに家に帰った。ガキの使っていたパソコンは、さっき本人に持たせてある。一台のパソコンと一人の人間が消えただけの自室が、ずいぶん広く、自由な、無駄な空間に感じた。






 強引な別れの日から、数週間が経った。


 盗みの収穫は目に見えて落ちていた。というより、ガキがいた時ほどの頻度で盗みに入らなくなった。

 理由はだいたい二つだと思う。ガキを養う必要がない分、収入が少なくてもやっていけること。以前と同じ状態に戻ったのだから当然だ。

 そしてもう一つ。以前ガキに任せていたような周囲の警戒だとか、防犯カメラの位置の確認だとか、防犯装置の解除や妨害工作だとか、そういうことができなくなったから。

 久々にガキ抜きで入った家で、いきなり警報装置に鳴り響かれた。おまけに玄関の犬に噛み付かれかけた。間一髪で警察の到着前に姿を眩ませることができたが、事前に念入りに防犯カメラの確認をしていなければ顔を見破られていたと思う。

 ガキの働きがいかに重要なものだったかを、改めて思い知らされたのは言うまでもない。

 何だよ、俺。以前はあいつがいなくたって問題なく仕事ができていただろうに。ガキの顔が思い起こされるたびに、苛々で腕が痒くなる。そうして鳥肌を立てたまま、仕事に臨む。こんなことの繰り返しだった。

 車上荒らしですら難易度が上がって、びくびくしながら車に近寄るようになった。確実に臆病になっている──。このままでは駄目だと思っても、懐かしい感覚を思い出すことはちっともできないまま。

 やがて数週間が過ぎた。




 久々に大きな盗みの案件に手を付ける気力が戻ってきて、むかし協力したことのある同業者に連絡を取った。細かい打ち合わせをやろう──話が進んで、向こうの方からこちらのアパートにやって来ることに決まった。

 金に困ってるんだとか、あの誰々が憎いとか、逐一(ちくいち)そんな事情や背景を説明しなくとも、正当な収入の配分が行われさえすれば泥棒は泥棒に協力する。泥棒同士の関係は単純で簡単だ。むしろこっちに言わせれば法律の求める『契約』なんぞ、ごちゃごちゃ細かい上に争いの原因にもなって、面倒な事この上ない。

 そういうわけで、余計な話は互いにあまりしないのが泥棒の暗黙のルールだった。

 そうは言ってもコミュニケーションを保つ上で、或いは必要最低限の信頼関係を作る上で多少の会話は必要になる。身の上話の代わりになるのは、他愛のない世間話だ。ガキと暮らす中でそのあたりのことは学んでいた。


 ビールを煽りながら、協力者の男はしきりにぼやいていた。

「最近はどこにも入りにくい」

 打ち合わせを済ませたあとの話だ。残念ながら、愚痴を長々と聞くのはそこまで趣味ではない。「防犯設備が進化しているからだろう」と適当に答えて、(さかな)をつまんだ。

 分かってないなとばかりに協力者は首を振った。

「そんなの今に始まったことじゃないだろ。それよりも俺は、スマートフォンの普及の方が恐ろしい」

「お前だってスマホを使っているだろうが」

「あれのおかげでカンタンに高精度の写真を撮れるようになっちまった。SNSにもほいほい情報が上げられるようになった。知ってるか? ワンタッチで現在位置と犯行の態様を警察に通報できるアプリが、最近リリースされたらしい」

 嫌だね、監視社会とやらは──。

 酒臭いため息のあとに、ため息と同じ色の独り言が投げ出された。転々と床に転がったそれを、ぼうっと見つめていた。

 日本は世界的に見ても警察組織がしっかりしていて、防犯カメラの設置箇所も多い。長らく安全度の高い国と言われてきている所以(ゆえん)だ。そういう監視・統制の目の効いた社会のことを『監視社会』と呼ぶ。もちろん監視体制が曖昧であればあるほど泥棒の仕事はやりやすくなるし、個々の人の自由度は高まることになる。

 規範のある社会を作ることで安全を担保される代わりに、自由を制限される。それはハチやアリのような社会性生物の宿命だ。そして人間は、そういう未来を選んだ生き物だ。

 そう考えると泥棒のような道を生きる者は、人間の仲間と認めてもらえない存在なのかもしれない。……捕まって罰せられるのも()むなし、か。

「お、ここにも監視社会の申し子がいるぞ」

 可笑(おか)しそうな声が上がって、テレビを見た。隣近所に相談内容を聞かれないようにと点けていたテレビが、ニュース番組に切り替わっていた。アナウンサーがいかにもといった悲壮感を漂わせ、原稿を読み上げていた。

