第九話 その瞳の影は、何を見て来たのか
「エトーさん、図書館に行きましょう。そして夜はサカキバラ様に呼び出されています。勇者歓迎の宴に顔を出して欲しいそうです」
「うん……。ん?」
まだ眠りから完全に目覚めていない理が木匙で昨夜と同じスープをかき混ぜていると、ミレーナから突然言い出されたのだ。
部屋の空気は暖炉に火をくべていてもまだキンッと冷たく、耳のあたりが痛くなりそうなほどで、少しの音がやけに響く。その空気と唐突な言葉に後押しされて、彼の意識はようやく浮上しだす。
「いま、なんて?」
「図書館に行きましょう。私が知っているつもりでいても、その知識が間違っている事があるかも知れないので」
「そっちじゃなくて、ああ、勿論それも気になるよ。けど、その後です。その後。舞がどうとかって」
理は思わずスプーンから手を離してしまう。その行く末を彼は気に止める事もなく、ただただ今聞いた事を頭が理解するのを拒んだ。それ程までに彼にとって舞という勇者は自分の事を気に求めていないと考えていた。
「その話ですか? 簡単なことです。今日の夜にここ、フェルディウス王国の貴族や大商人たちをこの城に集い、ダンスありの立食パーティーを行うのです。もちろん、勇者様の歓迎会ですね。それにエトーさんを呼ぶかどうかで一悶着あったそうですが、最後は勇者様が折れて参加が決まったそうです。とりあえず、おめでとうございます」
その祝福の言葉には全く、喜びの感情はつまっていなかった。完全に仕事の為のお世辞か、はたまたコンピューターに喋らせたのではないかと言っても過言ではない程だった。
「あ、ありがとう……。けど、どうしよ。ダンスなんて踊れないし、所作も分からない、服もないよ」
「そうですね。けど、意外とどうにかなると思いますよ。服は昨夜に着ていたものでよろしいと思います。あれはマイ様が今夜に着ると仰っていたものと似ているので、揶揄される事はないかと。礼儀などは頑張ってください。ダンスは誘われないと思うので問題ありません。……行ける気がしてきたのでは?」
しかし、理は首を振った。ミレーナが適当に付けた理由は彼にとって安心出来るものには程遠かったのだ。もう、声を出すことも出来ないかった。
「もう逃げられないので、諦めてくださいね」
「はぁ……。あ、スプーンが!」
スープ皿の中には柄までしっかりと浸かった木匙が沈んていた。
◆◆◆
堅牢な木の扉が重々しい音を立てながら、赤髪の侍女の細腕で開かれる。その向こうに広がっていた世界は、たった一つの目的の為に作られた場所だった。
全ての窓には厚いカーテンがかけられていて、一筋の光すら侵入を許さない。部屋に侵入した空気が古い空気を呼び覚まし動き出す。その動きにつられるようにして空中を光の粒子が舞い踊る。
侍女が今度はドアの横の壁についているイエローダイヤモンドの如き結晶に触れると、一度瞬く。それに呼応するのか天井に備え付けれれた無数のそれが暖かな光を放ち暗闇を部屋から追い出した。そうしてやっと見えたのは真正面の一点に向かって吸い込まれているかのように見えるほど大量に並んだ重圧な本棚と黒檀の机、同じ素材で黒皮が張られたソファーだった。
「すごい……」
「確かに量だけはすごいんですよね。おかげで掃除が大変なのが悩みです。散らかさないでくださいね」
たった一言の感嘆の言葉にうまく愚痴と皮肉を乗せた後におもむろに一冊抜き出す。理は適当に背表紙を見ていたが、ここで一つの問題に気が付いた。
「まったく読めないんだけど」
理が何本もの糸状の決まった角もなく、直線もほとんどないものが重なって並んだものが金で彫られた辺りでずば抜けて厚い本を適当に抜き出す。
「それはこの国の法律全集の最新版なのですが。それに私も少し失念していました。言葉は同じでも、流石にクリュセル語と完全には同じではありませんでした。けど、もしかしてこれだったら読めるのではないでしょうか?」
ミレーナは手に持っていた本を差し出す。それはこの部屋に入って一番最初に手に取った本だった。
「ほんとだ。これは日本語で書かれてる。しっかり漢字も使われてる。……もしかして過去にも勇者としてこの世界に来た人って居るの?」
