#3 「廃屋【T】」
峠。とうげ。トウゲ。
いつも、密かに気にしてた。
タカサキの街からカッパピアへ戻る道すがら。なだらかな山の坂道を登りながら、その中腹あたりでそれは、見えてくる。
見上げた先に見える、立体的な「峠」の文字。
おそらく、何かしらの看板―そこまでは、なんとなく察しは付いてるのだけど、
そこに何があるのか、どうやったらたどり着けるのか。この一文字だけではなんとも判断できない。
わたしの名前はしずく。17歳、高校2年生。漢字で書くと「滴」だ。
これがなんだがイヤで、必要なときは、ひらがなで書くようにしている。
「圏域」へやって来た動機は、一言で言えば「研究」だ。
わたしの学校の教育方針は少し変わっていて、生徒はおのおの、自分の興味のある分野を突き詰めるよう求められている。
小さな頃から民族の文化、中でも民族衣装に興味のあったわたし。
数年前から何かと話題だった「グンマー」での研究調査を許可してもらったまでは良かったが…まさかあんな目に遭うとは、思いもしなかった。
とまあ、すったもんだあって、今は精霊のミーナと一緒に「圏域暮らし」をしている。
ミーナの意識が生まれた場所は、圏域の北にある雪深い山の中だという。
「下界」に興味津々だった彼女はここカッパピアへ陣取り、
ご自慢の「力」で氷を加工しては暑い暑いタカサキの街で売りさばいて、ちょっとしたお金を稼いでいる。
「ねぇ、あれってさ」
「うん?」
ワゴンを慣れた動作で引きつつ、ミーナが相槌を打った。
わたしは「峠」の文字―距離にして、50メートルくらいだろうか―を指さして、ミーナの反応を促す。
「ああ、そう言えば…なんだろね~、アレ」
「何かの施設の跡、とかなのかな」
「…そうだ、行ってみようよ!面白いよ~、きっと」
「えっ」
「あーいうの好きなんだよね~。ロマン?サスペンス?っていうかさ…」
幸せそうな笑顔を浮かべるミーナ。目はらんらんと輝いている。
こういうときの彼女を止める術を、わたしはまだ知らない。
観念して、次の日の彼女の探検に付き合うことにした。
◆◆◆
翌日。お昼の11時を過ぎたところ。
ミーナとわたしは、「峠」の文字の真下にいた。
いつもの山道の周りをつぶさに調べて、やっと見つけた、けもの道のような小路の入口。
そこから森の中へに分け入り、歩くことおよそ20分。
「着いた…」
目的の場所についたとわかったその途端、「峠」の正体はすぐに知れた。
「峠」を支える大きな鉄柱の根元に、「いらっしゃいませ 旅館 峠」としたためられた看板を見付けたからだ。
かつての民宿。それが「峠」の正体だったらしい。
看板のすぐ脇には、平屋建ての建物。窓ガラスは割れ、屋根瓦は所々剥がれている。見るからに廃屋だ。
「よし、いってみよー」
間の抜けた掛け声で廃屋の引き戸を開けるミーナ。何らの躊躇も見られない様子が彼女らしい…などと言ってる場合ではない。
「ちょっと…まずいよ!」
「なんで?」
「だって…」
「ここからが本番だよ。たのしーんだよー」
ミーナは精霊、私はその主。彼女の「力」があれば、一人で探検するよりは間違いなく安全だろう。…でもそもそも、精霊が主をわざわざアブなそうなところへ…。
あれこれ考えている内に彼女の勢いに押し切られ、わたしはついに、引き戸の中に足を踏み入れた。
◆◆◆
カビの匂い。
玄関の引き戸は部分的に割れて、土間にガラスの破片が散らばってる。
底に金属の入った安全靴を履いてきたのは正解だったな、と思った。
とても、靴を脱ぐ気はなれないので、仕方なくそのまま…靴で玄関に上がることの罪悪感。
長く続く木の廊下。埃が溜まっている。
古びたカレンダーが落ちている。書かれた西暦は、今から20年ほど前の7月。
ところどころに書き込みが見られる。ある日付の下に、赤い字が見えた。