 『先月、両親を殺害したとして逮捕されていた十七歳の少年が、この両親から長年にわたり虐待を受けていたことが、警察への取材で明らかになりました。調べによりますと少年は小学生の頃からしつけと称して頻繁に自室に監禁され、そのことに大きな不満を抱いていたとのことで──』

 肴の不味くなるニュースは嫌いだったが、テレビをつけている目的が目的だけに消すわけにもいかない。やれやれ、と隣の男は肩を(すく)めて変な笑いを浮かべた。

「過保護だったのかね」

「だろうな」

「抑圧されりゃ、いつかは爆発するさ。さもなくばガスが抜けきって旨くなくなる」

 ビールの缶を指先で弾き、やつは呟いていたか。

「いろんな人生を歩むことのできる可能性を持たないやつは、かわいそうだな」


 ガキの背中が頭に浮かんだのは、きっと偶然の産物ではなかったのだと思う。






 泥棒たるもの、足元の覚束(おぼつか)ない夜更けに家の屋根に登るくらい朝飯前にできなければならない。屋根の上や屋上にまで防犯カメラを設置することは、普通に考えて有り得ないし、広い範囲だって見渡せる。

 ──道を挟んだ反対側に立つ三階建の家の屋上からは、ガキの住む家をきれいに俯瞰(ふかん)することができた。

 盗みに入るわけでもないのに、どうしてこんなことをしているんだか……。ため息を夜空に押し出して、それから改めて深呼吸をする。ガキの部屋の窓はどれだっただろうか。かつてガキの誘導で脱出に使った、忘れたくても忘れることのできない、あの窓は。

「……見つけた」

 つい、声に出た。

 多分、同じことを三日前にも口に出したせいだった。


 ガキには俺のパソコンも自由に使わせていた。警察の捜索情報を網羅しているサイトの閲覧履歴を、やつは消してはいなかった。

 スレッドの情報は更新されていた。ガキが自宅付近で『無事に保護』されたこと、それにより捜索が打ち切られたこと。捜索対象だったのだから当たり前だが、本名やら生年月日やら、個人情報も列挙されたままになっていた。

 検索エンジンに名前や生年月日を入力すると、ガキの通う学校もすぐに割り出せた。ネットでの評判を見る限りでは、スパルタ式の教育を『売り』と打ち出す私立の進学校らしい。出来損ないと言っていた割には高学歴じゃないか──。悪態をつきかけたが、やめた。

 あの奔放(ほんぽう)なガキが、みずから好きこのんでこんな校風の学校を選ぶはずはない。

 SNSに詳しい仲間を呼び、『今度狙いに行くやつの家のことが知りたい』と嘘をついてガキのアカウントを探させた。仲間の腕は確かで、表向きの本アカウントから裏向けの愚痴用アカウントに至るまで、片っ端から探し出して中身を見られるようにしてくれた。報酬だけ払ってそいつを追い出してから、そこへ投稿された数多の文に目を通した。

 ──『親のところになんて帰りたくなかった こんな理解のない人たちのところになんて』

 ──『世間体がすべてなんだろ。分かってるよ。そのくらい分かってんだよ』

 ──『期待したくない。期待もされたくない。自由に生きることを許されないなら、あっちの世界に戻りたいよ……』

 そんな具合に、笑えてくるほど大量のつぶやきが出てきた。

 俺には笑えなかった。盗み出してよと誘いをかけたガキの心理が、SNSに殴り書きされた言葉たちの中にすべて塗り込められているように思えて。


 ガキはまだ未練を覚えている。それはたぶん、本物の未練なのだと思う。

 けれども泥棒ってのは言い逃れのしようもないほど明らかに、犯罪者だ。生きる道の選択肢として、あまりにも不適切だ。

 まともな生き方を選べるだけの余地をまだ持ち合わせているやつに、こんな未来は奨められない。

 日頃の束縛の反動だったのだろうとは思う。何にせよ、ガキのやつに一瞬でも夢を見させてしまった。泥棒は自由で気楽で愉快なんだ、なんて間違ったイメージを植え付けてしまったのは誰かと問われたら、それは、この俺だ。