「ええ、もちろん居ますよ。けど、この本がエトーさんに読める言語であることはあまり関係はありませんが。と言うわけで、まずはそれを読んで居てください。私は他の本を探して来ます」
それだけ言い残すとミレーナはすぐに本棚の隙間に入っていき、理は後を追えなくなった。仕方なくいつに座り、やけに厚い本を開く。これも法律全集と同じ金箔でタイトルが刻まれていた。
『勇聖教創世記
それはまだこの世界に願いの奇跡が起こる前の時代
人々は魔法も文化も力もない為に非常に貧弱だった
その為人類は他の生き物達に淘汰されていた
そしてついに人が生存しているのが日が昇る海岸のみとなって、滅びるのは時間の問題だと思われた
人々は絶望した、それと同時に
は願った
望んだ
夢を見た
懇願した
理想を創った
なぜ我々がこんな目に遭わなければなら無いのかと
なぜ我々がこんなにも脆弱なのかと
誰か我らを助けて欲しい
そう、人々は強く願った
そして人々の願いは届けられて空が光に包まれた
その光の中から美しい女性が現れてこう言った
私があなた達を救いましょう
そう言った時に人々は光に包まれた
その光は傷を癒し、荒んだ心を温め、奇跡が起きたと人々は歓喜した
私があなた達に力を授けましょう。そう、戦う為の力と成長する為の力を
そう言った時。世界が魔力に包まれた
人々にスキルが現れた
これから困ったことがあればここに力を注ぎ込みなさい
地面に人々に理解できない模様が現れた
では一生懸命生き抜くのですよ。そしてどんな時でも願い続けなさい。そうすればどんなことでも叶います。私が叶えてみせます。
そう言ってその女性は消えた
人々はその女性を神様と崇めて敬った
その後人々の逆襲が始まった。
魔法で逆境と戦い田畑を広げた
スキルを使い文明と街を作り上げた
人々の力が及ばず世界に災厄が訪れれば謎の模様に魔力を注ぎ込み勇者召喚を行った
人々はその勇者を神の使徒として敬愛した
それが我らの勇聖教の始まりだった
それ故に我々は神を崇めて
それ故に我らを癒した光は聖なるものと絶対視し
それ故に魔法は願いの顕現であり
それ故に勇者を仰望する
〜勇聖教創世記〜
「なんと言うか、書いてある事が曖昧すぎる。今更だけど舞は随分と大変な役目を押し付けられてのか」
その後のページを大雑把に目を通すが、人が勇者に助けられた話や、神の奇跡を利用して高みを目指した話など、かなり綺麗な話ばかりが並んでいた。
「エトーさん、少なくとも創世記は読み終わりましたか?」
何処を読めと指定していないのに、後からしっかり読んだか聞いてくる侍女が本棚の間から、顔を出した。手には何冊もの本を抱えていて、髪には僅かに埃が付いてしまっている。
「読んだけど、聖書ってやっぱり内容に現実味を感じられないんだよね」
「私もその内容はあまり好きではありません……。では、今の貴方に必要がありそうな本を幾つか選んできたので、部屋に戻りましょうか」
「ちょっと待ってくれる。あそこに貼ってある地図を見たい」
壁に掛けられた一メートル四方ほどの紙を指さす。いくつかの文字と大きな大陸が一つだけ見て取れる。
「構いませんが、時間が押しているので簡単な説明しかできませんよ」
ミレーナはまず、少々いびつなひし形の、中心から少し下を指さす。
「ここがいま私達がいる所、フェルディウス王国です。農業、宗教、兵役のバランスが取れた国です。北には魔法が栄えて学園があるアルキオス王国と小さた国の集合したメトロ連邦国が有名です」
そして、フェルディウス王国よりも南側、地図には地形が書いてあるだけで、文字は平原や川以外は一切書いていないところを指差す。
「通称、空白地帯です。人ならざる者が住んているそうで、今この国が躍起になって開拓しています。噂によると人と獣との中間の存在だそうです。それだけの理由で攻められるだなんて、彼らも不憫ですね」
特に感情を込めずに、嘆きの言葉を言った。そして今度は地図の左端の海岸線を指差す。