【おわり】
終わり。この旅館はこの日で廃業した、という意味だろうか。
廃屋は平屋だがなかなか広く、活気があったころの様子をしのばせる何かしらの雰囲気があった。
かつてはこの廊下を、従業員の人が忙しく走り回っていたのだろう。
…ここの主だった人は、どんな気持ちでその日を迎えたのだろうか。
◆◆◆
「さて、こんなところかな~?」
ミーナが満足気に言う。…内心、少しほっとする自分。
廃屋の中には、ミーナが期待していた通りのスリリングな世界が広がっていた。
客間は10室ほどあっただろうか。どれも和室で、中には畳が腐って抜けた部屋も。
大浴場の跡まで残っていた。浴場の屋根は腐って落ちていて、外でうっそうと茂った雑木林がよく見える。
屋根の穴から圏域に特有の強い日差しが差し込み、浴槽や洗い場のタイルに照り付けていた。
ミーナの言う、こんな探検の「ロマン」。その良さを少し、理解できたような気がした…あくまで、少しだけね。
最初の廊下を、玄関へ向けて引き返していたそのとき…気付いてしまった。
廊下に面した障子戸―その上には、「控室」という札が付いている―の向こうに見える、黒い影。
人の姿によく似た形。
ゆらり、ゆらりと、微妙に揺れているようにも見える。
「み、ミーナ…これってもしかして、ユ…」
「ほりゃさっ」
ミーナは、事もなげに障子の引き戸を開けた。
「うわッ…!!」
思わず、目を手で覆ってしまうわたし。恐る恐る手をどかすと…。
そこには、和風の着物がぶら下がっていた。
着物は女性もののようだ。豪華で洒落た模様が刺繍されたその見た目は、なんとも美しい。
「…なんだ」
「わぁ、キレイだねぇ」
ミーナの呑気な感想。
…違和感。しばらく考えて、その正体に気付いた。
グンマー圏に来てから、こんな様式の和服を見たのは…これが初めてだ。
冷静に顧みれば当然である。グンマーの、この炎天下の中だ。
圏外から来た入圏者たちはさておいて、圏民たちに関しては長袖はおろか、七分袖の姿すら見かけない。
この和服の持ち主は、誰だったのだろう。この民宿の主だった人か、あるいは…。
◆◆◆
「いや~、なかなかのオテマエだったねぇ」
例の細道を引き返し、カッパピアへ向かういつもの坂道へ戻ってきたわたしたち。
坂道を登りながら、ミーナがよくわからないことを言う。彼女的には、今回の探検は満足。要はそういう意味のようだ。
「ミーナはさぁ」
「うん?」
「こういう、廃墟探検?が好きなのは、なんでなの」
「うーん…」
考え込むミーナ。
「やっぱ、スリルとサスペンス?」
聞き覚えのある言葉を返してきた。
「そういうのじゃなくてさ」
「え~?…じゃ、しずくはどう思うのさ」
「えっ」
「今日が初!"ハイキョたんぼー"でしょ?聞かせてよ~」
「……」
この地が「圏域」になる前の人々の暮らしぶりについては、はっきりとは分からない部分が今は多い。
こうして入圏を果たした今でさえ、だ。まるでひた隠しにされているかのようだ。何かが、誰かの手によって―。
廃屋巡りは危ないし、仮にも人様の家に上がり込むような行為には、やはり抵抗がある。でも、彼女とこんな探検を続ける内に、自分の知的好奇心の対象…圏域の民俗について、何かわかるかもしれない。
…といったことを、取り留めなく彼女に話した。
「…なるほど、うぃんうぃん、ってヤツなのかな?」
「…フフッ」
知った風なことを言うミーナ。わたしは思わず吹き出してしまった。
「あ、笑った~!」
「ごめんごめん。でも、悪くないなって思ったよ…ちょっとだけね。それに…」
「それに?」
「…なんでもない」
「えーっ、なんかヤダ~」
「……」
「ね~ったら~」
それに、ミーナの「力」があれば、安心だしね…。
なんだか照れ臭くて言えなかった言葉を飲み込んで、わたしはミーナと山道を登っていく。