 だからけじめをつけに行く。

 窃盗犯ってのが本当はどういう存在だったのか、心の底から思い知らせて、幻滅させてやる。


 せっかくだから派手に暴れてやろう。

 口許を覆う黒いマスクを、鼻の上まで引き上げた。目標の窓に明かりが灯っていないのを確認、すぐさま屋根を駆け降りて道路へ出る。やつのことだから塀にセンサーくらい付けている──そう考え、隣接する家のベランダによじ登った。腰に用意していたサイレンサー付きのエアガンを引き抜き、レーザーポインターを赤外線センサーの発信装置に向けて引き鉄を絞る。

 パスッ。

 乾いた音とともにセンサーが壊れて落ちた。通報機能は作動しなかった。見たか、ガキ。ジャミングやら何やらができなくても、物理で監視を制圧することはできるんだぞ。

 改めて塀を越え、中に侵入。防犯カメラの視界の範囲に入らないようにして一階の屋根に登ってしまうと、ガキの眠る部屋の窓の前に出た。カーテンが閉まっている。

 すかさずマイナスドライバーを構え、ガラスと窓サッシの隙間に数回、突き立てた。

 パキン、とガラスにヒビが入った。大きな音も出さず、安全かつ確実に窓ガラスを破れる、泥棒にはメジャーな『三角割り』という手法だ。だが、今回は静かである必要はないので、ヒビが大きく入ったのを確認して、足で思いっきりガラス面を蹴り飛ばした。確実に割りたかったからな。

 深夜の住宅街に、耳を塞ぎたくなるほどの甲高い音が響き渡った。

 砕け散った窓から、やつの部屋に入る。目標はガキの私物だ。何でもいいからひとつだけ、『本当に盗んだ』という事実を残すために。

 ガキは目を覚ましていた。ベッドから起き上がったやつの瞳孔が、こちらに向かって大きく開いている。

「手を上げろ」

 エアガンの銃口を向けた。ぽかんと開いたガキの口に照準を合わせると、その口から、声が漏れ出した。「あ────」

「騒いだら殺すぞ」

 そう告げたこちらの方が、むしろ声を圧し殺している。できれば穏便に済ませたかった。警察沙汰にはなりたくないし、こいつに危害も加えたくない。

 しばらくぶりに見たガキの姿は、心なしか、(やつ)れていた。やつは掠れた声で尋ねた。

「何しに……来たんだよ」

「盗みに決まってるだろ」

 一歩、歩み寄った。

 エアガンを構えたまま。背後に吹き上がった風にカーテンが舞う。月の光が、ふわり、差し込む。何を盗みに来たんだと聞かれる前に、答えた。

「お前から『泥棒』っていう未来を盗みにな」

「え…………」

 恐れろ、ガキ。お前が手を出そうとしたのはこういうことを平気でやる仕事だ。

 ガキは、動かなかった。

 動かなかったが、目はしっかりとこちらを追い続けていた。エアガンの照準を外さないまま、素早く壁際に寄る。ひとまず盗めそうなものなら何でも構わん──机の上から適当に引っ付かんだボールペンを、そのまま左手に固く握りしめる。ガキ愛用のノートパソコンに手を出さなかったのは、多分、わざとではない。

 階下から人の声がする。おっと、見つかるのも時間の問題、か。

「誰にも言うなよ」

 銃口の睨む先へ目を細め、釘を刺した。

 ガキは頷かない。

 代わりに、呟くように。

「……言うわけ、ないだろ」

「信用できるか」

「どうしてだよ! オレ、今まで一度もっ」

「泥棒に他人を信用することは許されないんだ。永遠に、な」

 言い捨てた。ガキは言葉を詰まらせた。

 だから、やめろ。憧れの目で見るなんて間違っている。

 ガキの眉と瞳の均衡に揺らぎが生じたのを確認して、俺は一瞬、口元の力を緩めた。──悪いことをしたな。言い訳の余地なんてない。あの時、俺は紛れもなく俺自身の都合で、お前のことを放り出した。

 でも、今は違う。胸を張ってそう言える。やつの目を真っ直ぐに見据え、張った胸に拳を当てた。どんと響いた重い音が、反動で声を押し出した。

「俺は自分自身の意思で、こういう明日(みらい)を選び取った。お前も悩め。安易に雰囲気に流されるな。自由に目を眩ませるな。そんなに俺を追いかけたいなら、勝手に追いかけてこい」

「…………っ」

「自分の明日(みらい)は自分の意思で進め。それが、大人だ」

 ガキの顔が歪んだ。

 サイレンの音が彼方の空で叫んでいる。警察か。残念だが、こちとら捕まるわけにはいかないんでな。迫ってくる足音に、バックステップで窓際に寄った。ガラスは綺麗に割れているので肌を切る心配もない。手を掛け、よじ登り、振り返る。