「ここは勇聖教、この国で唯一信仰が許されている宗教の中心地です。そしてこの海の向こうには、魔王が居る、と噂されていますが、その事実を知っているのは、過去の勇者様たちだけですね。さて、こんなんでよろしかったですか?」
「ありがとう、大雑把には分かったよ」
ミレーナが本を抱えて、さっさと出て行こうとするので、急いで付いていく。何をそんなに急ぐというのか、それとも、何かからか逃げるのか。
どちらにしても、その時の彼女の瞳の陰に、理は既視感を覚えた。そしてその答えは今も容易く思い出すことが出来る。今の彼の脳裏には、その瞳は忘れようにもしっかりと血を流しながら刻み込まれていた。
◆
「僕は願う。無限の恵みを与えし、万物の原点たる力のその一柱。今こそ流転し僕の願いの糧となれ。ウォーターボール」
それは、最初の言葉を唱えた時だった。彼の体の奥底に小さな火種が灯った。言葉を紡げば紡ぐほど、願えば願うほどその熱は大きく燃え上がり、四肢を蝕み始める。やがてその熱は彼の知らない新たなエネルギーとなり、世に放たれる時を今かいまかと暴れながら主張する。
そして最後の言葉が生み出されたその時、時、願いは結実する。手の先から白い光が現れ、徐々に輝きを増し続ける。加速度的に増して行き、なかなか底が見える事はない。
限界を今か今かと待ち続け、やがてその瞬間は訪れる。光は収束し掌の上で一つの光の塊となる。次々と集まり、固まり、やがてそれらはその場にいた二人の期待を裏切ることになった。
「え? ……ま、まって!」
収束と言うよりももはや小さくなりすぎて彼の手の上で豆粒ほどの大きさになってしまっている、魔法の源とでも言うべきものが申し訳なさそうに乗っていた。そこまで来てとうとう光を弾けさせ彼の望んだ水が現れる。
「少し、小さすぎますね」
理の掌の上には冷や汗だろうか、水滴が付いてしまっていた。
「少しどころかあんなに長い詠唱をしても、これだけしか出せないものなの?」
「いいえ、普通の人はもっと大きいですよ。そうですね、これくらいでしょうか」
ミレーナはすぐに両の掌を使って円を作る。それはバレーボールほどの大きさだった。
「何それ、比べる事すら出来ないんだけど……」
「これが全属性超基礎級と付いている所以ですか。この感じですと超基礎級剣術も期待は出来なさそうですね。そうなると後は……錬金術でしょうか」
ミレーナが理のステータスが書かれたルーズリーフをエプロンのポケットから取り出して、開く。
中には日本語とこの国の主要文字であるクリュセル語の両方が書かれていた。もちろん、日本語はが理が書きクリュセル語は修が告げたステータスをミレーナが書いたのだ。
「錬金術っていうと名前の通り金を作る術?」
理の質問の答えがわからなかったのか、ミレーナは先ほど作った本の山から一冊抜き取ると答えを探し出した。
「最終目的はマジックゴールドという未だに空想段階いの物質だそうですが、薬を作るためによく使われている技術ですね。あとは物の形を変えたりしたり……つまり、夢見がちな便利屋ですね」
彼女は珍しく笑顔をつけてそういった。確かにその笑顔には冗談から来たものなのかもしれない、しかしそれは理が見惚れない理由にはならなかった。
その微笑みが理にもたらした影響はあまりにも大きかった。だからなのか彼はミレーナが大きな本をもって近づいてきていることに気が付けなかった。
「いった!」
ミレーナはこともあろうかその本を理の足の上に落したのだ。
「なに惚けているのですか。時間はあまりないのですよ。私はもう少ししたら夜のために厨房に行かなくてはいけません。夕方には呼びに戻ってきますが……そうですね、先ほどの紙をもう一枚もらえますか」
ミレーナは返事を待たずにビニール袋からルーズリーフを一枚取り出すと何やら書き込み始めた。
「幸い、オサムさんの言葉と私たちの言葉は文字が違うだけなのですよね。なので、表を作っておきます。自習していてください」
一気に表を書き終えるとミレーナはすぐに部屋から出て行ってしまった。残された理は仕方なくため息を一つは区と、紙を覗き込んだ。
「これ、対応する日本語がわからないんだけど」
理はいきなりミレーナとの一方的な約束につまずいた。