 今度こそ、お別れだ──ガキ。


「──オレ!」


 ガキが怒鳴った。

 その目に月明かりを……爛々と燃える光を、宿して。


「きっとあんたに追い付いてやるからな! 何年、いや何十年かかったって、あんたの背中を絶対に……!」


 言葉を返すことなく、屋根瓦を蹴った。








 あれから十年の月日が経つのに、そう長い時間は必要なかったような気がする。


 ずいぶん年を取った。

 足を洗ったわけではなかったが。むしろ、自己評価するのも何だが、前よりも大胆な案件が増えたような感さえある。

 この世で最も汚い仕事に手を染めて、のべ十七年。ベテランとは言い難い年齢ではあるが、それでもかなりの経験者であることを自負はできるようになった。機械オタクのガキがいなくなって、防犯装置の解錠や無効化は相変わらずちっともできないままだったが、そんなハンデにもやがて慣れていって。──当然だな。昔はハンデでも何でもなかったのだから。

 それなりに大きな物件にも何度か当たって、まぐれ当たりながらも大金を引き当てることもあって、今では独り暮らしを送っていくに十分なだけの収入を溜め込むことができている。代わりに同業者は減った。警察に捕まったり、死んだりして、周りからはどんどん人間が消えていっていた。

 潮時かな、俺も。

 足を洗うタイミングが欲しくなって、盗みに入るモチベーションの低下を本気で感じるようになってきた、そんな矢先のことだ。

 稀代の有能と呼ばれる刑事の存在が、メディアにクローズアップされているのを目にしたのは。


 なんでもノンキャリア出身の男だという。

 学歴差別をも物ともしない勢いで検挙の実績を伸ばし、出世を進め、特に窃盗の捜査に関しては第一人者とも呼べるほどの実力を持ち、今や期待の警部補……云々。

 ドキュメンタリー番組に登場した刑事の姿を見、その名前に激しい既視感を覚えた直後、十年前に自分のしたこと、聞いたことをことごとく思い出して、今度は何だか笑えてきてしまった。


 ああ。

 『きっとあんたに追い付いてやるからな』とは言ってたが。

 まさかそういう道を選んで、追い付こうとするとは。やるじゃねえか──ガキ。




 自分で選んだ明日(みらい)を、自分の足で生きている。お前はもうガキじゃない。俺とお前は対等な、大人同士の関係になった。

 あの日、お前から『盗んでいた』もの、返しに行ってやろう。

 捕まえられるものなら捕まえてみろ。

 そうしたらたっぷり話してやる。俺が泥棒という道を選んだ理由を。

 立ち上がって、机の上に置いてあった一本のボールペンをつまみ上げた。左の拳でしっかりとそれを握りしめ、地図帳とパソコンを引っ張り出して家の位置を確認。マイナスドライバーやアイスピックをポーチに詰め込む。出発の用意をしながら、ふと見上げた窓の先に広がる空が、蒼々と輝いて美しかった。




 また、夜がやってくる。













お読みいただき、ありがとうございました。


本作では泥棒という稼業を主軸に置きました。

ですが、泥棒稼業を肯定するものではありません。

「子ども」から「大人」に至る過程で、人はどんなことをできるようになるだろう──そう考えたとき、思い至ったのが『自分の進む道を自分で選び、切り開き、歩めること』でした。

現実の人間において、その成長過程は職業選択の中に現れます。それゆえ、あえてアウトローな犯罪者を描いてみようと思い立った次第です。

ちなみに作者の脳内では、『ガキ』の住まう地域は東京都世田谷区成城学園前あたりを想定しています。お近くの高級住宅街を念頭に置いて読んでいただければなー、と思う次第で(*´ω`)



少年を突き放した『俺』は、やがて少年の明日を生きるモチベーションの源になってゆきます。

刑事となった少年は、『俺』の手首を掴むことができるのでしょうか?

……それはまた、後日のお話にて。重ねて読了御礼申し上げます。

ありがとうございました!



2017/08/15

蒼旗悠




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[一言] とても楽しく読ませて頂きました。ラストはこういう出会い方なんですね(*´︶`*)。 他の作品も数話読ませて頂きましたが、(量的に)最終話まで読めたのが唯一この短編でありまして…こちらに感想…
[良い点] 遅ればせながら、こちらにもお邪魔致します。コントラストの強いキャラ設定が、物語のテーマそのものにきちんと溶け込んでいる中々の良作とお見受けいたしました。 荒稼ぎする泥棒が、きちんと動機を持…
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